読書の日記 --- READING DIARY
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 Witch Child/Celia Rees

内容(「MARC」データベースより)
「私のおばあさんは魔女として拷問され殺された」。17世紀中頃に書かれたメアリーの日記による物語。魔女の血をひく娘として迫害を逃れ新大陸へ脱出したが、そこでもまた…。


イギリス。時はピューリタン革命後、クロムウェルの息子が護国卿として国を治めていた時代。祖母によって育てられたメアリーは、両親の名前も顔も知らない孤児。他に身寄りもなく、祖母が魔女であるとして処刑されたあと、祖母に面倒を見てもらったという人の助けで、アメリカに渡ることになる。

過酷な航海、初めて見るオーロラや鯨。嵐の中で産気づいた妊婦を助け、死んで生まれた子供を助けるメアリー。魔女と思われると危険なので、人々の中で隠れるようにして生きているのだが、常に自分は魔女の血を引いていると感じている。船の中で知りあったジャックに友情を感じるものの、彼の運命のビジョンを見てしまい、苦悩する。そして遂に到着したアメリカで、「あなたのことは知っている」と言われる・・・。

約半分ほど読んだが、メアリーが魔女の血を引いていると感じる部分は少ない。つまり中世に魔女と呼ばれた人たちが迫害されていたという歴史的な背景を舞台に、一人の少女の運命を描いているといった感じ。ファンタジーっぽいのかと思っていたら、全然違う世界だった。ただ、主人公のメアリーには魅力がある。ひっそりと生きているのに、とても大きな存在感がある。この先の自分の運命は過酷であるとわかっているし、たった一人で新しい世界に向かわなければならないという試練に、怯えながらもしっかり立ち向かっているメアリーは、とても高潔な少女に思える。船に乗り合せたコーンウェル牧師が、オーロラを見て天国を見たと大騒ぎをしているのに対し、冷静に私には天国には見えないと思っているメアリーの淡々としたところが面白い。


メアリーたちが過酷な航海を経て辿り着いたところは、アメリカのセーラム。しばらくしたのち一向は荒野を開拓し、小さな町を作る。生活も落ちついてきた頃、魔女騒動が持ちあがり、メアリーも何度か疑われたあと、ついに捕らえられるときが来た・・・。

この本はメアリーが魔女であるといった話ではなくて、ほとんどが、祖母が魔女として殺されたためにアメリカに渡らざるを得なかったメアリーの苦難の人生を描いている。最後に祖母のやり方を真似して魔女の技を見せるのだが、そこで初めて、メアリーは本当に魔女だったのか?と思う。最後は周囲の人の助けで森の中へと逃げるのだが、そのあとは続編『Sorceress』へという具合。日記形式で書かれてきた話が、突然途中でぷっつり切れて終わるというのは、必然的にどうなったんだろう?という思いを書きたてられるが、最後の数ページは、のちにメアリーの日記を見つけた人によって書かれたという設定で、時代も現代になっている。

期待していたファンタジーではなく、内容も暗いものだったが、当時の「魔女裁判」というものが、周囲の人の悪意や嫉妬などに基づく、いわれのないものであったことが描かれていて、悪魔や黒魔術といったものは、そういった人間の邪悪な心が生み出したものなのだということを感じた。特にその時代のキリスト教の牧師や宣教師といったものが、その最たる者として描かれているのが興味深かった。キリスト教を布教する目的のもと、邪悪な心も広めて行ったのだろうか。キリスト教に限らずどんな宗教でも、神の教えを素直に広めるのではなく、神の名前を借りて、人間の勝手な解釈を広めているにすぎないという感じがした。そういう意味で怖い話だった。

●メアリーの魔法
メアリーの使った技は、いわゆる魔法とかではなく、今で言う、透視やテレパシーといった「超能力」の一種だと思う。昔の人のほうが、機械に頼る現代の人間よりも、そういった力は持っていたのではないかと思う。それが顕著な場合に魔術とされ、そういった技はキリスト教にとっては非常に不都合であったため(神以外のものが奇跡を行うという意味で)、弾圧されたのだろう。この本では、布教を行っている牧師たちの無能さや、思いあがった傲慢な態度など、許せない部分もたくさんあった。それがすべて真実とは思わないが、そういったことは実際にあっただろうとも思う。いつだって、権威を身に着けた人間が一番愚かで恐ろしいのだ。


2003年10月31日(金)
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 燃える家/アン・ビーティ

内容(「BOOK」データベースより)
ともに愛に破れたはずの親友に届いたラブレターを破り捨てる午後…『プレイ
バック』離婚歴のある恋人の16歳の娘とともにすごす、ある夏のバカンス…『浮遊』シングルマザーの友人の息子をつれて、妻子ある男性と重ねるデート…『身をゆだねて』未入籍の事実を知らない母親の60歳の誕生日に家族と集う海辺の家…『女同士の話』結婚生活の崩壊を予感しながらも、ホームパーティを開く夫婦の宵…『燃える家』
現代を生きる女たちの「ある日、ある時」―15の風景。“シチュエーションの作家”と呼ばれるアン・ビーティが贈る、珠玉の傑作短篇集。

目次
身をゆだねて - Learning to Fall
浮遊 - Afloat
プレイバック - Playback
シンデレラ・ワルツ - The Cinderella Waltz
女同士の話 - Girl Talk
重力 - Gravity
欲望 - Desire
ハッピー - Happy
いさり火 - Jacklighting
光と影 - Sunshine and Shadow
待つ - Waiting
駆けめぐる夢 - Running Dreams
ガラスのように - Like Glass
グレニッチ・タイム - Greenwich Time
燃える家 - The Burning House


お父さんとお母さんと子供、そして犬。一見普通の家族の姿のようだが、「どの家族もただ者じゃない!」。というか、どの話も両親は離婚していたり、不倫しているのがあたりまえで、それも「ある一瞬に離婚を決意した」とか、「さっさと恋人のほうを選んでしまった」とか「夫の恋人はホモだった」とか、かなり自己主張の強い人間ばかり。たった一度の人生だから、それはそれでいいと思うが、そういう大人の間で、子供はまるでドッジボールのようになっている。子供にふり回されず、それぞれ自分の人生を生きるという考え方は、非常にアメリカ的だとも言えるかもしれないが、あまりにもあたりまえに離婚や不倫が描かれているのが、私としては不快。子供のためにということでなくても、夫婦関係を続ける努力というのはないんだろうか?

と、まあ個人的な結婚観を述べても仕方がないが、とにかく、家庭をテーマにして、よくもこれだけいろいろな状況を考えつくものだと感心もした。つまり、そういうところが「シチュエーションの作家」と言われる所以なのかと納得。そういうことで考えれば、面白いと言える。作品の数を重ねるうちに、今度はどういう状況なのかと面白くなってきたのは事実だ。

どの作品も、話の冒頭は状況が良くわからず、この人たちはどういう関係なの?と頭を悩ます。そのうち関係がわかってくるのだが、だいたい主人公は女性で、相手の男性がいろいろ悩んで取り乱す場合が多いのに、女性たちは皆、冷静なことが多い。書き手が女性だからというのもあるだろうが、何やら恐ろしい気もする。

そしていきなり話題や状況が変わって、全然違う話になり(事態が展開するという意味ではない)、え?なんの話?となる。そういう書き方は、ヴァージニア・ウルフとかの「意識の流れ」というのに近いのだろうか?読んでいるほうは非常にとまどうし、個人的にそういう書き方は好きではないので困惑ものなのだが、「ウルフほどじゃない」と言っておくべきか。これは私の中では誉め言葉だ。

最も納得できないのが、すべての話の結末。これがどれもすっきり終わっていないので、気持ちが悪いのだ。書き手はうまく、あるいはきれいに結末をつけたつもりでいるのだろうと思われるが、これも私には好みでないと言うしかないのかも。そもそも話の内容が、けして明るいものではないから、どんなふうに終わっても、すっきりすることなどありえないのだろうが、どうも気に入らない。ハッピーエンドなのか、そうでないのかということとも違う、納得のできない一瞬で終わっている。登場人物は、読み手の中でいつまでも救われない。

こう書いてくると、アン・ビーティという作家を否定しているようだが、読み終えてみると意外にも面白かったと思えたので、けして否定しているわけではない。あとは好みの問題だろう。女性の視点で書かれているから、登場人物の気持ちや考え方に共感を覚える女性もいるだろう。そういう場合は、きっとはまると思う。私はどれも共感できないが。ただ、「シチュエーションの作家」というのはよくわかったが、「短編の名手」であるというのは、いまだに納得できない。これも好みの問題だろうか?

この短編集には、どの話にも植物の名前がたくさん出てきた。例えば『赤毛のアン』に植物の名前がでてくれば、それは主人公の性格や、周囲の状況とあいまって物語を盛り上げているので、とても効果的なのだが、ここではどんな植物を出しても、あまり意味を持たないような気がした。

それと、トールキンの『指輪物語・二つの塔』が出てきたが、アン・ビーティも『指輪物語』は読んでいるのか、それとも子どもの話の部分なので、年齢などを考慮して、そのあたりが妥当な本だと思ったのか定かではない。話は、離婚したお父さんのもとに遊びに行って帰ってきた子どもが、忘れ物をしたので届けて欲しいと言うが、『二つの塔』だけだったので届けなかったというもの。「離婚したお父さんのところへ行く」という状況も悲しいが、私がその年頃であれば、「指輪」の1冊は大切な本だったと思う。つまり、アン・ビーティにとって、『指輪物語』は大切な本ではないということなんだな、さらに言えば、こういった細かいところで、子どもの大切なものがわからない、自分本位なお父さんを描いているのか?とまで考えた。

ついでに言えば、カフカの『変身』に出てくる「虫」は、ゴキブリと明記されているわけではないのに、ビーティはゴキブリだと書いている(原文はわからないが)。これも、想像をたくましくせずに、読んですぐ「ゴキブリ」としか頭に浮かばなかったのだろうか?などと、またどうでもいいようなことを思った。

要するに、アン・ビーティ作品は非常に現実的。「状況を変えようとして血を流すのではなく、その流れに身をゆだねて浮遊し、優雅さを旨としている」(訳者・亀井よし子氏解説より)人々の話ばかりなのだ。

書いてあることは、実際にあるような男女の形、家族の形であったりするのだろうし、そこに共感を覚える人もいるだろうが、やっぱり私の好みではない。現実を見たくないというわけではないが、男女間のことでも家族のことでも、もっと違う世界に住みたい。「優雅」でなくてもいいから、『指輪物語』にロマンを覚え、『変身』のザムザは、一体どんな虫になったのだろう?とあれこれ考えるような人間でいたいと思う。しかし、苦手だ、感想がないと言いつつも、ここまで長々と(だらだらと?)書けたのだから、この本を読んでけして無駄ではなかったと思うべきだろう。

2003年10月29日(水)
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 Lucinda's Secret (Spiderwick Chronicles, 3)/Tony DiTerlizzi & Holly Black

結局3巻まで読んでしまった。
今回は、精神病院に入れられているルシンダ大おばさんに会いに行くグレイス家の子供たち。そこで妖精の世界の秘密を聞くのだが、私としてはちょっと物足りない。話が短いので、詳しく書けないのだろうが、この「秘密」が一番知りたい部分だったので、うーんという感じ。

結局聞きだせたのは、ルシンダおばさんの父親アーサー・スパイダーウィックは、ある日突然家族を捨てて消えてしまったということだった。しかし、おじさんは家族を捨てたわけではないのだろうと判断したジャードたちは、森におじさんを探しに行くのだが、森のエルフにつかまってしまう。おじさんが書いたあの「妖精の手引書」を渡さないと、いつまでもサイモンを捕らえておくというのだ。

最後はジャードが機転をきかせて逃げ出せるのだが、なんだかひとつひとつのエピソードが全部中途半端な感じで、出てくる妖精や化け物たちもあまりいかされておらず、ただ種類が多ければいいという感じがなくもない。姉弟の関係も、助け合っているようで、実は全然助け合ってない。現代っ子と言ってしまえばそれまでだが、がんばっているのはジャードだけという感じ。

全体としては一気に読めるのだから面白いと思うのだけど、児童書の域を出ないという感じ。そういった意味では「ハリー・ポッター」はやはりすごい。もっとすごいのは「指輪物語」だということになるだろう。やはりこれ、5巻まとめて1冊で出して欲しい。1冊1冊が、なんとなく物足りない。次を読みたいという気持ちはあるのだが、読み終えて、ああ面白かった!と心から言えない物足りなさだ。

それにしても、エルフってやっぱり耳がとがっているんだな。ユニコーンの絵はちょっと貧相でがっかりだった。



2003年10月28日(火)
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 The Seeing Stone (The Spiderwick Chronicles,2)/Tony DiTerlizzi & Holly Black

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よりエキサイティングでちょっと恐くなった、「Spiderwick Chronicles」シリーズの第2弾。前作『The Field Guide』で暗示された不思議な妖精の世界が、グレイス家の子どもたちの前にあざやかに立ち現れる。

ジャードはシンブルタック(“鉛筆くらいの大きさ”のつなぎを着た茶色い妖精)と、とりあえず和解はするが、高大叔父の謎めいた学術書「Arthur Spiderwick's Field Guide to the Fantastical World Around You」(アーサー・スパイダウィック 身近な空想世界図鑑)を破棄してくれというシンブルタックの願いは、あえて無視する。シンブルタックは「私の忠告にもかかわらずその本を持っていたら、いずれ報いがある」と警告する。かくして妖精は、空気に「恐ろしい匂い」をかぎつけ、サイモンの新しいネコが消えたことも意味を持ちはじめる。もし「IN WHICH Mallory Finally Gets to Put Her Rapier to Good Use」(いよいよマロリーが剣を有効に使いはじめる)の章で、子どもみたいにドキドキしなかったとしても、後半で多くの妖精が登場するまで読み進んでみてほしい。(「本を閉じないで! これからおもしろくなるんだから!」)

3人は事態を、どうにか母親に悟られないようにしながら、この奇妙で(かつ危険な)新しい世界のルールを学んでいく。前作同様の早い展開のなかで、一体どんなトラブルに巻き込まれていくのだろうかと、私たちの想像力を刺激する。次の第3弾は『Lucinda's Secret』だ。ルシンダの秘密とはなにか…すぐにでも読んでみたい。(Paul Hughes, Amazon.com)


ブラウニー(またはボガート)という種類の妖精シンブルタックが出てきて、ジャードに警告をするのだが、それを無視したために、サイモンがゴブリンにさらわれてしまった。

全部挿絵があるんだけれど、ゴブリンて蛙みたいで全然イメージが違う。「ハリポタ」のグリンゴッツ銀行のゴブリンとか、「指輪」のゴブリンとか、見かけは不気味だけど、形は人間っぽいのに、ここに出てくるのは猫のような耳をした蛙。このあと、他にどんなのが出てくるんだろう。

しかし、さらっと読めて、それなりに面白いのだけれど、期待したほどではなかった。読み終えていろいろ疑問が出てきた。例えば、普通の人間は妖精が見えないのだが、なんだか変な単眼鏡をかけると見えるようになる。だとしたら、なぜシンブルタックは見えるんだろう?とまずそこから疑問。その後、ゴブリンの仲間のホブゴブリンに会い、そのつばを目につけると、単眼鏡がなくても見えるようになる。ふうーん、という感じ。

この巻には、ブラウニー、ゴブリン、ホブゴブリン、グリフィン、トロル、小妖精(スプライト?)などが出てくるが、小妖精はなぜ出てきたのかな???
それと最後に動物好きのサイモンが、ゴブリンにいじめられていたグリフィンを助け出して、家に連れてきちゃうというのがすごい。いくら動物好きでもさ・・・・。

やっぱりこれは1冊が短かすぎる。1冊で1章分くらいの話だ。結局、高大叔父さんのアーサー・スパイダーウィックについても何も書かれていないし、その兄のセオドア・スパイダーウィックが子供の頃(10歳)に失踪した事件もうやむやだ。私としては、妖精とか化け物もいいが、そちらのほうをもっと詳しく知りたかった。3巻目の『Lucinda's Secret』には、そういったことが書かれているのかしらね?と、また期待するが、過剰な期待は持たないほうがいいだろう。


2003年10月27日(月)
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 The Field Guide (The Spiderwick Chronicles,1)/Tony DiTerlizzi & Holly Black

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『The Field Guide』は、ファンタジー小説「Spiderwick Chronicles」全5巻シリーズの第1弾。主人公は、グレイス家の3人の子どもたち。13歳の長女マロニーと9歳の双子の弟、ジャードとサイモンが、ビクトリア朝のお屋敷に引っ越したところから物語は始まる。壁からは、奇妙な音が聞こえ、マロリーがホウキでつつくと中からは…。

「Spiderwick Chronicles」シリーズは、全巻が、グレイス家の3人の子どもたちが著者へ宛てた手紙で始まり、個性的で夢のあるストーリーが続く。「妖精の国の手引書」を発見したり、朝目覚めたらベッドのヘッドボードに髪が結びつけられていたり、次から次へとおこる不思議な出来事にわくわくさせられ、読者は、ページをめくる手が止まらなくなってしまうだろう。

数ページごとにはさまれたペン画の挿絵は、コルデコット賞受賞作家トニー・ディターリッジによるもの。3人の子どもたちの表情、古ぼけたお屋敷や埃っぽい屋根裏部屋の挿画は、読者を物語の不思議な世界に誘い込むだけでなく、英語が母国語でない読者が物語を理解するのを助けてくれる効果がある。映画化も決まった、この新しいファンタジー・シリーズは、「ハリー・ポッター」の次に何を読むか迷っている世界中の読者の心をひきつけるだろう。(尾辻夏子)


本が増えたので、本棚の整理をしていて、つい手に取ったこの本。他に読まなければならない本が山積みなのだが、そもそも読むのを楽しみにしていた本だから、ちょっと冒頭だけ・・・のはずが、ついつい引き込まれてしまった。本の作りとかはレモニー・スニケットの<不幸シリーズ>にそっくりだが、中身はファンタジー。

普通の子供達が、両親の離婚により、母親と一緒に引っ越してきた古い家。そこには、ちょっとおかしいと思われているルシンダ大伯母さんの、父親アーサー・スパイダーウィックの残した、妖精の手引き書があった。この本に書いてあることを信じ込んだジャードは、母親はもちろんのこと、姉のマロリーや双子の兄弟サイモンにもなかなか信じてもらえず、絶対に妖精を捕まえるぞと決心する。だが、ある日姉弟3人がアーサー・スパイダーウィックの秘密の部屋に行ってみると、鉛筆サイズの妖精が現れる。

1巻目はここで終わってしまうので、すぐにも2巻目に手を伸ばしたいところ。1巻目は、妖精たちとの出会いに至るまでのプロローグといった感じ。全5巻の予定のこのシリーズ、おそらく全部合わせても、ちょっと厚めのファンタジー1巻分くらいだろう。短いのであっという間に読めるのはいいが、この先はどうなるのか、どんな妖精たちが出てくるのか、彼等は何をするのか、どんな冒険が待っているのかと、子供達は次の本が出るのが待ち遠しいに違いない。

いうなれば、スティーヴン・キングの『グリーンマイル』のような出し方。ディケンズも用いた、この小出しに出版するやり方、それがいいというわけではないが、この本は内容も面白いし、この程度の分量でも十分想像力をかき立てられ、夢中になれる。イラストも内容に合っていて、なかなかいい雰囲気を出している。早く続きを読みたいと思わせる要素は十分ある。

なにげなく、あっさり読めてしまうけれど、今後の展開によっては、非常に楽しいシリーズになるだろうと思う。とりあえず1巻目は、読者の心を掴むのに成功していると言えると思う。

2003年10月26日(日)
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 銀河ヒッチハイク・ガイド/ダグラス・アダムス

銀河ヒッチハイク・ガイド
ある日、突然、地球は消滅した。誰も知らないうちに銀河バイパスの用地に指定され、立ち退き命令まで出ていたのだ。たったひとり生き残ったのは、サエない男アーサー。地球に住みついていたベテルギウス人フォードに助けられ、宇宙ヒッチハイクをする破目になったが、まず出くわしたのは、地球破壊の元凶ヴォゴン人の宇宙船だった・・・。おかしくもちょっと悲しいSFパロディー。
─カバーより

※画像は原書『The Ultimate Hitchhiker's Guide』/Douglas Adams


この本は、イギリスBBCラジオで放送された人気ドラマのノベライゼーションで、SFのジャンルではかなり有名な本らしい。いかにもSF的な名称が出てくるのがいい。文字にしてみると中国語みたいだが。(^^;

十億大頭脳(ミリヤード・ガーガンチュブレイン)
億兆星精神(グーグルプレックス・スター・シンカー)
超巨大母型同族中性子頭脳(グレイト・ハイパーロビック・オムニ=コグネイト・ニュートロン・ラングラー)
多層明晰中性子巨大頭脳(マルチコーティコイド・パースピキュトロン・ティタン・ミューラー)

などなど。ちなみに私が好きなのは深思考(ディープ・ソート)。こんな言葉ばかり出てきたら、原書はちんぷんかんぷんだろう。続編の『宇宙の果てのレストラン』もちょっと気になるところだが、絶版なので原書で読むしかない。

基本的にストーリーは面白い話だと思うが、もともとラジオ番組だったもので、小説として書かれたものではないから、ドラマ仕立てっぽいのがちょっとしっくりこない原因かもしれない。イギリス的なユーモアは、面白いと思えばはまるけれど、そうでない場合は悲惨。「ミスター・ビーン」を好きか嫌いかで、この作品を面白いと思えるかどうかが決まりそうな、そんな感覚。ただ、しっかりSFしてるので、そのジャンルに興味があれば、その点では楽しめる。

SFにはまっていた頃に、ナンセンスSFというのが流行った時期があって、日本のものでは筒井康隆の『虚構船団』などを読んだが、不条理なドタバタ、ハチャメチャSFという感じで好きではなかった。『銀河ヒッチハイク・ガイド』もその線かもしれない。

個人的にはナンセンスものはユーモアとは思えず、ちょっと引いてしまうのだが、原書のコンプリート版を、値段も安かったので持っていても損ではないだろうと思って買ってしまったが、届いてみたらあんまり大きくて分厚いので、もしかして邪魔かも?という感じ。ただ、ナンセンスものを日本語にするとだいたいが失敗に終わるものだから、原書で読んだほうがきっと面白いに違いないと、前向きに考えてみる。

2003年10月25日(土)
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 血の雨/T.コラゲッサン・ボイル

PEN/マラマッド賞受賞のT・コラゲッサン・ボイルは、短編の名人である。この本の内容も実に多彩だ。
天才チンパンジーに彼女を奪われた男の哀しみを描く、「人間の退化」。
屈強なバイキング詩人には許せないものがあった、「おれたち、バイキング」。
ラッシー、少年を見捨ててじぶんの恋につっ走る、「名犬ラッシーの真相」。
老いぼれ大地の生理現象?圧倒的で異様な世界、「血の雨」。
たしかに存在したものがひとしれず消えてゆくさま、「絶滅ばなし」。
ビール缶コレクター、まぼろしの銘柄「ケツァルコアトル・ライト」をもとめて悲劇のメキシコ探検。
すごいワルでもビビることはある、あの晩「あぶら沼」で起こったこと。
代理で赤ん坊を生むために、漁師の家に医学部の女子大生がやってきた、「キャビア」。
サバイバル・ライフ、どうせやるなら命をかけて、「とことんまで」。
伝説のブルースマンははらわたを引きずり出して死んだ、「おれの行く道は石だらけ、地獄の猟犬がつきまとう」。
“ソビエトってことは最悪ってこと”そんな言葉は小市民アカーキイの耳には届かない、「外套」。
全11編、初期の傑作。
─カバーより


今週の授業はボイルのテキストなので、再読。
内容はすっかり忘れていたが、久々に読んで、ああ、こんな感じだったっけと思い出した。

<以前の感想>
この本を手にした時、びっくりした。まるで血糊に浸したような装丁だったからだ。見た感じは、どうも好きになれそうもない雰囲気。しかも短編集である。常々、短編の上手い作家は少ないと思っているので、ボイルもまたその多数の方に入る作家なのではないかと、はなから期待していなかった。ただ、「血みどろの世界がコミカルで切ないそのわけは?」というおびのコピーがちょっと気になった。

さて、いざ本を開くと、あっという間に引き込まれた。引き込まれたというより、引きずり込まれたという感覚だ。顔をしかめるような描写もあるし、けして美しい話ではない。しかし、そこかしこにそういう描写があっても、目を離すことができないのは、ボイルのネタの目のつけどころが、他の作家と違ってユニークで面白かったからだ。こういう感覚になったのは、イタル・カルヴィーノ以来だろうか。本当はひとつひとつの作品について書きたいところだが、今回はとにかく面白いということだけ書いておこうと思う。

短編の名手といえばサマセット・モームであるというのは、今も私の中では変わっていないが、モームとはまた違ったタイプの短編の名手として、ボイルの名を挙げたい。

ほかにも読んでみようと思って、ボイルの作品を探したのだが、短編も長編も、現在日本ではほとんど扱われていなかった。本書が広く受け入れられれば、また再版もあるだろうか。ぜひ期待したいと思う。また、青山南さんの翻訳もとてもよかった。青山さんの豊富なアメリカの知識によって、原書で読むよりもはるかにイメージがふくらんだことは間違いない。


<今回の感想>
今回も以前と同じ感想。ただ、あれから他の本も読んだりしたので、最初の新鮮な驚きは少々薄らいでいる。それでもやっぱりボイルは面白い。あえてどの作品が面白かったかと言えば、これも前回に思ったのと同様「ケツァルコアトル・ライト」だった。

ただ、以前はひとつの短編が何を言おうとしているのかということはあまり深く考えていなかったのだが、最近はそういうことも考えざるを得ない状況なので、これもまたあれこれ考えたのだが、ボイルの短編の場合、さらっと読んでその妙な世界に浸るだけで、私は満足だ。何を言っているのかということまで深く考えると、せっかくの楽しい(?)気分が半減してしまいそうで、授業でもない限りは、「ああ、面白かった!」とこの世界を楽しむだけにとどめておきたいというのが素直な気持ち。

2003年10月23日(木)
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 ルームメイツ/マックス・アプル

内容(訳者あとがきより)
本書は、著者であるマックス・アプルが祖父のロッキーと107歳まで付き合って、その死を見取るまでの美しく、感動的な実話だ。アプルは、リトアニア移民の祖父と文字通り生まれたときから付き合って、ほとんど片時もはなれることがなかった─ずっと、“ルームメイト”だった。

マックス・アプルは、このおじいさんといっしょに暮した40数年のあいだに、初等、中等教育を卒業し、ユダヤ人の成人式であるバル・ミツバーを受け、大学へ入り、ヒッピー運動にかかわり、愛する人を見つけ、大学院に入って作家を目ざし、家の大黒柱の父親を失い、事件に巻き込まれて半身付随になった友人の世話をやき、結婚し、90歳を越えた祖父を伴って暑いテキサスへ引越し、子供(ロッキーのとては曾孫)をもうけて精一杯愛情を注ぎ、そしてさらなる悲劇に見まわれるという悲喜こもごもを体験した。

※画像は原書『Roommates: My Grandfather's Story』/Max Apple


マックス・アプルは1945年、ミシガン州グランド・ラピっズの生まれで、幼年時代から作家を目ざし、1976年に短編集「The Oranging of America」でデビュー、78年に「Zip」、その後「Free Agents」を書いたが、本書にあるように作家活動の中断を余儀なくされた。1986年にはグッゲンハイム基金の奨学金を得て、「Propheteers」を発表。現在はライス大学の英語科の教授で、『エスクワイア』、『ニューヨーク・タイムズ』、『アトランティック』、『アメリカン・リビュー』などに寄稿している。(1994年10月)
─訳者あとがきより


必ず別れが来るとわかっている小説を読むのは辛い。が、こういった死に向かってそれまでの思い出が綴られた話は多い。そして例外なく、死が訪れたときには涙する。人間は生まれたときからすでに死に向かっているわけだが、その人がどんな風に生きてきたか、周囲の人間にどんな影響を与えてきたかで、その死の部分で感じることは大きく違う。

本書も多くのそういった本と筋書きは大差がないと思うが、作者のマックス・アプルの変に感傷的にならない語り口と、何より祖父ロッキーのキャラクターが、暗くなりがちな話を救っている。だいたいこういった思い出話の主人公になる人物は、どこか偏屈で頑固であり、自分の信念を曲げない生半可でない人物が多いように思う。このロッキーもそういった愛すべき人物で、時にはユーモラスであり、時には哀感を感じさせる人間らしいキャラクターで、彼の死は107歳という大往生ではあるが、読んでいるほうも非常に残念な思いで、胸にこみあげてくるものがある。こんなおじいさんなら、もっともっと長生きしてほしいと思うし、ましてや片時も離れなかった孫のマックス・アプルにしてみれば、どれほどの思いか想像に難くない。

本にするにあたって、多少の脚色はあるかもしれないが、思い出を特別美化するわけでもなく、淡々と書かれているところにかえって真実味があり、好感が持てた。ここに登場する人達は、それぞれに大変な思いをしているのだろうが、読後は、なんとなくほのぼのとした暖かい気持ちにもさせられた。

2003年10月19日(日)
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 Coraline/Neil Gaiman

内容(「MARC」データベースより)
秘密のドアの向こうの世界に住む、真っ黒なボタンの目の両親たちとの生活を楽しみ始めたコラライン。しかし、やがてその世界に閉じ込められていることに気づいて…。傑作ファンタジー。


「Caroline」ではなく「Coraline」という名前の女の子が(なかなか「Coraline」と呼んでもらえないのだが)、ある日大きな家に引越してきた。その家にはほかにも住人がいて、なんだか奇妙な感じ・・・というわけで、出だしから奇妙な雰囲気を漂わせているお話。Dave McKeanの挿絵も不気味でマジカルなムード満点だが、ゲイマンの文章も好き。例えば、

She found a hedgehog, and a snakeskin (but no snake), and a rock that looked just like a frog, and a toad that looked just like a rock.

なんていうようなところは、レモニー・スニケットのように感覚的にひねくれていていい。物とか言葉にこだわるといった感じがマイケル・シェイボンのようでもあり、ジョン・アーヴィングのようでもある。そういったこだわりが、「Caroline」ではなく「Coraline」という名前に反映されているのだろう。

しかし、ボタンの目の両親に初めて会ったときのコララインのリアクションがなさすぎ。疑問を抱きながらも、その場ですぐにボタンの目のお母さんが作ったご飯を素直に食べちゃうなんて、ちょっと信じられない。たしかにそっちの世界では、ボタンの目のお母さんは本当のお母さんより料理は上手だし、自分の部屋だってかなり良くなってる。

でも、コララインはそっちの世界を楽しんではいない。本当の世界よりいいかも・・・とちらっと思ったのは事実だが、楽しんでいたわけじゃない。結局、不気味なボタンの目のお母さんとの戦いに勝って元の世界に戻るコララインだが、深読みすれば、よそから引越しをしてきて、新しい学校に転校する前の不安な気持ちが夢を見させたといった状況も想像できなくはない感じ。にしても、ボタンの目のお母さんの豹変ぶりは怖い。手だけが動き回るなんて、アダムス・ファミリーか!

個人的にニール・ゲイマンには注目していて、この本はとても期待して読んだのだが、ファンタジー特有のわくわくする感じはいつ訪れるのだろう?と思っているうちに終わってしまい、彼にとってこの長さは中途半端じゃないのか?と思った。ゲイマンの作品はまだこの1冊しか読んでいないので先入観を持つのは避けたいが、面白いファンタジーは最初からわくわくするものだ。

また、読んでいる間に疑問がたくさん出てくる。ファンタジーだからと片付けてしまえば簡単だが、その疑問が解けないうちに物語が終わってしまうし、書き方によっては魅力的になると思われる登場人物たちも、十分にいかされていないような気がする。コララインの恐怖にもめげないひょうひょうとしたキャラは好きだし、ゲイマンの文章そのものも気に入っているので、とても惜しい。

2003年10月18日(土)
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 <スリーピング・ビューティ>三部作/アン・ライス

『スリーピング・ビューティ 〔欧衂院官能の旅立ち』/アン・ライス(A.N.ロクロール名義)
内容(「BOOK」データベースより)
魔女に呪いをかけられ、お城で百年のあいだ眠りについていた「眠れる森の美女」。彼女を寝覚めさせたのは、王子さまの甘いキスではなく、硬くたくましい○○だった!?姫の国を復活させた代償に、王子は姫を自国に連れ帰り奴隷とする。なにも知らなかった眠り姫は、つねに全裸であるよう命ぜられ、厳しい調教の日々を過ごすことになる。苦痛と屈辱のなかで、眠り姫はいつしか官能の歓びに目覚めていく…。おなじみのおとぎ話を下敷きに「ヴァンパイア・クロニクルズ」の巨匠が描く驚異の官能三部作第一弾。

『スリーピング・ビューティ¬欧衂院歓喜する魂』/アン・ライス(A.N.ロクロール名義)
内容(「BOOK」データベースより)
城に連れてこられ、宮廷の慰みものにされた姫り姫は、調教と徴罰にいつしか、官能の歓びを覚えるが、ある日わき起こった反抗心のいたずらから、ほかの不服従の王子や王女たちとともに、近くの「村」へと送られる。そこで、全裸のまま競売にかけられる奴隷たちを待っていたのは、つらい使役と、村人たちの快楽への奉仕の日々…。旅籠の女将に買われた眠り姫だったが、快感とないまざる厳しい責めに、反抗心を持ち続けようという信念も揺らいでいく。巨匠の禁断メルヘン三部作、いよいよ佳境へ。

『スリーピング・ビューティ至上の愛へ、眠り姫』/アン・ライス(A.N.ロクロール名義)
内容(「BOOK」データベースより)
城から村へ移され、新たな調教と懲罰を享受していた眠り姫―だが、その歓びの日々も長続きしなかった。突然村を襲った異教の略奪者の手により、ほかの王子や王女たちとともにスルタンの国に連れていかれてしまったのだ。そこは見るもの聞くものすべてが珍しい国で、スルタンの家令からは「比類なき快楽奴隷となって、主人たちをとりこにするように」と命じられる。とまどう眠り姫も、優雅で洗練された調教のうちにやがて新しい愛に目覚めていくが…。話題騒然の官能三部作、華麗なる完結編。


これははっきり言ってポルノグラフィ。それもSMや同性愛といった世界。
というわけで、感想の書きようがないし、書くのも馬鹿々々しいという感じ。面白いかどうかは、もう各人の性癖、嗜好の問題でしょう。

例えば、出版当初発禁になったジョン・クレランドの「ファニー・ヒル」などは、大胆な性描写があっても、文章も美しく、文学の香り高い作品だったが、これは全然そういう次元にまで至っていない。アン・ライスの他の作品を読んでいないので、これだけで判断してしまうのはあんまりだという気がするので何とも言えないが、最初に読んだアン・ライスがこの三部作だったというのは、あとあとまでイメージ的に尾を引きそうだ。

2003年10月17日(金)
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 吸血鬼ドラキュラ/ブラム・ストーカー

内容(「BOOK」データベースより)
トランシルヴァニアの山中、星明かりを封じた暗雲をいただいて黒々と聳える荒れ果てた城。その城の主ドラキュラ伯爵こそは、昼は眠り夜は目覚め、狼やコウモリに姿を変じ、人々の生き血を求めて闇を徘徊する吸血鬼であった。ヨーロッパの辺境から帝都ロンドンへ、不死者と人間の果てしのない闘いが始まろうとしている…時代を越えて読み継がれる吸血鬼小説。


●近代ヨーロッパにおける吸血鬼小説

最初の小説は、ジョン・ポリドリの”Vampyre”だというのが、今日では定説になっている。1817年の夏、スイスのバイロンの別荘にいた、バイロン、シェリー両詩人のもとへ、ゴシック小説「マンク」の作者、マシュウ・グレゴリ・ルイスが訪ねてきて、きみたちもドイツの怪奇ロマンの向こうを張って、ひとつ怖い小説を書いてみないかと勧めたのが動機で、バイロン、シェリー、シェリー夫人が競作をした結果、ひとりシェリー夫人だけが、名作「フランケンシュタイン」を書き上げたという話は、今日では誰でも知っている有名な話だ。そのときのバイロンの構想をそのまま借りて、曲がりなりにも一編をものしたのが、ポリドリの「吸血鬼」である。この作品は雑誌に発表された時、偶然か故意か、編集者がバイロン作として掲載したためにたいへんな評判になり、怪奇小説の本家であるドイツはもとより、フランスでもさっそく翻訳が出て、テオフィール・ゴーティエなどもそのブームに刺激されて、新しい吸血鬼小説を書いたというほど、舞台に、小説に、ほとんどヨーロッパ全土の都市に猛烈な吸血鬼嵐を巻き起こした。


●「ドラキュラ」を書いた動機

それについては忘れてならないことが二つあるが、特にその一つがレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」である。
この同郷(アイルランド)の大先輩である人気作家の作品は、これも当時のスリラー人気作家ウィルキー・コリンズの作品とともに、ブラムは以前から愛読していたが、「カーミラ」を読んだときに、衝撃をおぼえ、イマジネーションに火をつけられたような興奮を感じ、「これだ!よし、これで行こう」と思い決めた。慎重な数年の日子をかけて、1897年にこの本が売り出されたときには、たちまちイギリスの読書界に一大センセーションを巻き起こし、本は旬日にして版を重ね、ロンドン市民を夢魔の恐怖のうちに震撼させたということである。今日では世界の津々浦々にいたるまで、この作品を読むか見るかしない日とはほとんどないというまでに流布したことは周知のとおり。「ドラキュラ」のあとに吸血鬼小説なしというありさまで、文字通り世紀の傑作の名に恥じないことは、なによりも作品自体が雄弁に証明しているようである。

─以上は訳者解説より抜粋


そもそも私は怖がりなので、他の人が読んでもたいして怖くないと思うものでも怖い。というわけで、ドラキュラは怖かった。吸血鬼そのものが怖いというのではなく、暗闇、うごめく霧、墓場、死人などなどのシチュエーションがひたすら不気味で怖い。ただ、ドラキュラに立ち向かうヴァン・ヘルシング教授、ジャック・セワード、アーサー・ホルムウッド(婚約者ルーシーを吸血鬼にされた)、キンシー・モリス、そして最初にドラキュラ城に足を踏み入れたジョナサン・ハーカーとその妻ミナの、ひたすら前向きな、人類のためにドラキュラに立ち向かう姿が非常に勇敢で、陰惨なシチュエーションを救っている。高潔な女性ミナにまで魔の手を伸ばしたドラキュラだが、団結した彼らの前に、ついには粉塵となって消え去るのだが、日増しにドラキュラの手中に落ちて行くミナの心の葛藤が痛々しい。

ウィルキー・コリンズの記録体(ドキュメンタリ)形式を踏襲することで、日記風手記の集合体という形になっているのが、最初は読みにくいと思ったが、怖いもの見たさでどんどん進んだ。そうするうちに、日記風の形式を取らざるを得なかった理由もわかってきて、最後には形式はまったく気にならなくなっていた。ところどころ不要な箇所もあるような気もするが、全体として見れば、面白かった。数ある吸血鬼小説の最高傑作とされるだけの読み応えはあった。

<メモ>
本名はエイブラへム・ストーカー(1847年11月、アイルランド、ダブリン生まれ)で、ブラムは略称。

2003年10月12日(日)
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 海底二万里/ジュール・ヴェルヌ

内容(「BOOK」データベースより)
世界の海上に続発する奇怪な海難事故。長く、紡錘形で、ときに燐光を発し、クジラよりはるかに大きく、異常な速力をもった"なぞの怪物"が目撃されていた。調査に向かったパリ科学博物館のアロナックス教授たちは、ついに日本近海で、この怪物に遭遇する―。自由と海を愛するネモ船長と、超潜水艦ノーチラス号に導かれ、海底に展開する大冒険。いまよみがえるヴェルヌ不滅の名作。


世間を騒がせた話題の“怪物”は、陸の人間社会に嫌気がさし、海の中で生きようというネモ船長の潜水艦「ノーチラス号」である。“怪物”調査に乗り出した科学者アロナックス博士と助手のコンセイユ、銛打ちのネッド・ランドの3人が、このノーチラス号にいわば軟禁され、世界中の海を旅してまわるという話。分厚い本である。その半分は、ベルヌの豊富な地理、歴史、博物学が披露されており、その道に興味のある人なら、ストーリーとは別に、大いに楽しめることだろう。興味がなくても、ベルヌの膨大な知識に驚かされる。ちなみに「ノーチラス」とは、オオム貝のことである。

軟禁された3人は、陸に逃げ出さない限りは自由で、海底の散歩などにも船長と一緒に出かけることができる。海草の森に狩りをしに行ったり、海底火山を見たり、真珠貝を取りに行ったり、サメと闘ったり、となかなか楽しそうである。だが何といっても、消えた大陸アトランティスにその足で立ったときには、読んでいるほうも鳥肌の立つ思いだった。紅海と地中海は地下で繋がっているとか、アトランティス大陸の位置だとか、そのまま事実として本気にはできないものの、大いにロマンをかき立てられる。

クレスポの森での狩り、トレス海峡の座礁、サンゴの墓地、セイロンの真珠採取、アラビアの海底トンネル、サントリンの火、ビゴ湾の財宝、アトランティス、南極。次々と海の中を探検しながら、ノーチラス号は世界中を旅するのだが、氷の中に幽閉され、大ダコの群れと闘い、メキシコ湾流での嵐に遭ったあと、国籍不明の軍艦を撃沈する。ここでアロナックスはネモ船長の真の目的を知るのだ。何かの復讐。それも激しい憎悪を伴った恐ろしい復讐。しかし、ネモ船長もけして冷血漢というわけではなく、そのことに心を痛めてもいることを知るのだ。

だが真の目的を知った以上、潜水艦に残るわけにはいかないと決意した捕われの3人は、脱出を試みるが、折り悪しく遭遇したのは恐ろしい「メールストロム」(北海のノルウェー近海の大渦巻き)だった。脱出するべくボートに乗り込んでいた3人は、潜水艦もろともこの大渦巻きに飲み込まれ、だが気づいたときにはノルウェーの漁師に助けられていた。ノーチラス号の運命は定かでない。

というわけで、海底二万里の旅は終わる。私はどこかで海底人(半魚人?)に出会うものと思って期待していたのだが、それは勘違いであった。それと格闘した巨大生物は大イカだと思っていたが、これも勘違いであった。ノーチラス号を作った人間の科学力も素晴らしいが、それ以上に大自然の驚異は素晴らしく、また恐ろしいとも感じた本だった。なによりも、19世紀にこのような科学小説を書いたヴェルヌの想像力には感嘆するばかり。人間の乱獲によるクジラやマナティなどの絶滅や、海の破壊、汚染など、現代の問題を鋭く指摘しているのにも驚いた。

2003年10月07日(火)
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 ドリアン・グレイの肖像/オスカー・ワイルド

舞台はロンドンのサロンと阿片窟。美貌の青年モデル、ドリアンは快楽主義者ヘンリー卿の感化で背徳の生活を享受するが、彼の重ねる罪悪はすべてその肖像に現れ、いつしか醜い姿に変わり果て、耐えかねた彼は自分の肖像にナイフを突き刺す・・・。快楽主義を実践し、堕落と悪行の末に破滅する美青年とその画像との二重生活が奏でる耽美と異端の一大交響楽。
─カバーより


美青年ドリアン・グレイが、友人の画家(バジル・ホールウォード)によって描かれた肖像とともに、徐々に破滅していくさまを描く。内容としては面白かったが、冒頭から繰り広げられる芸術論には閉口。巻末の解説によれば、こうした芸術論や、ドリアンの友人ヘンリー卿の理屈などは、読み飛ばしても差し支えないし、特に卿の言葉は、そのまま鵜のみにしないほうがよいとのことなので、気が楽にはなったものの、この芸術論などがなければ、もっとすっきりした、面白い作品になっただろうにと思う。しかしそれではただのホラーか?とはいえ、言っていることは一緒なのだから、読み飛ばして差し支えないという解説者の言葉は正解だと思う。

さて、肝心の肖像とドリアンの関係だが、「いつまでも若く美しいままでいたい、いっそ肖像のほうが老いればいいのだ」と願ったために、本当にそうなってしまった。しかも心や行動の悪の部分もみな肖像に現れ、実物のドリアンはいつまでたっても純粋無垢な美しい青年であったわけだが、何年もたっているというのに、なぜ周囲はその異常なことに気づかないでいるのだろう?と不思議。ただ、ドリアンと親しくすると、必ず不幸になるという噂があって(事実友人たちは皆不幸な目にあっている)、誰も寄りつかなくなってはいるのだが。

つまり実物は、ほれぼれするような美青年であるが、彼の本質は肖像に現れたようなおぞましく醜いものであったというわけだ。ドリアンは、その秘密を知った友人の画家を殺してしまうのだが、もとはと言えば、ヘンリー卿に借りて読んだ怪しい本に影響されて、彼の精神は破滅に向かっていったのだ。しかし、自分が老いて行く姿、内面の醜さを、外側からあからさまに見たら一体どんな気持ちがするだろう?鏡でみるのとはだいぶ違うだろうし、ドリアンの場合は、自らはまだ美しいままなのだから、もし肖像がなかったら、自分はこんなふうになっていたのかと思うと、その恐怖は計り知れないものがあるだろう。

この小説に登場するドリアン、ヘンリー卿、それと肖像を描いた画家は、みなホモセクシュアルだと思う。解説にもそういったことが言及されていたが、あからさまにそれを思わせる表現があるわけではない。ものすごく控えめに、「美」というものを通して、そういった愛情を表現しているだけだ。しかし、そこには疑いようもなく、ホモセクシュアルの世界が繰り広げられている。それだからこそ、画家はドリアンの魂までも描くことができ、命を吹き込むことができたのだろう。

しかし個人的には美青年ものにはあまり興味がないので、絵が刻一刻と醜悪に変化していくのだけは恐ろしいが、他はとりたてて印象には残らない。こういうのを耽美的というんだろうなと思いながらも、でも三島由紀夫の作品のほうがもっと耽美的だと思ったりもした。


2003年10月04日(土)
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