細切れな夢を見て目を覚ました。
見慣れた天井は豆電球の黄味を帯びた明かりに照らされてぼんやりと木目を浮かび上がらせ、柱にある時計は音で時間を刻んでいる。
(…四時)
明け方が近いのだなと考えていたら、唐突に自分が非道く喉が渇いていることに気がついた。
(水が欲しい)
そっと起きあがろうとして、思いがけず、体中の軋みに声を上げる。
「―っ」
手が、足が、震えて力が入らないし、体の内側にも疼くような痛みがある。 最初何故だかわからなくて、でもすぐに思い当たった。
(夕べの…)
体を重ねるということは、こういうことなのかと初めて知ることに驚き、本当に自分は何もわかっていなかったのだなと苦笑しつつ、傍らを見た。
気持ち良さそうに眠っている横顔に、進藤もこんなに体が痛むのだろうかと少し心配し、でも、もしかしたら自分だけなのかもしれないと思う。
(…だったら不公平だな)
音がなるのでは無いかと思うほど体中のあちこちが軋んで痛くてたまらない。
初めてだというのに、気を失うほどするというのは果たしてありふれて在ることなのか無いことなのか。
ただもう止められなくて。
進藤も止められなければ自分もまた止められなかったのだ。
進藤が挿ってきた時に、痛くて悲鳴をあげたけれど、でも、それがどうでもよくなるくらいに、初めての行為は良かったのだ。
(…気持ちよかったな)
人の体温を感じるのが気持ち良かった。
愛して愛して止まない人の熱を身の内に感じることはたまらない程の快感だった。 自分がそう思うことに驚き、生々しさに恥ずかしくなる。
「水…飲んでこよう」
息を整えて、もう一度体を起こしてみる。今度はさっきとは違って、あらかじめ痛みを予想しているので、耐えて布団から抜け出すことが出来た。
「…ん」
布団がめくれあがり、入った外気に進藤が眉を寄せるのに、そっとかけ直してやる。
「…どこ…行くん?」
気をつけたつもりだったけれど、目を覚まさせてしまったようで、薄く目を開いて進藤が言う。
「台所。喉が渇いたんでお水を飲んでくるだけだから」 「ん」
わかったと、そしてそのまままたすうと眠ってしまう。 子どもみたいだなと、その無防備な寝顔が愛しくなった。
部屋を出ようとして、自分が何も身につけていないことに気がついて、慌てて畳の上に脱ぎ捨ててあったシャツを取る。
腰を屈め、手を伸ばしただけだったのに、また体にひどい痛みが走った。
「痛…」
立ち上がり、それでもなんとかシャツを羽織って廊下に出る。
―と。
その瞬間、何かがするりと体から抜け出た感触があった。
太股の内側を走る、生暖かいそれをなんだろうと思い見てみると、白く濁った液だった。
二筋ほどの跡を残し、足首まで滑り落ちたそれを指で掬った時に、やっとそれがなんなのかわかった。
(…進藤の)
かあっと全身が熱く火照る。
これは
彼がぼくを愛した証。
彼と寝たのだと。
ぼくたちは体の関係を持ったのだと、この時初めてぼくは実感したのだった。
歯を抜くのは初めてでは無かったけれど、その日抜いた親不知は、変に曲がって生えていたらしく、抜くのに非道く時間がかかった。
元々麻酔があまり効かない体質なので、効くのを待つだけでも普通の人より時間がかかるのに、若い女の先生だったためか力が足らず、随分長い間、診察台の上で天井を見るはめになった。
結局分割して抜くことになった歯に、器具を当てながら先生が「痛いですか?」と聞いてくるので、くぐもった声で痛くないと答える。
本当は少し痛かったけれど、まあ我慢できない範囲では無いから面倒なのでそう言ったのだが、やはりわかるものらしく「痛かったらすぐに言ってくださいね」と言われてしまった。
人に口の中を触られるというのは変な気分だ。
ましてやこんな無防備にされるままになっているのはなんだか居心地が悪くて、だから出来ることならば一刻も早く終わって欲しいと思ってしまう。
『そーんなの、虫歯作る方が悪いんじゃん』
進藤が側にいたならなんて言うだろうかと考えたとたん、あまりにリアルに言葉が浮かんで、思わず眉が寄ってしまった。
『自己管理も仕事のうちなんじゃねーの?』と、自分こそいい加減な食事ばかりしているくせに悔しいかな彼はあまり虫歯にならないのだった。
『おれはさ、ちゃんと歯ー磨いてるから』
あまり病気にならないし、弱みを見せるということが無いものだから、珍しくぼくが虫歯を作ったなどと言うと進藤は鬼の首をとったように喜び、ここぞとばかり言いまくる傾向がある。
『なんだったらさ、これからはおれが磨いてやろーか?』
えっちが終わった後にでもと、途中から今日、ここに来る前に本当に交わした会話になって、思い切り顔をしかめてしまったら、その途端口の中を探っていた手が止まり「痛いですか?」と聞かれてしまった。
いえと、慌てて言うとそれでも怪しげにしばらく顔を見られてしまった。
(まったく、進藤のせいだ)
本当は誰よりもこういう治療をいやがりそうなのに。 彼があまり虫歯にならないのは体質的なもので、だから余計に悔しく感じる。
(一度非道い虫歯になって、こんなふうに抜かれてみればいいんだ)
あれで、結構臆病者だから、大騒ぎをするかもしれない。時々診察室の中で、この人がと思うような大男がおろおろと泣き叫んだりするけれど、進藤も痛い痛いと大騒ぎをしそうだと思った。
(ああでもその前に、もし本当にそんなことになったら、なんだかんだと理由をつけて来ないんだろうな)
でもそんなことぼくは絶対に許さないから、引きずってでも連れて来ようと、そんなことを考えていたら本当におかしくなってしまい、思わずふっと笑ってしまった。
その瞬間、さんざぐりぐりと歯肉を押しても引いても抜けなかった歯の最後の欠片が、持ち上がるようにして抜けたのだった。
ころりと、舌の上に落ちた固まりに、先生がほうっと大きく息を吐いたのがわかった。
「お疲れ様でした。随分時間がかかってしまって…」
でも、あまり痛がりませんでしたねと処置が終わり、椅子から降りた所で苦笑しつつ言われた。
「本当は途中で麻酔を追加しようと思ったんですけど」
最後に一番痛かったはずの所で笑われてぎょっとしましたと、言われてぼくは赤くなった。
「考え事をしていたので…」
じゃあよほど楽しいことを考えていたんでしょうねとそれは他意の無い言葉だったけれど、ぼくは耳まで赤くなってしまった。
…まあ
楽しかったのは事実だし。
おかげで痛みを紛らわすことができたのだから、少し進藤に感謝してやってもいいかもしれない。
歯医者を出て、裏の薬局で痛み止めを処方してもらいゆっくりと歩いて家に帰る。
そういえば後でメールするからと進藤が言っていたのを思い出し、電源を入れてみると本当に届いていた。
『痛かった?』 『恐くて泣いちゃったんだったら、慰めてやっから連絡して』
これは侮辱ととって怒鳴るべきなのか、それとも素直に好意と受け取るべきなのか。
しばし画面を見ながら考えて、それから返事のメールを打つ。
腹が立たないではないものの、せっかくそう言ってくれているのだから、脳天気なバカに甘えてみてもいいかもしれない。
『慰めて』
ストレートにそれだけを打って送ると、ぼくは道の端に立ち、麻酔が切れ始めて痛む頬を押さえながら、何故か妙に幸せな気持ちで、進藤からの返事を待ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
なんじゃこりゃと言うと、そのまんま。 ついさっき抜歯してきたもので、抜歯記念に書いてみました。←おい。
アキラは間食もしないし、食後にまめに歯を磨くタイプ。 ヒカルは結構いい加減。
なのにどういうわけかヒカルは虫歯にならないで、真面目に磨いていたアキラが見えない親不知にやられてしまったりするわけです。不条理です。
今日、ぐりぐりと抜かれている間、ずっと「若先生だったらこーゆー時どうしているだろう」とバカなことを考えていました。アキラって痛くても絶対に痛いと言わないで我慢してしまいそう。
逆にヒカルはちょっと痛くてもぎゃーぎゃー騒ぎそうです。 そーゆーとこもかわいいですが。
なんとこんな阿呆な話ですがヒカル視点もあったりして。
| 2004年08月13日(金) |
(SS)煩悩の船に乗り業の海を行く |
腕をつくたび何かが痛くて、なんだろうと見てみたら肘の皮がぺろりと剥けていた。
なんでこんなことをと思うまでも無く、夕べ布団からはみ出して、畳の上でこすれたのだと思った。
―あっと、挿れられた瞬間に体が強ばって、崩れまいと腕に力を入れた覚えがあるから。
ぺらぺらと、ほんの数ミリほどではあるけれど、めくれた皮の下は生々しく赤くて、ああ、きっと彼のモノの挿いる、自分の中身もこんな色なんだろうかとぼんやりと思った。
生々しく赤く 湿った音をたてる。
挿れられる瞬間、自分は生き物なんだなといつも思う。
生きて煩悩にまみれ
生殖では無く、交尾する。
愚かで色に弱く
感情に溺れる。
(それじゃ…いいとこ無しだな)
自分で自分のケモノぶりに呆れ、苦笑しながらふと思いつく。
「あ、やっぱり」
他にもあるのでは無いかと体中を見てみたら、皮こそ剥けていないものの、足や肩にも何カ所か擦れた傷があった。
(そこまで我を忘れていたつもりは無かったんだけど)
我を忘れていたんだなとおかしくなった。
「ん?なに?」
体中をひねくりまわして見ているぼくに、ごろ寝をしていた進藤が起きあがり、近寄ってきた。
「ああ…ちょっとここ…剥けちゃって」
見せてやると、わ痛そうと顔をしかめる。
「ちょっと夕べ激しかったもんなあ」と言われて「激しかった?」と尋ね返したら「自覚無しか」と笑われた。
激しかったよ、すげー激しかったです。おれ脳の血管切れるかと思ったと、感心してるんだかバカにしているんだかわからないようなことを進藤は言うので取りあえず殴っておく。
「んー、まあ、じゃあ消毒」
言って「え?」と思うまもなく進藤はぼくの肘を掴み、ぺろりと舐めた。 原始的なと思う間もなく、ちろちろと続けて舐められて息が詰まる。
湿った舌は傷に非道く凍みたのだ。
「あ、ごめん痛かった?」
やっておいて今更に、悪びれもせずに進藤が言う。
「でも消毒しないとバイキン入るし」
睨んでもこづいても悪びれもせずにまた舐める。
ざらついた舌は猫みたいだと。
でもこの見境の無さは犬かなとも思う。
凍みて、凍みて、痛くてたまらないと言うのに、やめない進藤もバカだけれど、その痛みが愛の行為の続きのようで、心地よく思う自分はもっとバカだと思った。
「赤い…」
ぼくを舐める彼の舌も赤いなと思いながら、赤って言うのは欲情する色だなとぼんやりと思う。
剥けた皮の下、赤い血の通うぼくの体は、いつも、いつでも、それこそ犬のように見境も無く彼に欲情する。
体中の力が入らなくて、畳の上に腕を投げ出したまま、ぼんやりと自分の指の先を見る。
少しでも動いたらきっと崩れてしまうと思うから、後ろにキミがいるのはわかっているけれどぼくは絶対に振り向かない。
夫婦でも強姦罪は成立するんだってねと、言ってやったらキミは一体どんな顔をするだろうか。
だから恋人同士だって合意の上でなければそれはいつでも強姦なんだと、そう言ってやったら一体キミはぼくになんと答えるのか。
きっかけはささいなこと。意見のぶつかりあいから喧嘩になって、帰ると言ったのを無理矢理引き倒されてそのまま抱かれた。
言い争いはいつものことだし、強引なのもいつものことだけど、なんだか今日はぼくたちの間にあった何かを壊されてしまったような気がして、許してやることが出来ずにいた。
だってキミは今日、ぼくを愛さずに抱いたから。 欲望のはけ口として、腹立たしさを紛らわすために力でぼくをねじ伏せた。
嫌だというぼくの口を唇で塞ぎ、まだ準備も出来ていない中に無理矢理に押し入って来た。
痛いと
苦しいと
懇願しても聞かなかった。
ただ自分の欲望を満たすためにぼくを抱いたキミをどうして許すことができるだろう。
何時間も
何時間もそのまま、二人沈黙の中で過ごして このまま夜が明けるのかなと思った頃に、ふと進藤がつぶやいた。
「…蝉」
蝉が鳴いてると、でもだからなんだと返事なんかしてやらない。
「蝉って、こんな時間にも鳴いてるんだっけか」
話のきっかけにしたいのか、それとも単純に気になるからなのか、進藤はぼくに話しかける。
「なあ、ガキの頃はこんな時間に鳴いてなんかいなかったよなあ」
やがて、背後で立ち上がる気配がして、進藤が窓を開けたのがわかった。 冷房で冷やされた室内に、一度に生ぬるい外の空気が流れ込み、同時に耳を打つように激しい蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「なんか…すげえ鳴いてんのな」
鼓膜がしびれるような、確かに異様なほどの鳴き声だったけれど、ぼくは返事をしなかった。
「なー、塔…」
蝉なんか、どうでもいい、その前に言うことがあるだろうと、思った瞬間涙がこぼれた。
「塔矢?」
堪えたつもりだったのに、どうしても絞り出すような声がもれて、進藤が慌てて窓を閉めるのがわかる。
「塔矢、塔矢」
ごめんとこの時になって初めて進藤はぼくに謝ったのだった。
「…ごめん、おれ、非道いことした」
体キツイ?と怖々触れようとするのをぼくは思い切りはねつけた。
「触るな!」
キミになんか触られたくないと、言うと進藤は痛そうな顔をした。
傷ついたのだとわかったけれど、傷つけばいいとそう思った。 傷ついて傷ついて泣けばいい。
「キミなんか嫌いだ」
一度開いた口は、思いがけずなめらかに言葉を発して、ぼくは心のままに彼に罵詈雑言をぶつけた。
最低だ、大嫌いだ、もう別れると、言いながら、でもだんだん声は嗚咽のようになってしまう。
「キミなんか…」
肩を丸め、声をあげないように唇をきつく噛んだら、逆に子どものような泣き声になってしまった。
「キミなんか…もう」
肩を震わせて泣いていたら、ふいに右手の指先に何か感じるものがあった。 少しだけ顔をあげてみると、進藤が跪くようにしてぼくの指先にキスをしているのだった。
「…し」
ぼくと目が合うとくしゃっと泣きそうに顔を歪めて、それから言う。
「触んないから、これだけ許して」
指先だけ、おれに許してと。 欠片だってもう、キミにやるものかと思っているのに、何故か指を引けなかった。
「ごめん…塔矢、おれ頭に血ぃのぼっちゃって」 「だから?だから犯してもいいって?」
体中が痛い。 まだ痛い。 でも一番痛いのは心だった。
「もう二度としないから、塔矢」
言って、進藤はぼくの指先に愛しそうにキスを繰り返す。そうすることで許されるとでも思っているのか、何度も、何度もキスをする。
「もう絶対しない、誓うから」 「そんな誓いなんかしてくれなくていい」
こんなキスくらいで絶対にキミを許すものかと、そう思うのに、でも心の中のぼくはもう揺らいで、彼のことを許しつつある。
「…おれのこと怒ってる?」 「怒っているよ、決まってるだろう」
すがるような顔が愛しくてたまらないから。
「ごめんなさい、もう絶対二度とこんなことしないから」
今にも泣きそうなその顔が胸に痛くてたまらないから。
「もう絶対に―」 「…嘘つき」
キミの二度とは当てにならない。 そんなことを言っても、きっとまた同じようなことをするくせに。
「愛してる―塔矢」
どうしてそんな、切ない顔をするのだとそう思う。
本当にごめんと、彼がぼくの指を口に含むのをぼくはもう拒むことができなかった。
(猿以下だ…)
わかっていても感情に流されてしまう。
許してと言われれば許してしまうし、愛していると言われればどんな非道いことをされても嬉しいと思ってしまう。
愛してる
愛しているから
だからおれを捨てないでと、なんて卑怯でなんて愛しい。
例えどんな非道いことをされても、きっとぼくはキミのことを嫌いになんかなれないんだろうと思ったら悲しくなった。
(本当になんてぼくは…)
愚かなのだろうかと、まだうるさく鳴く蝉の声を聞きながら、再び体を開いていく自分に、ぼくはたまらない程切ない気持ちになったのだった。
| 2004年08月03日(火) |
(SS)さかなへんによろこぶ |
いつそうしたのかはわからないけれど、久しぶりに実家に帰ったら台所の入り口には、真新しい暖簾がかけられていた。
たぶん懇意にしている寿司屋からもらったのだろう、その暖簾は紺地一面に魚へんの漢字が染め抜かれていた。
よく寿司屋の湯飲みにあるような柄で、普通なら下衆になる所を達筆な筆と染めの粋が救っている。
先週、一週間ほど戻ってきて、またとんぼ帰りで中国に戻って行った母がかけて行ったのだなと思ったらなんだからしくておかしかった。
「なあなあ、おれ喉乾いた」
外出の途中ちょっと寄るだけだからと言ったのに、何が楽しいのか中まで着いてきた進藤は久しぶりに入るからだろうか実家の中を物珍しそうにうろつきまわってから、しばらくして台所に来た。
「わ、なにこれ、寿司屋みてぇ」
言うだろうと思ったことをそのまま素直に言われておかしいような、恥ずかしいような気持ちになった。
「母がかけていったんだよ、たぶん。裏の錦寿司さんじゃないかな」
ほら北斗杯の合宿の時、出前を頼んだ店だよと言うと、「ああ、あの卵焼きがすげーうまかった寿司」と変な納得の仕方をしていた。
「あれ美味かったなあ。おれ卵焼きってけっこー好きなんだけど、あんまりおいしいのには当たったこと無いんだ」
彼が普段、どんなものを食べているのかは知らなかったけれど、錦寿司の厚焼き卵がおいしいのは本当で、それ目当てで出前を取る人もいると言う。
「ぼくもあれは好きだけどね」
言いながらコップに入れた水を手渡してやると、進藤は立ったままそれを飲みながら、じっと暖簾を見つめていた。
「えーと…これわかる。カツオだろ?それからまぐろ…シャケとあ、おれすげえイワシもわかる」
なんだこれ、べんきょーになんじゃんと笑って言うのに苦笑して、でもついつられて一緒に見てしまう。
「じゃあ、進藤、これは?」 「わかんねい」 「はも、だよ」 「こっちは?」 「知らない」 「…さわらだよ」
普段でもよく目にするような漢字はすらすらといけたが、それ以外になると途端に進藤の口は重くなった。
「他はわかるのある?」 「えーと…わかった! これはクジラだ!」 「ひらめだよ」 「んじゃこっちのはサンマだ!」 「たちうおだよ」
あてずっぽうで言ったものが全部間違っていたものだから、進藤はすっかり拗ねたような顔になってしまった。
「ちぇーっ、おれんちびんぼーだったからそんな高そーな魚食ったこと無いもん。食わないやつはわかんねーっての」 「いや、ぼくも別に全部食べたわけでは…」
一般常識だろうと言うと更に拗ねてしまいそうなのでそれは言わないでおいた。
「まあ確かにぼくは普通よりは色々食べている方だと思うけどね」
人が集まり、出入りの多いこの家ではぼくが幼い頃からよく酒宴が持たれて、その席に混ざったぼくはおもしろ半分の大人たちに色々と高いものを食べさせられたのだ。
「海胆も鰻も鱧も全部就学前に味を覚えたよ」
ぼくは覚えてないけれど、幼稚園で先生に「好きなもの」を聞かれて「酒盗」と答えたという笑い話まで残っているくらいだ。
「うわ…やなガキ」 「仕方ないだろう、みんなおもしろがってやめないんだから」
さすがに中学に入ってからはおもちゃにされることも無くなっていったのだけれど、隠れてこっそりと酒の味を教えられたのはあまりにあまりなので、進藤には言わないことにする。
「なー、おれあの寿司食べたくなっちゃったな。出前って今できねーの?」 「できなくはないけど」
これからうちの碁会所に行くはずでは無かったのかと、それがそのまま顔に出てしまったらしい、進藤は苦笑するとすぐに付け加えた。
「ん、もちろん碁会所には行くよ?でもその前にちょっと遅めの昼飯食ってもいいんじゃないデスか?」
なんだったら碁会所に行かないでこのままここでずっと打ってもいいしと言われて、なるほどそれでもいいかなところっと思ってしまった自分を恥じる。
(まあ、要するに進藤がいて打てればぼくはいいわけだから)
本当にこのままここで打ってしまってもいい。
「じゃあ出前を頼むね。…もちろん自腹だから」 「わかってるってば」
おれヒモじゃないから恋人の細腰になんかたかりませんと、わけのわからないことを言って、進藤は勝手知ったるなんとかで、いそいそとお茶の用意をし始めたのだった。
「これどうすりゃいいの?」
食べ終わって、しばらく満腹の幸せにだらしなく床に転がった後、ぼくたちは二人で後かたづけをした。
進藤はずぼらで面倒くさがりだけど、こういうことで文句を言ったためしはなく、今も食べ終わったすし桶を抱え、思案顔でこちらを見ている。
「ざっと洗って、それで表に出すからこっちに貸して」
湯飲みを洗っていたぼくが手を出すと、進藤は言われた通りにして、そしてそのままじっとまた気がつけば暖簾をながめていた。
「なー、さかなへんに交わるって何?」 「サメだろう」 「んじゃあさあ、さかなへんに怨念の念って…」 「ナマズ」
へーこえー、ナマズって怖いなあと笑いながら進藤は再び暖簾に目を戻し、それから言った。
「なあ塔矢、さかなへんに喜ぶって書いてなんて読むの?」 「さかなへんに喜ぶ?」
一瞬考えてすぐに思い出す。
「ああ、それはキスだよ―」
暖簾越し、桶を渡そうとした手をそのまま引っ張られて、気がつけばちゅと舐めるようにキスをされてしまった。
「しっ―」 「へへーん、それは知ってたんだよ」
びっくりした顔のぼくを進藤はいかにも嬉しそうに見つめて笑った。
「しっかし、ほんとさかなへんに喜ぶなんて、ぴったりだよなあ」
だってキスだぞ、キス。キスって嬉しいもんなあ。する方もされる方もさと進藤は同意を求めるように言うのでぼくは真っ赤になってしまった。
「ほら言ってみ、さかなへんに喜ぶは―」 「知るか!」
つっけんどんに言ってすし桶を押しつけると、ぼくは濡れたままの手で暖簾を外そうとした。
「えーなんで?いいじゃん。おもしろいのに」 「かこつけて不埒なことをするようなバカがいるから外すんだ」
言いながらもどんどん頬が熱くなっていくのがわかる。
「んじゃあさ、後一つだけ教えてよ、そしたら外していいからさ」 「…」 「これこれ、さかなへんに里ってなんて読むの」
無邪気な顔をして尋ねてくる。その顔を悪魔だと思った。
「なあなあ、さかなへんに里ってさぁ」
わざとだ、絶対わざとだと思いながら、突っぱねることも出来なくて、ぼくは更に真っ赤になりながら、消え入りそうな小さな声で「こい」とつぶやいたのだった。
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