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無理強いはよせ...FDN

 

 

近江上京 - 2003年02月28日(金)

私の大学時代の思い出を語る上で、どうしても「友人」と言うのは重要な位置を占めるものである。そんな中、最重要とも言うべき友人に、近江と言う男がいるのだが、この男は現在大阪で働いている。職業はやんごとなき職業だ。

その近江が、明日大学のゼミOB会だかで上京すると言う。早速この男と1年間くらい命運を共にした同士に連絡を取ろうとしたが、誰にも連絡が取れない。てゆうか、俺の携帯に何故彼らの番号が入っていないんだ。実は仲が悪いのか?

という訳で、サシ飲みと言うことになったわけであるが、この男に本件について連絡をしなければならない。という訳で、1年半ぶりくらいに近江に電話をしてみた(1年半って…)。

近江と話すと、近江はかなり変わっていた。いや、それは当たり前なんだけど、それでも私からすると非常に変わったと言わざるを得ない。彼との8年に及ぶ付き合いにおいて、私が殆ど見ることの無かった近江になっていた。


近江が大阪弁を話しているのである。


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何で先生いないんだよ - 2003年02月27日(木)

リクルーターとして来週月曜日に母校を訪問する予定の私であるが、就職担当の先生に断りを入れようにも、先生が全然いない。まあ春休みだってのはあると思うが、頼むから明日は来てください。

リクルーターと言えば、私の先輩後輩も、現在リクルーターとして学生の相手などをしている。就職難は気合の入った良い学生を取るチャンスと言うことで、ウチの会社も採用には気合が入っている。実際、私の先輩で「こいつは◎だ」と言う評価をOB訪問の時点で受けている学生は、すでに我々若手の現役社員が飲み会に誘うなど、中々積極的なアプローチを展開している。

まあ私の頃もそうだったみたいなんですが、じゃあ私も当時は社員の人から酒に誘われて大志を語るなんてことをしたかと言うと、全然しなかった。理由は、今の会社にOB訪問とか全くしなかったから。その理由は単純で、OBがいなかったからである。

OBがいなかったと言うのは語弊がある。何しろ弊社のエンジニアの出身で、最も多いのが私の大学である。化学系エンジニアや機械系エンジニアは、必ず毎年入社してくる。しかも複数名である。私が入社した年も、二番目に多い人数が入社した。

で、OBがいなかったのはどういうことかと言うと、要は私の学科のOBがいなかったと言うことである。いないことは無いのだが、もうかなり上の人しかいなくて、入社3年目とか4年目とか、そんな若手のOBはいなかった。何か機械系とか化学の人に連絡取ってもどうかと思ったので、結局OB訪問はしなかった。入社してみると、私の部で私の大学を出た人間は私一人。全体的に層が厚い我が社の我が大学出身者も、私のフィールドでは私一人と言う、極めて異例と言わざるを得ない状況になっている。

OB訪問はしなかった私だが、入社してたった一人の大学出身者に連絡が集中するのは当然である。人事並みとは言わないが、毎年毎年リクルーターやってるし、このまま私の大学から誰も入らない状況が進むと、もう何年経ってもリクルーターやる羽目に陥りそうである。

つうことで、今年くらい入って欲しいんですよ。誰か来ませんかね。中々いい会社ですよ。いろんな国に行けます。ケッペンの気候区分のETにも進出を果たし、最早HとEF以外は全部行けます。


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元気ない私 - 2003年02月24日(月)

どうも今日は元気が無かった。

と言うくらい分かりやすく元気の無かった本日。何なんだ。仕事は9時半までやったが、帰りも元気が無い。

「じゃー、お先どぅーす」

と言って事務所を後にして、寒い中駅へ急ぐ。

地下鉄に乗って椅子に座って一息ついたが、いつもは眠ってしまう帰りの車内でも、今日はずっと起きていた。疲れているわけではない。まあ疲れてるけどさ。

駅に着いて改札口前の本屋に入る。営業時間を延ばしたらしく、10時を過ぎてもまだ開いている。

「うーむ、どうも元気が無いな。よし、元気の出る本でも読もう。」

と思って本を眺める。で、結局手にしたの本はこれ。

女は男のどこを見ているのか (ちくま新書)

って何説教臭い本買ってんだよ。いや、何気なく前書き読んだら失笑が漏れてですね、思わず購入。


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結婚式 - 2003年02月23日(日)

本日は結婚式打ち合わせで、久し振りにサークル同期の面々と顔をあわせた。場所は大崎。

いつの間にか無茶苦茶デカイ駅になっている大崎であるが、恐らく降りたのは初めてである。何しろ全く普段用が無い。学生時代も全く用が無かった。

改札にみんなで集合して、最初はインドネシア料理屋なんて言う店に行って昼飯を食うも、何と3時閉店で追い出される。その次にイタリア料理屋みたいなところに行ってコーヒーだけ飲んで打ち合わせを続行するが、何かあんまり纏まらない。その後、甘味処みたいな店で芸の打ち合わせをするが、何も進まない。

結婚式まであと1ヶ月。結婚式って、本当に大変だな。準備終わるのかな。


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金曜日 - 2003年02月21日(金)

ようやく金曜日である。キツイ一週間だった訳だが、そもそもの原因は私の虚弱振りにあり

「お前現場に行くまでにその虚弱ぶり何とかしろよ」

と上司Tさんから毎日のように言われる。

まあそれは置いておいて、ようやく週末である。今日の朝はだるくて眠くて仕方なかったが、とにかくお疲れ俺。

帰り、本屋でバガボンド16巻を購入。ああ、今日発売なんだと思って勝ったのだが、会計を済ませてレジの奥を見ると、注文で購入すると見られる魁!!クロマティ高校6巻が置いてある...

この瞬間、日本にいて本当に良かったと思う今日だった。


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疲れる - 2003年02月19日(水)

一昨日は私の出張帰還飲み(焼肉屋)、昨日は私の師匠Oさんの2年の赴任から完全復帰師弟サシ飲み(焼き鳥屋)と二連飲みをかまし、見事にたまった仕事を消化するため本日終電一本手前、さらに乗り換え後急行に乗っちまって乗り過ごし・折り返し上り電車最終で帰ってきたという体たらく。お疲れ、俺。

さて、本日はOB訪問を受けた。私にOB訪問してくる人間は必ず中央省庁で官僚デビューすると言うジンクスを見事果たしてくれる人材、かどうかは分からんが、とにかく礼儀正しい熱心で体力のありそうな人だった。まあ土木じゃなくて文系の人なんだけどね。何か理系の人間の話も聞きたいとか言って。

で、午後は学生向けにメール打って(私リクルーターなんですよ)、学校で説明会やるから来てくれとアピール。土木・建築だけに送るのも何だから、全然関係無い化学とか機械の学生にも送ったりして。そしたら化学の女の子に「来週一次面接なんですが、面接に残ったら参加します」とか言われた。うーん、私の頃も酷かったが、今も就職大変みたいだな。でも採用増やすらしいから、まあ私のときより良いんじゃないでしょうか?

つうことで、頑張れ学生。

まあ就職決まったら存分に遊んでくれよ。会社入ったらたまった仕事を消化するため本日終電一本手前、さらに乗り換え後急行に乗っちまって乗り過ごし・折り返し上り電車最終で帰ってきたという体たらく。お疲れ、俺、って以上繰り返し。



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散髪 - 2003年02月16日(日)

本日はかなり長い間床屋に行かずに伸びていた髪を切りに行った。昨日の小林家弔問の帰り、前髪がダランと垂れて、見るからに陰気な男だったと言うのもある。

髪を切ると寒さが一段と厳しくなる。


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小林の家に行ってきた - 2003年02月15日(土)

風邪の具合がだいぶ良くなったので、帰国したらまずしようと思っていた小林の家に弔問に訪れると言うのを、今日やった。昼過ぎに原田にメールを打って、夕方に埼玉の小林の家の最寄駅で待ち合わせすることにした。

午後2時半、病み上がりで若干フラフラしながら家を出た。何しろ埼玉なんで、かなり時間がかかる。

小林の家の最寄駅には、約束の時間を(時刻表によると)1分遅れて到着した。改札口の脇に寄り掛かっている原田を見つけ、精算を済ませて改札を出ると、小林のお父さんがご丁寧に迎えに来てくれている。私は挨拶をして、お父さんの運転する車で、原田と小林邸に向った。

小林の家に着くと、お母さんと妹さんに出迎えていただき、早速お宅にお邪魔。居間に通され、右を見ると、すぐに小林の遺影とお骨を納めた骨壷が目に入った。

小林の遺影を見て、私はパキスタン出張中に貰った同期の柳澤のメールを思い出した。遺影がいい笑顔で泣けてくると、奴らしくない言葉を綴っていた。だが、遺影を見ると確かにいい笑顔である。私は早速遺影の前に座り、線香をあげた。

手を合わせている間、私は小林に挨拶をして、暫くじっとしていたが、目を開けて改めて小林の遺影を見て、そして骨壷を見つめた。ああ、小さくなっちまった、と思った。だが、涙は流れなかった。やっぱり、まだ信じられない。

その後、ご家族と話したり、小林の部屋をあさったりしたのだが、原田に、「こんな風に色々見られて、あいつ嫌がってるだろうな」と話したりしていた。小林自慢のvaioには、小林が積み重ねたホームページの全てが入っていたが、どれを見ても今でも笑えるものばかりで、しかも私の脳裏に焼きついているものばかりだった。何しろ私は彼の大ファンだったのである。また、あまりの膨大なファイル量を目の前にして、これを大編集しようとしている原田に、「これ整理するの大変だぜ」と声をかけたりした。原田は、「まあ少しずつやりますよ。」と答える。振り向くと、原田は小林のネームボードを見ている。ああ、こんなところを小林が見たら、あいつは本気で怒るかも知れない。何しろ、先輩が小林のパソコンを除きながら笑っていて、原田は小林のネームボードを楽しそうに眺めている。私だったらやめてくれと叫ぶところである。

ご両親が寿司を取ってくれた。いや恐縮もいい所なのだが、どうぞ遠慮せずと言ってくれる。そして寿司をつつきながらご家族と話をしたりする。何とお父さんと私は殆ど同業と言うことで、二人にしか分からない会話をしたりしてしまったが、やはり小林の話になるのは当然である。

ご家族は、小林が大学でこんなに人気者で、こんなに愛されているとは今まで知らなかったようである。小林の性格から言って、こんなことを家の人に話すと言うのは、無かったようである。だが、亡くなって葬儀を執り行ったら、日本全国から友人が集まり、弔問に訪れた人は400人に上ると言うのに、恐らくご家族は驚かれたことであろう。また、弔電の数も尋常でなく、届けに来たNTTの人も、「こんなに多いことはありません」と言っていたそうである。

その後、また色々話をして、結局午後9時に小林邸を出た。お父さんにまた駅まで送っていただき、49日にお邪魔する旨伝えて、駅前でお父さんにお礼を言って、私は原田と駅舎に入った。ここで原田ともう一杯、と本当は行きたかったが、さすがに病み上がりで体調も万全で無いので、そのまま帰ることにした。

電車を待つ間、私は、小林の一番の親友である原田に、今のことを聞いたが、これはここには書かない。言葉少なに彼と話をして、電車に乗って、そして原田の乗換駅で原田と別れた。今度会うときは、小林の49日である。

原田と別れて、私は一人になった。一人になって、改めて小林の死を思い起こした。そして、伝え聞いた小林の葬儀の様子をそれに重ね合わせてみた。あいつ、本当にもういないのかな。

埼京線(酒が回って眠ってしまった)に乗り換えて、新宿で山手線に乗り換えて、渋谷に向う。渋谷に向う途中、車内の様子を見回した。ああ、みんな生きているな、しかし、小林はもういないのかと思い、そして島の日記を思い出した。

お父さんは、葬儀の際、一番最後に「息子は25年しか生きられませんでしたが、悔いの無い人生でした」と言い切ったそうである。今日会った、とても優しいお父さんがそう言った姿を想像すると、いきなり涙が出てきた。やっぱり涙が出てきた。

涙は田園都市線に乗り換えた後も、何度も出てきた。


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無理強い引越し - 2003年02月14日(金)

帰国後二日連続で風邪で会社を休み、「虚弱君」と言うありがたいニックネームをいただきました。

後輩からのメールで、チョコレートが一個届いているとのこと。ありがとうございます。

あー、だるいったらありゃしないぜ。


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