| 2006年11月04日(土) |
(SS)美津子の独り言2 |
父の還暦祝いの品を選ぶために銀座を歩いていたら突然声をかけられた。
「あの…もしかして、進藤さんのお母様じゃありませんか?」
振り返った先に居たのは上品な顔立ちの美しい女性で、その面影からはっと思い当たった。
「もしかして、塔矢くんのお母様」 「はい、塔矢明子です。進藤さんにはいつも息子がお世話になっていまして」 「いえ、うちのバカ息子こそいつも塔矢くんにはお世話に―」
こんな所ではなんだからと取りあえず近くのカフェに入ることになり、そこで改めて挨拶をした。
「いきなりお声がけしたらご迷惑かとも思ったんですけれど」 「いえとんでも無い、私の方こそいつも塔矢くんのお母様にはご挨拶をしたいってずっと思っていたんですよ」
昼下がりのカフェは客の入りも半分くらいで、静かで落ち着いた雰囲気だった。
「塔矢さん何になさいます?」 「私は紅茶をホットでいただこうかと。進藤さんは」 「私は…私も紅茶をいただきます」
本当は少し甘い物も食べたいような気持ちがあったけれど、一人だけ食べるわけにもいかず我慢する。
「そういえば進藤さん、先日の北斗杯ではご活躍なさったそうで」 「いえ、やっとって言う感じですよ。何しろ第一回目の時には非道い負け方をしていますから」
私自身は囲碁のことは全くわからない。けれど負けて帰ってきて、それからしばらく息子が荒れていたことはよくわかる。
「あれ以来、前にも増して碁に打ち込むようになって、今年は満足のいく結果が得られたようで本人も嬉しそうでした」 「進藤さんは碁は……?」 「恥ずかしながら私も主人もさっぱり。塔矢さんは?」
ご主人もそうですし、されるんでしょうねと水を向けるとその上品な頬が微かに赤く色づいた。
「それが……私もさっぱり。主人などは家の中に3人も碁打ちはいらないと言うんですが、やはり二人で私にはわからない話しをしていると少し寂しいですね」 「あ、わかります。私もヒカルがお友達と話しているとさっぱり内容がわからなくて」
揚羽本手が何やら、後ろどりやら専門用語が頻繁に出てきて聞いていてもさっぱり理解出来ないのだ。
「塔矢さん、抱えどりってご存知ですか?」 「いえ、さっぱり囲碁のことは……」 「突き回しとか、この間も塔矢くんと二人で熱心に話していたんですけどわからなくて」 「そう言えばうちに来た時も『千鳥の曲』がなんとかおっしやってましたねぇ」 「囲碁の関係の曲なんでしょうか?」 「『烏と鷺』みたいなものかもしれませんね」
今度主人に聞かなくちゃと、ころころと笑う口元を見ていたらうち解けた気持ちになって来た。
こんな名人と呼ばれる人を夫に持つような人でも囲碁が全くわからないということがあるのだと、ほっと安心したのである。
「そういえばいつもお宅に泊まらせて頂いていてすみません」 「いえ、こちらこそいつも進藤さんのお家に泊まらせて頂いているみたいで…」
あれ? 今まで塔矢くんが泊まったことなんかあっただろうかと思いつつ、あの頭の良い上品な子が嘘をつくとも思えないので、遊びに来ただけの時のことをこの人が勘違いしているのだわと納得する。
彼ならばヒカル以外にも囲碁の出来る友達がたくさん居るに違い無い。それらの人達と囲碁の合宿でもやったのをきっとうちに泊まったと混同してしまっているのだろう。
だったら恥をかかせては悪い。
「うちは別にかまわないんですよ。主人もいつも遅いですし、塔矢くんが来てくれるとご飯の作り甲斐があって」
これは本当。なんでも美味しいと食べてくれるのでとても作り甲斐がある。
「まあ、好き嫌いなんか言っていないでしょうか? 進藤さんはいつも綺麗に召し上がってくれるんですけれど、うちの子は食が細くて」 「そうですか? うちの子なんか逆にがっついて無いか心配なんですけど」
そういえば昨日もそちらに泊まりましたよねと言ったら、一瞬その整った額に戸惑ったような皺が寄った。
「昨日……ですか?」 「ええ、塔矢くんと会うって碁会所に出かけて、そのままお宅に泊まらせてもらうって携帯から電話が」 「うちの子は進藤さんのお宅にって言っていましたけれど……」
…………………ナニ?
話が食い違っている。けれど、男女ならともかく、男二人で何ということも無いだろうからこれはきっと何か誤解があるに違い無い。
「それじゃもしかして、別のお友達の所に泊まるのを言い間違えたのかもしれませんね」
確かヒカルには和谷くんという一人暮らしをしている囲碁のお友達が居たはずで、そこにもよく泊まりに行っているのだ。
「たぶん、和谷くんのお家じゃないかしら。最初はお互いの家に行くつもりだったのが途中で気が変ったのかも」 「きっとそうですわ、あの子ったらあれで意外と大ざっぱなので、行き先が変ったことを言うのを忘れたんですわね」
お互い男の子を持つと大変ですよねえと、しみじみと語り合い、ついでに最近まで行っていたという中国での面白い話などもたくさん聞かせてもらった。
聞く内に甘い物が食べたいという話にもなり、二人してケーキを追加注文したりした。
「…あら、もうこんな時間。そろそろ帰らないと」 「まあ、私も。進藤さんとお話するのが楽しくて時間を忘れてしまいました」 「いえ、私の方こそとても楽しかったです。塔矢さん話題が豊富でいらっしゃるから」 「好き勝手やっている主人に振り回されているだけなんですよ」
今度またこんなふうにお茶をしましょうと約束をする。
「その時までに、私主人に立ち松葉のこと聞いておきますね、後揚羽本手」 「私も舅に聞いておきます。抱え取りと突き回しと巴取りのこと」
それから『千鳥の曲』と二人で言って微笑み合う。
「いい曲だったらCDが欲しいですね」 「塔矢さん、もしよろしかったらカラオケでも」 「まあ、私まだ行ったことが無いんですの。じゃあぜひご一緒に『千鳥の曲』を」
絶対ですよと言って別れる。
結局、父の還暦祝いは買えなかったがそれよりもずっと充実した時間を過ごせたと思った。
「塔矢さん…良い方だわ」
塔矢くんと話すヒカルもこんな気持ちなのかしらと思いながら、家に帰ったらさっそく義父に電話して『千鳥の曲』のことを聞かなくちゃと思ったのだった。
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えーーーーとーーーーーー、ごく普通の話ですが、ヒカルママとアキラママが囲碁用語だと思っているものは違います。それでわかってください(笑)
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