読書の日記 --- READING DIARY
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 シービスケット―あるアメリカ競走馬の伝説/ローラ・ヒレンブランド

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その馬はまったく馬らしくなかった。体高はやや低く、骨張った膝と曲がった前脚を持つその馬は、サラブレッドというより牧牛を追うポニーといった印象であった。ところが、見かけほど当てにならないものはない。この馬の才能は「その大部分が精神力にある」とファンの一人が書き記している。作者のローラ・ヒレンブランドは、『Seabiscuit: An American Legend』で文化的偶像となった馬の物語を描いた。

シービスケットは、それぞれがまったく無縁と思える3人の男たちに出会うまで、無名の三流馬に過ぎなかった。その男たちとは、かつて「馬の時代は終わった」と宣言した自動車王で馬主のチャールズ・ハワード、「馬と神秘的な交信を行う」調教師のトム・スミス、そして穏やかな態度と角砂糖を使って駄馬だったこの馬を手なずけた落ち目の騎手、レッド・ポラードである。ヒレンブランドは、初期の調教時代から記録破りの勝利を収め、深刻な怪我から「ホース・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるまでの「チーム・シービスケット」の浮き沈みや、ウォーアドミラルとの名高いライバル対決を詳細に描いている。また、1930年代の競馬の世界で見られた、西部の馬について報じる紳士気取りの東部のジャーナリストや、優れたサラブレッドの大衆的な魅力から、ゴムスーツを着てサウナに入ったり、強力な下剤やサナダムシまで用いる旗手たちの過酷な減量法についても述べている。

本書の中で、ヒレンブランドは素晴らしいシーンを描きだしている。トム・スミスにとってヒーローであり、伝説的な調教師であるジェームス・フィッツシモンズが馬勒を押さえるように指示し、馬に鞍を着けるときにスミスの目に浮かんだ涙。数週間前のレース中の事故で胸を押し潰され、重傷を負ったレッド・ポラードが、病院のベッドでサン・アントニオ・ハンディキャップ戦の模様をラジオで聴きながら「行け、ビスケット! 負けるな!」と盛んに声援を送る姿。試合後、優勝したシービスケットがカメラマンにむかって幸せそうにポーズを取る場面。シービスケットが猛烈なスピードで自分たちを脅かして嘲るため、シービスケットと同じレースに出場するのを嫌がるほかの馬たち。

時に彼女の散文的な文章は批判の対象になるが(「彼の歴史は吹雪の中に現れた天空の蹄の跡だ」、「カリフォルニアの日差しには、衰え行く季節の白目製の円柱が含まれている」など)、ヒレンブランドは本書を愉快な物語に仕上げている。最初から最後まで、この『Seabiscuit』はおすすめの1冊である。(Sunny Delaney, Amazon.com)

出版社/著者からの内容紹介
ニューヨーク・タイムズベストセラー6週連続第1位となった感動のノンフィクション

世界恐慌に苦しむ1938年、マスコミをもっともにぎわせたのはルーズベルト大統領でも、ヒトラーでも、ムッソリーニでもなかった。ルー・ゲーリックでもクラーク・ゲイブルでもない。その年、新聞がもっとも大きく紙面を割いたのは、脚の曲がった小さな競走馬だった。馬主は自動車修理工から身を起こした西部の自動車王、チャールズ・ハワード。謎めいた野生馬馴らしの過去を持つ、寡黙な調教師のトム・スミス。片目が不自由な赤毛の騎手、レッド・ポラード。馬の名は、シービスケット。これは、悲劇の名馬と男たちの奇跡の物語である。



ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストを見て、ずっと気になっていた本なのだが、競馬の話か・・・と、読むかどうか迷っていた。先に映画を観てかなり感動したので、やっぱり原作を読んでみようと思った。

先に映画を観てしまうと、イメージが固定されてしまって、原作の持つ本来のイメージからかけ離れてしまうことが多いが、これに関しては、映画のイメージを思い浮かべながら読むほうが、さらに感動が増すという、特殊な一例かもしれない。

なにしろ競馬のシーンがたくさん出てくるので、やはり競馬の知識は多少なりとも必要だろう。例えばラチ(コースの内側にある柵)などという競馬用語いろいろも出てくるし、完全に競馬に無知だった場合、いきなり本を読むと理解できない部分もあるかもしれないが、映画を観ていれば、その状況は一目瞭然なわけだから、競馬を知らなくても十分理解できるだろう。

かといって、競馬そのものの話というわけでもないので、競馬に詳しい必要はない。少なくとも、テレビの競馬中継で、1レースでもいいから目にしていれば、話はわかりやすい。

映画のほうは時間の都合もあるので、だいぶ省略も多かったし、本に書かれてある事実(これはノンフィクションなので、全て実際の出来事)とは違う部分もある。本のほうは感情を抜きにして、詳細に事実が描かれているので、かなり読み応えがある。それゆえに、馬と人間が一体になって、挫折を繰り返しながら苦難の勝利の道へと進んでいく様が、じわじわと感動を生む。

レースの模様も、文字で競馬の臨場感を感じられるとは、思ってもいなかっただけに(映画のほうは迫力満点!)、その盛り上げ方には舌を巻いた。スタートしてからゴールするまでのドラマが克明に描かれていて、その間に胸が熱くなり、涙が浮かび、叫びだしたいほどの気持ちにさせられる。

この本1冊で、何度泣いただろうか。それも半端な涙じゃない。単なる一頭の馬、一人の人間というレベルではなく、大不況にあえぐ大勢のアメリカ人の、絶望と夢と希望とが交じり合って、予想以上の感動を呼び起こす。

だから、馬が怪我をしても、旗手が骨折をしても、勝利を掴み取るまで死に物狂いでがんばる姿というのは、彼らに「失敗したっていい。あきらめるな!」という大きな希望を与えるのだ。非常にアメリカ的な話だとは思うが、馬も旗手も調教師も、本当に、本当に、がんばるのだ。そのがんばりは、もう賞賛するしかないし、またそこにある馬と人間、あるいは人間同士の信頼というものが、世の中のことは何も信用できなくなっているといった人々に、再び何かを信じる気持ちを起こさせる、まさに奇跡の物語なのだ。けれどもそれは、偶然の賜物ではなく、それぞれの努力の賜物、全力を尽くしたものが勝ち取る奇跡だということが、感動を生む。

それにしても、旗手とは大変な仕事である。常に体重管理をしていなければならないし、そのための苦労は並大抵の苦労ではない。私のダイエットなど、はるかに及ばない。しかし、彼らはプロであり、とにもかくにも馬に乗りたい、馬に乗ってゴールをトップで走り抜けたいという気持ちが、過酷なダイエットをものともせず、努力に努力を重ねているのだ。その結果、気を失って落馬して命を落とすことだってあるのに。彼らのストイックな精神は、その半分でもいいから見習いたいところだ。

シービスケットに騎乗するポラード役のトビー・マグワイアは、実際に10キロ減量したらしい。彼もまたプロなんだなあと感心したエピソードであった。

2004年02月29日(日)
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 緋文字/ナサニエル・ホーソン

緋文字 角川文庫/ナサニエル ホーソン (著), Natheniel Hawthorne (原著), 福原 麟太郎 (翻訳)
内容(「BOOK」データベースより)
十七世紀のボストン。戒律の厳しい清教徒社会で、一人の女が広場のさらし台に姦通の罪で立たされていた。罪の子を胸に抱いたヘスターは、生涯、その胸に"姦淫"を意味する赤いAの字を縫いつけねばならないといいわたされる…。ヘスター、彼女と姦通して苦悩する若い牧師、裏切られて復讐に燃える夫の三人の姿と心理を鋭く追求し、光と影を交錯させながら人間の悲哀を描いた傑作。
※画像は原書 『The Scarlet Letter』 (Dover Thrift Editions)


プロフィール

Nathaniel Hawthone (1804-1864)

アメリカの作家。マサチューセッツ州セイラム生まれ。17世紀ニューイングランドの魔女裁判で有名な清教徒を祖先に持つ。4歳で父を失い母方マニング家の世話に。幼いときに父を亡くし、暗く沈む母らとともにおじの家に寄宿して、屈折した子供時代を送ったホーソーンは、1つの価値に収斂しない奥深い洞察を繰り広げる。ボードン大学同級生にロングフェローやのちの大統領フランクリン・ピアスなど。38歳で結婚。メルヴィルに「アメリカのシェイクスピア」と讃えられる。ピアスと旅行中、死去。

『緋文字』執筆までは短編を書きつづけていた。(短編集『トワイス・トールド・テールズ』1837年、『旧牧師館の苔』1846年、『雪人形』1851年、に収録)その後『七破風の館』(1851)、『ブライズデイル・ロマンス』(1852)、『大理石の牧神』(1860)と長編に比重が移動。


作品解説

The Scarlet Letter (1850)

この物語には「税関」(The Custom-House)と題された長い序文がついている。このなかでホーソーンは、『緋文字』を小説として書く経緯を自伝風に説明する。ピューリタニズムの影響がまだわずかに残っていた当時のアメリカでは、虚構は害悪と考えられ、小節家はまともな職業とは思われていなかった。その頃ホーソーンは税関の官吏として手堅い職についていたが、大統領の交代とともにその職を奪われる。だがその直前、税関の暗い一室で緋文字が縫い付けられた布と資料を発見し、彼の想像力は一挙に飛翔する。もちろんこの部分は虚構だろう。だが社会も人の心も、じつは言語による大がかりな虚構であり、そのリアリティーは、想像力によって精緻に織り成される文学という虚構によって再─現前されるものであることが、序文と本文の相互照合的な読みによって明らかになる。


やっと読み終えました。
読み始めたときに言いましたが、訳が小難しくて、ものすごく読みにくかったです。いくつか訳があるので、他の版で読めばまた違うのだろうかとも思いますが、今のところ再読する気にはなれませんね。(^^;

「税関」も最後に読みましたが、なるほど、ここでこの話は事実に基づく本当の話なのだと前もって言っているわけなんですね。

しかし、上の解説にあるように、「もちろんこの部分は虚構だろう。だが社会も人の心も、じつは言語による大がかりな虚構であり、そのリアリティーは、想像力によって精緻に織り成される文学という虚構によって再─現前されるものであることが、序文と本文の相互照合的な読みによって明らかになる」なんてことは全然考えませんでしたね。ただ読みにくいなあとだけ。

というわけで、文字を読んでいてもなかなか頭に入ってこず、表面だけを読んだという感じです。だから、表面的なストーリーしか追えませんでした。

この時代のアメリカの清教徒たちは、クリスマスを祝うことも禁じられていたそうなので、かなり厳しい状況にあったことはわかりますが、ヒロインのヘスター・プリンの潔さに比べて、一緒に罪を犯した(この罪は一人では犯せませんからね)、牧師のディムズデイルが、非常に情けなく思えました。牧師という立場上、仕方がなかったのかもしれませんが、自分は関係がないという態度をとられたら、私だったらそこですっかり醒めてしまうでしょう。彼は彼なりに苦しんで、そのために死に至るわけですが、「何があっても守ってくれる」という男性像を求めている私には、ちょっと許せないかも。

逆に、ヘスターの夫であったチリングーワスの行動は、まだ理解できます。妻を取られたわけですから。しかも妻ひとりが罪人扱いされているという状況ですし。しかし、表沙汰にはせず、じわじわと責めるのが(読んでいて、責めているとは思っていなかったんですが、責めていたんですね)気色悪いと言えばそうなのかも・・・。船に乗る計画のところでは、なんてしつこい奴だ!と思いましたが。

結局、この元夫も、ヘスターを助けるどころか、自分には一切関係のないこととしているわけですから、どっちもどっちなんでしょうが、一応、ちゃんとした夫だったわけですから、人間的に好きではないけれど、被害をこうむったチリングーワスのほうを弁護せざるを得ないですね、私は。

会話部分が「パールちゃん、お前さん、いけないよ。およしなさい」なんて調子なので、ずっこけてしまって、全く入り込めませんでした。もっと深く読み込むべきなんでしょうが、だめでした。

(この感想は「読書会」への文章から引用)



2004年02月28日(土)
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 When Zachary Beaver Came to Town/Kimberly Willis Holt

内容(「MARC」データベースより)
ある日、世界一巨漢の少年が現われて、ぼくの中で何かが大きく変わっていく…。少年たちのひと夏の思い出をせつなく描く、愛と友情の物語。1999年ヤングアダルト部門で全米図書賞受賞。


<参考・邦訳>
ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日/キンバリー・ウィリス ホルト (著), Kimberly Willis Holt (原著), 河野 万里子 (翻訳)
価格: ¥1,700
単行本: 261 p ; サイズ(cm): 182 x 128
出版社: 白水社 ; ISBN: 4560047707 ; (2003/09)


これはいいな。すごく面白いという部類ではないが、なんだか懐かしい感じのする、古き良きアメリカという雰囲気。少年ものは好きだし、主人公の少年も淡々としていていい。「Super Mex」と呼ばれたリー・トレヴィノが全英オープンで優勝した年と書かれてあったから、1971年か1972年の話。こういうことをわざわざ調べるようになったのは、青山先生の授業の名残り。

まだ半分も読んでいないが、これが全米図書賞を受賞したのは、すごくわかるような気がする。面白い本というのは、やっぱり書き出しが違う。それに、登場人物たちのキャラもいい。

主人公のトビーの母親は、カントリーソングのコンテストに出るために出かけたが、コンテストに落ちてからも帰ってこない。歌手になるというのだ。トビーは周囲に嘘をつく。コンテストの会場が火事になって、コンテストは中止になってしまい、母親はコンテストがまた開催されるのを待っているのだと。

心の中に、母親がずっと帰ってこないのではないかという不安と寂しさを抱えたまま、トビーはカルとの友情の日々をすごす。年上の女の子に恋をして、胸がキュンとする思いも味わう。

そして、タイトルのザッカリー・ビーヴァーは、「世界一の巨漢」という見世物の名前だ。最初は興味本位で見に行っていたトビーとカルも、次第に彼に友情を感じるようになる。世界中を旅しているのに、ほとんどトレーラーの外に出たことがないザッカリー。最後にザッカリーを連れて皆でピクニックに行き、ザッカリーが野原の真ん中で、空を見上げていることろは感動的だ。

見たこともないアメリカの1970年代の風景が描かれているのだが、その光景がありありと目の前に浮かんでくるような、そんな文章だ。派手なところもなく、ただ登場人物の心情を日常生活とともに描いている。そんなモノクロームのような風景に、時折色を添えるエピソードがはさまれる。

欧米の小説には、よく歌詞が引用されているが、ほとんど何の曲か分かったためしがない。曲名を見て初めて、そうなのかと思う程度だ。ところが、これには見ただけで曲名が分かった歌詞があった。カーペンターズの「Close To You」だ。カーペンターズが好きだというのもあるが、ここで初めて、私は70年代の人間なのだと知った次第。その前でもないし、後でもない。この年代なのだと実感した。そういった意味でも、なにか懐かしい思いのする話だった。

2004年02月26日(木)
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 第130回芥川賞受賞二作品

『蛇にピアス』/金原ひとみ
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ピアッシングや刺青などの身体改造を題材に、現代の若者の心に潜む不気味な影と深い悲しみを、大胆な筆致で捉えた問題作である。埋め込んだピアスのサイズを大きくしていきながら、徐々に舌を裂いていくスプリットタン、背中一面に施される刺青、SM的なセックスシーン。迫力に満ちた描写の一方で、それを他人ごとのように冷めた視線で眺めている主人公の姿が印象的だ。第130回芥川賞受賞作品。

顔面にピアスを刺し、龍の刺青を入れたパンク男、アマと知り合った19歳のルイ。アマの二股の舌に興味を抱いたルイは、シバという男の店で、躊躇(ちゅうちょ)なく自分の舌にもピアスを入れる。それを期に、何かに押されるかのように身体改造へとのめり込み、シバとも関係を持つルイ。たが、過去にアマが殴り倒したチンピラの死亡記事を見つけたことで、ルイは言いようのない不安に襲われはじめる。

本書を読み進めるのは、ある意味、苦痛を伴う行為だ。身体改造という自虐的な行動を通じて、肉体の痛み、ひいては精神の痛みを喚起させる筆力に、読み手は圧倒されるに違いない。自らの血を流すことを忌避し、それゆえに他者の痛みに対する想像力を欠落しつつある現代社会において、本書の果たす文学的役割は、特筆に価するものといえよう。弱冠20歳での芥川賞受賞、若者の過激な生態や風俗といった派手な要素に目を奪われがちではあるが、「未来にも、刺青にも、スプリットタンにも、意味なんてない」と言い切るルイの言葉から垣間見えるのは、真正面から文学と向き合おうとする真摯なまでの著者の姿である。(中島正敏)

出版社/著者からの内容紹介
ピアスの拡張にハマっていたルイは、「スプリットタン」という二つに分かれた舌を持つ男アマとの出会いをきっかけとして、舌にピアスを入れる。暗い時代を生きる若者の受難と復活の物語。第130回芥川賞受賞作。

『蹴りたい背中』/綿矢りさ
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『インストール』で文藝賞を受賞した綿矢りさの受賞後第1作となる『蹴りたい背中』は、前作同様、思春期の女の子が日常の中で感受する「世界」への違和感を、主人公の内面に沿った一人称の視点で描き出した高校生小説である。

長谷川初実(ハツ)は、陸上部に所属する高校1年生。気の合う者同士でグループを作りお互いに馴染もうとするクラスメートたちに、初実は溶け込むことができないでいた。そんな彼女が、同じくクラスの余り者である、にな川と出会う。彼は、自分が読んでいるファッション雑誌のモデルに、初実が会ったことがあるという話に強い関心を寄せる。にな川の自宅で、初実は中学校時代に奇妙な出会いをした女性がオリチャンという人気モデルであることを知る。にな川はオリチャンにまつわる情報を収集する熱狂的なオリチャンファンであった。

物語の冒頭部分を読んだだけで、読者は期待を裏切らない作品であることを予感するだろう。特に最初の7行がすばらしい。ぜひ声に出して読んでいただきたい。この作家に生来的に備わったシーン接続の巧みさや、魅力的な登場人物の設定に注目させられる作品でもある。高校1年生の女の子の、連帯とも友情とも好意ともつかない感情を、気になる男子の「もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい」思いへと集約させていく感情と行動の描写も見事だ。現在19歳の作者でなければ書くことができない独自の世界が表現されている。 (榎本正樹)

出版社/著者からの内容紹介
高校に入ったばかりの蜷川とハツはクラスの余り者同士。やがてハツは、あるアイドルに夢中の蜷川の存在が気になってゆく…いびつな友情? それとも臆病な恋!? 不器用さゆえに孤独な二人の関係を描く、待望の文藝賞受賞第一作。第130回芥川賞受賞。




第130回芥川賞受賞作、金原ひとみ『蛇にピアス』と、綿矢りさ『蹴りたい背中』を読んだ。両方ともおおまかな印象は同じ。石原慎太郎の選評にあるように、「それにしてもこの現代における青春とは、なんと閉塞的なものなのだろうか」ということが、私が最も感じたことだろうか。

リアルタイムの青春を書くのと、大人になって青春を振り返って書くのとでは、雰囲気も何も全然違ってくるだろうが、読んでいて「若いなあ・・・」と思った。最年少の受賞ということが話題になっているけれども、若さゆえの新鮮さと同時に、若さゆえの気持ち悪さも感じる。

若さゆえの気持ち悪さってなんだろう?うまく言葉にできないのだが(これじゃ芥川賞は絶対無理だ)、昔と今とでは、気持ち悪さの質が違っている。上に書いたように、それは「閉塞感」かもしれない。そういう現代の若者を作ってしまった社会を憂慮しなければいけないんだろうが、現代の若者のこの「閉塞感」は、街を歩いていても感じる。現代の若者には、ピュアとか、イノセントとかいう言葉はあてはまらないのかもしれない。2作者とも、人間の「悪意」というものをしっかり知っている。そういう意味で、若いからといって、幼さは全く感じない。

しかし、どちらにしても暗い。こんなに若いのに、こんなに暗いのかと思うと、暗澹たる思いにとらわれる。個人的には、『蹴りたい背中』のほうが文章がきちんとしている分、いいのかなとも思うが、『蛇にピアス』のような文章は馴染めない。今の若者の言葉で書かれているのだが、品がない。だから、現代の日本文学には興味がわかない。外国文学の翻訳のほうが、ちゃんとした日本語が使われているからだ。現代の日本文学の全てがそうだとは言わないが、これに関しては「芥川賞」という冠がなければ、絶対に読まない小説だ。

『蹴りたい背中』も、仲間はずれになっていく少女の孤独と、オタクな少年の話だが、じめじめしたもどかしさという感じ。やっぱり気持ちが悪い。これにしても、『蛇にピアス』にしても、外国文学にはない雰囲気だ。たとえ同じシチュエーションで書かれたとしても、全然違う雰囲気になると思う。

とはいえ、芥川賞というメジャーな賞を受賞しているのだから、これが日本文学だと言っても差し支えないんだろう。こういう賞は出版社の話題づくりであるとも思うが、そうは言っても天下の芥川賞だ。私はますます日本文学から遠ざかる。あるいは、漱石どまりかもしれない。

ちなみに『蛇にピアス』の金原ひとみは、金原瑞人氏(翻訳家・法政大学教授)の娘だとか。父親のほうは、児童文学(ヤング・アダルト)の翻訳が多いから、「あるところに王女様がいました」的な文章だが、娘のほうは伏字にしなきゃいけないような言葉がぽんぽん。女の子でも「やってらんねーよ!」みたいな言葉遣い。なんだかその父娘のギャップが奇妙。作者と作品の主人公を同一視するのは間違いだと思うが、写真を見ると、いかにもと思ってしまう。実際、けして普通の人生は送っていないようで、お父さんはずいぶん苦労したんだろうなと。(^^;


2004年02月25日(水)
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 パーム・ビーチ(上・下)/パット・ブース 

パーム・ビーチ(上)/パット・ブース
カバーより
美しい夏の昼下がり、ボビーは何気なく父親の書斎をのぞいて、その場に釘付けになった。上院議員の父親が、ソファの上でメイドのメリーとセックスの真っ最中だったのだ──アメリカの有数の金持ちが住む町パーム・ビーチに、三代にわたる愛と欲望のドラマが始まった。十数年後、美しく成長したメリーの娘リサは、フィットネス・クラブの社長として成功への道を歩んでいた。夢は母親の遺言だったパーム・ビーチの住人になること。だが、運命の人、ボビーとの出会いは・・・。

パーム・ビーチ(下)/パット・ブース
カバーより
名門デューク家の若く美しい未亡人ジョアンは、野心に燃えるボビーの大統領への道に経済的援助を申し出る。それは、家柄も富も劣るリサの敗北を意味した。しかし皮肉にも、別れを告げられたリサのおなかにはボビーの子が。名門同士の結婚で、大統領へ着実に一歩を踏み出したかにみえたボビー。だがリサと同じ日に娘を産んだ妻ジョアンにも暗い過去と秘密があった。風光明媚なパーム・ビーチにくりひろげられるラブ・ロマンスは、時に胸をはずませ、時に胸を痛めさせる。


この話って変でしょう!結局近親相姦の話?って感じ。
そもそもボビーとリサは、母親の違う兄妹だ。ここですでに近親相姦である。そして、リサの息子スコット(父親はボビー)とジョアンの娘クリスティー(父親はボビー)もまた恋愛関係になるのだが、これもまた母親の違う兄妹(同じ日に生まれているので、姉弟かもしれないが)となって、またまた近親相姦だ。さらに、最後にボビーとリサが結婚するという話になり、それって、法律的にも遺伝的にもまずいんじゃないでしょうか?という疑問が大いに残る。

スコットとクリスティーは、自分たちで自らの生い立ちの秘密を知り、きょうだいとしてつきあうことになるのだが、ボビーとリサは、生い立ちを知らないままだ。心配したスコットが、二人のDNA鑑定をしてもらうが、結果がわからずじまい。物語は、近親相姦とかDNAとかが問題というわけじゃないのだが、どうしたってこれは気になる。

それにしても金持ちの社交界って、すごい世界だ。平気で人を蹴落とすし(これは金持ちの社交界でなくてもよくあることだが)、自分がトップに立つためには、平気で殺人も犯す。嫌味やあてこすりが日常会話。地位や名誉や物欲に取り付かれると、まったく大変なことになる。普通じゃない世界の普通じゃない話というわけか。

大統領候補にまでなるボビーは、なるほど魅力的ではあるが、大統領になるために選んだジョアンをかたわらにおきながら、再びリサに出会って心ときめき、やっぱりリサが好きだと思ってしまうなんて、なんて子どもなんだろう。だったら初めからリサと結婚すればよかったのに・・・いや、待て、それは近親相姦になるからまずい・・・でも結局最後には結婚するのだし・・・と、なんだかややこしい。普通なら相思相愛で結ばれるハッピーエンドのはずだが、そこに近親相姦という問題があるだけに、なんともすっきりしない話である。

2004年02月24日(火)
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 終わらざりし物語 (上・下)/J.R.R.トールキン(著)、クリストファ・トールキン(編)

内容(「MARC」データベースより)
ヌーメノール王家の祖・トゥオルのエルフの隠れ王国へと至る苦難と不思議の旅路、不屈なるフーリンとその子に降りかかった過酷な運命…。トールキンの緻密で雄大な神話世界がよみがえる、「指輪物語」ファン必読の書!

内容(「MARC」データベースより)
ガンダルフが語る「ホビットの冒険」の裏話、騎士国ローハンの建国譚、黒の乗手の遠征…。トールキンの緻密で雄大な神話世界がよみがえる、「指輪物語」ファン必読の書!


本編『指輪物語』を詳細に補う、「指輪戦争」以前の物語群。トールキンはこれをひとつにまとめていたわけではなかったので、息子のクリストファが苦労してまとめた。おかげで、私たちは中つ国の壮大な歴史に思いをはせることができる。

ほとんどは本編にあまり関係のないことのように思えるが、ガラドリエルとケレボルンのこととか、ビルボがドワーフたちと「竜退治の冒険」に出かけることになった本当の理由とか、本編に登場する人物に関連した物語も多々ある。

トールキンは、ひとつひとつの事柄に、非常に詳細な注釈をつけていたようで、本編を読みながらでも、こうした注釈が見えてくるようでもある。特に本編ではほとんど触れられていない「イスタリ」(魔法使い)については、非常に興味深い。イスタリのそもそもの出は、これはトールキン自身も明らかにしてはいないのだが、少なくとも『シルマリルの物語』を読まないと辿れない。中つ国を作った「神」のような存在まで遡るからである。

一貫して描かれているのは、エレスサール王(アラゴルン)が、いかに正統な血筋であるか、王位を継ぐ者として、いかに適切な人物であるかということだろう。彼の祖先であるエレンディル、イシルドゥアについても詳細に描かれている。

ともあれ、トールキンの世界は深い。そういう思いを新たにする物語郡である。

2004年02月23日(月)
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 The Garden Behind the Moon/Howard Pyle

<MOON COLLECTION>

周囲では頭が弱い子と思われていたベビーシッターの男の子が、靴屋に教えられて、ある日月の道を登って行く。月の庭で出会った女の子と、大人になったら結婚しようという約束をするが、実は彼女は王女であったため、結婚するには大きな冒険を果たさなければならない。その冒険が終わったとき、男の子は見違えるような青年となっており、めでたく王女とむすばれる。

一方王女は、月の天使によって、子どものない王と王妃に授けられた子どもであったが、月の天使は、望みを叶えるかわりに、悲しみを残して行く。王妃は王女を産んだあと、すぐに亡くなってしまった。

Moon-calf
Moon-Angel
Man-in-the-moon
moon-garden
moon-house
moon-window

などなど、月にちなんだ事柄があれこれ出てきて、例えば月の満ち欠けは、「moon-window」の開け閉めによるものだとか、「Man-in-the-moon」は、それを管理している人だとか、なかなか楽しい想像もできるのだが、やはり恐ろしいのは「Moon-Angel」である。王女の話に限らず、月の天使は地上の命をつかさどっている。彼が現れると、必ず誰かが死ぬのだ。つまり、死神?

月の不思議さをテーマとした児童向けの話だが、月面の状況と、王女と結婚するための冒険が結びつかない。その冒険に関する話もあまり深くは書いていないし、めでたし、めでたしで、幸せに暮らしましたとさ、といった感じで、特に印象にも残らない。

月の満ち欠けは、「moon-window」の開け閉めによるものだなどと書いた以上、もっと荒唐無稽でもいいような気がするし、頭が弱いと思われていた子が、実は純粋な心の持ち主で、純粋な心の持ち主だけが、そうしたファンタジーの世界に入り込んでいけるのだという、いかにもな設定も面白くない。

2004年02月22日(日)
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 シンプル・プラン/スコット・B・スミス

内容(「BOOK」データベースより)
ある雪の日の夕方、借金を苦にして自殺した両親の墓参りに向かうため、ハンク・ミッチェルは兄とその友人とともに町はずれの道を車で走っていた。途中ひょんなことから、彼らは小型飛行機の残骸とパイロットの死体に出くわす。そこには、440万ドルの現金が詰まった袋が隠されていた。何も危険がなく誰にも害が及ばないことを自らに納得させ、3人はその金を保管し、いずれ自分たちで分けるためのごくシンプルな計画をたてた。だがその時から、ハンクの悪夢ははじまっていたのだった。スティーブン・キング絶賛の天性のストーリー・テラー、衝撃のデビュー作。


これは、以前から面白いという噂を聞いていたのだが、たまたまミステリが読みたいと思って読んだはいいが、イメージしていた雰囲気とだいぶ違っていて、読んだ時期が悪かったという感じ。

主人公の心理描写はとても上手いと思ったが(もし自分がこういう立場になったら、同じような心理になるだろうと思える)、次から次へと息も継がせず展開していくエンターテインメント的なミステリと違って、状況は非常に地味。

心理面で読ませていくのは納得できるのだが、結末も途中で予測が付いてしまって、あまり意外性がなかった。ただ、ごく普通の人間が、突然手に入った大金のために、際限なく犯罪を犯していけるという可能性については、非常に恐ろしいと思った。しかも、あまり罪の意識を感じずに。

2004年02月21日(土)
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 コーンウォールの聖杯/スーザン・クーパー

内容(「MARC」データベースより)
ドルウ家の三人の子どもたちは、古い屋敷の屋根裏から七百年前に書かれたアーサー王伝説をめぐる秘密の古文書を発見する。悪と戦いながら「聖杯」を探し出す子どもたちの物語。1972年刊の改訂新版。


これはタイトルからもわかるようにアーサー王の話、と言ってしまうと語弊がある。アーサー王にちなんだ話とするべきだろう。詳しい内容は、上の内容説明にあるとおりで、アーサー王が復活するなんてことも書かれていたりするのだが、半分ほど読んだ限りでは、アーサー王は人寄せパンダじゃないかってこと。つまりアーサー王がメインになるという話じゃないどころか、結局アーサー王なんて出てこないんだろうな。

などとはっきりしない事を書いているのは、これはスーザン・クーパーの「闇の戦いシリーズ」(邦訳を含む各巻の詳細はこちら)の第一作目で、このあとまだ4冊も続くので、どういう展開になるのか全然わからないからだ。多くのファンタジーの例にもれず、善と悪の戦いというテーマらしいのだが、たくさんの人に望まれて復刊になったわりには、どうなの?という感じ。

私はアーサー王ものが好きなので、アーサー王という文字が書いてあれば、すぐに手が伸びてしまう。これもかなり期待していたのだが、アーサー王が人寄せパンダだとわかってしまったら、もう面白くないだろう。ストーリーが今いちなのか、翻訳が良くないのか(児童書の翻訳はほんとに難しい。子どもっぽい言葉で書けばいいというものでもない。特に会話部分が問題)、物語の雰囲気もとりたてて心惹かれない。

この先の4巻はどうしよう。原書で読んだら、もっと雰囲気が違うのかなあ。3人のきょうだいが、洋服ダンスをああしたこうしたという設定は、どう見ても「ナルニア」だし、これといって魅力的なキャラクターもいない。冒険のきっかけも気をそそらない。ただ、この先主人公が変わるらしいので、どんな展開になるのか、とりあえず興味はある。しかしこの本に関しては、最後まで読まないとわからないが、子供向けの粋を出ていないのは明らか。

2004年02月18日(水)
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 新ターミネーター2─最終戦争(上・下)/S.M.スターリング

内容(「BOOK」データベースより)
南極の死闘から帰還したジョンとディーターはふたたびサラと合流し、アラスカに潜伏していた。なにもかもが終わったかに見えたが、世界中で車で暴走する奇妙な事故が多発しはじめる。スカイネットの関与を疑うサラだが、ウェンディを失った悲しみの癒えぬジョンは耳を貸そうとしない。だが、やはりスカイネットは生きていた!人類殱滅を目論むラッダイトの人間を操り着々と準備を進めていたのである。くしくも自らの手でその命を吹き込んでしまったことに気づいたジョンはふたたびサラたちとスカイネット打倒に立ち上がる。が、時すでに遅し、ついにジャッジメント・デイは起きてしまう。軍を掌握したスカイネットが核爆弾を投下、人類は激減させられた。果たしてジョンは人類の未来を救えるのか、存亡をかけた最終戦争が始まる…。

内容(「BOOK」データベースより)
サバイバリストらジャッジメント・デイを生き抜いた人間を指揮し、レジスタンスとしてスカイネットに対抗すべく活動を始めたジョン。だが、依然として状況は過酷だった。スカイネットはターミネーターの開発に専念する一方で、狂信的なラッダイトたちに軍の兵士を装わせ、生き残った人間を避難施設への移住と偽って劣悪な収容所に寄せ集めていた。そこで人為的にコレラを蔓延させ、核戦争に続く第二の人類抹殺計画を進めていたのである。だが、その収容所を脱出した若き看護婦と陸軍兵士がいた。メアリー・シェアとデニス・リース…のちにジョンの父となるカイル・リースをこの世に誕生させることになるふたりである。ふたりはジョンの仲間であるレジスタンス部隊に合流、運命の輪が静かにまわりはじめていた…。


最初、「新ターミネーター2」シリーズは、映画「T3」に至るまでの話かと思っていたのだが、「T3」は飛び越えて、最終戦争が起こってしまう。この「最終戦争」では、核が落とされたあとの世界を描いている。

コナー親子とディーター、および彼らの話を信じた仲間たちは、スカイネットの引き起こした核戦争を生き延びる。スカイネットの目的は、人類を絶滅させることで、そのため、生き残った人類を収容所に集め、飢餓や疫病で殺そうとする。劣悪な環境の悪臭、死体の腐臭、そうした無残な光景が描かれる。

だが全世界に手を伸ばしたスカイネットも、結局は人間の手を借りなければ、ことが進められないのだ。そのスカイネットの信奉者は、ラッダイト(反機械主義者)たちだった。彼らは最初、テクノロジーに反対していたはずだが、徐々にその思想をねじ曲げていき、人類が滅亡し、選ばれた少数の人間だけが生き残れば、地球は救われるのだという恐るべき考えになっていった。それがスカイネットの目的と一致したため、スカイネットの手先となって働くのだが、最終的には彼らもスカイネットに殺されていく。

コナー親子をはじめとする、生き残ったレジスタンスたちは、スカイネットのプログラムを研究し、次々に送り出されてくるターミネーターに対処すべく武器を調え、ついにスカイネットを破壊する。自我をもったスカイネットではあるが、人間の予測不可能な行動に、ついに屈したのだ。

だがその前に、偉大なる指導者ジョン・コナーの母親、伝説のサラ・コナーを殺すため、ターミネーター(T-800、T-1000、T-X)を過去へ送る。ジョンは、いよいよ時が来たことを悟り(この時ジョンは42歳)、自分の父親になるはずのカイル・リースを、そしてディーターにそっくりな、「T2」で「ボブおじさん」となる、プログラムをし直したターミネーター(T-800)を過去へと送り出す。この時間のパラドックスを考えると頭が痛くなるが、こうしてまた話は元に戻って、何度も何度も繰り返されるのだろうか?キリがない。

そう、この話はまったくキリがないのだ。時間軸を変えて考えれば、どんなふうにでも話は作れるわけで、「T4」「T5」・・・と、延々と続けていけるのだ。でも、やっぱりターミネーターはシュワちゃんでなきゃ迫力がないわけで、その生身のシュワちゃんは、過去に戻ることはできないのだから、マシンがよぼよぼになってしまっては、どうにも具合が悪いだろう。この話の中でも生身のディーターは、年とともに衰え、たくましかった筋肉もしぼみ、怪我も治らず、といった具合だ。

そして、このターミネーターの話は、ジョンにとっての「その時」が来るまでを想定していたわけだが、その時が過ぎた今(小説の中で)、彼らは今後どう生きるのだろう?サラが口癖のように言っていた言葉を思い出す。

「運命とはみずから切り開くものだ」

これはサラからジョンに、ジョンからカイルへと伝えられた言葉だが、再び過去に戻って、カイルからサラへと伝えられている。

それにしても、このシリーズは面白かった。映画をノヴェライズしているわけではないから、ストーリーも結末も新鮮で、どうなることかとドキドキわくわくしながら読めた。文学とは言えないだろうが、作者のスターリングは完璧にエンターテインメントに徹していて、とことん楽しませてくれた。読む前は、どうせよくあるノヴェライゼーションの類で、くだらないんだろうと思い、6巻まで読めるかどうか、途中で飽きてしまうんじゃないかと思っていたが、読み終えるのが惜しいと思うくらいに面白かった。別にシュワちゃんファンでなくても、十分に楽しめると思う。

2004年02月17日(火)
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 新ターミネーター2─迫りくる嵐(上・下)/S.M.スターリング

内容(「BOOK」データベースより)
未来のスカイネットが送り込んできた新たな刺客、サリーナ・バーンズこと新型ターミネーターI‐950型を死闘の末葬ったサラ、ジョン、ディーターの3人は再度サイバーダイン・システムズ社を爆破、スカイネット計画を阻止した。だが、サラはこの戦いで負傷、ジョンとディーターはひとまずサラをジョーダンに託し、南米へと逃走する。これで戦いは終わったかに見えたが、悪夢はふたたび甦る。サリーナが死ぬ前に残したクローン2体、クレアとアリッサの姉妹がついに目覚め、水面下で活動を開始したのだ。ジョンはネットで知り合ったマサチューセッツ工科大学の学生ウェンディらを仲間に引き入れ、ターミネーターの残したCPUの解析を依頼。ウェンディとの間にはほのかな恋心が芽生えるが、ターミネーターの脅威はすぐそこまで迫っていた…。

内容(「BOOK」データベースより)
危機一髪、アリッサの放ったターミネーターの攻撃を打ち砕いたジョンとディーターは、仲間となったシルバーマン博士の助けで逃げてきたサラとコロンビアで再会、新たな戦いに向け、作戦を練る。クレアはT‐1000の素材の原型となる特殊合金を発明、その特許を武器にスカイネット計画を推進するサイバーダイン社に接触、その後ヴィーマイスターらが研究を行っている南極の軍施設に研究員として潜り込んでいた。すぐにその動きを察知したジョンらは、まだ傷の癒えないサラをパラグアイに残し、ジョン、ディーター、ウェンディの3人で南極へと向かう。今度は爆破が目的ではない、スカイネットを誕生させるのだ。ただし、ウェンディの開発した暴走防止プログラムをインストールした形で…。極寒の地の果て、最終決戦がいま始まる。


前の「未来からの潜入者」のサリーナ・バーンズに引き続き、ここには潜入型ターミネーター(I-950)がメインで登場する。潜入型とは、マシンではなく人間の肉体のままで、脳にコンピュータのチップが埋められており、肉体をコントロールしているターミネーターである。とりあえず人間であるから、社会に潜入しやすいというわけだ。ここに登場するのは、サリーナ・バーンズのクローン2体。

マシン相手の戦いなら、銃でどれだけ撃とうが、バズーカ砲で吹き飛ばそうが、機械が壊れる感覚しかないが、人間の肉体を持つターミネーターとなると、血や肉片が飛び散り、とんでもなくグロテスクな様相を呈する。しかも、マシンのターミネーターと一緒で、脳のチップを破壊しない限り動き続けるのだからおぞましい。

ちなみに、シュワちゃんが演じたT-800型は、基本はマシンだが、その上に肉がついているタイプで、これはタイムトラベルをするときに、肉体しか送れないという理由があったため、こういう形になった。肉体の中に機械があるぶんにはだいじょうぶらしい。

で、なぜT-800型は、大男のオーストリア人、ディーター・フォン・ロスバックにドイツ訛りまで含めてそっくりなのか、という疑問だが、これがいたって単純な理由で、サイバーダイン社に、元セクター工作員(アメリカ政府のテロ対策要員)であったディーターのデータがあったため、それをそのままインストールしたというもの。そのデータの元になったディーターが、こともあろうにコナー親子の隣に越してきたというわけだ。偶然とはいえ出来過ぎ?(^^;

しかし、この頼りになる大男ディーターは、ターミネーターを思い出させるものの、母親サラの心を捉え、ディーターもまたサラを愛するようになって、コナー親子と行動を共にする決意をする。頭脳明晰、経験豊富、お金持ちで力持ち、これほど頼りになる相手はいないだろう。しかもシュワちゃんそっくりなわけだし。ていうか、シュワちゃん???

さて、「未来からの潜入者」でサイバーダイン社を破壊したと思ったコナー親子だが、実はバックアップ組織がまだ残っており、それとはべつに、政府がスカイネット計画を進めるために、極秘裏に南極に基地を作っていたということを知る。そこで南極へと出向くわけだが、ここでディーター危機一髪!ここで生身のシュワちゃん(?)は一巻の終わりなのか!と思ってがっくりくるのだが、そこはさすが「頼りになる奴」というわけで、そう簡単には消えない。

しかしここでは、ジョンの初恋が悲しい結果として終わる。サリーナ・バーンズのこにくらしいクローンが、情け容赦もなく恋人のウェンディに襲いかかるのだ。これによってジョンは心神喪失状態。しかし、未来の指導者として、自分の父親を過去に送って命を絶つという過酷な使命をやり遂げる下地をここで学ぶのだ。

2004年02月15日(日)
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 新版 シルマリルの物語/J.R.R.トールキン

内容(「MARC」データベースより)
唯一なる神「エル」の天地創造、大宝玉「シルマリル」をめぐる争い、不死のエルフ族と有限の命を持つ人間の創世記のドラマ。「指輪物語」に先立つ壮大な神話的世界。上下巻をまとめ、著者トールキンの手紙も収録した新版。


<トールキンの手紙>
新版になってだいぶ改訂されたのだが、そのひとつに、トールキンが出版社に宛てた手紙が載せられた。当初トールキンは、『シルマリルの物語』と『指輪物語』を併せて、長大な一大サガとして出版して欲しいというのが希望だったようだが、たしかに『指輪物語』の最後には、自分であえて言うなら、これは短すぎるとあったから、『指輪物語』を単独でしゅっぱんするのは、やはり不本意だったのかもしれない。しかし、『シルマリルの物語』のほうは、まるで歴史そのものだから、読むのも大変だ。読者にとっては、これで良かったとも思えるのだが・・・。


<神話的物語>
「はじめにエルありき・・・」とはじまるこの物語は、旧約聖書でも読んでいるかのような感じ。または、ギリシア・ローマ神話のような感じ。耳慣れない(見慣れない)固有名詞がたくさん出てくるので、それをちゃんと関連づけて理解していくのが大変。しかし、これは他でもないこの地球のことを書いているのであって、架空の話ではあるが、舞台は我々の住んでいる地球そのものなのである。我々が知っている文明のほかに、「中つ国」という文明があったのだと考えるといいかもしれない。


<力の指輪と第三紀のこと>
『指輪物語』を読んでいる人、または映画を観た人は、最後のこの章から読んでもいい。『指輪物語』の中でも語られている、力の指輪の成り立ちと持ち主の推移がさらに詳細に述べられている。特に隠されていたエルフが持っているとされる三つの指輪に関しては、『指輪物語』には書かれていないことも述べられている。また、なぜアラゴルンが王になるのかといったことも、この本全体を通して、その血筋がいかに正当なものであるのかが語られている。代々のデュネダインたちの寿命がなぜ長いのかなど、興味深い謎も、これを読むことで解決される。




2004年02月14日(土)
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 ドッグヴィル(B+)/ラース・フォン・トリアー

カバーより
ロッキー山脈の麓、孤立した町ドッグヴィル。わずか22人が貧しい生活を送っている。ある日、ギャングに追われる若い女グレースが町に迷い込み、医師の息子トムのはからいで彼女をかくまうことに。不審がる住人たちがそのために出した条件とは「2週間でグレースが町の全員に気に入られること」というものだった。


これはあっという間に読み終えた。表紙にニコール・キッドマンの顔がついているやつ。この人、きつい目といい、薄い唇といい、意地悪なんだろうなあ、性格悪そうだよと前々から思っていた。

『ドッグヴィル』は、そのニコール・キッドマン主演で、昨年映画化された。冒頭は、なんでキッドマンなんだろう?と思っていたが、最後に、なるほどこれはニコール・キッドマンにぴったりだ!と思った。この人やっぱり恐ろしい。

主人公のグレースの得体が知れないところが気になって、どんどん読み進んでしまうのだが、「2週間で町の全員に気に入られること」というある種ものすごくうっとうしい条件に、なぜグレースが従ったのか、体を張ってまでその条件に従う理由は何なのか?よほどの犯罪を犯したのだろうと思っていると、最後にとんでもない事実が判明する。

しかし、グレースが純粋にこの小さな町を好きになったとは思えないのだが、一応表面上そういうことになっている。小さな町にとって、よそ者はどこでも疎外されるものだが、それにしてもこの町の人間は、誰一人まともな人はいないと読みながら感じる。けれども、ある意味で世間知らずな娘だったグレースは、そこで彼女の価値観を狂わされたのだろう。最後にその価値観を修正するときがくるのだが、町の人々にとっては、わがまま娘につきあって、大損したという感じだ。どっちもどっちの感じだが、妙に後味が悪い。

しかし、ノベライゼーションではなく、ちゃんとした小説でじっくり書き込んでくれたら、もっと面白くなるのにと残念でもある。なんだか腑に落ちない、あまり気持ちの良くない話なのだが、だからこそ、人物描写などがもっと丁寧に書き込んであったら、それなりに面白いものになっただろうにと思う。

それに、最後の展開はキッドマンにぴったりだとは思うが、映画ではもっと無垢な感じの女優のほうが意外性があってよかったかも。キッドマンでは、何かあるぞと初めから疑ってしまうから、あっと驚く度合いも少ない。本のほうもキッドマンの顔を思い浮かべずに読んだほうが、面白くなると思う。


2004年02月13日(金)
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 Bootleg/Alex Shearer

boot・leg
━━ v., n., a. (酒類を)密売[密輸]する; 密売[密輸]品 ((酒類)); (レコードなどの)海賊盤; 密売[密輸]の.
boot・legger n. 密売[密輸]者

ある日、チョコレートをはじめとして、お菓子や砂糖や蜂蜜などなど、甘いものは一切禁止にするという政府からの命令が出た。これに反したものは厳罰に処すと。

お菓子が大好きな子供たちは、持っているお菓子を一気に口に詰め込む。でないと、チョコレート刑事(デカ?)に捕らえられ、大人なら刑務所、子供なら、どことも知れぬ再教育を受ける場所へと送られてしまうのだ。町の中にはいたるところにパトロールのバンが見回りをしており、たとえほんのカケラですら、持っていたら許されない。

なんと大げさな!というか、なぜお菓子や甘いものが禁止になってしまったんだろう?虫歯予防?実のところ、その理由がわからないのだ。とにかく「Good For You」党という政党になってから、そういうことになってしまったのだ。それからというもの、挨拶はこう言わなきゃいけない。

「Crunchy apples to you, comorades」
「Juicy oranges to you, citizen」
「Have a banana!」

これが正式な「Good For You」党の挨拶なのだ。(バカバカしい〜!)
他にテレビを見るには免許がいる。毎年更新しなければならないとか・・・。

甘いものが好きでない私は、お菓子が禁止されてもあまり弊害はないだろうと思うのだが、口の中にチョコレートを詰め込む場面は、逆に気持ちが悪くなった。それに、いろんなお菓子の名前が列挙されているのも、読んでるだけで太りそうだと思ったり。。。(^^;

「Bootleg」とは、つまりチョコレート禁止の法律をおかして、スマッジャーとハントリーの二人の少年が、チョコレートを密造するという話で、結局チョコレートがふんだんに出てくる。チョコレートが嫌いな私は、読んでいて気持ちが悪くなってしまって、なかなか先に進まない。

チョコレートなんか禁止になったって、チョコレートが嫌いな私には何の弊害もないので、法を犯して密造までする彼らの気持ちが全く理解できないため、食べられないなんてかわいそう!とは思えず、チョコレートなんてどうだっていいじゃないという感じになっている。

結局スマッジャーやハントリーほか、町の人々の革命(?)のおかげで、チョコ禁止法令はなくなり、それに協力したホームレスのブレイズ氏が「Chocolate and Freedom」という政党を結成し、首相にまでなって、めでたくチョコレートをおおっぴらに食べられるようになったというお話。私にとっては、「Chocolate and Freedom」なんて政党は悪夢なんだけど。。。

2004年02月12日(木)
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 新ターミネーター2─未来からの潜入者(上・下)/S.M.スターリング

内容(「BOOK」データベースより)
サイバーダイン爆破から6年。T‐1000と死闘を繰り広げ人類の未来を救ったサラ・コナーと息子ジョンは、その後アメリカ政府にテロリストとして追われ、現在は南米パラグアイでひっそりと逃亡生活を送っていた。名前もサラからスーザンへと変え、運送会社を営む日々は平穏に思えた。が、ある日あのT‐800そっくりの男が隣家に越してくる。一方、カリフォルニアではマイルズの研究が再開されていた。そう、すべてが破壊されたわけではなかったのだ。そしてスカイネットはジョン抹殺のため、未来からさらなる刺客を送り込んできた。I‐950、遺伝子操作を施され、生後すぐにサイボーグ化された女ターミネーター、サリーナである。果たしてサラとジョンはふたたび世界を守ることができるのか?そして謎の隣人の正体とは…。

内容(「BOOK」データベースより)
未来のスカイネットから送り込まれた刺客サリーナ(I‐950)は、自宅のラボで製造したT‐101型ターミネーターをパラグアイのコナー邸に送り込む。この深夜の奇襲攻撃からサラを救ったのはあのT‐800そっくりの隣人ディーターだった。極秘対テロ組織の元工作員であるディーターはスーザンの正体がサラであることを見破っていたが、ターミネーターの存在を目の当たりにし、コナー親子とともに戦うことを決意する。一方、サラを兄の敵と思い込むマイルズの弟ジョーダンは、サリーナのアシスタントとしてサイバーダイン社に就職、サラへの復讐の想いを募らせる。今度こそデータのすべてを消去するべく、カリフォルニアのサイバーダイン本社に乗り込むサラ、ジョン、ディーター、迎え撃つサリーナとターミネーターは!?いま新たなる最終戦争が始まる…。



映画「T2」で、溶鉱炉に沈んでいくターミネーター(T-800)に涙していた私だが、「新ターミネーター2」は、その直後から話が始まる。それに、映画を観た人は覚えているだろうが、液体金属ターミネーター(T-1000)にもぎ取られたT-800の腕は、あれからどうなったのか・・・。そう、その残った腕と、ダイソンの研究のバックアップコピーがあったために、コナー親子の願いも空しく、「T3」へと話が繋がり、ジャッジメント・デイはやってきてしまうわけだ。

「T2」から「T3」まで12年ものブランクがあったわけだから、いろいろなストーリーが考えられてもいいわけだが、これまでそんなことを考えてみたこともなかった。このブランクを埋める話が「新ターミネーター2」になるわけだけれど、いろいろ考えれば、話はどうとでも作れるものだなあと感心してしまった。

最も興味深いのは、パラグアイで逃亡生活を送っているコナー親子の隣に越してきた、ディーターというオーストリア人のこと。これがT-800にそっくりだというからおかしい。しかもこちらはターミネーターには何の関係もないただの人間。だったら、なんで、どうして、T-800はディーターにそっくりで、しかもドイツ語訛りの英語を話すのか?その大きな謎が、なかなか解明されないため、どんどん先へ先へと読み進めてしまう。もう単純に面白い!

さて、その「どうして、T-800はディーターにそっくりで、しかもドイツ語訛りの英語を話すのか?」という謎は、次の『迫りくる嵐』に持ち越されるようだが、ともあれ、このターミネーターにそっくりなオーストリア人は、コナー親子に好意を寄せ、彼らの味方となる。というわけで、映像的にはあちらにもこちらにもシュワちゃんがいる!といった状態になるわけだ。この部分が映画にならないのは、シュワちゃんファンとしては非常に残念。

結局、コナー親子とディーターは、マイルズ・ダイソンの弟であるジョーダンを巻き込んで、サイバーダイン社を破壊するのだが、母親のサラ・コナーは、サリーナ(I-950)との戦いで瀕死の重症を負ってしまう。サラを残してその場を逃走するジョンとディーター。そして人知れず残されたサリーナのクローンはどうなるのか・・・?

2004年02月10日(火)
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 指輪物語<追補編>/J.R.R.トールキン

内容(「BOOK」データベースより)
恐ろしい闇の力を秘める黄金の指輪をめぐり、小さいホビツト族や魔法使い、妖精族たちの果てしない冒険と遍歴が始まる。数々の出会いと別れ、愛と裏切り、哀切な死。全てを呑み込み、空前の指輪大戦争へ―。世界中のヤングを熱狂させた、不滅の傑作ファンタジー。トールキン生誕100年記念出版。


映画「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」を観て、また原作を読みたくなった。壮大な物語だから、何度読んでも覚えきれない事柄がたくさんある。しかしトールキン自身が言っているように、この物語は実際には短すぎるのだ。そのため、『追補編』やら『シルマリルリオン』やら、本編を補う物語を読まなくてはならない。(原書には、「The Return of the King」の巻末に、「Appendix」(付録)として、『追補編』にあたる部分がついている)

本編以外を無視しても、それはそれで十分楽しめるのだが、一度読み出すと、あれもこれもとなってくる。はっきり言って、それらはあまり読みやすいものではないと思うが、読み始めてしまうと、本編にさらに肉付けが加わって、ただでさえ深い世界が、さらにさらに深くなってくる。

一番驚く(というか、呆れるというか・・・)のは、今に知ったことではないけれども、エルフ語をはじめ、いくつもの言語をトールキンが作ってしまったことだ。私たちがオリジナルであると認識している英語で書かれた本は、中つ国のいろいろな言葉を、「英語に翻訳したもの」ということなのだ。翻訳にあたって、ああしたこうしたということも書かれている。そこまでいくと、もう単なる物語ではなくなって、実際にこういう世界があったのだと思えてくるのがすごい。本当にすごい!

もし物語が分かりにくいとするなら、この言語の部分だろうと思う。つまり、西方の共通語ではこう言うが、エルフ語ではこう言うといったように、同じものを指す場合でも、違う言い方がいくつもあるからだ。そこで迷ったり、全然別のものと勘違いしたりすることも多いだろう。

けれども現在の世界のことを考えても、たったひとつの言語しか使われていないわけではないから、「中つ国」という世界に、いくつもの異なった言語があるのは当然と言えば当然だ。そこまで考えて物語を作った作家は、トールキンをおいて他にはいないだろう。読めば読むほど偉大さが増す作家である。トールキンの世界は、生半可なファンタジーではないと思い知る。

ところで『追補編』を読んでわかったのだが、アルウェンは、アラゴルンよりも2690歳も年上だったのだと知って、びっくり!エルフだから年上だろうとは思っていたが、そんなに離れていたとはね!ちなみに指輪戦争時、アラゴルンは86歳だった。

さらにエルフが隠していた3つの指輪は、フロドとビルボを伴って灰色港から船で中つ国を去るときには、エルロンドが「青い石のヴィルヤ」、ガラドリエルが「白い石のネンヤ」、ガンダルフが「赤い石のナルヤ」を持っていたが、そもそもエルロンドのヴィルヤはギル・ガラドが、ガンダルフのナルヤは船大工のキアダンが持っていたものを譲り受けた。

また、映画ではそれが中つ国から出る最後の船だということになっているが、原作ではその後も船は出る。アラゴルンが没したあと、レゴラスとギムリも船に乗って中つ国を去る。ドワーフを伴って行くことには、おそらくガラドリエルの助力があったものと思われる。

などなど、本編だけでは知りえなかった事実(?)が、『追補編』や『シルマリルの物語』『終わらざりし物語』などでわかる。人物、場所、出来事などがたくさん出てきて、まるで歴史書みたいで読むのが大変だと思っていたが、読んでおくとさらに深く楽しめることがわかった。

2004年02月08日(日)
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 少年時代 (上・下)/ロバート・R・マキャモン

『少年時代』(上)/ロバート・R・マキャモン (著), Robert R. McCammon (原著), 二宮 磬 (翻訳)
文庫: 425 p ; サイズ(cm): 148 x 105
出版社: 文芸春秋 ; ISBN: 4167254360 ; 上 巻 (1999/02)
内容(「BOOK」データベースより)
十二歳のあの頃、世界は魔法に満ちていた―1964年、アメリカ南部の小さな町。そこで暮らす少年コーリーが、ある朝殺人事件を目撃したことから始まる冒険の数々。誰もが経験しながらも、大人になって忘れてしまった少年時代のきらめく日々を、みずみずしいノスタルジーで描く成長小説の傑作。日本冒険小説協会大賞受賞作。

『少年時代』(下)/ロバート・R・マキャモン (著), Robert R. McCammon (原著), 二宮 磬 (翻訳)
文庫: 494 p ; サイズ(cm): 148 x 105
出版社: 文芸春秋 ; ISBN: 4167254379 ; 下 巻 (1999/02)
内容(「BOOK」データベースより)
初恋、けんか、怪獣に幽霊カー。少年時代は毎日が魔法の連続であり、すべてが輝いて見えた。しかし、そんな日々に影を落とす未解決の殺人事件。不思議な力を持つ自転車を駆って、謎に挑戦するコーリーだが、犯人は意外なところに…?もう一度少年の頃のあの魔法を呼び戻すために読みたい60年代のトム・ソーヤーの物語。



マキャモンの『少年時代』を一気に読了。下巻は丸1日かからなかった。つまり面白かった!ということ。個人的には、主人公コーリーのお父さんが、古き良き時代の尊敬すべき父親という感じで好き。

マキャモンは初めて読むので、どういう作風か全然未知のものだったのだが、読んでいるうちに、「ああ、これはブラッドベリだ」と思った。その証拠に、巻末の謝辞には、作品を書くにあたって影響があったものとして、レイ・ブラッドベリの名前があがっているし、主人公のコーリーが、クリスマスにブラッドベリの『太陽の黄金の林檎』のペーパーバックをもらい、夢中で読みふけっている場面もある。ブラッドベリほどファンタジックではないが、あの世界にかなり近いものがあると思った。ましてや少年の話であるし、特に夏の最初の日、いきなり翼が生えて、空を飛び回るなんてところは、まさにブラッドベリだ。

また、物語中にはたくさんのコミックが出てくるが、そういう影響もかなり感じる。ということは、マイケル・シェイボンやニール・ゲイマンなどにもどこか似通ったところがあるということかも。

とりあえず読んでみた印象は、マキャモンは不気味なところもあるけれど、人間の基本的な心の部分で、非常に美しいものを描いているように感じた。それに読者を物語の中に引きずりこむ、巧みな文章だと思う。翻訳もひっかかるところがなくて読みやすく、会話部分に全く違和感がなくとても自然だったし(少年ものは会話部分でがっかりすることが多い)、登場する少年たちが妙に子どもっぽくなく(馬鹿騒ぎしない)、変に悪ぶってもいないといったところもいい。ハーパー・リーの『アラバマ物語』と一緒で、主人公は少年だが、語り手(主人公)がすでに大人になって、少年の日々を回想しているというところが、冷静で「子どもっぽくない」文章になっているのだと思う。

感想はたくさんありすぎて、何をどう書いたらいいのかまとまらないのだが、マキャモンはお気に入りに入れてもいい作家だと思う。気にいった作家の作品は、どこが気に入ったのかを説明するのが難しい。細かく例をあげて書いていたら、それこそきりがなくなるし、逆に一言で説明することも不可能に近い。読んでいて、ここは絶対嫌だという部分もないわけではないが(そこが南部的な不気味さなのかもしれないが)、全体として見た場合には、感覚的にはまったとしか言いようがない。

これが短編の場合、嫌な部分が目に付いてしまうと、それがその話全体に影響してしまうのだが(雰囲気を挽回するだけの量がない)、長編なら、それを全体の雰囲気がカバーできるというところが、短編よりも長編のほうが好きな理由かもしれない。

例えば、この中に出てくる「ザ・デーモン」という不気味な女の子のエピソードが、それぞれ短編であったなら・・・これは救われないし、書いた作家も好きにはならないだろう。しかし、いくつかのエピソードが重なって、こんな子でも同情の余地はあるんだと思えるようになるのが長編のいいところだと思う。

それにしても、本当に南部の話はハズレがない。それも特に「アラバマ」を舞台にしたもの。これはどうしてなのだろう?単に私の好みに合っているというだけかもしれないが。。。

2004年02月05日(木)
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