読書の日記 --- READING DIARY
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 ROSES ARE RED/James Patterson

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ジェームス・パターソンの『Roses Are Red』は、刑事アレックス・クロスシリーズの6作目。コロンビア特別区を受け持つ刑事アレックスが、切れる寸前の家族の絆をなんとか修復しようとする場面から始まる。

1年前の婚約者誘拐事件(詳細は1999年作の『Pop Goes the Weasel』に)が、クロスと家族との関係に微妙な影を落としていた。そのとき誘拐されたクロスの現在の妻クリスティーンは、至極もっともな条件を1つだけつけて、彼の気持ちを受け入れることにした。その条件とは「どんな殺人マニアたちが現れようと、家族の絆を第一に考えること」だった。だが間の悪いことに、生まれたばかりの赤ん坊の洗礼式の最中、FBIから、数件に及ぶ凶悪な殺人事件の情報が飛び込んでくる。刑事(そして心理学博士でもある)クロスの出番がやってきてしまったのだ。

「殺されたのは3歳の男の子と父親、そしてベビーシッターだ」。カイルは、その場を離れる前に、もう一度繰り返した。ドアからガラス張りのベランダへ出ようとした彼は、つと振り返り、私にこう言った。「この事件、お前にうってつけだ。奴ら、家族殺しなんだよ、アレックス」

カイルが出ていったあと、すぐさまクリスティーンの姿を探した。私の心は沈んだ。彼女は、出ていくとも言わずに、息子のアレックスを連れていなくなっていた。たった一言のあいさつもなしに。

こうして家族への負い目を感じる必要もなくなったクロスは、事件の「マスターマインド」を追うこととなる。最近の一連の銀行強盗を影で操る残酷無比な知能犯だ。銀行員やその家族を人質に取り、彼らがわずかでも指示に反すれば虐殺するのだった。クロスの長年のパートナー(愛すべき巨漢、ジョン・サンプソン)は、この事件の根底に計りしれない残虐性を感じとり、魅力的で思いやりもあるFBIきっての頭脳派エージェント、ベッツィー・キャバリエに今回のクロスの相棒の座を譲るのだった。

しかしクロスとキャバリエの捜査は難航。それにつれて、「マスターマインド」の攻撃もさらに大胆で残酷になっていく。まるで、こちらの動きを見透かしているようだ。きわめて短い段落と語り手の急激な交代(クロスの視点から「マスターマインド」の視点へ)という効果もあり、ストーリーは息の止まるようなスピードで、予想もできない結末へと急降下していく。

だが、そんなことに気づく間もなく読み終えてしまうのが普通かもしれない。くつろいだ気分で、あるいは固唾を呑んで、この「ショー」を存分に楽しもう。そして、引き続き次回作にも注目しようではないか。



立てつづけに起こった、凶悪な連続銀行強盗。お金を奪い、人質も容赦なく殺す犯人。その捜査にアレックス・クロス刑事に白羽の矢が。しかし、アレックスはクリスティーンとの間に子供も生まれ、家族と事件の間で板ばさみになって苦しむ。クリスティーンは前回の事件で犯人に誘拐され、そのトラウマで神経過敏になっており、結局アレックスの前から姿を消してしまう。傷心のアレックス。一方事件は意外な人物を次々と犯人としてあげていくが、結局首謀者の真犯人「Matermind」は捕まらず、その間に捜査に関わった刑事たちが次々に殺されて行く。「Mastermind」とは何者なのか?何を目的としているのか?

というわけで、この話はここで終わっている。続きは次作『VIOLETS ARE BLUE』を読めというわけだ。このアレックス・クロスシリーズは好きだったのだが、回を追うごとに家族と事件の板ばさみになっていくアレックスが気の毒になってきて、事件を解決するストレートな面白さが減ってきていた。そこにもってきて「続く」となると、どうなの?という感じ。息もつがせぬという最初の頃の話とはだいぶテンポも違ってきていて、そろそろこのシリーズも終わりかなという予感も抱かせる。

2003年06月29日(日)
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 カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険/マイケル・シェイボン

物語は、アメリカが大恐慌の痛手からようやく回復した(その一方で戦争の足音がひたひたと忍びよってきている)、1939年の秋のある日に始まる。ニューヨークのブルックリンに住むサミー・クレイ(17歳)の家に、突如、従兄弟のジョー・カヴァリエ(19歳)がプラハから亡命してくる。ナチスの迫害が迫ったチェコにあって美術学校の学生だったユダヤ人のジョーは、一家の期待を背負い、マジックの師匠であるエスケープ(脱出)マジシャンのコルンブルムの助力を得て─その昔、ラビのロウが粘土で造った奇跡の自動人形、プラハのゴーレムをナチスに奪われないよう安全な国外に移そうという計画に乗じて─リトアニア、日本を経由してアメリカに脱出してきたのだった。

エンパイア新型商品会社で在庫係の職にあるサミーは、黎明期のコミック誌に熱中していて(『スーパーマン』誕生は1938年)、あれこれと模写し、ひそかに試作もしていた。そんな彼は従兄弟の画才に感動し、社長のアナポールに掛け合ってコミック誌出版の内諾を取り付ける。サミーは仲間を集めていくつものストーリーを練らせつつ、ジョーとともに、エスケープマジシャンをヒントに、“エスケーピスト”(ヒトラーと戦い、迫害されている人々を解放するスーパーヒーロー)なるキャラクターを造り出す。

エンパイア・コミックスから出版された『エスケーピスト』は大成功を収め、ラジオ・ドラマや各種のキャラクター商品となり、のちには映画化もされるが、一方でアメリカ在住のナチス信奉者からの攻撃も受けるようになる。かくして、才能豊かなふたりの若者の、自らの夢を、同時に理想社会の実現を夢見る大冒険が開始されることとなる。

─以上、訳者あとがきより


これもまた感想が難しい。あらすじは上に書いてあるようなことなのだが、シェイボン自身がアメリカン・コミックを意識しているのと同様に、カヴァリエ&クレイもコミックを手がけ、人気を博していくため、常にコミック的なイメージがつきまとい、SFのような、ファンタジーのような、現実とはかけ離れた、もうひとつ向こうの世界という感じを受ける。だが、実際はポップで軽いのりというわけではなく、結構重たい。シェイボンの博識ぶりはここでも遺憾なく発揮され、驚くべきはカヴァリエ&クレイではなく、シェイボンの頭の中という感じ。



2003年06月21日(土)
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 ピッツバーグの秘密の夏/マイケル・シェイボン

シェイボンの処女作『ピッツバーグの秘密の夏』(The Mysteries of Pittsburgh)は、1984年にピッツバーグ大学を卒業後うつったここのクラス(カリフォルニア大学アーヴィング校のワークショップ)で書かれた作品である。教授が感銘を受けて、ニューヨークのエージェントに原稿を送ったところ「まちがいなく売れる」と太鼓判を押してきた。

ひと月後、エージェントは絶対確信を持ってオークションに出し、ウイリアム・モロウ社に版権を売った。およそ10社が競い合い、15万5千ドルの前金がシェイボンに支払われた。この額が、23歳のまだ学生である、全くの新人に支払われるべき前金としては異例の高額であることは、たとえば85年に出版され話題になったブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』に支払われた前金が5千ドルと聞けば、なるほどとうなずけるのではないかと思う。

<やっかいな文体>
翻訳にとりかかる前に読み始めたときには、面白くて一気に読めたのに、当然ながらイザ訳すとなるとけっこうやっかいな文体ではあった。前述のロスの雑誌(ロサンジェルス・タイムズ・マガジン)にも「注意深い読者なら、作品の”ぼく”が使うボキャブラリーについていくためには辞書を脇に置いて読まなくてはならないだろう」とあったから、英語国民にして、そうかと安心したりもしたものだ。まだ23歳の彼が引用する世界と名前の幅が広いのに感動もした。ロック・スターなら分かるが、エマ・ボヴァリーやオスカー・ワイルド、チャールズ・ブコウスキーといった固有名詞やダンテの『神曲』からの引用などがぽんぽん登場する。何しろシェイボンはプルーストを全巻フランス語で読むほどの教養人としても知られているそうだ。原題の The Mysteries of Pittsburgh はウージェーヌ・シューの古典的大衆小説『パリの秘密』(Les Mystere de Paris)から引用したものらしい。

主人公アート・ベクスタインは、ナルシストで過敏だ。一見ひ弱なこのタイプはたいがいもてないはずなのに、読み進む内に主人公への愛着を感じてくる。男と女の両方と、情熱的にセックスをするバイセクシュアルの主人公に対して、読者は不快感よりも、男女共に自分の青春をオーヴァーラップさせて共感に浸れてしまうところが、この小説の魅力のような気がする。

―以上訳者あとがきより


シェイボンの作品は感想を書くのが難しい。

ぼくはアート、彼はアーサー、彼女はフロックス。そして、ぼくのパパはギャングだ。アートは大学の夏休みをピッツバーグで過ごしている。図書館でアーサーと知りあい、フロックスを紹介されるが、フロックスが好きなのか、アーサーが好きなのか?フロックスとも関わりを持ちながら、アーサーともベッドを共にする。どちらも嘘偽りのないぼくの気持ち。そしてぼくに多大な影響を与えるクリーブランドがいる。彼は見知らぬ大人の世界を知っている。だがその世界は、父親の傘下にあるものだった。危うい恋愛の模索と、関わりたくなかった父親の世界に足を踏み入れつつ、ピッツバーグの夏は過ぎて行く。

シェイボンが学生時代に書いたこの作品は、やはり学生らしさがあふれていて、おぼっちゃまの夏休みといった感じ。どっちつかずの恋愛や、大人の世界への憧れ、そこに足を踏み入れる怖さ、そういった感情がごちゃ混ぜになっていて、何がいいたかったのかと言うより、こんな夏休みを過ごしましたという感じの話。博識のシェイボンらしく、随所にそういう描写が出てくるのだが、煙をはき出す工場を「クラウド・ファクトリー」と表しているところなど、『悩める狼男たち』で堪能させてくれた、言葉の錬金術師的片鱗を見せている。



2003年06月15日(日)
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 この世の果ての家/マイケル・カニンガム

内容(「BOOK」データベースより)
幼くして何かを失い、孤独を抱えて育ったボビーとジョナサン。二人は出会い、親友となる。結ばれた強い絆は、互いの家族を癒し、そして傷つけ、時と共にみな離れ離れになっていく。時を経て再会した二人は、年上の女性クレアを交えて共同生活を始める。新たに築かれた奇妙な絆―だが、幸福とはほど遠い。そんななか、三人に子供が生まれる。かけがえのない家族の日々が、ようやく、彼らに訪れようとしていた…。かつてない繊細で詩的な描写と圧倒的なストーリーテリングで、その才能を高く評価されたマイケル・カニンガム・十四ヶ国で翻訳された、代表的傑作。


幼くして何かを失い、孤独を抱えて育ったボビーとジョナサン。二人は出会い、親友となる。結ばれた強い絆は、互いの家族を癒し、そして傷つけ、時と共にみな離れ離れになっていく。時を経て再会した二人は、年上の女性クレアを交えて共同生活を始める。新たに築かれた奇妙な絆――だが、幸福とはほど遠い。そんななか、三人に子供が生まれる。かけがえのない家族の日々が、ようやく、彼らに訪れようとしていた・・・・・。
かつてない繊細で詩的な描写と圧倒的なストーリーテリングで、その才能を高く評価されたマイケル・カニンガム。14ヶ国で翻訳された、代表的傑作。
―カバーより


マイケル・カニンガムは「偉大なるゲイ小説」を書きたがっている。そんなものはありはしない。そんなのは単なる傲慢にすぎない――が、カニンガムなら、うまくやってのけるチャンスもそれなりにありそうだ。これまで、ひとつの確たる声を持つ作家として自分の立場を築いていくなかで、カニンガムは2つのテーマに焦点を当ててきた。ひとつはゲイの男性と、女性との間の深いロマンチックな関係。そしてもうひとつは、エイズがもたらす破壊である。

その高尚な目的と、壮大な成果をめざす熱意を思えば、カニンガムの評価を決定的にした『この世の果ての家』と、長大な家族サーガ『肉親』(Flesh and Blood)が、むしろ職人風の文章で書かれていて(メタファーを見つけるのが一苦労なくらいだ)、構造的にも決してタイトではないことは、意外といえば意外である。だがこれらは、まだ習作とみなすこともできよう。これが『めぐりあう時間たち』になると、もう本物の、いかにも文学的な作品である。
─「サロン・ドット・コム」より


<不思議な三角関係と強い女たち>

普通の男ボビー(たぶんバイセクシュアル)、ホモのジョナサン、そして女性のクレア。この三人の物語。最初はボビーとジョナサンの少年時代が描かれ、二人が出会い、成長して離れていく過程を、ジョナサンの母の目も通して語られている。この間にあるボビーの兄が死ぬ話は、「White Angel」という短編になっており、ここだけ取り出して読むと、事件の衝撃と、そこに居合わせた女の子の心の痛みに思わず涙する。

大人になり、ニューヨークでルームメイトのクレアと暮らすジョナサンを訪ねていくボビー。そこから3人の関係が築かれて行くのだが、それぞれの性癖があるため、事はややこしい。結局ボビーとクレアの間に子供が生まれ、あれこれ紆余曲折の末に、3人で子供を育てることになる。そこにやってくるジョナサンの元恋人。彼はエイズにかかっており、彼が来たことでまた波乱が起こり、クレアは永久に彼等のもとを去る。

カニンガムはこの作品で、家族というものを描きたかったようで、ボビーの家族、ジョナサンの家族、そして家族としての彼等3人を描いているが、その誰もが満たされない思いを持ち、一見普通の家族のようでありながらそうではなかったり、血の繋がりがないのに、なぜかかたい絆で結ばれていたりと、様々である。

ウッドストックを経験してはいないが、ウッドストックに憧れている世代。そこに行けば何かがあると信じて、既成の概念に捕われない新しい家族を作ろうとする彼等。結局そこはどうにもしようのなくなった男三人が残される、「この世の果ての家」というわけか。

この小説の中で、男は皆繊細でか弱い感じがするのに、女は強い。女性の心理をとらえるのが上手いカニンガムだが、同時に女性の怖い面も鋭くとらえているような気がする。登場する男が繊細で美しいのは、カニンガムがゲイである所以だと思う。この小説には、男の一般的な男たる部分というのは全然なく、ひたすら傷つき易く、やさしく、繊細な心の持ち主ばかり。それに比べると、ジョナサンの母親やクレアなどは、あっけにとられるような強さを持っている。


2003年06月10日(火)
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 ラブリー・ボーン/アリス・シーボルド

ある冬の日、少女は殺された。
けれど、少女は天国から愛する家族を見守りつづける。
「みんなのこと第好きだから、ずっとそばにいるから、だから・・・」

いつもと変わらぬ学校からの帰り道、家に買えれば大好きな家族が待っているはずだった。けれど近道をするために通ったトウモロコシ畑で悲劇は起こった。近所に住む男に、14歳の少女スージーはレイプされ、殺されてしまったのだ。

愛する娘の死に、家族は静かに崩壊していく、父親は犯人を追うことだけに人生を費やし、娘を守ることができなかった罪の意識から母親は家を出ていってしまう。妹と幼い弟は、姉の“影”を感じ、自分の存在に不安を募らせる。
そのすべてをスージーは天国から見守り、けっして聞こえることのない声を愛する家族にかけつづけていた。

「わたしの死をひきずらないで。ただ忘れないでほしいだけなの・・・」

家族の崩壊と歳性、そして永遠に消えることのない愛を描き、全世界からかつてないほど熱狂で迎え入れられた、250万部突破の驚異のデビュー小説!

―カバーより




コダック・インスタマチック、フラッシュキューブ、焼けたフィラメント、3インチ×3インチの正方形の写真。スージーと同じカメラで私が写したのは、父の写真。それは今も部屋に飾ってある。私は亡くなった父の存在を今も感じている。

物語の主人公は死んでいる。しかもその死はレイプ殺人という痛ましいもの。犯人は冒頭からわかっている。にもかかわらず、この物語がミステリーっぽくならないのは、語り手の主人公が幽霊だからだ。このことは誰もが口にする重要な部分で、殺された本人のスージーのポジティブな語りは、それゆえに感動的なのだが、私はあえてその部分には深入りしない。

私にとって、家族の死はいまだに乗り越えられないハードルだ。だから、スージーの父親の苦悩は、痛いほどわかる。しかも娘の死は殺人によるものとなれば、犯人探しに没頭する姿も十分理解できる。心臓発作で倒れてしまう父親の、痛ましいほどの気持ちには胸が熱くなる。倒れるのは、並大抵の苦悩ではないのだから。そして家族の死にともなって、家庭が崩壊していくのもわかる。柱を失って崩れ落ちて行く家そのものだ。だが死者はどうすることもできない。家族の突然の死は、ほかの家族のひとりひとりに、大きな影響を及ぼし、いきなり人生を変えることにもなる。それをスージーは、天国からずっと見守っているわけだが、最後には霊的な能力を持つ友人と入れ替わり・・・と、このあたりは少々オカルトチックだ。

私の場合は逆に父が死んだ。天国がスージーの言うようなところだったらいいなと思う。愛犬と一緒に楽しく暮らしているなら安心だ。父が今ここにいるとは感じないが、見えない力で必ず守っていてくれる。魂は本当にあるのだろうか?天国はいいところだろうか?この本を読んでいる間、ずっと父のことばかり考えた。そして父は夢に出てきた。でも、スージーのように楽しげではなかった。それは仏教とキリスト教の世界観の違いだろうか。

ともあれこの本は、私には非常に辛い本だった。父がスージーのように幽霊になって現れてくれたらいいと思うか?いや、それはない。もう一度生身の人間として戻ってほしい。それしか考えられない。というか、死んでなんかいないと思いたい。もちろんスージーの家族だってそうだろう。だから、幽霊になって家族を見つめているなんて、耐えられないのだ。



2003年06月03日(火)
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