読書の日記 --- READING DIARY
 ⇒読書日記BLOGへ
  schazzie @ SCHAZZIE CLUB



 The Autobiography of Santa Claus/Jeff Guinn (つづき)

チャールズ・ディケンズ
アーヴィングとムーアのおかげで、アメリカではクリスマスがポピュラーになったが、ニコラスはクロムウェルによってダメにされてしまった、イギリスのクリスマスのことを心配していた。そこでアーヴィングは、チャールズ・ディケンズをニコラスに紹介した。ニコラスは早速イギリスに渡り、ディケンズを訪問する。

ディケンズは何度かクリスマスの話を書いたことがあるのだが、今ひとつだった。相談を受けたニコラスは、あまたはこの地球上で最も優れた作家だと思うと前置きしたあとで、ディケンズのクリスマス・ストーリー「The Goblins Who Stole a Sexton」について感想を述べた。一緒にいたアーサーは、「何を差し置いても、すぐにFather Christmasの物語を書き始めるべきだ」と力説した。

それから間もなく、ディケンズは『Christmas Carol』を書き上げた。それを読んだニコラスたちは大変感激し、アーサーに至っては「これまでに印刷されたものの中で最も素晴らしいクリスマス・ストーリーである」と太鼓判を押したが、ニコラスの妻レイラが登場人物の「Little Fred」という名前はよくないとし、「Tiny Tim」ではどうかと言ったため、ディケンズは早速原稿を手直しした。原稿はすぐに印刷され、1843年のクリスマス前に、瞬く間に評判となった。1844年にはイギリス中が、再びクリスマスを祝う気分になっていた。

Yes, Virginia
アメリカはどんどん近代国家になっていったが、その影響で、「サンタクロースは科学者が作ったもの」という人々も出てきた。ある年、ニューヨークに住むヴァージニア・オハンロンという8歳の少女が、「ニューヨーク・サン」誌のQ&Aコーナーに手紙を出した。

「私は8歳です。私の友達の中には、サンタクロースなどいないと言う人もいます。パパは「お日様の下で見えるならいるんだろう」と言います。どうか本当のことを教えてください。サンタクロースはいるんですか?」

これを読んだ記者のチャーチは、1897年9月21日の新聞に回答を載せた。
「Yes, Virginia, there is a Santa Claus !」
サンタクロースがいなかったら、世界はなんて寂しいことだろう。誰もサンタクロースを見たことはないが、サンタクロースがいないという証拠もない。サンタクロースは今も生きているし、永遠に生きている。今から10の1万倍の年月がたっても、サンタクロースは子どもたちの心に喜びを与え続けるだろう・・・と。サン誌ではその後22年間、クリスマスシーズンになると、このQ&Aを掲載した。

ニコラスは、原則として子どもにしかプレゼントを届けなかったが、例外として、サン誌の記者チャーチにプレゼントを届けたことがある。1897年のクリスマスの朝、チャーチは暖炉の前に吊るした靴下に入っているプレゼントを見つけた。それは子どもの頃にもらったのと同じビー玉だった。さらに靴下の中には、サンタクロースからのメモもあった。

「Thank you. Love, Santa」

こうして、新聞に掲載されたヴァージニアの手紙とチャーチ記者の返答によって、多くの子どもたちが再びサンタクロースを信じるようになった。

北極移住計画

この頃、レイラ、ベンジャミン・フランクリン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、フェリックスは、世界中に散らばっている仲間が、人知れず秘密裏に一緒に働けないものかと頭を悩ませていた。ダ・ヴィンチは、トーマス・ナストのサンタクロースの漫画に、「サンタは北極に住んでいる」とあったのを思い出し、北極なら完璧だと思うと述べた。

1800年代の後半、北極はまだ大変神秘的な場所だった。誰もがそこにあるのは知っていたが、誰も行ったことがなかったからだ。サンタが北極に住んでいるというナストの漫画はジョークだったが、ダ・ヴィンチは本気だった。北極なら秘密が守れるし、人に邪魔されることもない。何より、皆が一緒に住める広大な面積がある。だが雪はどうする?氷は???

そこでダ・ヴィンチは、初めて北極に足を踏み入れたロバート・パーリーに会いに行った。パーリーは、飛行機を発明したオーヴィルとウィルバーのライト兄弟に助力を求めた。

セオドア・ルーズベルト
1901年、セオドア・ルーズベルトがアメリカの大統領になった。この時ニコラスは、長い間考えていたプランを実行することを決意した。知性と想像力の持ち主であるルーズベルトに、他の国のリーダーだちを紹介してもらいたいということである。ルーズベルトはサンタクロースの訪問を大変喜び、自分の名前のついたおもちゃを作って欲しいと頼んだ。ニコラスは願いを聞き入れ、ルーズベルトのお気に入りの動物のおもちゃを作ることにした。1903年には、最も人気のあるおもちゃとなった「テディ・ベア」である。

ルーズベルトは喜んでニコラスの頼みを聞き入れ、サンタのおもちゃ工場の本部を、ホワイト・ハウスに置いたらどうかとまで言った。しかしニコラスは、サンタクロースは世界中の子どもたちに公平でなければならないから、ひとつの国に属するのはよくないと辞退する。

ルーズベルトの助力で、再びロバート・パーリーに会ったニコラスたちは、北極に住むことを真剣に検討し始めた。外側を守るのは雪。近い将来、飛行機がその上を行き来しても、そこに誰かが住んでいるなどとは思わないだろうから。

ライト兄弟
1903年12月27日、ライト兄弟はキティ・ホークで初飛行をし、世界的に有名になった。ニコラスは、自分はすでに毎年クリスマスシーズンには空を飛んでいるのに・・・と思って、それほど感激もしなかったが、飛行機と一緒に写っているライト兄弟の写真を良く見ると、うしろに背の高い痩せた男が写っているのをみつけるだろう。誰あろう、それがレオナルド・ダ・ヴィンチである。

北極に住むための準備
1909年の初め、ダ・ヴィンチは北極に建てる家の模型を完成させた。時よろしく、ロバート・パーリーが北極点を目指すというので、ダ・ヴィンチ、スコーカン、アーサー、アッティラ、レイラ、そしてニコラスが一緒に下見に行った。パーリーの冒険が成功した数ヵ月後、フレデリック・クックが、自分が先に北極点に到達したと言い出し、ひと騒動が起こった。

その後数年間、ダ・ヴィンチたちは北極で準備を進め、ついに1913年5月、ニコラスたちはトナカイで北極に飛んだ。そして、北極がサンタクロースの住むところとなったのである。この年、大統領を退いたセオドア・ルーズベルトは、せひ仲間に入れて欲しいとニコラスに頼み込んでいた。

第一次世界大戦が終わった1919年、ニコラスたちはついに、セオドア・ルーズベルトを北極に迎えることを承認する。この時ルーズベルトは、戦争を終結させたとして、ノーベル平和賞を受賞した。

1927年、チャールズ・リンドバーグが、ニューヨークとパリの間をノンストップで飛行した。所要時間は約33時間余りであったが、ニコラスはひそかに、自分のトナカイのほうが速いと思っていた。

コカ・コーラ社のサンタクロース
コカ・コーラ社では、ハンス・サンドブロムというスウェーデン系アメリカ人の画家を雇って、クリスマスシリーズの広告にサンタクロースの絵を描かせた。しかし最初、ハンスはサンタをエルフサイズで描いていたので、それに不満を抱いたニコラスは、じかにハンスに会いに行き、ハンスの前でわざわざポーズをとった。以来35年間、ハンスはサンタクロースを描き続けた。しかしサンタクロースの正体は絶対に秘密で、たとえニコラスがハンスのスタジオでポーズをとっているところに人が来ても、「退職したサラリーマンである」と紹介された。

プレゼントをもらえるのはいつまで?
この頃、ニコラスたちの仲間になったビル・ピケットが、「それぞれの子どもたちがサンタクロースからプレゼントをもらうのをいつやめるか、それはどううやって決めるのか」という質問をした。ニコラスは、「私が決めるわけじゃない。子どもたちが自分で決めるのだ」と答えた。

もうひとつ、「もし、いつか世界中の子どもたちがクリスマスにサンタクロースがプレゼントを届けてくれるのを望まなくなったらどうするのか」という質問には、こう答えた。「そんなことは起こらない。そうならないことを願っているよ」

2003年12月31日(水)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 The Autobiography of Santa Claus/Jeff Guinn

サンタクロースの生涯が、歴史的事実とからませて描かれている。自伝とあるように、語り手はサンタクロース自身。

まずサンタクロースは、西暦280年にリシアという国のパタラという町で生まれた。キリストに遅れること約3世紀である。9歳の時に相次いで両親が亡くなり、フィリップという神父を心の頼りに生きた。両親は裕福だったようで、残された財産で十分暮らしていけたようだ。

さて最初のエピソードは、クリスマスに靴下の中にプレゼントを入れるようになった、そもそもの出来事。知り合いの貧しい三姉妹が、お金がないために結婚できないのを知って気の毒に思い、夜中にこっそり忍びこみ、ちょうど寝室にかかっていたストッキングに、それぞれお金を入れてあげたサンタクロース(もちろん、その時にはこんな名前ではないが)。それが始まり。。。

ニコラス(サンタクロース)が、だんだん成長していき、心の頼りであったフィリップ神父も亡くなってしまう。神父のあとをついで聖職者になったニコラスだが、貧しい人や困っている人に密かにプレゼントを贈るという彼の善行は、徐々に範囲を広げていき、赤い服(聖職者のマントが赤い色で、白の毛皮の縁取りがある)の「gift-giver」として知れ渡るようになる。つまり、サンタクロースはなぜ赤い服を着ているのか?という疑問の答えだ。

しかしこうした本筋の周囲に、実際の史実が書かれているので、歴史の教科書を読んでいるみたいな気分になる。それをなくすれば、もっと簡潔にサンタクロースの生涯がわかるのに・・・。もっとも、歴史が織り交ぜてあるからいいのだということなんだろうが、ファンタジーとしてのサンタクロースの生涯の話を期待していたので、ちょっと頭が痛いと思ったが、読み進むうちにどんどん面白くなっていった。実はなかなか奇想天外な物語だったのである。

ちなみにニコラスの時間の進み方は、一般の人の進み方と違っていて、そのため、今でも長生きしているということらしい。(^^;

キリストの誕生日
キリストの誕生日は、最初多くの人が1月6日を、他の人は12月25日を誕生日としていた。実際、キリストの誕生日はいつなのか、定かではなかった。またその当時、その日は「イエスの誕生を祝う日」であって、まだ「クリスマス」という名前ではなかった。もちろん「サンタクロース」も同様。彼は何世紀もの間、ただニコラスと呼ばれていた。

キリストの誕生日は、紀元350年、当時のローマ法王ジュリアスによって、正式に12月25日とされたが、学者の研究によれば、キリストが生まれたのは春であるとされている。それでもいくつかの国では、12月6日の聖ニコラスの日をキリストの誕生日としているし、またいくつかの国では、東方から来た三賢者がキリストの誕生を祝って贈り物をしたのは1月6日であるとされている。

古代ローマのカレンダー
古代のローマのカレンダーは、1年は10ヶ月、304日であった。Martius、Aprilis、Maius、Junius、Quintilis、Sextilis、September、October、November、Decemberである。最後の5つはローマの言葉で、5、6、7、8、9、10という意味。後にロミュラスの子孫により、JanuaryとFebruaryが加えられ、1年は355日になった。

その後ジュリアス・シーザーにより、QuintilisはJuly、Sextilisはシーザー・オーガスタスの名をとって、Augustになった。1582年、法王グレゴリーは、4年に一度、2月に1日加えることに決めた。

ニコラスの魔法
ニコラスは贈り物を届けるのに、空を飛び、風に姿を変えて家の中に入ると言われていたが、実際何も特別なことはしていなかった。しかも移動には、ごく普通のラバを使っていた。

ニコラスがコンスタンチノープルに向かっていた63歳の時、魔法は起こった。普通の人間が1日に20マイル(約32キロ)歩くところを、ニコラスは40〜50マイル(約64キロ〜81キロ)も歩いており、しかもほとんど眠っていなかったにも関わらず、全く疲れを感じていなかった。通常なら2週間はかかる道のりを、たった5日で歩いてしまったのだ。これがニコラスの最初の魔法だった。時間だけでなく、距離の感覚も普通の人間と違ってきたのだ。

旅の道連れ
ローマでフェリックスという相棒をみつけ、一緒に旅をするようになるが、フェリックスもまた年をとらなくなった。その後、同じく孤児であったレイラと恋におち、間もなくニコラスは結婚する。そして3人で「gift-giving」を行うようになった。

453年、ニコラス173歳の時、フン族のアッティラに会う。彼と彼の妻ドロシアもまた、ニコラスたちの道連れとなった。

ニコラスがブリテンに入ったとき、ブリトン人とサクソン人の戦いは40年にも及んでいた。496年、アーサーがブリトン人の王となり、サクソン人から国を守っていたが、500年、アーサーが手ひどい傷を受けた時に、ニコラスは手当てをする。怪我が治癒したアーサーも加わった一行は、アイルランドに渡り、聖パトリックに会う。

次の6世紀の間、学者たちはこれを「中世」と呼んでいるが、通称は「暗黒の時代」と呼ばれていた。570年、メッカにモハメッドが生まれ、632年に亡くなるまで、モハメッドはイスラムに新しい宗教を植えつけた。

アーサー王の伝説が人々の口にのぼり、魔法の城キャメロット、円卓の騎士、宮廷の魔法使いマーリンなどの話が、さかんに歌われるようになった。そうしたアーサー王の物語は、その後も長く続いた。「キャメロットなどという素晴らしい城には住んだことがない」とアーサーは言う。

その頃ニコラスは、聖人となり、「セント・ニコラス」(のちのサンタクロース)と呼ばれるようになる。ヨーロッパとブリテンで、529年に12月25日が国民の祝日となって以来、家の前に常緑樹の葉を飾り、丸太の一部(Yule)を暖炉で燃やす習慣ができ、それが今日でも続いている。

おもちゃ
1194年頃、おもちゃはどの子どもにも与えられているものではなかったので、ニコラスたちは、おもちゃをプレゼントすることにした。

クリスマスを変えた男
クリスマスを変えた男がいる。アッシジの聖フランシスだ。1182年、彼はジョバンニという裕福なイタリアの商人だったが、19歳の時、ペルシャ軍に捕まり、1203年まで投獄されていた。出獄すると、彼はすっかり人が変わっており、1205年には、名前もフランシスと変えた。

世界のあり方について考えていたフランシスは、裕福な暮らしを捨て、ボロを身にまとい、はるか遠くの土地まで彼のメッセージを伝えて歩いた。フランシスは自国イタリアで、ラテン語のゴスペルが、無学な一般の人には歌えないのに気づき、自らイタリア語で歌うようにしたところ、皆から非常に慕われるようになった。

1223年、ニコラスたちはフランシスに会う。フランシスの一般の人にもわかるような聖歌(賛美歌)や説教のおかげで、1308年以来、人々は12月25日の教会のサービスを受けるようになり、これを「キリストのミサ」と呼ぶようになった。「Christes Maesse」または「Christ's Mass」、これが「Christmas」となったのである。この後フランシスは厩でのキリスト誕生の劇と、クリスマス・キャロルを歌うことを始める。そしてフランシスもニコラスの一行に加わり、のちに聖フランシスとなった。

<フランシスの言葉>
「世の中には辛いことが多いが、贈り物を受け取るということは、誰かがあなたがたを気づかっているということです。あなたがたはひとりぼっちではないのです」

ルネッサンス
1200年に、中国で火薬が発明されたが、ヨーロッパは1200年代の後半になるまで中国との行き来がなかったため、1270年になって初めて、火薬というものを知った。西洋に火薬が伝わるには、長い時間がかかったのである。

アーサーとアッティラは、火薬に大変興味を持ったが、目にするまでには、さらに25年の年月が必要だった。ニコラスたちはヴェニスでマルコ・ポーロに会い、爆竹が破裂するのを見せられて、大層驚いた。その後マルコ・ポーロはジェノバの牢屋で3年を過ごし、その間に書いた『東方見聞録』は、多くの人に読まれ、続く500年の間、中国に関する情報をヨーロッパ人に伝え続けた。火薬はアッティラが心配した通り戦争に用いられ、1304年、アラブ人が竹筒に火薬を詰めて、敵に投げ込んだ。

そのほかの発明は歓迎すべきものだった。眼鏡はイタリアで1286年に登場。ニコラスとフェリックスは、大変重宝した。

1300年頃、ルネッサンス運動が始まり、芸術が盛んになるが、戦争は続き、病気も広まり、多くの人が食糧不足で苦しんだ。1314年〜17年の間に大飢饉が襲った。イギリス、アイルランド、ポーランドは特に打撃が大きかった。1347年には恐ろしい黒死病(またはペスト)が広まり、ヨーロッパの人々の3人に1人は、この病気で死んだ。

1350年、新たな発明(?)が広まった。それはニコラスたちの伝説の一部となった。ある家で、暖炉の前に吊るされていた靴下にプレゼントを入れておいたところ、以来、どの家にも靴下が吊るされるようになった。

世界各地へ
1400年頃まで、ニコラスたち7人のグループは、どこでも一緒に旅をしていた。彼らはとても親しくなっていたが、一度にたくさんの場所に行けないという不満がつのってきた。そこでアーサーとアッティラが、グループを分けようと提案した。旅をしてプレゼントを配るグループと、1箇所に留まっておもちゃを作るグループだ。結局、ニコラス、フランシス、フェリックス、レイラが旅をし、アーサーはイギリスで、アッティラとドロシアはドイツでおもちゃを作ることになった。

コロンブス
旅の途中でクリストファー・コロンブスに会ったニコラスたちは、女王の命によって、フランシスをコロンブスの同行者として航海に出すことになる。1942年8月3日、ニコラスはフランシスに別れを告げた。12月24日に、彼らの乗ったサンタ・マリア号が難破したが、コロンブスもフランシスも無事であった。1493年3月帰国したコロンブスは、その後3度の航海の果てに、失意のうちに貧しく一生を終えた。フランシスは航海に戻ることなく、再びニコラスと合流した。

特別な日
新たにおもちゃ作りの専門家、ウィリー・スコーカンを加えた一行だが、1500年まで、「gift-giver」はニコラスたちではなく「聖ニコラス」であるという伝説になっていた。夜寝ている間に、セント・ニコラスが来てくれますようにと願う子どもたちを失望させまいと、毎年特別な日だけに「gift-giving」をおこなってはどうかとレイラが提案する。それ以外はおもちゃ作りに専念しようと。

最初のうちは、ニコラスが死んで(死んだとされて)「聖ニコラスの日」とされた12月6日に、プレゼントを配ることになった。ニコラスの仲間とそのヘルパーたちは、全員が白いふちどりの赤いローブを着て、ニコラスのような白いひげをつけた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ
1519年に、イタリアから新しい仲間がやってきた。レオナルド・ダ・ヴィンチである。彼は世界で最も有名な画家であったが、かねてから交流のあったフランシスに、「もう疲れた」ともらす。そうしてダ・ヴィンチは、ロンドンのアーサーのおもちゃ工場にやってくると、そこで人形の顔を描き始めたのだった。

Father Christmas
1547年以降、イギリスのエリザベス女王がプロテスタントであったことから、聖ニコラスはカトリックの家にしか来ないという噂が広まった。実際には宗教などまるで関係なかったにも関わらず。当時のイギリスでは、カトリックの聖人を歓迎しなかったことから、人々はミステリアスな「gift-giver」を「Father Christmas」と呼ぶようになった。またフランスやドイツでも様々な呼び方がされ、ドイツでは「Christkind」と呼ばれ、普通、お供に小さな小人のヘルパーがついているとされた。

新しい世界へ
1620年9月、ニコラスとフェリックスは、メイフラワー号に乗ってイギリスを離れ、アメリカを目指した。メイフラワー号はマサチューセッツのプリマスに到着。移住者たちは厳しい寒さにひどく苦労をしたが、それを救ったのがインディアンたちであった。

1621年、プリマスの知事となったウィリアム・ブラッドフォードは、彼らが生き残ってきたお祝いに、感謝祭をもよすと発表した。しかし、新天地アメリカでは、新しい伝統を作るべきであるとの考えで、クリスマスを祝うことを禁止した。

ニコラスたちは仕方なく、オランダの移住者たちがいるフォート・オレンジへと向かう。1621年、フォート・オレンジの北部は、ほとんどニューヨーク州となっており、人々はニコラスたちを歓迎し、盛大なお祭りをしてプレゼントを交換した。

ピューリタン革命
その頃、イギリスではピューリタン革命が起こっていた。オリバー・クロムウェルはチャールズ祇い鮟莊困掘▲リスマスを祝うことを認めなかった。また、祝おうとするものは罰せられた。だが1660年、チャールズ鏡い即位すると、クリスマスは復活した。しかし、ピューリタンが再び力を取り戻した場合を恐れて、人々はおおっぴらにクリスマスを祝うことができなかった。

その後、オランダとイギリスの間に戦争が起こり、イギリスが勝利した。アメリカの植民地も、フォート・オレンジはアルバニーに、ニュー・アムステルダムはニューヨークと名前を変えられた。ニューヨークは村から都市となり、アメリカで三本の指に入るほど大きくなった。ちなみにほかの二つはボストンとフィラデルフィアであった。

サンタクロース
イギリスはオランダの移住者に対し、公用語は英語にするよう法律で定めたが、彼らは「Saint Nicholas」もはっきりとは発音できず、「Sintnicklus」、「Sinta Klass」などと言っていた。そこから「Santa Claus」となり、アメリカで公にクリスマスプレゼントが配られるようになったときには、すっかり「サンタクロース」という呼び名が定着していた。

独立戦争
1754年、イギリスとフランスは、アメリカの植民地で戦争を始めた。この時、ジョージ・ワシントンはイギリスの士官であった。1775年4月19日、アメリカ独立戦争の火蓋が切って落とされた。この戦争は1781年まで続く。

その間に仲間を増やしたニコラスの一行は、ベンジャミン・フランクリンにも会い、彼が遠近両用の眼鏡を発明している2ヶ月の間に、彼をすっかり仲間にしてしまった。

1776年、ジョージ・ワシントン将軍がフィラデルフィアのフランクリンを訪ねてきた。フランクリンのところでクリスマスの話を聞いたワシントンは、ドイツ兵がクリスマスのお祝いをしている間に周囲を取り囲み、翌朝攻撃をしかけて、ドイツ軍を圧倒した。これは植民地開拓者の最初の勝利であった。

新聞での宣伝
独立後のアメリカでは、まだクリスマスとサンタクロースを知らない人が多く、ニコラスたちがプレゼントを配っても、不審な侵入者があったとして、クリスマス・イブには大人は寝ずの番をしていたりしたので、ニコラスたちはプレゼントを配ることができなかった。

そこで考え出されたのが、サンタクロースとヘルパーたちについて、彼らの贈り物がクリスマスのお祝いの一部としていかに楽しいものであるかということを、新聞に載せようというものだった。その記事を書く作家として選ばれたのが、ワシントン・アーヴィングであった。

アーヴィングが書き上げたのは、「Knickerbocker's "A History of New York from the Beginning of the World to the End of the Dutch Dynasty"」というもので、1809年に出版された。そこにはサンタクロースは空を飛ぶと書かれてあった。ニコラスはアーヴィングも仲間に誘ったが、かれは「あなたがたが子どもたちに贈り物をするのが目的であるように、私の人生は書くことが目的だ」と断った。

1818年オーストリアに行ったニコラスの一行は、クリスマスのミサで、初めて「聖しこの夜」を歌った。その頃、ロンドンのアーサーのもとには、アメリカのフェリックスからニコラス宛の手紙が届いており、「すぐアメリカに戻られたし。今や皆があなたを知っています。あなたは有名人です」とあった。そこにはまた、不思議な追伸がついていた。「空を飛ぶトナカイを8頭連れてきてください。もし可能なら」

クレメント・ムーア
ニューヨークの有名な学者であり、歴史家でもあったクレメント・ムーアは、ワシントン・アーヴィングの本が大好きであった。彼の一番のお気に入りの一節は、クリスマスプレゼントを子どもたちに配っている非常に長寿の聖人について書かれたものであった。

1822年、ムーアの愛娘チャリティが、クリスマスに詩を作ってほしいと頼んだ。12月23日になって、詩を考えていた時、庭師のジャンの人のよさそうな温かみあふれる風貌を見て、すぐに詩が浮かんできた。ムーアはそれに「A Visit from Saint Nicholas」というタイトルをつけた。その詩は1823年に出版されたが、何年もの間、彼の名前は伏せられていた。しかしその詩によって、アメリカの子どもたちはサンタクロースについて知ることになるのだ。

ニコラスは、その詩を実際に読んで驚いた。「トナカイがサンタクロースの橇を引いて空を飛ぶ」「8頭のトナカイ」「トナカイにはそれぞれ名前がある」「サンタクロースは屋根の上に降りる」とあったからだ。それと「サンタクロースのお腹はちょっと太っている」というのには不平を言ったが、実際ニコラスはとても太っていた。それに「私はエルフじゃなくて人間だ」と。

空を飛ぶトナカイと橇
一番の問題は、空を飛ぶトナカイだった。これには、レオナルド・ダ・ヴィンチが手を貸した。実際トナカイは飛べない。だから、トナカイのハーネスと橇に翼をつけたのだ。フランクリンが付け加える。「トナカイが橇を引くのが十分速ければ、橇は飛ぶはずだから、ラップランドに行って、一番速いトナカイを8頭連れてきた」と。その8頭のトナカイは、ムーアの詩にある通り、ダッシャー、ダンサー、プランサー、ヴィクセン、コメット、キューピッド、ドンダー、ブリッツェンと名づけられた。そして、トナカイの引く橇は、見事に飛んだ!

'Twas Night Before Christmas
1842年のクリスマスイブに、ニコラスはムーアの家でワシントン・アーヴィングに再会する。アーヴィングによれば、ムーアの「A Visit from Saint Nicholas」というタイトルは、人々の間でいつのまにか、出だしに使われている一節から「'Twas Night Before Christmas」と呼ばれるようになっているとのことであった。また、アーヴィングの書いた『The Sketch Book of Geoffrey Crayon』も大好評で、そこに収められている「The Legend of Sleepy Hollow」の首なし騎士の話はハロウィーンに関連づけて読まれ、ムーアの詩はクリスマスになくてはならないものとなった。


<翌日のページにつづく>

2003年12月30日(火)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 <Magic Tree House> 1〜4/Mary Pope Osborne

Dinosaurs Before Dark (Magic Treehouse, 1)
Book Description

本文中のイラストは白黒。事実とユーモアと空想の世界を面白おかしくミックスした物語。魔法のツリーハウスを見つけた兄妹ジャックとアニーは、気がつくと6500万年前の世界にタイプスリップ! そこは、恐竜と火山と冒険の世界だった。本を開くことで、子どもたちは好きなところへ行き、どんなに離れた場所でも見られる魔法を手に入れる。そんな「読書の力」を、経験豊富なストーリーテラー、メアリー・ポープ・オズボーンが、ツリーハウスの中に置かれた本という形で物語に取り入れた傑作。


主人公はジャックとアニーの兄妹。恐れを知らず、想像力たくましい、「〜ごっこ」が大好きな、冒険好きのアニー。一方ジャックは物知りで賢く、冷静に筋道を立てて考える理論派。この兄妹の対比がはっきりしていて、それがまた物語の進展に大きな役割を果たす。

二人はある日、家の近くの森でツリーハウスを見つける。誰が作ったののやら、中には本がいっぱいあって、ちょうど出ていたのが恐竜の本。不思議に思っているうちに、ツリーハウスが揺れ始め・・・。

振動がおさまって、外を見てみると、シダや丈の高い草が生い茂っている。何か変だと思うまもなく、そこに翼竜プテラノドンが登場!これは夢だと思ったが、それにしては妙にリアルだ。それからツリーハウスの外に出た二人は、トリケラトプスやティラノサウルスなど、6500万年前の恐竜に遭遇する。アニーはすっかり恐竜に夢中で、プテラノドンともすっかし仲良くなってしまう。圧巻は、ティラノサウルスに襲われそうになったジャックを救うプテラノドンだ。この部分は単純にドキドキしてしまう。

そうしてツリーハウスに戻り、アメリカの地図を出し、二人の家のあるフロッグ・ポンドの地図を見ながら「家に帰りたい」と願うと、あら不思議!窓の外はちゃんと家の近くの風景に戻っていた。この間、時間は経っていない。つまり、ツリーハウスで時間と空間を越えて旅をしても、実際に生活している場では全く時が経っていないのだ。

さて、6500年前の太古の地で、ジャックは「M」という文字の入ったメダルを見つける。誰かが自分たちの前にここに来たのだ。その謎は次回に持ち越される。

これは<Magic Tree House>シリーズの1巻目だが、先に29巻目を読んでいるので、すでに「M」とは誰かわかっている。でも、こんなツリーハウスがあったらいいなあと、素直にわくわく、ドキドキしてしまう。子どもの興味を大いに刺激する、楽しい読み物だ。


The Knight at Dawn (Magic Tree House, 2)

今回は(といっても前回の翌日)、中世のお城へ。お城の大広間の宴会を覗き見していたジャックとアニーは、怪しいものと思われて、城中を追いかけられる。秘密の狭い抜け道を通り抜けると、城の周りの濠に落ちてしまい、そこにはなんとワニが!それを助けてくれたのは、正体不明の騎士。再び魔法のツリーハウスでフロッグ・ポンドに戻って来たが、ジャックの手には本にはさんであったしおりがあり、そこにも「M」の文字が・・・。

ジャックとアニーの性格が、さらにはっきりと描かれていて面白い。何事にも慎重なジャックと、口より先に行動してしまうアニー。それがいいこともあれば、災難を招くこともある。それにしても、アニーは7歳。すごく頼もしい7歳だ。


Mummies in the Morning (Magic Tree House, 3)

ツリーハウスの窓から、黒い猫が見えた。今度は(また前回の翌日)エジプトの本が開かれていて、ジャックとアニーはエジプトへ。ピラミッドの中で、古代の王女の幽霊に出会う。彼女は生き返るための「死者の書」を千年もの間、探しているのだという。そこでヒエログリフを解読して、「死者の書」を探し出す二人。す、すごい!それもすごいが、いきなり薄暗いピラミッドの中で、幽霊に会っても全然驚かないジャックとアニーって、かなり肝がすわってるという感じ。むしろ子どもだから、不思議なものでも何でも受け入れられてしまうんだろうか。偽の通路に入り込んでしまい、出口がわからなくなってしまった二人だが、窓から見えたあの黒猫の導きで、どうにか出口にたどりつけた。

さて今回は、「M」のついたものがなかったとジャックが思っていると、魔法のツリーハウスの床に「M」の文字。やはりこのツリーハウスは、正体不明の「M」さんのものなんだろうか?とほぼ確信に近い思いを抱き、明日メダルとしおりを返さなくては!と思う。



Pirates Past Noon (Magic Tree House, 4)

再び前回の翌日。今日は雨である。しかし昨日、メダルとしおりを返すと口にしてしまったため、雨の中をツリーハウスに向かうジャックとアニー。床には南の島の本。こんなうっとうしい雨ではなく、降り注ぐ太陽と青い海のもとに行けたらいいなと思っていると、窓の外に緑色のオウムが・・・。そして、ツリーハウスが揺れ始めた。

着いた所は、まさに青い空、青い海の南の島。どうやら無人島のようだ。だが、沖のほうから近づいてくる船がある。掲げてあるのはドクロマークの旗。「カリブの海賊」である。逃げようとした二人は海賊につかまってしまい、地図を見せられる。それはキャプテン・キッドが隠した宝の地図だった。

地図を読み解いて、宝のありかを海賊に教えるが、折りしも大きな嵐がやってくる。ツリーハウスの窓から見た、緑色のオウムが危機を救ってくれたのだが、フロッグ・ポンドに戻ってみると、オウムはまだそこにおり、みるみるうちに人間の姿に!それはなんと、アーサー王の姉、モルガン・ル・フェイであった。つまり、「M」とはモルガンのことだったのだ。

モルガンは魔女として知られているが、実は時空を超えた図書館の司書でもあり、魔法のツリーハウスを使って、さまざまな時代の本を集めているという。この魔法のツリーハウスは普通、他の人には見えないが、ジャックとアニーだけには見えたので、二人にもモルガンの魔法がかかったというわけだ。「M」の正体がわかり、彼女に別れを告げ、魔法のツリーハウスも消えうせ、ひとまずここでひとくぎりといった感じ。

どの巻を読んでもテンポがよく、サスペンスにあふれていて、退屈しない。子どもの読み物ではあるが、ここで感じるわくわく感は、年齢を問わないだろう。夢がふくらむ楽しいシリーズだ。現在31巻まで出ているが、子どもだったら間違いなく全部読みたいと思うだろう。次の巻が待ち遠しいに違いない。それと基本的には、ジャックとアニーが行くのは実在の場所で、それについての説明もあるので、勉強にもなる。


2003年12月29日(月)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 アンダーキル(B+)/レナード・チャン

母親を知らず、父親も幼くして亡くし、冷たい伯母に厄介者として育てられたアレン・チョイス。彼は孤独を心に秘めたままボディガードとなった。

ある夜、アレンの元に恋人のリンダから電話がかかってきた。弟のヘクターが車ごと谷底に落ちて死んだという。車には麻薬の原料が大量に積んであった。警察は事故死と断定したが、事故状況からリンダは弟が何かの事件に巻き込まれたのではないかと感じ、真相究明のためアレンに助けを求める。

やがてヘクターが、若者たちの集まるレイヴで純度の高い麻薬をさばいていたという事実が明らかになる。だが、ある晩を境に突然姿を消したという。さらに事故の直前、幼い時に家族を捨てた父親をヘクターが探し出し、再会を果たしていたことも判明した。アレンとリンダは父親の行方を追うとともに、ヘクターの死との関連性を探るが・・・。

狂乱のレイヴに揺れる死の影。拭いきれない血のつながり。すべてが収斂していく先にある衝撃の真実とは?

─カバーより



これ、ミステリー(サスペンス?)なんだと思うんだけど、展開がだらだらしていて、なかなか話に乗れない。アメリカの話なのだが、主人公は韓国系アメリカ人ということなので、どうしてもアジア系の顔が浮かんでしまって、アメリカ映画を真似た韓国映画でも見ている感じがして、雰囲気も掴みにくい。解説には「ストイックなハードボイルド」だと書いてあるが、ハードな部分は全然なくて、ハードボイルドの定義ってなに?という感じ。単純に、主人公がボディガードだからハードボイルドだということはないだろう。

そもそもアレン・チョイスの育った環境も普通でないし、元(?)恋人のリンダの家庭も普通じゃない。彼らは別れるのか、別れないのか、なんともはっきりしない状態なのだが、そこにドラッグや児童ポルノの犯罪がからんで、いくつもの殺人事件が起こる。事件を追うアレンがまた優柔不断で、事件を追うのか、恋人のことを考えるのか、どっちかにしてよ!と、イライラしてくる。

最後はあっと驚くドンデン返しと言いたいところだが、すでに予想がついていてまったく面白くないし、サスペンスとしての展開も退屈である。テンポも悪いし、キレがない。主人公にも魅力がない。

この話の中に、特に人種差別があるわけではないので、自分は韓国系だと何度も書く必要もないだろうと思うが(アレンはアメリカ生まれのアメリカ育ちで、韓国との関係が書かれているわけでもない)、なぜかそれにこだわっているのが納得できない。かといって、それが強烈な個性になっているわけでもなく、韓国系であるということを主張するにしては、非常に中途半端だ。この話では、主人公が韓国系であることは、ストーリーには全くなんの関係もない。そのことによる他のアメリカ人との違いが書かれているならわかるが、特にそれもない。

リンダの家庭の事情は、その後の事件に関わることなので、まあいいとしても、アレンの育った環境は、主人公の性格にあまり反映されていなくて、ただ孤独であるというのを強調したいためだけに作り出されたものとしか思えない。「孤独なボディーガード」=「ハードボイルド」だというのは、あまりに安直。アレンの性格は、孤独とかストイックとかということではなく、明らかに優柔不断。暗い。これではヒーローになるのは難しいだろう。

2003年12月28日(日)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 Lord of the Rings (Complete)/J. R. R. Tolkien

「これはもともとはビルボ個人の日記であってかれはこれを裂け谷に持って行った。それをまたフロドが、いろいろ覚え書きを記した多くの文書類と共にホビット庄に持ちかえった。そしてホビット紀元1420、21年にかけて、フロドが自分の戦争の記述で日記のページをほとんど埋めた。しかしこれに付属して3冊の大部の記録が、ともに保存された。これは赤革で装丁され、おそらく同一の赤いケースにおさめられていたものであろう。」(ホビット庄における覚え書きより)

まさに、これ。指輪ファンなら、ぜひこの「赤表紙本」を手元に置いておきたい!読むときのわくわく感も、ひとしお!

・・・と、この本を入手してから間もなく読み始めて、何ヶ月?(^^;
途中で中断しても、話はわかっているので、少しずつでも読み進めてこれた。内容は同じでも、この「赤表紙本」を読む気分は最高。


The Fellowship of the Ring

『指輪物語』に関しては、最も好きな物語だし、トールキンは大尊敬している作家なので、文句のつけようがない。おこがましくて何も書けないというのが正直なところ。それにしても、本編が始まる前のホビットについての解説には(ここが面倒で抜かす人もいるようだが)、よく考えて作ってあるなあと、いつも驚嘆するばかり。

個人的には、実はこの「旅の仲間」が一番重要な部分だと思っているので、じっくり読んでおきたいところ。指輪の仲間たちが、自発的に旅に加わるのでなければ意味がないし、それぞれがそれぞれの歴史や伝説を背負って、指輪を葬るという使命を遂行するわけなので、各登場人物の動機は、よくよく理解しておかねばならない。

ファンタジーではあるが、この中には尊い「自己犠牲」の観念が強く打ち出されており、すべてが自己犠牲の上に成り立っている。でなければ、なぜ好き好んで危険な旅に出なければならないのか、考えればバカらしくなってくるだろう。しかし、この「自己犠牲」は時代を問わず、現在でもいつの世でも重要な核なのである。

指輪の仲間9人がようやくエルロンドのいるエルフの裂け谷を出発する。その前に、指輪の辿ってきた歴史が滔々と語られる。実はこの部分がないと、どうして指輪ごときに命をかけて旅をしなければならないのかというのがわからないので、なんだか歴史書でも読んでいるような気分になって、大部分の人が途中で投げ出してしまいそうな雰囲気に陥るのだが、とても重要な部分なのである。

「愛しいもの=指輪」と表現されていることでもわかるように、愛というのはある意味エゴイスティックである。だから世界を救うのは、「指輪の仲間=友情」なのだ。それを描いているのが第一部なので、全体として見ても、第一部の仲間が形成されるプロセスは非常に重要な部分だと思う。

ここにはアーサー王物語のようにキリスト教的な信仰の力などはなく、ただ自己犠牲と、真に結ばれた友情によって、偉業が成し遂げられていく発端を緻密に描いてある。トールキンはこの部分を強調したかったのではないかと改めて思う。

そして、指輪所持者フロドと旅の仲間がモリアの坑道に赴き、そこでガンダルフと分かれねばならなくなる。失意のうちにエルフの森ロスロリエンの殿ケレボルンとその奥方ガラドリエルに迎えられる。その後大河アンドゥインを下ってモルドールへ向かう仲間たちだが、ボロミアの欲望が表に出てしまい、途中で分裂してしまう。

指輪所持者は結局誰にも頼れず、自らが事を成し遂げなければならないのだ。しかしフロドに仕えるサム・ギャムジーの忠誠心は、けして揺るがなかった。この後、フロドとサムの道のりと、他の仲間たちの道のりに話が分かれていく。

とりあえず1部はここで終わるが、この終わり方は物足りないだろうか?映画もここで終わっている。後先考えると、やはりここで終わるしかないし、フロドの決心とサムの決心の強さゆえに、事が成し遂げられるのだという伏線にもなる。この物語が、けっして戦闘や冒険の面白さを書いたものではなく、人間の内面(ここではホビットだが)を描いた、大きな意味のあるものなのだということが、ここで強調されているのだと思う。


The Two Towers

第一部で主人公のフロドとサム、アラゴルン、レゴラス、ギムリの3人、そしてオークにさらわれたメリーとピピンのグループに分かれた旅の仲間たち。第二部では、それぞれの行動が描かれる。ここでは、メリーとピピンを助けるエントの「木の髭」がいい味を出している。

そして何より嬉しいのは、灰色のガンダルフが白のガンダルフとして戻ってくることだ。やはりこの話に魔法使い、しかもいい魔法使いは欠かせない。ガンダルフのいない指輪物語など、考えられないくらいだ。この短期間の彼の不在でさえ、非常にショックなのだから。モリアで奈落に落ち、第二部でふたたび姿を現すことはわかっているのに、やっぱりショックなのだ。

このあと、アラゴルンたちはローハン(騎士国─リダーマーク)に行く。そこでは戦いとともに、ちょっとしたロマンスも・・・。

旅の仲間が分かれ、指輪保持者のフロドのほうではなく、オークに連れ去られたピピンとメリーのほうの話。というか、この部分はほとんどその追跡の話というべきか。

ここでの注目すべきところは、木の髭(エント)の活躍。中つ国で最も古い生き物で、年齢などは不明。木のような人間?人間のような木?ともあれ、そういう不思議な生き物が、旅の仲間を助けるという段。旅の仲間とエントたちが、アイゼンガルドに乗り込み、サルマンに打ち勝つというくだりなのだが、ここで勝ったと思ってはいけない。本当の戦いは、これからだ。アラゴルンが次第に王の威厳を現してきて、いよいよ王の帰還となる日も近い。

第二部の後半は、仲間と別れたフロドとサムが、ひたすらモルドールに向けて進んでいく。途中、元の指輪の持ち主ゴクリと出会い、その道案内で一向はモルドールの入り口に達する。前編に比べると、こちらは暗黒の影に近づいていく分暗い雰囲気が漂う。指輪所持者の苦悩もにじみ出ている。

フロドとサムがボロミアの弟ファラミアと出会い、しばしの休息ののち、再度モルドールを目指すが、そこで太古からの怪物シェロブ(蜘蛛の化け物。指輪には直接関与していない)に遭遇し、フロドが倒れる。一人で目的を遂行しなくてはならないと決心したサムが、目的地に向かって出かけようとするが、フロドは死んだわけではないことを知る。しかしフロドは敵の手中に落ちてしまった。

この巻は非常に暗い。全ての希望が打ち砕かれるような雰囲気だ。冥王に近づくにつれて、指輪は耐え難いほど重たくなるし、どこまで行っても道は果てしなく続くかのようだ。それに疑心暗鬼の中でやり取りされるゴクリとの取引は、果たしてどんな結末になるのかと思っていると、やっぱり罠であったというわけだ。この後の三部で、ついに目的がはたされるのかどうかが明らかにされるのだが、なぜゴクリが重要であったのかもわかる。読むたびに思うのだが、この巻がいちばん暗いが、唯一救われるのは、ファラミアの高潔さといったところだろうか。


Return of the King

「二つの塔」はフロドとサムの話で終わっているが、「王の帰還」はガンダルフとピピンがデネソール(ボロミアの父)を訪ねるところから始まる。

5度この物語を読んで、今更ながらに気づいたのは、間に「二つの塔」の戦いを挟みながらも、あのボロミアの死からたったの13日しかたっていないことだ。そんなものだったのか?その間にすごいことをやっているなという感じ。となれば、これだけの大長編なのに、ホビット庄を出発してから灰色港に行くまで、日数にしたら、たいした年月ではなかったのだろうか?と改めて驚く。

そして、ここからはさらに皆ばらばらになって行く。フロドとサムはもちろんのこと、ピピンとガンダルフはボロミアの故郷ゴンドールに赴き、デネソール侯の元へ。メリーはセオデン王の傍らにつき、馬鍬砦へ。そしてアラソルンの息子アラゴルンは、レゴラスとギムリ、ドゥナダンのハルバラド率いる北の国の野伏たち、エルロンドの息子エルロヒア、エルラダンを伴って、誰もが恐れる死者の道へ。

そしてこの頃、闇の勢力は力を増し、とうとう夜明けも訪れなくなった。 この死者の道、怖いです。屈強なギムリさえも尻ごみする暗闇を進む一行。うしろを振り向いたレゴラスが、「死者たちがついて来る」とつぶやく。怖い!

しかし、いかにも王の世継ぎらしいアラゴルンのりりしい態度に、何度も何度も読み返してしまう私。古めかしい物言いも、むしろ現代の言葉使いよりも、さらに威厳が増していると思えるほど。実は私はこの3部が一番好き。アラゴルンが最もアラゴルンらしいからだ。


[ゴンドールの包囲]
この章のゴンドールとモルドールの合戦は、息継ぐ暇もないほど、緊迫した描写で、結果はわかっていても、どきどき、はらはらする部分。トールキンもここは一気に書き上げたのだろうと推測する。

ボロミアの父デネソールが、ファラミア(ボロミア弟)に、「お前が行けばよかったのだ」などと非情なことを言い、そのまま戦いに赴かせた結果、ファラミアは瀕死の重症で帰ってきた。自分の言動を悔いるデネソール。この父と子のやり取りにまた胸が熱くなる。

ここでの合戦にはアラゴルンもレゴラスもギムリもいないので、活躍するのは、ガンダルフだ。皆が恐怖に怯えるナズグルどもを追い払い、魔法使いの魔法使いたる堂々とした働きぶりは、やはりイアン・マッケラン(映画)では役不足だろう。


[飛蔭 : Shadowfax]
この巻の影の主役は、ガンダルフがローハン王から拝領した馬、飛蔭といってもいいかもしれない。堂々とした体躯、驚異的な俊足、そして、他の馬が怖じ気づいて尻ごみをする中で、飛蔭だけは恐れも見せずに敵に対峙する。ここにガンダルフがまたがれば、怖いものなし!という感じ。素晴らしい馬です。なるべくイアン・マッケランの顔を思い浮かべずに、もともと自分の描いていたガンダルフを思い浮かべようとするのだが、うまくいかない。イメージを固定させてしまう映像というものの悪影響だ。また映画の中の飛蔭は、ただの白い馬で、原作に描かれている馬には程遠い。これもがっかり。


[セオデン王とデネソールの死]
ゴンドールの執政デネソールは、敵の襲撃にもはやこれまでと、重症のファラミアと共に聖なる墓所に入り、自らの身を焼こうとする。セオデン王率いるローハンの到着で、一気に合戦も熾烈が極まるが、敵の前に倒れ名誉のうちに命を落とすセオデン王。そして若い騎士に扮装したエオウィン姫もまたナズグルを倒して自らも倒れてしまった。傍らに控えていたメリーも、同じくナズグルのために倒れる。

そしてとうとう死者の道を来たアラゴルンたち一行がハルロンドの船着場に、アルウェンの手で作られたエレンディルの旗じるしを掲げて到着。彼等の活躍で、とりあえず勝利をおさめるが、もはやデネソールの狂気は元には戻らず、火の中に身を横たえ、命を断ってしまった。危機一発でガンダルフに救われたファラミア。彼はデネソールの不幸を知らぬ間に、ゴンドールの執政となった。

そして、ファラミア、エオウィン、メリーは「王の癒しの手」によって、一命をとりとめる。だが、再び戦いが始まる。無数の敵に囲まれたアラゴルンたちの前に現れたのは、かの鷲の王、風早彦グワイヒアであった。


[王の帰還]
この巻はやはり個人的に一番好きかもしれない。セオデン王の死の場面は、何度読んでも涙が出る。そして、勇ましいエオウィン。彼女のその胸のうちにあるものを考えると、切なくて仕方がない。また小さいホビットたちの勇敢さにも感動する。

しかし、エレンディルの旗じるしのなんと高貴で力強いことか!アラゴルンの意志の強さにはただ感服するしかない。そしてデネソールの無念な死。このストーリーもわかっているのだが、ここで死ぬことはないのに、と毎回残念でならない。あれだけ非情であった父親であったのに、最後にはファラミアを愛していることに気づき、悔恨の念にかられるデネソールの気持ちにも涙。

ともあれ、合戦の場面はこの巻がクライマックス。全ての人が勇敢に中つ国のために力を合わせて敵に立ち向かう。だが、それにはガンダルフの策略があったのだ。かの冥王の目を指輪保持者に向けてはならない。そのために、数は少なくとも、できるだけ派手に戦いをしてみせる必要があったのだ。そして絶体絶命の時に飛来したグワイヒア。いつもいい時に現れる、あの鷲の王に拍手!


ゴンドールに鷲の王が来たところで、話は指輪保持者フロドとサムのほうに移る。オークに捕らえられたフロドを救うべく、サムが孤軍奮闘。命からがらなんとか逃げ出し、再び滅びの山オロドルインに向かうが、フロドの指輪の重荷は日ごとに増して行く。水も食料もほとんどなく、力も尽き果てようかとしたその時、ようやく滅びの山の火口に着く。ここで指輪を火口に投げ入れれば、彼等の使命は果たされ、暗黒の力は滅びるのだ。

だが、またもそこに現れたゴクリ。ゴクリもまた疲れ果て、哀れな状態であるにも関わらず、ただ指輪の魔力に惹かれて二人の後を追ってきたのだ。だが、フロドもまた魔力に取りつかれてしまっていた。最後の力をふり絞って格闘するフロドとゴクリ。このとき、かの目が指輪に気がつき、おのれの敗北をさとり、暗黒の思念が揺らぎ始めた。オロドルインに急行するナズグル。しかしガンダルフの言った「ゴクリでさえも役に立つことがある」という言葉が、ここで現実のものとなる。

かくて指輪保持者の使命は果たされた。それは、おりしもモルドールで戦いの火蓋が切って落とされようとするところであった。しかしオロドルインの噴火で、フロドとサムの帰りの道は断たれてしまった。進退極まって、倒れ込む二人。まさにこのとき、ガンダルフとともに、再び風早彦グワイヒアがやってきた。暗黒の思念がぐらついたことに気が着いたガンダルフが、指輪保持者が目的を達したことを察し、すばやく二人のもとにグワイヒアを送ったのだ。助けだされた二人を待っていたのは、王となったアラゴルンであった。彼は「癒しの手」で二人を手当てし、回復を待っていた。ゴンドールの王の戴冠式を行うために。

かくて戻るべくして戻ったゴンドールの王は、時の熟すのを待ち、夏至の日に、エルフの宵の明星アルウェン姫と結婚し、主だった人たちは、それぞれの道に戻って行った。セオデン王の遺骸は、セオデンの代わりにローハンの王となったエオメルの手によってローハンに戻され、そこでエオウィンとファラミアの婚約がなされた。

だが一方で、人間と結婚したことで、愛する父や兄たちと別れねばならないアルウェンの苦悩も忘れることはできない。エルロンドたちエルフ族は、中つ国を出、海へと出帆することになっているからだ。


[旅の帰途]
アラゴルンと別れ、ガラドリエルとも別れ、ガンダルフとホビットの一行は、裂け谷に到着し、エルロンドのところにしばらく滞在する。そこで懐かしいビルボに会い、しばらく楽しい夏を過ごすが、秋になり、いよいよホビット庄に帰る時がきたのを知る。ブリー村まで一緒に行くというガンダルフを伴って、故郷に帰る道すがら、フロドのけして癒えることのない傷が痛む。

ここまで来ると、中つ国の第3紀の終わりによって、エルフたちがこの地を去るであろうことが徐々に明らかになってくる。明記はされていないが、彼等は海を渡って、遠くに行ってしまうのだろうということがほのめかされている。この行く先は、アーサー王物語でのアヴァロンと同じ目的の地である。 そしていよいよブリー村に到着。出発してからすでに1年以上が経っていた。


[サルマン]
ブリー村(旧版の翻訳では粥村)に到着したフロドたちを待ちうけていたのは、無法者により荒れ果てた村の姿。フロドの親戚であるロソが親方となって、何もかもが規則で縛られていた。しかし、その裏には、フロドたちをあざ笑うかのように、落ちぶれたサルマンと蛇の舌がいたのだった。

けれども今や歴戦の勇士となったメリーとピピン、それにサムも黙ってはおらず、ホビット庄の歴史において2度目の戦いとなる合戦を繰り広げ、無法者を退治し、サルマンも追い払う。が、サルマンは蛇の舌に、蛇の舌はホビット庄のものに射殺され、ここにすべてが終わる。


[灰色港]
こうしてホビット庄は再建され、サムはローズと結婚して袋小路でフロドと一緒に暮らし、再び平和な日々が戻ってきたが、フロドの傷はけして癒えず、時折発作に襲われるのだった。

そしてしばらくたった秋のある日、フロドは旅に出ることを告げる。一緒に出かけたサムは、海へと出帆するエルロンドやガラドリエルなどのエルフ達、ガンダルフ、そしてビルボとフロドを灰色港から見送る。エルロンドの指には「青い石のヴィルヤ」、ガラドリエルには「白い石のネンヤ」、ガンダルフの指には「赤い石のナルヤ」がはめられていた。こうして中つ国の第三期は、指輪とその所持者と共に終焉を迎えたのである。


[サム・ギャムジー]
この最後の巻では、サム・ギャムジーの存在が大きい。サムがいなかったら、フロドは到底目的を達することができなかっただろう。サムの献身的な主人への愛情は感動的だ。物語の最後は、サムが家に帰ったところで終わる。いかにも幸せで平和な絵だ。こういったことからも、この「指輪物語」の主人公はフロドだが、ここにおいては、サムが主人公と言っても差し支えないだろうと思う。


[アラゴルンとアルウェン]
また本では、アラゴルンとアルウェンの関係は婚姻の時まで明かされていないのだが、映画では1作目からすでに明かされており、これが二人の関係を安っぽくしてしまっている。最後の最後まで待ちつづけ、耐えてきた二人の関係、永遠の命を捨ててまで、アラゴルンと一緒になろうというアルウェンの決心は、けして生やさしいものではないのだ。二人の関係は、最後まで明かされないことによって、崇高なものになる。


[トールキンのことわりがき]
最後に、トールキンはこう言っている。「この物語には隠された意味とか「メッセージ」とかが含まれているのではないかという意見に対しては、作者の意図としては何もないと申し上げよう」。読者はただ楽しめばいいのだ。

「すべての読者の中でもっとも批判的な読者ともいえるわたし自身は、すでに大なり小なり多くの欠点を見いだしている。しかし幸運にも、この本を批判する立場にもなければ、書き直す義務もないので、ただ一点を除いては黙してこれを看過することにする。その一点とは、他の人にもいわれてきたことだが、この本が短かすぎるということである」


今回初めて、『指輪物語』の感想をひとつにまとめてみたが、本当に壮大で偉大な物語であることを再認識する。「一番好きな物語」として、堂々と胸を張って言える作品だ。いまだ、これを超えるファンタジーはないと言い切ってもいいだろう。神話学者としてのトールキンの学問の集大成とも言えるこの物語は、膨大な知識をもとにした、深い、深い物語なのだ。ここからさらに、さまざまな神話や伝説の世界へと、道は繋がっている。

2003年12月27日(土)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 スケッチ・ブック/ワシントン・アーヴィング

<詳細>
森で出会った妙な風体の連中の宴で酒に酔って眠り、目覚めると20年後をむかえていた男の奇妙な物語「リップ・ヴァン・ウィンクル」、首なし騎士の亡霊が現われるという伝説のつたわる谷間で、ある教師の身にふりかかった世にも不思議な事件を描く、幽霊談の古典「スリーピー・ホロウの伝説」など、各国の民話、風俗、習慣を題材にした、ロマンティシズム色濃い13編を集めた必読の名作。クリスマスの話も2編含む。


<目次>
「わたくし自身について」「船旅」「妻」「リップ・ヴァン・ウィンクル」「傷心」「寡婦とその子」「幽霊花婿」「ウェストミンスタ−寺院」「クリスマス」「駅馬車」「クリスマス・イーヴ」「ジョン・ブル」「スリーピー・ホロウの伝説」


●『リップ・ヴァン・ウィンクル』

舞台はハドソン川中流に近いキャッツキル山地(ニューヨーク州東部)。主人公リップ・ヴァン・ウィンクルは気のいい男で、いつも口やかましい妻の尻の下に敷かれていた。ある日、いつものように猟銃をかついで森に出かけ、いざ帰ろうとすると、どこからか自分の名前を呼ぶ声がする。見るとオランダ風の身なりをした老人だった。

酒樽を運ぶのを手伝うと、同じような服装の一団がいる山あいの窪地に案内された。老人とその仲間たちが酒を飲みながらナイン・ピン(屋外ボウリング)をするのを見物しながら、自分も盗み酒をしているうちに、酔っ払って眠ってしまう。目覚めてみると、自慢の銃は錆だらけ。妻の機嫌を心配して村に戻ってみると、辺りの様子はすっかり変わっている。娘に再会してやっと、一晩で20年が過ぎ、妻はすでに亡くなり、アメリカが独立を果たしたことを知る。徐々に新しい生活に慣れた彼は、旅人相手に昔語りをしながら陽気な余生を送った。


●『スリーピー・ホロウの伝説』

ドイツ民話を下敷きに、舞台をハドソン川流域の実り豊かな寒村に置き換えた短編。独立戦争後の急激に変化しつづけるアメリカ社会から隔絶され、時間が止まったようなのどかな土地柄が「スリーピー・ホロウ(眠たい窪地)」という知名に反映されている。

土地一番の豪農の娘、カトリーナと彼女が相続する財産をめぐるイカボッド・クレインとブロム・ボーンズの恋の鞘当が、自分の首を探しに夜な夜な墓から出て馬で村を駈け抜けるという首なしの騎士の伝説をからめて、喜劇的に語られる。

コネティカットから流れてきた教師のクレイン(鶴)は口八丁手八丁のお調子者で、ひょろ長い手足をした打算家。ボーンズ(筋骨)は地元の腕自慢の大男で馬術の達人。カトリーナを獲得するのが、機転を利かせて伝説の騎士に扮したボーンズで、怯えたクレインが逃げ出す結末には作者の反時代的な感受性がうかがえる。クレインは後に「ヤンキー像」の一典型となる。


<プロフィール>

Washinton Irving (1783-1859)

アメリカの随筆家、小説家。ニューヨーク市生まれ。二十歳の頃に見初めた女性が結核で急逝し、生涯独身を通した。当時のアメリカ文化の過渡期的な状況をよくあらわした作家で、旧大陸文化・文学の強い影響を受け新古典主義的な教養を帯びながら時代の新しい気運にも同調しロマン派の先駆け的な作風も見せる。代表作『スケッチ・ブック』は大西洋両岸で評価された。


<ペンネーム>

アメリカ独立確定の年に生まれた彼は独立革命の英雄、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんでワシントン・アーヴィングと名づけられた。「アメリカ文学の父」と呼ばれる彼だが、実際の執筆・創作に当たっては、兄達と創刊した「サルマガンディ」(「寄せ鍋」の意味)に記事を寄せていたころからペンネームを有効に使っている。最初は「ジョナサン・オールドスタイル」(「旧式」の意味)、当時のお堅いガイドブックのパロディーとして書かれた『ニッカーボッカーのニューヨーク史』(1809)の時は「ディートリッヒ・ニッカーボッカー(オランダ風ズボン)」、代表作『スケッチ・ブック』(1819-20)では「ジェフリー・クレイヨン(画材クレヨン)」という具合だ。


<ユーモアと計算>

「リップ・ヴァン・ウィンクル」や「スリーピー・ホロウの伝説」がドイツ民話を下敷きにした焼き直しの物語(トワイス・トールド・テイル)であるという点から、作家としての独創性はあまり発揮されないのだから、アーヴィングが物語の語り方や語り手の存在にきわめて意識的であったことは注目すべきであろう。ファンタスティックな物語をまことしやかに語ったり、合理的な説明を幻想のヴェールで惑乱したり、ペルソナをあやつるアーヴィングは巧みに幻惑と覚醒のバランスを計っている。アーヴィングの読者は物語を半信半疑で読みながら、語り手に騙られるのを楽しむ。語り口・語り手の洗練や熟練が重要なポイントになるのだから、語られる中身だけをとりあげ、語り手とアーヴィングとを混同する読み方はあまりにも単純というべきであろう。


<伝記作家として>

彼の後半生は伝記作家として記憶される。スペインでの長期滞在をきっかけとした『コロンブス伝』(1828)の執筆は、パロディー作家「ニッカーボッカー」風を自ら禁じたストイックなもので、事実なかなかに堅実な仕事ぶりだった(本人は「ニッカーボッカー」色が定着するのを恐れ、新たな境地の開拓のつもりだったが、出版社が作家の注意にもかかわらず『ニッカーボッカーのコロンブス伝』と謳って世間を勘違いさせることになった)。アメリカに戻ってからは、毛皮商で成功したアスター家の歴史を扱った『アストリア』(1836)を書き、晩年の十年は、死の半年前までをかけて全五巻の大作『ワシントン伝』(1855-59)を完成させた。語り口の巧みさが発揮されているだけでなく、伝記としての信頼性もその道の権威から再評価されている。伝記作家としてのアーヴィングは「ニッカーボッカー」も「クレイヨン」も冠す必要のないワシントン・アーヴィングその人であった。



ワシントン・アーヴィングのプロフィールを知っているのと知らないのとでは、本書の読み方はかなり違ってくるだろうと思う。プロフィールを知らないと、まず「ニッカーボッカー」という名前は何だろう?と思うだろう。著名な2作(「リップ・ヴァン・ウィンクル」と「スリーピー・ホローの伝説」)の内容は上記のようなものだが、他の作品は物語というより、アーヴィングのエッセイに近いものでもあるかもしれない。個人的には「妻」という作品が気に入っており、時代が時代だけに、ちょっと偏った考えかもしれないが、「夫婦の基本形」がそこにはある。

上記の説明には「語り手とアーヴィングとを混同する読み方はあまりにも単純というべきであろう」とあるから、アーヴィングのエッセイと捉えるのは間違いなのだろうが、なるほどと納得させられる話である。

2003年12月26日(金)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 A Christmas Memory, One Christmas, & the Thanksgiving Visitor/Truman Capote

「クリスマスの思い出」「あるクリスマス」「感謝祭のお客」の三作を収めた<イノセント・ストーリー>シリーズの原書。

物語のそれぞれの感想は翻訳で読んだときと同じではあるが、原書では、翻訳では味わえない、カポーティの繊細な感性を感じる。言葉の使い方や文体がとてもきれいで、彼の「心」にじかに触れるような気持ちがしてくるし、翻訳で受ける感動とはまた違った、デリケートな部分まで読み取れる気がする。なんて上手い表現だろうと感嘆する部分もあり、「早熟の天才」という呼び名は、まさにぴったりである。この本は、何度読んでも感動する1冊だ。


●「A Christmas Memory(クリスマスの思い出)」

両親の離婚によって、赤ん坊の頃から親戚に預けられたバディー。そこには無二の親友がいた。彼女はかなり年の離れたイトコここでは名前は出てこないが、(『あるクリスマス』に出てくるスックのこと)だが、バディーにはかけがえのない人だった。

毎年クリスマスになると、彼女は大量のフルーツケーキを焼く。これは周りの人にあげるのではなく、ローズヴェルト大統領だとか、親切にしてくれたセールスマンだとかに送るのだ。二人はせっせと小銭をため込んで、その日の準備をする。その様子がまた、心温まるかわいらしさだ。お金などなくても、彼らは幸せだったし、その世界はけして壊されたくなかったのだ。

おばあちゃんイトコのスックは、バディーと同じような精神年齢なのだろうか、年はかなり違うのに、やることや考えていることはすべて一緒。二人は他の大人たちから孤立しているが、二人の世界は素晴らしくイノセントで、本当に悪意などは影も形もないのだ。

同じく<イノセント・ストーリー>と呼んでもいいだろうと思える『草の竪琴』には、このスックとの暮らしがもっと詳しく書かれているのだが、双方に共通しているのは、もうけして戻ってはこない少年の日々への郷愁と、大人になることへの不安、悪意だらけの大人の世界からの逃避といったことだ。そして、少年時代のそういった美しく輝いている世界をそのまま持って、大人になってしまったのがカポーティだろう。そこに帰りたいと願うカポーティの切なる思いが、ここにもまた溢れている。


●「One Christmas(あるクリスマス)」

両親の離婚で、赤ん坊のときから親戚に預けられ、すっかりそこに馴染んでしまっていたバディー少年は、ある年のクリスマス、父親のもとで過ごすことになった。つまりその年は、父親が子どもと過ごす権利を得たというわけだ。初めて訪れるニュー・オーリンズ。そこにいる人々も、食べ物も、いつも暮らしているアラバマとは大違いだった。居心地が悪いが、父を傷つけまいと努力するバディーと、一生懸命に息子を喜ばせようとする父親。けして噛み合うことのない歯車が空回りする。

その頃バディーは、まだサンタクロースの存在を信じていた。田舎で一緒に暮らしている年の離れたイトコであるスックから、そう教わっていたからだ。しかしニュー・オーリンズで、その夢はもろくも崩れてしまった。父からの山のようなプレゼントを開けながら、それは父からだと知っているくせに「パパのプレゼントはどこ?」と聞くバディー。なんて小憎らしい!けれども、それがサンタクロースの夢を壊されたバディーの、せめてもの仕返しだったのだ。

父親もまた苦悩していて、息子を返さなくてはならない日には、正体もなく酔っ払い、苦しみをあらわにする。「パパを愛していると言ってくれ」と何度も何度も口にするが、バディーは答えない。ほんとに小憎らしい!

けれども家に帰ってから、バディーはこんな手紙を書く。

「とうさん元気ですか、僕はげんきです、ぼくはいっしょうけんめいペダルこぐれんしゅうしてるので、そのうちにそらをとべるとおもう、だからよくそらをみていてね、あいしてます、バディー」

そう、クリスマスに「パパのプレゼント」として改めて買ってもらった、ペダル式の飛行機のことを書いたのだ。

本書が出版された前年に、カポーティの父親は亡くなっている。本当はお互いに必要とし、求め合ってもいたのに、ついに心を通わすことのなかった父と子。その思いをつづった作品と言えるだろう。最後の手紙で、胸がつまった。ここには書かれていないが、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったというカポーティの思いが、痛いほどに伝わってくる。大人になってからも、少年の頃の気持ちのまま、こうした物語が書けるのは、カポーティくらいのものではないだろうか。


●「The Thanksgiving Visitor(感謝祭のお客)」

上記2作と同じ舞台。
バディーは学校でいじめられており、もちろんそのいじめっ子のことは大嫌いなのだが、おばあちゃんイトコのスックは、家族や親戚がみな集まる感謝祭のディナーに、その子を招待してしまう。

嫌で嫌でたまらないバディーだが、バスルームでその子がスックの大事にしているカメオのブローチを盗むのを見てしまい、それをディナーの席上で公表してしまう。してやったり!と思ったのもつかの間。なぜお客様にそんなことをするのかとスックに責められる。そんなはずではなかったのに、ただその子に仕返ししてやりたかったのに、という思いで、心底悲しくなってしまったバディーは、その場から逃げ出す。

悪意をいうものを知らないスックと、社会に交わって、少しずつ悪意というものを知り始めるバディー。スックは「あの子はつい出来心でしてしまったけど、あなたはあの子を傷つけようと考えてしたのだから、そのほうが悪い」というのだ。憤慨しながらも、徐々に納得していくバディー。悪意というものはそういうことなのだ。そんな悪意などは知らないほうが良かったと思うのである。

そう思うのは、このエピソードに限らず、カポーティ自身が大人になって、世の中の悪意というものについても言っていることなのだろう。こんなことは知らなければよかった、あの悪意を知らなかった少年の頃に戻りたいと思っていたに違いない。そう考えると、この物語はほかのクリスマスものとは違って、カポーティが世の中のさまざまな悪意を知り始めた時期を示唆しているのかもしれない。

2003年12月25日(木)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 心すれちがう夜/ジュード・デヴロー

内容(「BOOK」データベースより)
1909年、ニューヨークに住む29歳の美女テンペランスは、女性の人権を向上させることに心血を注いでいた。ところが、寡婦だった母親が突然スコットランド人と再婚し、テンペランスも否応なしにスコットランドへ。不満を爆発させる彼女にたいし、義父はアメリカへの帰国を許すための条件を提示した。それは彼の甥ジェイムズの花嫁を見つけてあげること。承諾したテンペランスは、美しい田園地帯の領主ジェイムズのもとへ赴くが…。人気作家が繊細なタッチで綴るロマンス小説の佳編。


主人公はどうなることかとはらはらしながら、面白くて一気に読んでしまった。枠組みはやはりロマンス小説につきものの、美男美女のヒロインとヒーローが、互いに否定しあいながらも、だんだんと惹かれていき、途中もうだめかと思わせておいて、最後はめでたくハッピーエンドという、よくあるパターンなのだが、状況設定がなかなかうまく、宝探しというミステリー的要素も加わって面白い。テンポもよく、だれたところもない。

人物の関係が、どうも『嵐が丘』に似ていると思ったら、やはり作者はそれを意識していたようで、途中に「あなたはあなたで『嵐が丘』のヒースクリフも顔負けなぐらい物思いに沈んでいる」という部分があった。ヒーローはたしかにヒースクリフのような人物なのだ。

話ができすぎだと思う部分もあるが、テンポの良さに助けられて、そういった点も許せてしまう。この作家は何冊か原書も持っているので、また読んでみたい。

ヒロインは、女性の自立や人権向上といったことに夢中になっていたのだが、スコットランドの雄大な自然と、そこに住む温かな気持ちの人々に囲まれるうちに、徐々に自分のしてきたことがうわべだけだったことを知る。一番痛切に感じたのは、自分は本当に人を好きになったことがなかったのだということだった。

結婚などしないと言い切っていたのに、そのことに気づくや、結婚したいと思うようになる。またいかにも男を知っているかのように演説していたのだが、実は何も知らなかったことにも気づく。それからのヒロインの気持ちの素直さは、特筆すべきだろう。

行動はなかなか気持ちに伴わないが、彼女の中の素直さは、女性として非常にかわいらしい。辛いことがあっても、がんばって前向きに進む彼女もまた好感が持てる。強い女性だが、ノーラ・ロバーツの小説に出てくるような傲慢な感じの女性とは違って、自分に素直なところがとても魅力的だ。結婚とか人権とか言う前に、「相手を愛する」という基本的な感情を、思い出させてくれる。

2003年12月24日(水)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 Santa and the Magical Unicorn/T.G.Bradley

これは、中世の話とクリスマス・ファンタジーがミックスされた物語。
ポークという王国には、魔法使い、邪悪な魔女、魔法が使える王女とユニコーンがいた。王国の魔法使いであるエドモンドは、邪悪な魔女のワンダと戦いをする。一度は敗れたワンダだが、新しい不思議の国では、その力が倍になり、けして消滅しないことを知る。だがそれには、まず平和と喜びをもたらすサンタクロースを探してやっつけなければならなかった。ポークの王女ジーナは、それを阻止するために、クリスマス・エルフのデイビーと、ユニコーンはサンタクロースとチームを組み、邪悪な魔女ワンダに立ち向かっていく・・・。


<登場人物>
キング・ウィリアム(ポーク国の王)
クィーン・アン(王妃)
ジーナ(王女)
ジョッシーナ(ユニコーン)
エドモンド(宮廷の魔法使い)
ワンダ(邪悪な魔女)
ベン(王のメッセンジャー)
デイヴィー(クリスマスエルフ)
サンタクロース

邪悪な魔女ワンダと戦うため、ジーナはユニコーンと共にポーク山脈から霧の谷へと向かう。霧の谷は、クリスタルのドアでロックされた秘密の通路にあり、そこを抜けると別の世界へと通じる。その通路に入ると、時間も空間も意味をなさなくなる。そこは現実は空想がいり混じった場所だった。

ジーナの目的は、氷の女王である邪悪な魔女ワンダから、この別の世界を守ることと、ワンダにパワーを与えているネックレスを取り返すことである。このネックレスがなければ、ワンダは全く力がなくなるのだ。

そしてこの冒険の最も重要な使命は、サンタクロースの居所を見つけ、彼をワンダの邪悪な力から守ることだ。サンタクロースは、その別の世界の「北極」というところに住んでいる。

というわけで、ワンダの繰り出すつららの兵隊と戦いながら、ジーナはエルフのデイヴィーと一緒に使命を達成するのだが、なんと、戦いの途中で、ワンダがジーナの実の母親だということがわかる。そして、魔法使いエドモンドは父親であったというわけ。霧の谷へは女性しか行けない(ユニコーンはメスらしい)というのを理由に、実の父親が娘を邪悪な魔女と戦わせるなんて、信じられない!

この設定も変だけど、話を無理やりサンタクロースと結びつけるのもどうなの?という感じで、サンタが出てくる必要は全く感じない。ジーナとエルフのデイヴィーとの間に愛が芽生え、実の母親と別れるのは全然悲しくないのに、デイヴィーと別れるのは死ぬほど悲しむというのも、ちょっとね。。。

結局、デイヴィーは別の世界から離れ、ジーナと結婚してポークに住んでもよいというお達しが出るのだけれど、それもできすぎ。あ、それにユニコーンも何か活躍したっけ?という感じ。霧の谷に運ぶだけなら、ユニコーンじゃなくて魔法が使える馬だって良かったはず。ユニコーンでなければならないという必要性がない。サンタもユニコーンも、「サンタと魔法のユニコーン」というタイトルに値しない、ただの脇役。

2003年12月23日(火)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 サンタクロース/ジョーン・ヴィンジ

妖精たちと北極の小さな村に住むサンタクロース。何百年もの間、子どもたちに夢を贈っていたのだが、ある日、一人の妖精が失踪、サンタは行方を探しにソリに飛び乗った・・・。

デブでお人好しのサンタと、いたずら妖精パッチが繰りひろげるユーモアとペーソスいっぱいの物語。SF各賞総なめの人気女流作家・ジョーン・ヴィンジが描く傑作ファンタジー!
─カバーより


この話は、まず人間だったニコラスがクリスマスに子どもたちに手作りのおもちゃを配っているところから始まる。子どもたちが喜んでくれるのは無上の幸福ではあったが、ニコラスとアニア夫婦には子どもがなく、それが二人の悲しみともなっていた。ある日、猛吹雪の中で立ち往生してしまったニコラス夫婦は、突然北極にやってきていた。そこでクリスマスエルフたちの歓迎を受け、ニコラスとアニアは永遠の命をもらい、何世紀もサンタクロースとして、世界中の子どもたちにプレゼントを配り続けることになる。

エルフの中には、パッチという発明の天才がおり、新しいおもちゃを次々と作り出したのだが、ある年、おもちゃ製造の責任者という重要なポストについたパッチは、オートメーションでおもちゃを作ることを思いついたのだが、できたおもちゃはどれもすぐに壊れてしまうような代物だった。

このことでサンタクロースの名前に傷がついた。世界中からおもちゃが送り返されてきたからだ。責任者の任を解かれたパッチは、ひとりエルフの村を出て行き、現代のニューヨークにやってくる。そこで手を組んだのが、悪徳おもちゃ会社の社長、B.Z.だった。

パッチはB.Z.におもちゃを作らせてくれるよう頼み込む。危険なおもちゃを作ってまずい立場に陥っていたB.Z.は、パッチのアイデアに飛びつき、サンタクロースに挑戦する。パッチの作ったプレゼントは、なんと、中に浮かぶことのできるキャンディだったのだ。それをパッチはロケット工学を応用したパッチ・モービルで、サンタに先駆けて配ったため、サンタのプレゼントは、子どもたちに見向きもされなくなってしまったのだ。

これによって、サンタは失意のどん底に陥り、おもちゃ作りもやめてしまったほど。時代が変わったと言っても、人間の暖かい心まで変わってしまったのだろうかと、思い悩む。もちろんパッチのことも心配でたまらない。

だが、パッチに危機が迫った。サンタが仲良くなった人間の子ども、ジョーとコーネリアも一緒に危機に立ち向かう。そして再びサンタは世界中の子どもたちから尊敬される人物となった。

あらすじはこんなところ。ファンタジーの世界と現実の世界がミックスされているので、辻褄の合わない部分も多々あるのだが、それはクリスマスのことだから、と大目に見てあげよう。映画の写真がところどころに入っているので、それがちょっと邪魔だったが、なかなか面白い本ではあった。

最後に、この本を翻訳した神津カンナがこう書いている。

「月の石も見られるし、コンピューターで全てを割り出すような時代・・・サンタクロースは、あり得ない現実の中で、それでもちゃんと私たちの心に生きている。あの人はやっぱりいるのかもしれない」

その答えは本の中にある。

「それはわれわれの現実の果てを越えたどこかに存在している。そして、心のなかでひそかにサンタクロースを─惜しみない愛を、ほとんど忘れられてしまったクリスマスの真の意味を─信じる心やさしい読者のみなさんなら、今晩夢を見るときに、暗闇のなかにきらきら光るか明かりを、かすかに目にできるかもしれない」

2003年12月22日(月)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 ブリージング・レッスン/アン・タイラー

内容(「BOOK」データベースより)
周りの人の幸せを願うあまり、ついお節介をやいては話をややこしくしてしまうマギー。結婚28年目を迎える夫アイラと、ある日友人の葬式のため車で出かけていく。普通の人々のなんでもない日常を描いているのに、読みはじめるとわくわく、しみじみおかしくて少しほろ苦い珠玉の一作。ピュリツァー賞受賞作。


まだ冒頭100ページ程度しか進んでいないのだが、この主人公はちょっとどうなの?という感じ。普通の主婦が、誰もが感じているであろう愚痴がずらずら並んでいて、言いたいことはよーくわかるんだけど・・・、でもこういうのを文章で読みたくないなあ。カッコ悪い。実際の人生なんて皆カッコ悪いものだけど、リアリティがありすぎて、なんだか嫌な気分になってくる。

「普通の人々のなんでもない日常を描いているのに、しみじみおかしくて少しほろ苦い」というのは、エリザベス・ギャスケルの『女だけの町』のような作品に対してなら納得できるのだけど、たぶん、アン・タイラーがユーモアだと思っている感覚と、私の感覚が合わないのだと思う。個人的に主人公がとりちらかしているタイプである小説は、あまり好きではないかも。語り手は淡々としていたほうが好き。最後まで読んでみなければわからないけれど、今のところでは、この奥さんでは、ご主人も気の毒といった感じ。

さて、やっと読了した。
主人公のマギーは、私が感じる限りでは、ドジで人に迷惑ばかりかけている。かわいいドジというのもあるけれど、マギーの場合は、皆が嫌になってしまうドジ。それも、自分勝手な思い込みが激しすぎて、その自分の思いを人に押し付けるので、周囲がとても迷惑する。それにうんざりしている夫のアイラの気持ちがよくわかる。マギーだって、けして悪意でそうしているわけではないのだが、こういう女の人ってよくいるなあ、絶対付き合いたくないタイプだなあと思う。

彼女を中心にした話は、自分の母親や姑、友人の愚痴など、日常うんざりするほど聞かされている類のもので、読書という行為には、自分の体験したことのないことを経験したいという気持ちや、せめて本の中でくらいは夢を見たいという気持ちが含まれているから、こうした日常の愚痴話や、ドジってまわりに迷惑をかけてしまう(本人は迷惑をかけていると思っていないのがまた困る)という話は、なんとも気持ちの暗くなる、うっとうしい話だ。これでピューリッツァ賞を受賞したなんて、信じられない。

こんなマギーに共感する人もたくさんいるんだろうと思う。人生はカッコのいいことばかりじゃないからだ。でも、私はどうもダメ。こ難しい話がいいというわけじゃないが、愚痴話なんて、ほんと聞きたくない。どうしても聞かなきゃいけない場合もあるが、それは現実の世界だけでたくさんだ。

解説にはユーモアとペーソスとあるのだが、ユーモアもまったく感じられなかったし、ペーソスだって、マギーの勝手な被害妄想じゃないのか?としか思えなかった。

2003年12月16日(火)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 川べにこがらし/ウィリアム・ホーウッド

出版社/著者からの内容紹介
モグラくんは吹雪の森へ、ヒキガエルさんは空飛ぶ冒険の旅へ──。行方不明の友だちを心配して救出作戦を練る、しっかり者のミズネズミさん、考えぶかいアナグマさん……。ケネス・グレアムによる世界的名作『川べにそよ風』の続編として、川べに住むゆかいな仲間たちがくりひろげる傑作動物ファンタジー。


ケネス・グレアムのオリジナルも大好きなのだが、これもまた作家が違うとは思えないほど特徴を捉えて書かれている。というか、私が読んだ本の翻訳が同じ人なので、日本語では同じ文体になるんだろうが。ちょっとびっくりなのは、ネズミさんとモグラくんがすっかり「オジサン」になっていること!モグラくんなどは、甥まで出てきて、呼び名も「おじさん」だ。

しかしこの物語では、誰にも名前がないから、おじさんとか甥とかと呼ぶしかないんだろう。唯一名前があるのは、カワウソの息子のポートリーだけ。さすがに、父親が「息子」と呼ぶのはおかしいからだろう。おじさんが甥を「甥」と呼ぶのも変だが、幸いにもそういう場面はなかった。原文でも単純に、モグラはmoleだし、カワウソはotterだ。だから登場人物はあまり増えない。イタチはたくさん出てくるが、その他大勢の役柄なので、いちいち名前などない。

さて、これはタイトルに「こがらし」とあるように、川べの冬の物語で、大雪の夜、緊急の用事でネズミさんのところに行こうとしたモグラくんが、そのまま行方不明になってしまった。モグラくんの運命はいかに!というわけで、ちょっと覗き見するだけのつもりが、そのまま読む羽目に陥った。

登場する動物たちの特徴はいうに及ばず、ストーリー展開や川べのコミュニティの雰囲気など、グレアムが書いたとしか思えないほど見事な続編で、とても面白かった。むしろこの続編のほうが、テンポがよくて面白いといえるかもしれない。しかし、それはオリジナルがあってこそのことだから、どちらが優れているとはいえないだろう。

この物語を読むといつも感じるのは、動物たちのサイズは一体どうなっているんだろう?ということ。擬人化されているので、そんなことを考えるだけおかしいのだが、彼らの中で唯一人間社会と接触を持つヒキガエルのサイズがどうしても不思議でしょうがない。人間の服を奪って着るし、人間の自転車や飛行機にも乗るし、はては人間の女性と抱き合ったりもするのだから、どう考えても、とんでもないサイズのお化け蛙だ。それが荒唐無稽で面白いのだけれど、このヒキガエルはしょうがない奴で、いつでも皆を困らせるのだが、どうしても憎めないキャラクターとして描かれており、彼がいなくなると、<原始の森>は全然面白くなくなるといった具合。

しかし、私が一番好きなキャラクターはモグラくんだ。いつもモグラくんの所から話が始まるので、主人公はモグラくんなのだろうと思うのだけど、その割に目立たず、地味なキャラだ。けれども、<原始の森>のコミュニティには欠かせない存在で、モグラくんなしでは、この物語は成り立たないだろう。これは他のキャラも同様だが、モグラくんの真面目さが、ヒキガエルの馬鹿さ加減も救っているし、彼らの絆を強く結び付けているような気がする。

モグラくんの家の様子を読んでいると、なんとなくJ.R.R.トールキンの『ホビットの冒険』を思い出す。自分はけして冒険など好きではないし、暖かな家の中でおいしいものを食べて暮らしていたいのに、どういうわけか、冒険にかり出されてしまう。嫌だとか困ったとか思いながらも、その中心になってしまうのが、まさにホビットのビルボ・バギンズだ。この物語のモグラくんもそのくちで、そういったモグラくんのお人好しさが実にほほえましい。

2003年12月12日(金)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 サンタクロースの冒険/ライマン・フランク・ボーム

バ−ジーの森のはずれに捨てられ、ニシルという森の精に拾われた人間の赤ん坊は、クロ−ス(小さな子)と名付けられ、ニシルに育てられる。サンタクロースはセント・ニクラウスだという話もあるが、本当は「ニシルの小さな子」という意味のニクラウスなのだそうだ。悪というものを知らず、愛にみちあふれたニンフたちに育てられたクロースは、幸せに成長する。ある日森の支配者アークに連れられて世界をまわる旅に出る。そこで、自分と同じ種族である人間が世の中にはたくさんいて、一生懸命働き、年をとり、死んでいく運命であり、しかも彼らには世界をもっといいものにして残すという使命があることを知る。

これを知ったクロースは、子供たちの幸せのために身を捧げることが、自分の使命であると気づく。クロースは森を離れ、笑いの谷に住む。そこで作った木の彫刻がクロースが初めて作ったおもちゃであり 、それを吹雪の中で倒れていた少年にあげたのが、子供のためにおもちゃを作るようになったきっかけである。クロースのおもちゃの評判はたちまち広がり、やがてクロースは、森の妖精たちの力を借りながらおもちゃ作りに明け暮れ、袋に入れて子供たちに配って歩いた。

ところがある冬の日、大雪で歩いて配ることができないため、獣の監視役であるヌックから、一晩だけニ頭のシカを借りた。それがクロースがトナカイと共にそりで旅をすることになったきっかけだった。それからも一年に一度、クリスマス・イブにだけ十頭のシカを借りられることになり、クロースは世界中の子供たちにおもちゃを配ってまわることにした。クロースのこの行ないは、世界中の子供たちとその親たちから喜ばれ、その人はセイント(聖人)なのだろうと噂された。これがクロースがサンタクロースになり、一年に一度クリスマス・イブにだけ彼からプレゼントが届くようになった所以。ちなみにトナカイはレインディアで、レインは手綱、ディアはシカ。つまり手綱をつけたシカという意味。

この他、靴下の中にプレゼントが入れられるようになったいきさつ、クリスマス・ツリーは何のために飾られるようになったか、おもちゃの他にお菓子がプレゼントに加えられるようになったのはどうしてか、人間であるはずのサンタクロースはなぜ死なないのか、煙突や暖炉がなくなってきた現代では、サンタクロースはどのようにしてプレゼントを届けるのか、など興味深い事柄が語られている。

だが、これまでに聞いてきたサンタクロースの話とはだいぶ違う。サンタクロースは誰か?というのも定かではないが、例えばトナカイの名前。『Night Before Christmas』に出てくるトナカイの名前を全部覚えた人は、あれ、これは違うじゃないか!と思ったはず。それに、サンタの家はノースポール(北極)のはずだし、サンタも妖精のはずだし・・・などなど、戸惑うことも多いだろう。とはいえ、そもそもがおとぎ話(と言ってしまうのも何だが)だから、どんな風に書いたっていいわけなのだが、ずっと信じてきたサンタの話が、ずいぶん違って書かれている。

これはこれで心温まるお話なのだが、ちょっとばかり教訓じみていて、サンタの持っているユーモラスなキャラクターが出ていない。また、クリスマスにまつわる伝統(例えば靴下のこととかツリーのこととか)も、だいぶ違う話になっている。日本はクリスマスと言ってもただうわべだけのことだからいいが、欧米ではこれは受け入れられるのだろうか?煙突がなくなってきたので、サンタの代わりに妖精たちが壁を通り抜けて届けているとか、世界に人が増えて大変になったので、おもちゃ屋におもちゃを預けていて、いつでも買えるようにしたとか、ここまで書いてしまうとちょっと興ざめの感がある。現代の子どもたちが質問しても答えられるように、辻褄あわせをしているようなところがずいぶんあって、苦笑せずにはいれない。

極めつけは、サンタがクリスマスツリーを用意しておいてくれと親に頼むことだ。そうすれば、サンタはそこにプレゼントを放り投げていけばいいからと。あとはお父さん、お母さん、よろしくね!というわけ。これは夢を打ち砕く話だ。サンタクロースの行いは立派で、笑顔で世界中の人を幸せにし、笑顔で世界中の人から尊敬されるということは、武力に頼るばかりの現代では、非常に大事なことだと思うが、昔からの子どもたちの夢は、たとえ辻褄が合わなくたって、壊して欲しくない。サンタクロースは人間の想像をはるかに超えた存在なんだから!今やサンタクロースがコンピュータを操っていたとしても、クリスマス・イヴのプレゼントの配達は、伝統にのっとってやってもらわないと困る。(^^;

2003年12月09日(火)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 The Holly Pond Hill Christmas Treasury/Paul Kortepeter, Susan Wheeler

<Holly Pond Hill>シリーズの大型絵本だが、クリスマスシーズンのあれこれを書き込んだ歳時記のような本。字も細かい。

特別なストーリーなどはなく、クリスマスを楽しんでいるうさぎのボックスウッド家の様子が描かれており、この時期には何をするべきかというカレンダーや、雪にちなむ遊びや食べ物のあれこれ、クリスマス・ソングの歌詞と楽譜、クリスマスに食べるお菓子のレシピ、手作りプレゼントの作り方、幼子イエス(これもうさぎ!)の誕生の物語などなど、盛りだくさん。最後にはクリスマスの朝のサプライズ。子うさぎたちの嬉しそうに輝いている顔がとてもかわいらしい。

私は「洋服を着た動物」の話が大好きなので、この本は物語としては特に面白いものではないが、擬人化されたうさぎたちのかわいらしさに、眺めているだけで、満足。


2003年12月08日(月)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 女だけの町─クランフォード/エリザベス・ギャスケル

<12月読書会課題本>
世の荒波からぽつんと取り残された田舎町クランフォード。浮世ばなれしたこの町につましく暮らす老嬢や未亡人ら「淑女」の面々は、ちょっと風変わりだけど皆底抜けに善良な人ばかり。イギリスの女性作家ギャスケル(1810-65)が、絶妙な味わいの人情噺さながら、ユーモアとペーソスたっぷりに語る女の世界。
─カバーより


これは面白い!というか、愉快!イギリスのクランフォードという町(マンチェスターの近く)の話なのだが、とにかくこの町、ある程度の家賃以上の家を持っているのは女ばかりという状況。たとえ男がいたとしても、どういうわけか姿を消してしまうのだそうな。ともあれ、冒頭2ページ目で、いきなり笑わされた。

「・・・いずれにしてもクランフォードの淑女たちだけで、十分手が足りるのですから。その淑女の一人がかつて私に言いましたように、「男って、家にいるととってもじゃまね!」というわけです」

こんな時代(オースティンやディケンズと同時代)にも、男ってそう思われていたのか!と声を出して笑ってしまった。この淑女たちのやり取りがまたおかしく、「長旅のあとで(といっても、おかかえの上等馬車で15マイル(24キロ)旅しただけなのですが)・・・」といった具合。

ミス・ジェンキンズという男にひけをとらない意志強固な女性については、「・・・とはいうものの、彼女は近頃はやりの男女平等論など軽蔑しきっているのでした」というので、なにやかやと言ってもやはり古風なのだろうかと思っていると、「平等ですって、とんでもない!女のほうが上にきまっているじゃありませんか」というわけだ。

語り手は非常に丁寧に優雅に物語っているのだが、登場人物の一挙手一投足がおかしくて笑える。かといってわざわざユーモラスに書いているわけではなく、真面目に観察して書いた結果が笑えるのだ。こういうのは面白い!

ブラウン大尉という町で唯一受け入れられた男性とも言うべき人については、笑える部分もたくさんあるが、ほろりとさせられるところもあって、「ユーモアとペーソスたっぷり」という解説どおり。マス・マティの母上が亡くなるところでは、またしてもほろりときた。ギャスケルは読者を楽しませる(?)コツを十分把握しているようだ。笑わせたかと思うと、泣かせる。

それにしてもクランフォードの淑女たちが、「俗な」ことを嫌うのはわかるのだが、そのあまりに、滑稽なことになっているのがおかしい。些細なことで大騒ぎする様子や、なかなか本題に入れないおしゃべりの様子が、現代にも通じる女性の本質を捉えているようで、おかしくて仕方がない。実在の人物が目に浮かぶようだ。古今東西、女性はそういったものなのだろう。

そしてまた、「男なんてじゃまね!」と言いながらも、できることなら結婚したいという気持ちを皆持っていること。これもいつの時代でもあることなのだろう。誰か頼れる人がいれば・・・の「頼れる人」とは、女性の場合は、やはり男性なんだなと、改めて思った。また、妻がいなくなってからの夫の弱くなること!これもどこでも一緒なのかも。例え気持ちが通じ合っていないようでも、長年連れそう夫婦の絆というのは、確かにあるのだなとしみじみと思った。これは男女平等とかフェミニズムとかには関係なく、人が人と出会い、何かしらの縁で結ばれたなら、お互いに相手を思いやって大事にするべきだと、自らの反省の意味も含めて感じたことだ。

後半登場する、マス・マティの弟ピーター。父に叱られて家を飛び出し、海軍に入ってインドで行方不明になるのだが、その弟が帰ってくる。このピーターが、ギャスケルの実の兄(商船の乗組員だったが、やはりインドで行方不明になっている)の面影を描いているようで、何とも切ない。その兄が帰ってくればいいなという思いが、ひたひたと伝わってきて、最後のハッピーエンドはあまりにできすぎているとも思うのだが、こうしないではいられなかったギャスケルの気持ちに、これでいいのだと納得せざるを得ないものがある。

この物語の語り手であるメアリー・スミスは、冷静に観察をしているのだけれども、実際にはクランフォードの淑女連と一緒になって、ああでもない、こうでもないとおしゃべりしているのが目に浮かぶ。小さな田舎町のクランフォードと、大都市マンチェスターとを始終行き来しているわけだが、彼女はすっかりクランフォードの人となっているようだ。けれども、女性の本質は、マンチェスターでもクランフォードでも変わらないだろう。しかしメアリーは、両方を眺めることができる点で、淑女連の観察が可能になったのだと思う。この一歩離れた立場が、この物語にユーモアを添える視点として重要になっているのだろう。

2003年12月07日(日)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 One Wintry Night: The Christmas Story/Ruth Bell Graham

これはクリスマス本としては割に売れているようなのだが、買った人は皆、騙されたー!と思うに違いない。この表紙から、中身が「聖書物語」だなんて、誰が思うだろう。いわば勘違いではあるけれど、あまりに表紙と中身が違いすぎる。これには解説もレビューもなかったし。クリスマスと言えばキリスト様のお誕生日だから、べつに間違ってるわけじゃないけれど、吹雪の中で遭難した少年が、クリスマスエルフに助けられるとか、そういう話を想像していたのに。。。

出だしはたしかに表紙の通り、少年が山で吹雪にあう場面から始まるのだが、避難した先の家(少年のお祖父さんが作った家らしいが、それがこの話に関係あるのか?と思う。とりあえず、悪い人の家じゃないよってことなのか?)で、世話をしてくれたおばさんから、聖書の物語を聞くという筋書き。どうやら現代と言っても電話などはない時代のようで、足首を捻挫して帰れないので、しばらくそこに厄介になるのだが、少年の家の人は心配しないのだろうか?と、そちらのほうが気になってしまった。少年が暖かい部屋で、ぬくぬくと話を聞いている間、雪の中を必死の捜索をしているかもしれないじゃないかと、余計な心配をした。

一応「大型豪華絵本」という感じだが、絵本の割には字が詰まっている。絵もリアルな細密画で、こういうのが好みの人にはいいだろう。天地創造から始まって、キリストが十字架にかけられるまでの話が、絵とともにあるわけだが、クリスマスという機会に聖書の話をざっと知りたいという人には、絵も見ごたえがあるし、いいかもしれない。

それにしても、神がエジプトに災厄を与えるところで、見開きいっぱいに蛙の絵があったのには閉口した。かわいい蛙ならいいが、先に書いたように、これはリアルな細密画。蛙嫌いの人は、そこで投げ出すだろう。しかし、せっかくのリアルで壮大な感じのイラストなのに、最後の絵が少年のシャツと股引の後姿っていうのはどうなの?(^^;



2003年12月06日(土)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.



 Christmas in Camelot(Magic Tree House, 29)/Mary Pope Osborne

主人公のジャックとアニーの兄妹は、アーサー王のいるキャメロットへ行く。実はこの設定は特別なものだった。このシリーズ、魔法で本の中のいろんなところに行くのだが、どれも実在の場所というのが基本らしい。ところがキャメロットは伝説の中の場所。最後に私の好きなマーリンが現れて、この設定の謎が解ける・・・。

ジャックとアニーが森の中で見つけたツリーハウスは、モルガン・ル・フェイ(アーサー王の異父姉である妖姫)の魔法がかかった<Magic Tree House>だった。そこで本を開いて強く願えば、本の中に飛び込んでいけるのだ。

これまで数々の冒険をしてきたジャックとアニーだが、今回は少し様子が違うようだ。アーサー王のいるキャメロットから、クリスマスの招待状が届いたのだが、さて行ってみると、招待状を出したのはモルガンではないという。それに、どうもキャメロットの様子がおかしい。それというのも、アーサー王の敵モルドレッド(王の息子)の側の闇の魔法使いに、喜びの感情を奪われてしまったのだという。

円卓の騎士であるランスロット、ギャラハッド、パーシヴァルが「別世界」に「記憶と想像力の水」を取りに出かけたが、いくら待っても帰ってこないので、王はすでに諦めきっていた。そこにクリスマスの騎士が現れ、ジャックとアニーを冒険へといざなう。

あのランスロットにも果たせなかった冒険を、こんな子どもたちが?という感じだけれど、白い鹿の助けによって、とにもかくにも冒険は無事に済んだ。3人の騎士も救い出し、「記憶と想像力の水」も手に入れた。ドラゴンとだって戦った。世にも恐ろしいドラゴンが、たいまつの火で逃げてしまうなんて!と思ったが、まあ、目をつぶろう。それに、水をゴブレットで運ぶなんて、頭悪いんじゃない?って感じだけど、アーサー王物語には聖杯がつきもの。それも仕方がないだろう。

結局ゴブレットを運んでいたジャックが、最後に・・・。ぎゃー!やっぱり!この場面を書くために、ゴブレットだったのか!聖杯云々など関係なかったわけね。(^^;

ともあれ結末はマーリンも登場して、ハッピーエンドで、めでたし、めでたし。あれこれ突っ込みたくなる部分はたくさんあるのだが、子どもの読み物としては、ハラハラ、ドキドキがたくさんあって、冒険心をくすぐるだろう。このシリーズを読んだ子どもたちが、自分の近くにも<Magic Tree House>がないかなあと憧れたりするかもしれない。でも、魔法のツリーハウスがなくたって、本を読めばいろんな世界に飛び込んでいける。そういうことに気づいて、たくさん本を読んでくれるといいなあと、明るい気持ちになれる本。






2003年12月05日(金)
Copyright(C) 2000-216 SCHAZZIE All rights reserved.
初日 最新 目次 MAIL HOME


↑参考になったら押してください
My追加

Amazon.co.jp アソシエイト