| 2013年05月19日(日) |
(SS)positive |
母はポジティブな人だった。
元々愚痴をこぼすこともなく、決して楽では無いだろう父の妻という役割をいつも微笑みながら淡々とこなしていた。
ぼくが進藤とのことを打ち明けた時も父は相当ショックを受けたようだったが、母は意外にも少し驚いたような顔をしただけで、後はただ了解したというような顔でうなずいただけだった。
「あの…今更こんなことを言うのもなんですが、お母さんはぼくと進藤とのこと、嫌では無いんですか?」
彼と共に暮らすことを決め、その引っ越しのために荷造りをしている時、ぼくは手伝ってくれていた母に思い切って尋ねた。
「別に嫌では無いわねえ」
母は本棚の本をダンボール箱に詰めながらおっとりとした口調で答えた。
「それは確かに驚いたけれど、聞いてみればああという感じだったし、アキラさんに進藤さん以上にぴったりくるお相手はいないだろうと思ったし」
「でも、その…」
ぼくは進藤との関係をこれっぽっちもやましいとか悪いことをしているとか思ったことは無いのだが、両親と彼の両親に孫の顔を見せるというごく普通の楽しみを与えられないことだけは本当に申し訳無いと思っていたのだ。
それを言うと母は「そうね」とひとこと言って、それから荷造りの手を止めてぼくに言った。
「でもねアキラさん。そんなことを言うけれど、私はお父さんと結婚して何年もずっと子どもが出来なかったのよ。どちらも体に問題があるわけではなかったのにどういうわけか恵まれなくて、お父さんは本当はとても子どもを望んでいる人だったから一時は養子を貰おうかって話も出ていたくらい」
実際、後援会の人たちからもそんな話は出ていたらしい。もっともそちらは 父の才能を受け継ぐ人間がいないことを残念に思ってのことだったらしいが。
「もしその時、養子を迎えていたらアキラさんは今ここに存在しないわ。養子を迎えなくて、そのまま子宝に恵まれなくてもやはりアキラさんは居なかったことになる」
そうしたら当然孫など望めるわけも無いわけなのだから、そんなことは問題にならないのだと言った。
「それはそうかもしれませんが」
「それにね、みんな結構妊娠、出産て結婚すれば普通にあることと思っている節があるけれど本当はそんなことは無いのよ。もしアキラさんがどこかのお嬢さんと結婚したとしても私たちのように子どもに恵まれないという可能性だってあるでしょう?」
結婚して、子どもが生まれてということを人は安易に「普通」と言うけれど、それは決して「普通」なんかではないのだと母は言う。
「大切なのはあなたが本当に好きな人と結ばれること。アキラさんは進藤さん以外の方と添い遂げるつもりは無いのでしょう?」
「はい」
「だったら、これでいいの。進藤さんのご両親は違う考えでいらっしゃるかもしれないけれど、少なくとも私はそう思っているから」
「お母さん…」
「それにね、正直な話、私が意地悪な姑になってしまいそうな生意気なお嬢さんを連れて来られるよりも、男前で素直な息子がもう一人増える方が嬉しいわ」
くすくすと母は笑いながら言った。
「あなたと進藤さんとのこと、噂を聞いた人の中には非道い悪口を言った人も居るんだけど、この前進藤さんを連れて行って直接会わせたらみんな羨ましそうな顔になったわよ」
「って、お母さんいつの間に」
「知り合いのお茶会にちょっとね」
再び荷造りを始めながら、母はいたずらっ子のような顔で口元に笑みを浮かべた。
「痛快だったわぁ。進藤さんたら物怖じしないタイプでしょう? わざとお茶席のマナーをお教えしないで連れて行ったら困っていたけれど、すぐに素直に回りの皆さんに尋ねてらっしゃってね、それが可愛らしいものだから、すぐに皆さん目尻が下がってしまわれて」
母性本能をくすぐるタイプなのよねと、可笑しそうに笑った。
「最後の方なんか、進藤さんの取り合いになってしまったくらい」
ころころと笑うが、ぼくは笑えなかった。
母と一緒に茶会の席に出席したことがあるが、皆さん良家の奥方ばかりで、かなりあくの強い人が多かったと記憶しているからだ。
「進藤さんのこと怒らないであげてね。私がアキラさんには内緒って約束させてしまったものだから」
「怒ったりなんかしません。ただちょっと呆気にとられているだけで」
ぼくは進藤が母と出かけたなんてまるっきり知らなかった。たぶん父も知らないだろう。
しかしそうして母はぼくと彼を悪く言う人たちを黙らせてしまったのだ。見事と言うしか無かった。
「むしろね、私はあなた達の方を心配しているのよ」
詰め終わった箱にマジックで本と中身を書いてから、母はぼくをじっと見た。
「今はいいわ、でも将来どちらかが子どもが欲しくなった時、あなた達は後悔せずにいられるかしら?」
「それは―」
「進藤さん、あの方、お父さんと同じよね。きっと自分の碁を我が子に伝えたいタイプだと思うわ。アキラさんだって本当はそうなんじゃないかしら」
若い内はいい。気持ちだけで突き進むことが出来るから。けれど年を重ね自分の残り時間が見えて来た時に、果たして選択を悔やむことにはならないか。母はそう尋ねているのだった。
「後悔はしません。ぼくも―彼も」
「そう?」
「子どものことは解らないけれど、もし本当に望んだら養子を考えるかもしれません」
「そうね」
「でも基本的にはぼくは彼と二人だけで生きて行くつもりでいますから」
二人で生きて二人で死ぬ。
それは人とは違う生き方を選んだ時に考えて決めたことだった。
「だったらいいわ。ちょっと心配だっただけ」
にっこりと笑う母の笑みはいつもと変わらない暖かいものだった。
ぼくに限りない愛情を注いでくれる、とても優しい存在。
「それからもし、あなた達が養子を迎えることになったとしても私は口出しはしませんからね」
「はい」
「その代わり、手だけはたっぷり出させて貰うから。楽しみだわあ、女の子でも男の子でも、また小さな子どもとたくさん遊ぶことが出来るのはとっても楽しみ」
ああ、でもその前に、新しく出来た男前の息子とあちこちデートに行かなくちゃと目を細めて微笑む母は本当に楽しそうで、ぼくは母のポジティブさに今更ながら感謝して頭が下がる思いだった。
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デリケートな物を含んだ話なので、もしかして不快に思われた方がいらっしゃいましたらごめんなさい。
明子さんは物事を全体として考えて、良い部分を優先して採用する人。美津子さんは、ヒカルはこういう子なんだから仕方無いわーと諦めて受け入れることにしている人。
どっちもポジティブ。
棋院のスポンサーのお偉いさんに繁華街に飲みに連れて行かれ、塔矢と二人駅に戻る道々散々客引きに遭った。
「お兄さん達、三千円ぽっきりだよ、いい子が揃ってるから」
「よ、そこの男前っ! うちの店は美女揃いでハズレは無いよ」
うるさいなあと思いつつ、それでも躱して通り過ぎていたら、一軒の店の前で塔矢が腕を捕まれた。
「お兄さん時間あるんでしょ? だったら寄って行ってよ。男なら最高の女を知らなくちゃ」
「いえ、間に合っていますから」
塔矢はにっこりと笑ってあっさり腕を振り払ってしまったが、おれはどうにも気にくわない。
「なあ」
「ん?」
「さっきの間に合ってるって、要はおれでせーよく解消出来てるから必要無いってこと?」
拗ねたような口調になってしまったのは、なんとなくおざなりに扱われたようなそんな気持ちがしたからだ。
「バカだなあ」
塔矢はそんなおれの顔を見て、叱ろうかどうしようか迷っている親のような顔をした。
「最高の男が恋人なのに、どうして他が必要になる?」
「あ、えーと…はい」
ぼくはいつでもそう思っているのだから、つまらない事に引っかかって拗ねたり焼き餅を妬いたりしたら許さないよと睨まれて、おれは慌てて謝りながら、それでもどうしても顔が赤く染まるのを隠すことが出来なかった。
面倒くさがりの進藤は、以前は邪魔になるぎりぎりになるまで爪を切ろうとはしなかった。
それがふと気がついてみれば、ぼくにうるさく言われなくても自分から進んで切るようになっていた。
目の前で丁寧に爪にやすりを当てている進藤を眺めながら、ぼくはからかい半分聞いてみた。
「キミ、どういう心境の変化で爪を切るようになったんだ?」
進藤はちらりと目を上げて、なんでも無いことのように言った。
「だっておまえ、結構肌が弱いから」
思っていた答えと違っていたので首をひねる。
「そうだったか? そんなに弱いつもりは無かったけれど」
「いや、そうじゃなくて、前よりも、もっと深い場所に触れるようになったじゃんか」
だからおまえに傷をつけたくなくてやってるんだと言われ、しばし言うべき言葉を見失う。
恥ずかしさは一拍置いてやって来た。
「そんな…下品なことを言うなっ」
「なんでだよ」
ぼくの言葉に進藤は、手を止めて再び目を上げた。
「下品じゃなくて」
これが愛情ってヤツだろうとぬけぬけと言う彼の顔は、夜、ぼくの上に居る時とまったく同じ表情をしていたので、ぼくはもうそれ以上何も言えずに、黙って下を向いたのだった。
徹夜碁は久しぶりだったので、明け方近くさすがにうとうとしてしまった。
心地よいけだるさの中、揺さぶられて目を開いたら驚くほど間近に進藤の顔があって、ああ夢かと思った。
「キミがすき―」
夢の中ならなんでも言えるとにっこりと微笑んでそう言って、言い終わらない内に今自分がどこに居て何をしているのか閃きのように思い出した。
「―やきを食べたいと言うならおごってやらないこともない」
苦し紛れに続けた言葉に夢でもなんでも無い進藤は困惑したように眉をひそめ、それからぶっと吹き出して言った。
「なんで寝ぼけてる時までそんなに偉そうなんだよ、おまえ」
でも、折角だから奢って貰う、今ここにいる全員が証人だからなと言われ仕方無く黙ってうなずいたけれど、いつかこんな風にうっかりと進藤に自分の本当の気持ちを打ち明けてしまいそうで、ぼくはたまらなく不安になった。
| 2013年05月10日(金) |
(SS)夜明けのコーヒー |
窓を開けると馥郁たる香りが鼻孔をくすぐった。
(どっかの家でコーヒーを入れてる)
窓を半開きにしたまま閉じるべきか網戸にするべきか迷ったヒカルは、6時にしては強い日差しを見上げると窓を全開にして網戸を引いた。
そうしてから自分もコーヒーを入れるためにキッチンに向かったのだが、その前に寝室に寄ると、薄い掛け布団の中でダンゴムシのように丸まって寝て居るアキラに向かって言った。
「コーヒー入れるけど飲む?」
しばしの沈黙の後、地獄の底からのような低い声が「飲む。思いきり濃くしてくれ」と言った。
「ストロングね。はいはい」
ヒカルはそれ以上尋ねずにキッチンに向かうと、コーヒーメーカーの電源を入れる。
本来紅茶好きでコーヒーはあまり飲まないアキラが飲むと言うのは決まって『した』翌朝だ。
何も予定の無い日ならば夕方頃まで眠ってしまい、そこそこ機嫌良く起きて来るのだが、仕事なりなんなり予定が入っていて起きなければならない時は無理矢理意識を引き戻すために濃いめのコーヒーを飲むのだった。
(まあ、おれが加減出来ないから悪いんだけどさ)
棋士という職業上、ヒカルとアキラは常に一緒に居られるわけでは無い。
オフ日が合致することが希ならば、遠方での仕事で一週間顔を合わせないこともある。
だからこそ会うとお互い歯止めがきかなくなって、結果、アキラには大変体に負担を強いることとなるのだ。
(夕べ、何回だ? 三回…いや、四回やったか?)
回数がわからなくなるくらい夢中になって交わるのはどうかと理性では思うのだが、アキラを目の前にしたらヒカルはもう止まらない。
だから翌朝アキラにどんなに不機嫌に当たられても仕方無いと思っているし、罵られても殴られてもそれを甘んじて受けなければならないと思っているのだが、それにしても昨夜は少々やりすぎてしまったとひんやり思う。
「…いつもより、もちょっと濃いめにしとくか」
コーヒーメーカーに入れるコーヒーをスプーンで一杯半多くした。
それでもたぶん、アキラは二杯目を飲み終わるまでは般若のような恐ろしい顔でヒカルを睨み続けることだろう。
ヒカルが門脇から譲り受けたコーヒーメーカーはかなり旧式なので入れる際に非道い音がする。
けれどそれを越えるとコポコポと耳に心地良い軽い小さな音に変わり、同時に香ばしい良い香りが部屋中に漂い始めるのだった。
「うん、いー匂い」
ヒカルはマグカップを二つ食器棚から取り出すとあと少しで入れ終わるコーヒーメーカーをぼんやりと眺めた。
アキラと付き合い始める前は寝起きは決して良くは無かった。
どちらかというと人に起こされる側だったのに、恋人が低血圧で自分よりさらに寝起きが悪く、けれど仕事や約束事に遅刻して行くのは死んでも我慢が出来ないという人間だったので、自然それより早く起き、少しでも穏便に起きて貰うよう世話を焼くようになったのだった。
『おはようお姫さま』
半分ふざけていたとは言え、初めて事にいたって迎えた朝のことは今でもヒカルは忘れられない。
甘いキスと戯れで恋人らしく過ごす予定の早朝に問答無用で歯が欠けるほどぶん殴られたからだ。
『うるさい』
あまりのアキラの剣幕にヒカルは怒るよりも驚いてしまい、同時に深く肝に刻んだ。
寝起きのアキラには迂闊に触るまいと。
そして現在、随分アキラの扱いには慣れたとヒカルは思っている。
さっき声をかけ微かに意識を取り戻したアキラは、寝室まで漂うコーヒーの香りに少なくとも夢の世界からは戻って来たことだろう。
後は逆鱗に触れないよう静かに声をかけ、コーヒーを差し出すだけでいい。
意識がはっきりしても体に不快が残っているアキラは決して機嫌良くはならないが、ふいうちで殴って来ることだけは無くなるし、出がけにちゅーの一つくらいは許してくれるようになるかもしれない。まあ希望的な観測だが。
「…飲むか?」
マグカップを持って寝室に行くと布団の下から手だけが伸びた。
「はい、熱いから気をつけろよ」
そして慎重に持たせると自分はアキラの寝て居るすぐ横に腰掛ける。
アキラはマグカップを受け取ると、そっと顔を覗かせて、まだほとんど閉じているような目でコーヒーを飲んだ。
「ご注文通り濃いめにしたからな」 「…苦い」 「そりゃストロングもストロング、ベリーストロングバージョンにしたから」 「それにしたって苦すぎだ」
薄ければ薄いで文句を言うアキラの言葉は聞き流して、ヒカルはじっとコーヒーを飲むアキラを見続けた。
ゆっくりと、非道くゆっくりと熱いコーヒーを飲み干したアキラは空のカップを黙ってヒカルに差し出した。
「うん、お代わりな。今いれてくるからちょっと待ってて」
そうしてすぐに持って来ると再びそっとアキラに渡す。
今や部屋中はコーヒーの良い香りで満たされて、それはさっき開いた窓から漏れだして辺りにも広がっているだろう。
(まったく、夜明けのコーヒーなんて言うけどさ)
こんな色気も素っ気もない夜明けのコーヒーがあるだろうか。
(普通はもっと甘い言葉でささやきあったり、朝からいちゃいちゃ乳繰り合ったりするもんだよなあ)
それが出来ないことは少々残念なことではあるが、相手がアキラなのだから仕方がない。
それに―。
ヒカルが見守る中、二杯目のコーヒーを飲み干したアキラはまたヒカルに空になったカップを差し出した。
「もう一杯飲むん? さすがに胃に悪いんじゃないか」
すると、ブンと乱暴にカップが振られて危うくヒカルは殴られそうになった。
「っ、あっぶねー」 「誰がお代わりなんて言った」
布団の下からヒカルを見ている瞳が不機嫌に睨め付けている。
「違うの? あ、それじゃメシ? それとも朝からシャワー浴びに行きたいのかよ」 「違う!」
険のある声が怒鳴り、それからヒカルに本当にマグカップを投げつけて来た。
「わっ、やめろって、さすがにおれでも怪我するってば」
すんでの所でカップをキャッチしたヒカルはため息をつきながらアキラを見つめた。
「なんだよ今日はいつもより目覚めが悪いなあ」 「キミが飲み込みが悪いからだ」
相変わらずの地獄の底からの声が言う。
「何が。コーヒーちゃんとやったじゃん」 「コーヒーはいい。もう目は覚めた」 「だったら?」 「キミが足りないから隣に来いとそう言いたかっただけなのに」
どうしてそうも解らないのだと、そりゃあそんなこと言ってくれなきゃ解らないと思いつつヒカルはニッと嬉しそうに笑った。
「行ってもいいの?」 「ああ。来いと言っているのに何故念を押す」 「いやあ…今までの経験からちょっと…」 「来たくないなら来ないでもいい!」
苛ついたように怒鳴るアキラにヒカルは慌てて布団を捲った。
アキラは相変わらずヒカルを思いきり睨んでいて、その眼光は恐ろしい。でも頬はほんのりと照れたように赤く染まっていた。
「うん」
(やっぱ訂正)
こんな可愛いもんが見られるんだから夜明けのコーヒーも捨てたものじゃないと思いながらヒカルはいそいそとベッドに上がり、凶暴な恋人を優しい腕でぎゅっと抱きしめたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※
一人で居る時はちゃんと起きられるくせに、ヒカルと一緒に居ると途端に寝起きが悪く、猛烈に不機嫌なアキラって言うのに結構萌えます。 だってそれって甘えているからだから。
小雨の降る午後というものはあまり気が晴れないものだなとアキラは思った。
日がさしているとそれだけで生きているのも嬉しいと思うのにどうして曇るとそうでなくなるのか。
たぶん調べれば何かしら理由がわかるのだろうけれどと考えながら歩いていると、少し前を見慣れた傘が行くのが見えた。
(進藤だ)
そう思い駈け寄ろうとした時にヒカルの傘が急にぴたりと止まったのが見えた。
「おまえなあ、危ないだろ」
漏れ聞こえてきた声によく見ると、ヒカルの前には小学校低学年くらいの男の子がいて、その傘の先をヒカルは指で掴んで止めたようなのだった。
「なんでだよ、うるさいなオッサン」 「うるさいじゃねーって、駐車場ってのは車が急に動き出したりして結構危ない所なんだよ。そうじゃなくても『入るな』って書いてあんだから入るな」 「うるさい、バーカ、バーカ」
男の子はヒカルに悪態をついて走り去ってしまったが、ヒカルは別に怒った風も無く、ため息を一つつくとまた元のように傘を差してゆっくり歩き始めた。
いつかどこかで見たような光景。
一連のやり取りを遠目に見ていたアキラはしばし歩くのを忘れ、少しして胸の中で(…ああ)と思った。
以前その駐車場をヒカルが突っ切って近道をしようとした時に全く同じことを言ってアキラが止めたことがあったのだ。
『駐車場の中は意外に視界が悪い』 『そうでなくても入るなと書いてある所に入る方が間違っている』
自分がそう言った時にはヒカルはさっきの男の子と同じように思いきり拗ねた顔をしていたけれど、その実ちゃんと理解して守ってくれていたらしい。
そう、ヒカルはなんだかんだ言ってアキラが言ったことはいつでもちゃんと真面目に聞くし注意したことは守るのだ。
それを目の前で見ることになったアキラはこそばゆさを感じ、同時にヒカルを非道く愛しく想った。
(本当に)
まいるなあと思いながらアキラは傘の柄を握りなおした。
そしてこんなことがあるのだから雨の日もそう悪く無いと思いつつ、優しくヒカルの名を呼んで、まっすぐに恋人の元へ走ったのだった。
| 2013年05月01日(水) |
(SS)トロトロよりも硬いものを |
柔らかければいいってもんじゃないだろうと、頂き物のプリンを食べながら進藤が言った。
「これだってさ、最近やわらかいのとかトロトロとかそういうのばっかりだけど、おれは家で作ったみたいな、みっちり硬いヤツの方が好きなんだって」
確かに最近流行りのとろりとした食感の物はぼくもあまり好きでは無かったのでその点だけは同意しつつ言う。
「でも柔らかければ柔らかいほどいいって人だっているんだよ」
むしろそういう人の方が多いのではないか。
「より滑らかに、より口当たりが良い物の方が万人受けするからこういう商品が増えてくるんじゃないか」
頂いたプリンはスプーンで掬うと流れ落ちてしまいそうに柔らかい。
液体の一歩手前みたいな状態は不味くは無いがどうにも心許なくて、ぼくもやはり進藤のようにもっと食べ応えのある物の方が食べ物として好きだった。
「そりゃそうだろ。こういうのが好きなヤツのが多いんだろうさ。でもおれが言いたいのは、おれは柔らかく無い方が好きだってことだってば」
カランとあっという間に食べ終わり、スプーンをテーブルに投げ出した進藤はニッと笑うとぼくに向かって「来いよ」と両手を広げて言った。
「まだ食べてる」 「そんなもん残しちゃえよ」 「食べ物を粗末にするのは―」
進藤が何をしたいか解っていて、それでも行くのを渋っていたら乱暴に腕を掴まれてそのまま胸に抱き込められた。
「うん」
ぼくの体を抱きしめて、進藤は満足そうに呟いた。
「やっぱちょっと硬い方がいい」 「…ぼくはプリンか」 「は? バカじゃねーの。こんな数百円で買えるものと一緒にすんなよ」
プリンよりもっとずっと百億倍良いもの。
そう言って進藤は更にぎゅっとぼくの体を強く抱いた。
「気持ちイイ。やっぱおまえの体ってサイコー」
抱きしめても壊れなくて心地良くしなる。それがいいのだと、感触を楽しむように進藤は何度もぼくを抱く腕に力を込めた。
女性の体は細くて華奢で砂糖菓子で出来ているかのように柔らかくて甘い。
ぼくは男だから骨も太く筋肉もそれなりについていて、逆立ちをしても女性のようには絶対になれない。
それは密かにぼくの引け目になっていたのだけれど、百人が百人きっと柔らかいプリンを好む中、硬い方が好きだというバカがここにいる。
「なあ、おまえはどう思う?」
やっぱりプリンも恋人もちょっとカタイ方がイイと思わないかと進藤が耳元に優しく囁くので、ぼくもまた彼を抱き返しながら「そうだね」、「そうかもしれない」と幸福な気持ちで答えたのだった。
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