読書の日記 --- READING DIARY
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 Firefly Beach/Luanne Rice

冒頭を読んでいたら、面白くてそのまま読み始めてしまった。

1969年のクリスマスに、クッキーを焼いている母と幼い娘二人。母のお腹には三人目の子供。しかし、突然銃を持った男が現れ、自分の妻を奪った彼女達の父親に復讐するため、子供を殺すと言い出した。結局男は復讐が果たせず、自分に銃を向けて自殺する。幸せな家族を襲った突然の恐怖。そしてまさにその時家族を騙して不在であった父親に対する絶望。

さあ、これはどうなってしまうのか?もちろん、不倫父とは離婚でしょうね。そのあたりのことは一切触れられずに、話はいきなり2000年まで飛躍。今や、当時5歳だったキャロラインは36歳、妹のクレアは34歳、お腹の中にいたもう一人の妹は30歳となっている。妹二人はすでに結婚しているが、キャロラインはいまだ独身。称して「die-hard singleness」。これは、そのキャロライン・レンウィックの物語。

ところが、父親が全然出てこないので、てっきり離婚されたかと思ったら、7年前に胃がんで亡くなっていたらしい。ということは、クリスマスの出来事のあと、どんな修羅場をくぐってきたのだろう?画家であったという父親像が全く見えない。

と思ううちに、自殺した男の息子ジョー・コナーが出てきて、実はキャロラインとずっと文通していたというから驚き!彼は沈没船の宝を探しているトレジャー・ハンターだという、これまた荒唐無稽な設定。しかも、キャロラインが子どもの頃に宝があると書いて送った手紙に触発され、それを探しているというのだから、ロマンチストもいいところ。このあたりの設定は笑えるかも。

で、読了はしたものの、何も残らない話だった。面白いのは冒頭だけだったりして。状況は結構すごくて、冒頭の恐ろしい事件のほかに、末娘が狩りに出かけ、鹿と間違えて男を銃で殺してしまう。男が飼っていた犬はそのままレンウィック家に引き取られ、結局末娘はそれがトラウマとなり、アル中になって自殺未遂や事故などを起こす。その末娘が結婚した相手というのが、とんでもない男で、姑にまで暴力をふるう。そのほかジョー・コナーの義理の弟がサメに襲われたり、これでもかと事件が起きる。けれども、最初の事件はどう解決したのか、不倫をしていた父親と家族の間は、その後どういう関係だったのか、末娘の殺人はどう処理されたのか、そういうことが全然わからないので、すごく欲求不満。

最後にジョー・コナーとキャロラインは恋に落ち、ギリシアへと旅立つのだが(単なる旅行にしては別れが大げさ)、別れ際に、父親の書いた「わたしはみんなを愛している」という文章がみつかり、なにやら皆が幸せな気分になって終わる。芸術家だったという父親の気持ちもよくわからないし、恐ろしい思いをさせた謝罪はないのか?と思うのだが、この母娘、そういうことはどうでもいいらしい。

それにしても、あまりにむちゃくちゃな状況設定ではないか。いくら父親が家族を愛していたとしても、冒頭の恐ろしい事件は、その父親が不倫をしていたために起こったのであり、またジョーにしてみれば、父親を殺したも同然であるレンウィック家なのだ。もちろん母と娘に責任があるわけではないし、彼女たちもまた被害者でもあるのだが。

章の終わりごとに、キャロラインとジョーの文通していた手紙が出てくるが、そもそも文通していたというのも信じられないのに、こともあろうに恋に落ちてしまうとは!もっとも、このシチュエーションで恋愛を描くには、これしかないだろうとは思うが。

それに、あの犬。誤って撃ってしまったとはいえ、末娘にとって、忌まわしい事故の記憶の一部をずっとそばに置いておくなんて気が知れないという感じ。これでは彼女がアル中になったり、なんども自殺未遂をしたりというのもわからないわけでもない。なによりも、こんなにいろんな事件が起きているのに、平然と暮らしていられる家族というのが、私には信じがたい。

結局、宝を積んだまま沈んでいるというカンブリア号は、いまだに沈んだままである。このカンブリア号にも美しい愛の物語があるのだが、そんなことはどうでもいい。ここで宝を引き上げなければ、乗組員に払う給料はどうするの?と余計な気をもんでしまった。

タイトルについているFirefly(ホタル)は、最後にキャロラインが出発するときに、1匹飛んできただけ。一応彼女たちが子どもの頃から住んでいた家がFirefly Hillというところにあるので、ホタルは毎年現れるのだろうが、物語中で出てきたのはその部分だけだった。


2003年07月31日(木)
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 西瓜糖の日々/リチャード・ブローティガン

コミューン的な場所、アイデス<iDeath>と、<忘れられた世界>、そして私たちとおんなじ言葉を話すことができる虎たち。西瓜糖の甘くて残酷な世界が夢見る幸福とは何だろうか・・・。
澄明で静かな西瓜糖世界の人々の平和・愛・暴力・流血を描き、現代社会をあざやかに映して若者たちを熱狂させた詩的幻想小説。
─カバーより

<訳者あとがき>
本書はブローティガン3作目の小説で、かれはこれを1964年の5月に書き始め、7月にはもう書き終えていた。雲のようにうかんだイメージがあって、そのイメージを追いかけるようにしながら、この作品を書いたのではないだろうか。(中略)西瓜糖の村というひとつの大イメージに手をとられるようなかたちで、ひとつひとつの章を書いていったような感じがする。各々の章は、物語の進行の中でそれなりの位置をたもちながら、それぞれ完結した時間を持ってもいる。

西瓜糖。西瓜糖は甘いだろうが、けっしてそれは濃厚な過度な感じというのは不在だ。西瓜糖の村というのも、おそらくそういう場所なのだ。「過度な感じ」というのがなくて、屈折の少ない世界。透明で静かなのだ。原題は In Watermelon Sugar だが、これはきっと We lived in clover というような場合のイディオムが発想のはじめのところにあったことと思う。 We lived in clover というのは、牛がじゅうぶんにクローバーの葉を食べて暮すように、「われわれはなに不足なく暮した」という意味で、この in clover が in watermelon sugar になったのだろうと思う。




復刊が一部で話題になっていると思ったら、出版されるやAmazonではすぐに順位がうなぎ昇り。一時期1400位くらいにまでなったので、リチャード・ブローティガンて、そんなに人気があったのかと驚いた。もともと詩人なので、詩的な文章の苦手な私としては、あまり期待は抱いていなかったのだが、この前にジャネット・ウィンターソンの『さくらんぼの性は』を読んでいたせいか、こちらが非常に無垢な感じに思えた。暴力や流血のシーンもあり、けして穏やかな美しい小説ではないのだけど、「西瓜糖」という言葉のほんのり甘い感じが、すべての文章に影響を与えているようだ。訳者あとがきにもあるように、ひとつひとつの章が独立しているようでもあり、やはり詩的。すごく好きというわけではないが、悪くはないという感じだろうか。



2003年07月30日(水)
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 さくらんぼの性は/ジャネット・ウィンターソン

内容(「BOOK」データベースより)
時は十七世紀、所は疫病とピューリタン革命の嵐渦巻くロンドン。象をもふっ飛ばす未曽有の大女ドッグ・ウーマンと拾い子ジョーダンは、自由の天地をめざし、幻の女フォーチュナータを探して時空を超えた冒険の旅に出る。英国の新鋭が放つ奇想天外にして感動的なベストセラー。

<訳者あとがき>
『さくらんぼの性は』は幻想とユーモアと残酷に彩られた、マジカルで美しい小説である。物語の舞台は17世紀半ば、ピューリタン革命の吹き荒れるロンドン。象を空に吹っ飛ばすほどの怪力で、口の中に一度に12個もオレンジを入れられるほどの巨体の持ち主である“犬女(ドッグウーマン)”は、ある日テムズ川の真っ黒な泥の中で赤ん坊を拾い、自分の子として育てる。その息子ジョーダンは成長して船乗りとなり、言葉の都で出あった幻の女フォーチュナータを追い求め、失われた“もう一人の自分”を追って旅に出る。いっぽうの犬女は、革命で殺された王の仇を討つために、ピューリタンを相手に奇妙な復讐劇を開始する。さらに、それと呼応するように現代でも物語が進行しはじめる。船を愛し、海軍に入隊する青年ジョーダンと、心の中に巨人の女が住みついた女性化学者が、運命の糸にたぐりよせられるように出会い、ここでもまた新たな冒険がはじまる。犬女とジョーダンの旅はいまも続いている・・・。

が、この小説は、実はそのような“あらすじ”を拒んだところで成り立っている。物語は過去、現在、未来を自在に飛びまわり、現実と幻想、歴史と寓話のあいだを揺れ動き、ナイーブな純愛と血みどろの殺戮、ラブレーばりのホラ話と哲学的考察が互いにしのぎを削っている。本書に限らず、ウィンターソンの作品には筋書きらしい筋書きは存在しない。ストーリーはまるでカードをシャッフルするように切り刻まれ、並べ替えられる。

つけ加えておくと、この小説は丁寧な時代考証の上に成り立っている。チャールズ王の処刑の模様や王党派とピューリタンの内戦、ロンドン大火や疫病の流行などはすべて史実に忠実である。




これは、まさに訳者あとがきにあるような小説で、哲学とおとぎ話にエログロが混じったものといった感じ。これを「幻想的で美しい」と感じるか、私のように「手袋とマスクをしなければ読みたくない」と思うか、それは個人の好みなので何とも言えないが、私の場合は、エログロの部分が生理的にダメだった。

ピューリタン革命を舞台に・・・ということで、先日映画『クロムウェル』を観たばかりなので、とても興味があったのだが、確かに史実に忠実だとは思ったが、それは幻想と対比させるための現実として用いられた、わざと史実に忠実に書かれた部分なのだろうか?チャールズ王の処刑に関するところなどは、驚くほど映画と同じだったし、ピューリタン革命について調べた『クロニック世界全史』にもぴったり符号していた。

ただしこの物語の中では、クロムウェルをはじめとするピューリタンは悪役で、映画で見たクロムウェルのイメージには程遠い。たしかにクロムウェルは善良で立派な人物と言い切れる人間ではなかったようだが、イギリスの歴史の中での認識は、どんなものなのだろう?処刑されたチャールズ王も、けして国民に慕われてしかるべき人物とも思えないのだが。しかし、チャールズ王の処刑のときの態度があまりにあっぱれであったため、誰しもがクロムウェルやピューリタンたちに、疑問の目を向けたであろうことは、想像できる。

かといって、ピューリタン革命がこの物語の中で重要な役割を果たしているとも思えず、やはり先に書いたように、幻想との対比のために用いられたとしか思えないのだ。

ところで、私が読んだ本は単行本で、表紙にパイナップルの絵があった。タイトルにある「さくらんぼ」はどこに出てくるのだろう?と思っていたが、バナナとパイナップルは出てきたものの、さくらんぼは遂に出てこなかった。ストーリーもあるのかないのか不明だが、タイトルもまた不明のまま。

しかし、おとぎ話を題材にすると、なぜどれもこれも同じように「グリム童話的」になってしまうのだろう?それが不思議。


2003年07月29日(火)
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 七番目の天国/アリス・ホフマン


見分けのつかぬ家がずらりと並ぶロングアイランド郊外の新興住宅地。その一角の朽ちかけた家に、一人のシングルマザーが引っ越してきた。彼女の名前はノラ・シルク。8歳の息子と生後11ヶ月の赤ん坊を連れてやって来た。

離婚を罪悪のように考えるお堅い住人は、ノラに冷ややかな視線を投げかける。彼女は専業主婦の輪に入れてもらえず、息子は学校でいじめられる。それでもノラはひるまない。おしゃれでセクシー、開放的なその生き方に、やがて大人も子どもも、男も女も魅了され、それまでの人生を捉え直すようになる。そしてある日突然、一人の主婦が家を飛び出してしまった・・・。

自分らしい新しい人生を求めるシングルマザーが平凡な町に吹き込む自由の風を、マジカルに描く感動作。

─カバーより


カバーのあらすじを読むと、ジョアン・ハリスの『ショコラ』のような内容か?と思ったのだけれど、読んでみるとイメージは全然違う。フランスとアメリカの差と言ってしまえばそれまでだが、これは冒頭からすごく面白い。小説は書き出しが重要という見本のような本。そもそもアリス・ホフマンは好きなのだが、何やら胸騒ぎを起させるような書き出しは、あっという間にホフマンのマジカルな世界に引きずり込まれてしまうほど面白い。実際はマジカルでもなんでもないのだけど、なぜかそこに魔法が存在するような気にさせられるのが不思議。

読み終えてみると、基本のストーリーはやはり『ショコラ』に似ている。真面目一辺倒の人々が住む町に、ある日一人の女性(子連れ)がやってきて、なにか不思議な魅力で周囲を変えていく。最初は皆から拒絶されているのだが、いつの間にか受け入れられていく・・・。というわけで、基本は一緒。

『ショコラ』と大きく違うのは、アメリカの日常生活がリアルに描かれていて、まるで自分がそこで暮らして、登場人物たちと同じスーパーに買い物に行き、同じものを食べ、同じ空気を吸って、同じ月を見ているような気にさせるところ。ホフマンの世界はマジカルだと書いたが、それは物語の中にあるのではなく(もちろん、おや?魔法かな?と思う箇所はときどきあるのだが)、読者を冒頭から一気に物語の世界に引きずり込み、物語の登場人物と同じ町に住まわせてしまう、ホフマンの力量にあるのではないかと思う。

ノラの息子のビリーは登場人物の中で唯一不思議な力を持っており、人の心が読めるのだが、自分の打ち込めるものを見つけたとき、その力は消える。たまにノラの祖父ゆずりのおまじないが功を奏して、不思議なことが起きたりもするが、そのことが特別問題にされるわけではなく、当たり前の日常生活のように語られる。

描かれている人物たちにはそれぞれに特徴があり、特に主人公ノラはとても魅力的な女性だ。町の人たちが惹きつけられるように、読者もノラの魅力に惹きつけられてしまうのだ。物語はおおむねハッピーと言えなくはない内容なのだが、実際に書かれていない部分に、人々の悩みや苦しみが見えたりする。いつも元気なノラでさえ、何も書かれてはいないが、本当は多くの苦しみや悲しみを持っているのだ。それが、物語をただのマジカルなファンタジーということではなく、リアリティのある深みのあるものにしていると思う。


2003年07月25日(金)
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 Harry Potter and the Order of the Phoenix/J.K.Rowling

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ホグワーツ魔法魔術学校5年目の新学期を目の前にして、15歳のハリー・ポッターは思春期のまっただ中にいる。なにかというとかんしゃくを起こしたり、やつれそうなほどの恋わずらいをしたり、強烈な反抗心でいっぱいになったり。鼻持ちならないダーズリー一家と過ごす夏は、相変わらず腹の立つことばかりで退屈きわまりなく、しかもこの休み中は、マグルでない級友たちと連絡をとる機会がほとんどなかった。ハリーはとりわけ、魔法界からなんの知らせもないことにいらついていた。復活したばかりの邪悪なヴォルデモート卿がいつ襲ってくるかと、気が気ではなかった。ホグワーツに戻れば安心できるのに…でも、本当にそうだろうか?

J・K・ローリング著「ハリー・ポッター」シリーズの5作目は、前の年に経験した一連のできごとのあとすっかり自信を失った若い魔法使いハリーにとって、大きな試練となる1年間を描いている。ハリーが3大魔法学校対抗試合でヴォルデモートと痛ましくも勇敢に対決した事件は、どういうわけか、夏のあいだに広まったうわさ話(たいていの場合、うわさ話の大もとは魔法界の新聞「日刊予言者新聞」だ)では、彼をあざ笑い、過小評価するネタになっていた。魔法学校校長のダンブルドア教授までが、ヴォルデモートがよみがえったという恐ろしい真実を公式に認めようとしない魔法省の取り調べを受けることになった。ここで登場するのが、忌まわしいことこのうえない新キャラクター、ドロレス・アンブリッジだ。ヒキガエルを思わせる容姿に、間の抜けた作り笑い(「ヘム、ヘム(hem, hem)」と笑う)が特徴のアンブリッジは、魔法省の上級次官で、空きになっていた闇の魔術に対する防衛術の教授職に就任したのだ。そして、たちまちのうちに魔法学校のうるさいお目付け役となった。ハリーの学校生活は困難になるばかり。5年生は普通魔法使いレベル試験の準備のために、ものすごい科目数をこなさなければならず、グリフィンドールのクィディッチ・チームでは手痛いメンバー変更があり、長い廊下と閉じたドアが出てくる鮮明な夢に悩まされ、稲妻型の傷の痛みはどんどんひどくなり…ハリーがいかに立ち直れるかが、いま厳しく試されているのだ。

『Harry Potter and the Order of the Phoenix』は、シリーズ前4作のどれより、大人への成長物語という意味あいが強い。これまで尊敬していた大人たちも過ちを犯すことを知り、はっきりしているように見えた善悪の境目が突如としてあいまいになるなかで、ハリーは苦しみながら大人になっていく。純粋無垢な少年、『賢者の石』(原題『Harry Potter and Sorcerer's Stone』)のときのような神童はもういない。そこにいるのは、ときにむっつり不機嫌な顔をして、しばしば悩み惑い(とくに女の子について)、いつも自分に疑問を投げかけてばかりいる若者だ。またもや死に直面し、信じられないような予言まで聞かされたハリーは、ホグワーツでの5年目を終えたとき、心身ともに疲れはて、すっかり暗い気分になっているのだ。いっぽうで、読者は本作でたっぷりエネルギーをもらい、このすばらしい魔法物語シリーズの次回作が出るまでの長い時間を、またじりじりしながら待つことになるだろう。(Emilie Coulter, Amazon.com)




ハリーもいよいよ魔法学校の5年生。
今回はまずアメリカ版で読んでいるが、表紙の絵もちょっと大人っぽくなっている。いつものようにプリべットドライブ4番地のダーズリー家で夏休みを過ごしているハリー。友だちであるロンもハーマイオニーも通り一遍の手紙しかくれず、何にも変化のない毎日。ロンの家からの誘いもないし・・・って、よその家にも都合ってもんがあるでしょう。

といってもですね、もう5年生にもなる男の子が日がな1日花壇で寝そべっているなんて、おかしくない?いくら魔法学校の友だちがいないからって、ふてくされるって法はないでしょう。宿題をするとか本を読むとか、庭の草むしりをするとか(夏休みには必ずやらされたものよ!)、昆虫採集をするとか・・・。なんだ、ハリーって自分からは何にもできない子なの?と思いきや、そういったうさ晴らしのために、今や学校でボクシングのチャンピオンになっている「ビッグD」つまりダドリーをいじめたりなんかしている。「お前は豚と呼ばれているんだろう」なーんて。いくら相手がたしかに豚のようなダドリーだって、こりゃひどい!人の身体的特徴を馬鹿にしちゃいけないと、魔法学校では教わってないのか?一方、ダドポンはバイクに乗って、友だちと遊びまわっているのだけど、そっちのほうがよほどティーンエイジャーらしいな。ハリーにはバイクも友だちもないわけだけど、だからってさ。。。

ネタバレになるので、筋を追って書くのはご法度だろうが、とにかく冒頭を読んだ限りでは、ちょっとハリーってひねくれてるんじゃないの?これじゃダーズリー一家だって迷惑よねと思っちゃうストーリー。それに、だんだん大きくなってくれば、ロンやハーマイオニーだって、いろいろやることがあるでしょう。やることがない〜!と愚痴ってないでさ、自分でやることを考えなさいよ!と腹が立ってくる。フクロウ便も、自分の思ったような返事が返ってこずにがっかりしたりして、あたしだっていっつもそうよ!ってなもんだわ。とにかくハリーちゃん、がんばって!


●ダンブルドアのフルネーム

今回は登場人物も多い。その中でほほう!と思ったのが、ダンブルドアのフルネーム。「Albus Percival Wulfric Brian Dumbledore」。なるほど、パーシヴァルね。ここにもアーサー王の円卓の騎士が出てきた。ランスロットじゃなかったのでほっとしたりして。ブライアンてのはどうもイメージじゃないけど。しかもダンブルドアには兄だか弟だかがいて、「Aberforth Dumbledore」という。

それから、ダーズリー一家が留守の間、ハリーが預けられていたMrs. Figgのフルネームは、「Arabella Doreen Figg」だそうな。

シリウス・ブラックにも弟がいて、「Regulus Black」というのだが、シリウスが大犬座のα星、レグルスは獅子座のα星というわけね。シリウスとレグルスは単なる語呂合わせかもしれないが、何か性格的な違いなんかも表しているのかも。どっちにしても四足の動物。レグルスが変身するときは、ライオンになるんだろうか?残念ながら存命ではないので、定かではない。シリウスは全天一の輝星だから、一番お兄ちゃんなんだろう。

それと、ロンの兄のパーシー。彼も「Percy Ignatius Weasley」という立派なミドルネームを持っている。


●監督生

ハリーやロンって、監督生なんかにはなりたくなかったはずなのに、ハリーが監督生になれなかったということに対して、ハリー自身がなんだか面白くないって雰囲気。ハリーって、監督生に選ばれるほど優秀なの?と言ってしまうと、じゃあ監督生になった子はどうなのよ?ってことになるので、そのあたりは言及できないけれど、ちょっと「何様のつもり?」って態度がだんだん出てきた感じ。

「誰が賢者の石を守ったと思ってるんだ!」とか、「誰がリドルを倒したんだ!」とか・・・、そりゃ全部ハリーちゃんのお手柄ですけどね。それを言ってしまっては、もともこうもないでしょう。そもそもヒーローって柄じゃないわけだし。なのに、「この額にかかる稲妻傷が目に入らぬか!」みたいな態度は、ハリーちゃんには似合わないし、そういうハリーちゃんは可愛くないです。

どうして自分がヴォル様と戦わなくちゃならないの?という憤りはわかるけど、ハリーちゃんが「そんなの嫌だ!」っていうなら、本のタイトルは「ドラコ・マルフォイと賢者の石」になっていたかもしれず・・・。とりあえず、ハリーちゃんは主役なので仕方ないですね。(^^;

ダンブルドアがなぜハリーを監督生にしなかったかを説明する必要もないでしょう。それより、なぜドラコ・マルフォイを監督生にしたかというほうが知りたい。


●マルフォイパパ

ダンブルドアがホグワーツの校長をやめさせられるという記事が、日刊予言者新聞に載ったんだけど、それを偉そうに主張しているのがマルフォイパパ。
でも、4巻の最後のほうで、マルフォイパパがヴォル様と一緒にいたのは、お偉いさんには周知の事実じゃないのかしら?ていうか、当然ハリーが話しているはずでしょう。だとしたら、マルフォイパパはアズカバン行き、マルフォイ家はお家断絶ってことになるんじゃないのかと思っていたら、まだ偉そうにしてるわけ?しかも息子のドラコは監督生になったりして!おかしい!そりゃおかしい!パパがヴォル様の手先なら、ドラコだって退学でしょ。ダンブルドアをやめさせるとかより、ドラコ退学が先じゃないの?と憤る私。

今回もルシウス・マルフォイは明らかにヴォルデモートの手先だとわかっているのに、どうしてこの人は捕まらないんだろう?それどころかホグワーツの理事の一人であり、魔法省に絶大なる影響力も持っている。今回は証人も大勢いるわけだし、なのに、なんでマルフォイパパはアズカバン行きじゃないの?

で、今回は魔法省にも悪がはびこっているようで、ちょっと待ってよって感じだな。世の中そんなんばっかなんだから、ファンタジーの中でくらいは、役所はクリーンなところであってほしいよね。とにかくマルフォイパパが幅をきかせてるようでは、魔法界も日本やアメリカと一緒よ。だいたいハウスエルフのドビーに負けちゃうようなマルフォイパパでしょーが。ダンブルドアもガツン!と一発かましてやればいいのに。


●アンブリッジ先生

今年の「闇の魔術に対する防衛術」の先生は、アンブリッジ女史。
ヴォル様が戻ってきたというハリーを嘘つき呼ばわりして、毎晩「私はもう嘘はつきません」と書かせる。でも、それを書かせるペンというのが、字を書くと自分の手にも傷がつく。つまり傷から流れ出た血がペン先から出て、血文字を書くというわけね。サディストなんだな、アンブリッジは!それにしても、この人何しに出てきたの?という感じ。魔法省のあれこれも、結局何だったのでしょう?事態を予測して、スネイプにハリーの個人レッスンをさせるくらいなら、防衛術の先生はスネイプでいいじゃないかと思うんだけど。


●日刊予言者新聞

あんなものくだらない!と言いながら、毎日読んでるハーマイオニー。で、結局は中の記事もだいたい信じちゃってる。ハーちゃん、言ってることとやってることが違うわよ!


●ヴォルデモート=トム・リドル

今回はデス・イーターとの戦いがメインで、ヴォルデモートの出番が少なかった。ダンブルドアが戦う場面は初めてだけど、ヴォルデモートを「トム」と呼ぶのはどうかな?これまでの話を読んでいなければ、なぜ「トム」なのか?と疑問に思う人もいるだろう。もっとも、ほとんどの部分が、全巻読んでいることを前提にして書かれているので、それを「伏線」と言ってしまえば、作者には都合がいいんでしょうね。


●ハグリッドの弟

ハグリッドの弟はなぜ出てきたのか?その前にハグリッドはなぜ巨人に会いに行ったのかがわからない。ダンブルドアの命令でということになているが、その命令とやらは何のため?しかもそのことが、何の役にも立ってないみたいだし。


今回は実質的にも4巻より量的に多いのだが、エピソードが多すぎて、まとまりに欠けたような気がする。いつものように最後にダンブルドアがあれこれ説明するのも長すぎて、なにやら言い訳じみている。感想を書くとなるとあらすじに触れなければとてもまとまらないし、あらすじを書いてしまっては、これから読む人の迷惑になるだろうし、難しい。というわけで、こんな形の感想になった。

面白かったかと言えば面白かったと言えるが、大きな山場がないまま、あれ?という肩すかしで終わってしまい、無理やりダンブルドアが納得させたという感じ。そのダンブルドアに腹を立てて、たてつくハリーも、100年早いよ!ハリーにとって大事な人の死が、一番の山場なのだろうが、4巻のセドリック・ディゴリー同様、あっけなさすぎ。


2003年07月24日(木)
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 新訳・嵐が丘/エミリー・ブロンテ

寒風吹きすさぶヨークシャーにそびえる<嵐が丘>の屋敷。その主人に拾われたヒースクリフは、屋敷の娘キャサリンに焦がれながら、若主人の虐待を耐え忍んできた。そんな彼にもたらされたキャサリンの結婚話。絶望に打ちひしがれて屋敷を去ったヒースクリフは、やがて莫大な富を得、復讐に燃えて戻ってきた・・・。
─カバーより


以前に一度読んでいるのだが、すでに忘却の彼方だから、それと比べてうんぬんはあまり言えないのだが、こんなドタバタした話だったっけ?というのが読み終えたときの印象。もっと重厚で怖い話だったような気がするのだが、私が大人になったせいで、怖さを感じなくなったのだろうか?

この物語はゴシックだと思っていたが、新訳で読む限りは、全然おどろおどろしい感じはない。それがいいのか悪いのかはわからないが、読みやすいという意味では、確かに字も大きいし、読みやすかった。冒頭だけ、集英社刊の永川玲二訳も読んでみたが、個人的には旧訳のほうが落ち着いていて品格があり、好みかもしれない。

それにしても、ヒースクリフにしてもキャサリンにしても、こんなに嫌な人物だっただろうか?というか、心惹かれるキャラクターが誰もいない話というのも珍しい。前に読んだときには、ヒースクリフとキャサリンの次元を超えた愛というようなものに、とても感動したような記憶があるのだが、今回はそういった感動は全くなかった。自分が大人になったせいだろうか、周囲の人間がみな不幸になるような愛を、愛とは呼べないと思う自分に気づく。

ジェイン・オースティンの小説の翻訳などに比べて、登場人物の会話がずいぶんと幼い感じなのも気になった。しかし、ヒースクリフとキャサリンの愛自体が幼いものなのではないかとも思うと、それも致し方ないのかも。二人が愛の名のもとにどうなろうと、それは二人の勝手だが、周囲の人間、それも直接には関係のない子どもたちにまで彼らの怨念がつきまとうのは、なんとも許しがたい気がする。

ヒースクリフを失った悲しみで気が狂ってしまったキャサリンの心痛や、キャサリンの死によるヒースクリフの深い苦しみもわからないではないのだが、そのあたりがドタバタした感じでなく訳されていたら、もっと同情を感じたかもしれないが、独りよがりの勝手な行動としかとれなかったのは、残念。


2003年07月22日(火)
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 PAY DAY!!!/山田詠美

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もうすぐ17歳になる双子の兄妹ハーモニーとロビン。教師の父親と証券会社で働く母親が1年前に離婚し、ハーモニーはサウス・キャロライナで父親と、ロビンはニューヨークで母親と暮らしている。夏休みを利用してハーモニーの住む南部の町ロックフォートを訪れたロビンは、そこでショーンという青年と恋に落ちる。だが、夏の終わりとともにニューヨークへ戻ったロビンに、運命の9月11日が訪れる…。

本書は、アメリカ南部の田舎町を舞台に、2001年の同時多発テロ事件の被害者家族を描いた山田詠美の長編小説である。しかし、テロによってうちひしがれた少年と少女の悲劇というわけではない。犠牲者達の写真を見つめながら「私たち、お気楽なティーンネイジャーでいちゃいけないのかな」とつぶやくロビンの姿に象徴されているように、理不尽な暴力を前にして、口先だけの正義や道徳は、何も意味をなさないことを、著者は熟知している。本書で突きつめられているのは、一瞬にして家族を殺してしまうほどの暴力が確実に存在するこの世界で、人間はいかに成長していけばよいのか、という命題である。

そうした重いテーマでありながら、恋人となかなか一線を越えることのできないロビンの戸惑いや、人妻との不倫を続けるハーモニーの、背伸びした恋のういういしさなどが、じつに晴れやかに描かれる。また、湾岸戦争帰りでアル中の叔父ウィリアムや、新しい伴侶を求める父親の姿など、兄妹を囲む家族の存在感も、物語を奥深いものにしている。そして「少なくとも、給料日には幸せになれる」と締めくくる著者の視線は、前向きで力強く、世界のすべてを祝福するかのように、やさしい。ラストシーンを読み終えた読者は、本書が、幸福な家族の物語であったことに気づくはずである。(中島正敏)




内容以前に、読んでいてものすごく奇妙。日本人が書いたアメリカの話・・・というと普通に聞こえるが、山田詠美の小説ということを考えなければ、アメリカの小説の翻訳という感じ。しかも会話部分がいかにも翻訳調というのが奇妙に思える所以かも。特に親子の会話が不自然で、首をひねってしまう。とても日本人が書いたものとは思えない。

日本語にルビをふって英語を書いてあるのも(例えば「現実」にリアリティとか、「感謝祭」にサンクスギビングデイ、「肉汁」グレイヴィ、「おじいちゃん」グランパ、「携帯電話」セルフォン、「911」ナインワンワン、「お菓子」スウィーツ、などなどあげたらきりがないほどたくさんの言葉にルビがふってある)、翻訳ものにはよくあるが、だってこれは日本人が書いたんでしょう?と思ってしまうと白々しく感じる。これって必要なのかな?たぶん彼女の頭の中では必要だったんだろうな。日本語の音ではなく、英語の音で感じてもらいたいというような・・・。英語(カタカナだけでなく、アルファベットでも)の多用もしかり。そのあたりが、読んでいてどうもしっくりこない。

この本は、2001年9月11日の同時多発テロの事件を扱っているのだけれど、あのワールド・トレード・センターの爆破で、母親が行方不明になった。その時の会話。

兄「ダディ、マムは、あなたの前で泣いた?この泣き虫な女みたいに、あなたに涙をふかせたこと、ある?」
父「あるよ、彼女はぼくの前でしか泣かなかった」
妹「ダディは?あなたは、マムの前で泣いたことがあるの?」
父「あるよ」
妹「じゃあ、マムもあなたに愛されてるって感じたのね」

世の中にはこういう風に話す親子もいるんだろうが、私にはこういう会話は信じられない。少なくともまだ事件が起きたばかりで、母親が死んだと決まったわけではないし、心配でパニック状態であろう時点で(いくら両親が離婚していたにしても)。これが数年たって、事件を回想していると言う状況ならまだわかるのだけれど、この時点でこんな悠長な会話をするだろうか?ともあれ、これはほんの一例。

翻訳ものなら、何を言っているのかわかれば良しという気持ちで前に進めるのだが、これは翻訳ではなくて、日本人の書いた日本人が読む本であるわけだから、妙に引っかかる。丁寧に「お父さん(ダディでもいいが)、お母さん(マムでもいいが)は、あなたの前で泣いたことがありましたか?」というなら、もっと自然に受け入れられると思うのだけど、そういう礼儀正しい喋り方をしつけられている家族でもないし、とにかく不自然さが目に付く。

山田詠美は以前に何冊か読んでいるけど、こんな作風だったっけ?という感じを受けたのが、まずは第一印象。ちなみにこの家族の父親は黒人、母親はイタリア系の白人である。もしこれが英語で書かれていたら・・・と考えたとき、ふと山田詠美の目論見が見えたような気もする。

で、後半になって、やっと山田詠美らしさが見えてきた。つまり男女の間の物語が語られてきたということになるのかな。兄のハーモニー、妹のロビン、そして父のレイ、それぞれの恋愛模様が語られて行くのだが、ニューヨークのテロの心理的影響は各自に影を投げかけている。

突然母を失ったことに対し、まさにその時ニューヨークにいたロビンと、そこにいなかったハーモニーでは、おのずと感じ方も違い、しばしばそれが意見の相違となって対立が生じたりもする。アメリカ中が、あるいは世界中が事件について語り、戦争が起こっていく中で、あの場にいたロビンは、何かが違うと思い、いら立つのだ。

もっとも、全体として見たとき、あのテロをモチーフに使わなくてもいいのでは?という気がしないでもない。突然母を失う悲しさは、テロであろうが何であろうが同じだ。ただ、テロの場合、その怒りや悲しみを誰に向けていいのかわからないということがある。そういった悲しみに負けず、明るく前を向いて生きていこうとする彼らはいいと思うが、少しお気楽すぎて、事件の悲惨さや重大さが見えてこないのではないか?という思いもする。逆に考えれば、戦争をしているのは政治家だけで、庶民はただ、失った人の思い出を抱きつつ、悲しみを克服しながら毎日を生きていくしかないのだということかもしれない。

というわけで、話の核はあのテロの事件ということなのだが、山田詠美の得意とするところは男女間の物語であり、その部分に、やはり彼女らしさを感じる。ベッドの中の描写など、何年も前に読んで、すでに忘れてしまっていた彼女の作品を明確に思い出させるくらい、特徴的だった。これがないと、山田詠美じゃないという感じ。ただ状況描写などはいいのだが、会話部分には最後まで不自然さがつきまとって、馴染めなかった。

個人的には、アル中のウィリアムおじさんに非常に興味を持った。湾岸戦争帰りで、なにやらいろいろありそうな男。それについては何も詳細には描かれていないが、このおじさんがいることで、不自然な家族がまとまっている感じがするのが不思議。ここには描かれていない、ウィリアムおじさんの話を読んでみたい。


2003年07月17日(木)
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 タイムクエイク/カート・ヴォネガット

2001年2月13日、時空連続体に発生した異常―タイムクエイクのために、あらゆる人間や事物が、1991年2月17日へ逆もどりしてしまった。ひとびとはみな、タイムクエイクの起きた瞬間にたどりつくまで、あらためて過去の行為を繰り返さざるを得なくなる。しかも、この異常事態が終わったとき、世界じゅうは大混乱に・・・!SF作家のキルゴア・トラウトやヴォネガット自身も登場する、シニカルでユーモラスな感動の長編。
―カバーより

『サロン・ドット・コム』に、ジョージ・ソウンダーズ(『パストラリア』『フリップ村のとてもしつこいガッパーども』)と似ているとあったので、え?と思っていたのだけど、たしかに「クソ」がいっぱい出てくるところは似ているかもね。「クソったれ」まで出てくるし、下半身ネタも少なくない。それでもソウンダーズより品があるように感じるのは、年の功?年齢を考えれば当然かもしれないけど、ヴォネガットの広い知識も重みをそえているし、やはりここにも育ちの違いというものが出てきているんだろうと思う。

それより何より、ヴォネガットの奇想天外さは、ソウンダーズの小説とは全然違う世界だと思う。一言ではとても説明できないが、ヴォネガットの分身のような、「長らく絶版をかこっている老SF作家キルゴア・トラウト」(架空の人物)には、奇天烈ではあるけれど、尊敬さえ覚えるほど。ヴォネガットのエッセイかと思うと、トラウトのSF短編小説になったり、その境界線があいまいなところが奇妙な世界をかもし出している。しかし、そんな中からも、ヴォネガットの家族への愛情と、社会風刺が存分に感じられた作品だったと思う。

一応長編小説ということになっているけれど、ありきたりの枠にはまらない不思議な作品。個人的には、彼の持ち出してくるモチーフに、その都度びっくりしたり、感嘆したり、共感を覚えたりして楽しかった。


2003年07月13日(日)
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 ストリップ・ティーズ(上・下)/カール・ハイアセン

ストリップ・ティーズ(上)
ある晩、フロリダのストリップ酒場で、ダンサーのエリンをめぐって、ちょっとした騒ぎが起きた。よくある酔客どうしの喧嘩だが、一つだけ普通でないことがあった。加害者が、なんと下院議員のディルベックだったのだ!エリンに惚れている常連客キリアンは、酒場での醜態をネタに議員を脅迫し、娘の監護権をめぐって前夫と裁判を続けているエリンに、有利な判決が下りるよう圧力をかけさせる。ところが、キリアンが何者かに殺され、エリンの身にも危険が・・・。
─カバーより


少し前に「HOOT」で初めて読んだハイアセンだが、出会いは昨年から。紀伊国屋の洋書バーゲンで、買おうかどうしようか迷ってやめた記憶がある。でも、それ以来気になっていた作家。その時の勘が正しかったようで、ユーモアあふれるミステリーは結構いける。

ストリップ酒場の名前が「うずうず女」とか「肉農場」とか、ここまで訳さなくても・・・と最初は思ったが、これがあとあと笑いを誘うようになるから面白い。けっしてハードボイルドタッチのミステリではなく(絶対に!)、人が何人も殺されているというのに、笑いながら読んでいる。

ただ、主人公のストリップ嬢エリンは、小説の中では魅力的だと思うのだけど、映画化されてデミ・ムーアが演じているので、どうしてもデミの顔が浮かんでしまっていけない。本のカバーにも、妙に筋肉質なデミの写真がいくつか載っていて、そのイメージを頭から追い払うのにひと苦労。デミ・ムーアはもともとかわいらしい顔つきだから、マッチョなストリッパーやチャーリーズ・エンジェルの悪役なんて似合わないと思うんだけど、ブルース・ウィリスに悪影響を受けてしまったんだろうか。というか、そもそもこのエリンは気が強くてタフではあるけれど、マッチョなストリッパーじゃないのよ。

個人的には事件の捜査をしているガルシア刑事と、「うずうず女」の用心棒シャドが好き。シャドは強くて怖いけど実は優しいという感じの、ボブ・サップみたいな黒人の大男。


ストリップ・ティーズ(下)
ガルシア部長刑事や酒場の用心棒シャドの力を借りて、なんとか窮地を切り抜けようとするエリン。そこへ、悪徳弁護士モルディカイやエリンの別れた夫ダレル、フロリダの砂糖産業を牛耳るロホ一族やFBIなどが入り乱れ、さらにディルベックがエリンに一目惚れしてしまうというおまけまでついて、事態は思わぬ方向に進展していく。はたして、エリンと娘の運命は・・・?常夏のフロリダで巻き起こる大騒動を軽快なタッチで描く傑作ユーモア・ミステリー。
―カバーより


後半になって、ハイアセンのユーモアが一段と冴えてきた。エリンの別れた夫が娘を連れ戻そうと躍起になるところが怖い。実のところ彼は殺人など犯せる人間ではないのだが、最後にはクスリでわけがわからなくなって殺人を犯してしまう。その後、この夫が死ぬところはあまり深く考えないほうがよさそう。このあたりが一番怖い。

何人もの人が殺されているので、殺人犯はひとりではないのだが、犯人は皆死んでしまい、最後はハッピーエンドとなるのだが、登場人物のその後というのがまたおかしい。例えばエリン。娘の永久監護権を手にし、二人でオーランドに移り住み、ディズニー・ワールドでシンデレラの一番上の義姉として夜間ダンスの仕事についた(昼はFBIでデータ入力をしている)。普通、物語の主人公で美人でスタイルもいいとなれば、シンデレラだろうと思うが、一番上の義姉の役というのがハイアセンらしいユーモア。

ちなみに新しい名前を考えていた「うずうず女」の次の名前は「抱腹絶倒」、新経営者になってまた名前が変わり、「裸の本質供廚箸覆辰拭先の責任者であったオーリーはその後、「生で食べて」というトップレス・オイスター・バーを開店したというから大笑いだ。

猥雑なサウス・フロリダを舞台に、それこそ抱腹絶倒の事件が繰り広げられるのだが、アメリカの政治に対する風刺もぴりっと効いていて、非道な殺人事件を扱っていながらも、どこかほのぼのとしたものを感じるのは、「HOOT」でも描かれていたハイアセンのひとつの個性なのではないかと思う。



2003年07月08日(火)
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 藍色夏恋 (BOOK PLUS)/易 智言

モンは17歳の高校生。大親友のユエチェンと、毎日を一緒に過ごしてる。将来の姿を夢見あったり、好きなアイドルの話をしたり。二人にとって“恋”は言葉遊びのひとつだったはずなのに――ユエチェンに、好きな人ができた。「彼、チャン・シーハオっていうの」不思議な胸騒ぎ。大好きな親友への、かすかな失望。どうして?それでも親友の恋を実らせるために奔走するモン。そうするうちに“彼”がモンに興味を持ち始め、誤解から二人の距離が近づいてゆく。

「キミ・ト・ツキアイ・タインダ・・・」

インクがなくなるまで“彼”の名を書きつづけるユエチェン。一途な素直さでモンに恋をするシーハオ。そして、17歳の自分の気持ちに葛藤するモン。それぞれの気持ちに素直になれた時、三人は大人への階段を登り始める――。
切なくも懐かしい、青春の記憶が詰められたひと夏の恋の物語。
―(カバーより)


1時間ほどで読み終えた。軽い青春ものという感じだけど、実のところ結構重たいかも。主人公の行く末を考えると、単なる青春ものでは終わらないなと。よくある親友の好きな人を自分が好きになってしまい、恋と友情の間で悩むという話ではなく、自分が好きなのは親友であるという新しい三角関係に悩む話。自分自身の性癖を否定しようと、「私は女の子。だから男の子が好き」と思い込もうとするのだが・・・。

台湾映画のノヴェライゼーションだが、日本に関する記述も多く、「キムタク」、「菜菜子」、「リングの貞子」、「夕張メロン味のキャラメル」、「キティちゃん」・・・などなど、登場人物が中国名でなければ、ほとんど日本の小説かと思うほど。


2003年07月07日(月)
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