note
DiaryINDEXpastwill


2001年07月28日(土) オモロなサイト

日記のカウンターが4444だった。
まあこの番号は他の人が踏むよりは自分が踏んだほうが
いいだろう好意的に解釈。

以前までの高校野球絡みの日記、ちょとしつこかったかなと。
タダでさえ暑いのにねっとりまとわりつくような感傷的記述。
木村拓哉のCMが耳に痛いというのに。

今日はとりたてて書くほどのこともないので
僕が日頃楽しませてもらっている笑えるサイトを勝手に紹介。

always alright
http://gongze.hoops.ne.jp/nakatop.htm

すーの娯楽天国
http://www.lares.dti.ne.jp/%7Etom-822/su1/index.html

にらけらハウスっ!
http://www.nirakera.com/index.html

こんなところかな。
ご堪能下さい。


2001年07月25日(水) 最後の「夏」

急に窓の外から雨音が聞こえてきた。
久しぶりの雨はこの暑く長い夜に振り返った10年間の思い出を
流してしまうのだろうか。

**********************************************************
これまでのこの日記を読んだ人や毎年この時期の僕の行動を
少しでも知る人は不思議に思っていることだろう。
本人ですらどうしてここまで興奮してしまうのかわからない。

野球部出身でもなければ高校生でもないこの僕がどうして
7月中に中間報告を求められている卒論には全く手をつけず、
ゼミの国際交流プログラムのグループワークをすっぽかし、
アルバイトを無断欠勤して解雇を匂わされ、
観測史上最高といわれる炎天下にくりだし、
普段吹いてもいない楽器を吹いて無駄に唇と肩を痛めたり
してまで高校野球に夢中になってしまうのか。
傍からみればただのバカ、その言葉は甘受したいと思う。

でも人間の行動なんて合理的に説明できることはむしろ
少ないような気もする、なんていう言い訳を思いついてみたり。
こんなことを言うと安っぽいラブソングのようだが、
誰に何と言われようと好きなものは好きだった。

***********************************************************
中学生の頃はそれほど大した思い入れもなかった。
初めて球場に応援に行ったのは中学1年の秋。
あと1つ勝てば甲子園というところで惜しくも敗退。
中学2、3年の夏はベスト8止まりだった。
中学時代、応援は確かに面白かったけれど、
暑くて大変だ、なんていう思いを抱いていたのもまた事実。
主役の高校生は自分とは遠い存在でもあった。

自分にとって1つの転機となったのは高校1年の夏の予選。
その頃、かつて王や荒木といったスターを擁して全国を沸かせた
早実は、甲子園から10年以上遠ざかり「古豪」という不名誉な
形容詞をつけられていた。けれど、この年は様子が違った。

早実は大会屈指の好投手と切れ目のない打線で堂々の優勝候補の
一角に挙げられ、チームには自分と同学年の選手もいると
いうことで俄然盛り上がった。予選でも着々と勝利を重ね、
荒木以来13年ぶりの決勝進出。

勝ち上がることに増えていく観客、ヒートアップする応援、
緊張感を増す試合展開。

あと1つ。甲子園出場へとはやる早実の前に立ちはだかったのが
公式戦でいつも苦杯をなめさせられている帝京高校だった。
何も知らない小学生の頃、東京代表だからと言う理由だけで
無邪気に応援していた学校だ。なんという皮肉だろう。

2万人、高校野球としては異例の数の観衆で膨れ上がった
その日の神宮球場は異様な雰囲気だった。

激しい乱打戦。
11対10、1点リードで迎えた7回、誰もがアウトと思った相手校の
スクイズが成功。この微妙な判定が勝負のあやを決めてしまった。
気落ちした投手はホームランを浴び、15対13で敗退。
翌日の新聞で、主将でエースで四番打者だったその年のチームの
大黒柱が涙に暮れる写真に釘付けになってしまった。

これ以来、もう僕はこの時期になるとたまらなく気分が高揚して
しまうようになった。期末試験の勉強中は「これが終われば応援
できる」と、はやる気持ちを抑えるのに懸命だった。

翌年高校2年の夏、チームはエースを怪我で欠く中、苦しい試合を
ものにして、4戦連続の逆転勝ちで甲子園出場を果たす。
春の選抜ベスト8の国士舘との決勝戦では、前年に決勝ホームランを
打たれた投手の力投と同級生のホームランで勝利を呼び込んだ。
決勝戦、同点で迎えた9回、同級生の放った決勝ホームランのボールが
皆の夢を乗せてレフトスタンドに弾んだ瞬間、僕は楽器を投げ捨てて
先輩と抱き合って喜んだ。

**************************************************************
このままでは際限のない回顧になりそうなので止めておく。

とにかく毎年この時期に高校野球の応援をするのが楽しくて
仕方なかった。この時期には野球応援に行くものだと当たり前
のように思っていた。でも、来年の今頃、僕は仕事をしている。
冷房の効いた都会のオフィスでネクタイを締めて机に向かって
仕事をしているはずだ。全てを投げ捨てて夏の空の下に繰り出して
高校野球の応援をできるのもきっと今年が最後になってしまうのだろう。

今日、早実は準々決勝で敗退し短い「夏」が終わった。
校地を移転し西東京大会初めての「夏」は、
男子校としての最後の「夏」でもあり、
僕が学生として迎える最後の「夏」でもあった。

負ければ終わりと言うトーナメント戦の緊張感、
勝ち負け関係なく送られる惜しみない拍手、
互いの健闘を称えるエール交換、
金属バット特有の打音、
球場に響くブラスバンドの応援、
最後のワンプレーにこだまする絶叫、
そして得点時に肩を組んで歌う「紺碧の空」。

勝った試合、負けた試合、全てが楽しかった。
それも今となってはもう思い出。

昔を懐かしむのは現実から逃げたいときなのだと
いうことはわかっている。

だけど、せめて今夜だけは思い出に浸らせて。


2001年07月23日(月) 印象的なエンディング

大抵の場合、映画のエンディングロールが流れ始めると
観客がチラホラと席を立ち始める。座ったままの観客の数と
映画の出来に比例関係があるのかどうかはわからないが、
エンディングでの観客の反応は、その作品に対する1つの
評価の表れであるとも言えるのかもしれない。

*********************************************************
大学の帰り道「千と千尋の神隠し」を観た。

作品自体の感想は後日、別ページに掲載しようと思うが、
1つ記しておきたいのは、この作品のエンディングで
席を立とうとする観客がほとんど皆無だったことだ。
「立とうとする」というより「立てなかった」と言うほうが
適切なのかも知れない。

それほど衝撃的な結末であったわけでもなければ、
観客が皆涙に暮れていたというわけでもない。
けれど、誰も立たなかった。

「この物語が終わらないで欲しい」。
僕は館内の照明がついた後、こう思っていたからこそ
席を立ちたくなかったんだろうなと思った。

映画作品は、特にそれが秀逸の作品であればあるほど、
感想が陳腐なものになってしまうように思う。

前日の日記でメジャー作品を揶揄するような記述をしたけれど、
少なくとも、おそらくメジャー作品になるであろうこの作品に
関してはその意見を撤回したいと思う。


2001年07月22日(日) 熱戦展開中

ひと筋の汗が頬をつたってくる。
水でぬらしてもタオルはすぐに乾いてしまう。
スタンドを抜ける一瞬の風が心地よい。

湿度も高く、日差しも厳しい夏の炎天下。
それでも不思議と暑さを忘れさせてしまう面白さが高校野球にはある。
球場に近づき、応援団の歓声とウグイス嬢のアナウンスが
聞こえてくるともうとまらない。走り出してしまう。
アドレナリン大量分泌。

普段ならば布団から出ることが億劫になってしまう休みの日でも、
この僕が時間通り起きれてしまうのだ。一度でも、僕と待ち合わせを
した事のある人ならば、そのことの凄さがわかってもらえるだろう。

15日2回戦26-0、20日3回戦11-4、22日4回戦8-2と順調に勝ち上がり
ベスト16進出。次の5回戦の試合は24日、優勝候補同士の激突だ。

野球応援と言う過酷な条件の下で久しぶりに楽器を吹いているせいか、
唇の調子が荒れ気味だ。それでも懲りずにまた行ってしまう。

****************************************************************
最寄のバス停から家までの人気もなく暗い道を歩いていると
南の空のほうからお腹に響く「どーん」という音がした。

ああ、花火なんだろうな。


****************************************************************
先週の木曜日の昼、ヘルマンヘッセを輪読している教養演習のゼミで
昼食会があった。ゼミとはいっても参加者は僕を含めて2人のみ。
なんだかんだで学部の演習授業には4つ顔を出しているが、うち3つが
同学年のゼミ生が2人という少人数状態。必然的に負担も大きくなる。
講義を取っていないのに、授業期間中に結構負担に感じることが多いのは
これが原因なんだろうな、と今更思ってみたり。

昼食会の場所はこちらで決めてよいとの事だったので、
行ってみたかったデンマークレストランを提案。
アルバイト仲間が掛け持ちバイトをしていたことで知ったお店だ。
お店は六本木駅と乃木坂駅の中間にある。

乃木坂の駅で待ち合わせをして、お店へ移動する。
普段の学生街とは全く違った雰囲気に先生も含めた3人は少し押され気味。
大通りから1つ道を入り、駐車している車に驚く。
BMW、ベンツ、ジャガー・・・。日本車は・・・なさそうだ。
迂闊にこの路地に車で迷い込みたくはない。

お店はオープンテラスもあっていい雰囲気。
路地の奥まったところにあり、隠れ家的存在だ。
デンマーク料理は魚料理が主のようだ。
ランチのセットを頼む。パンもメインの魚料理もおいしい。
これで他の2人のようにワインもおいしく飲めれば言うことなし
だったのだろうが・・・。

先生と別れ、帰りは六本木を少しブラブラしてから上野へ。
以前から見たかった「マレーナ」を見る。
夏休み映画が公開され始めた影響で、この作品の上映館は
東京では上野と練馬の2軒だけになってしまった。

前もってストーリなどを知らなかったので、前半の展開には
戸惑ったが、後半、特にラスト20分くらいからは、その意図する
ところが少しづつ伝わってきた。

お金と特殊技術だけをつぎ込んで、「史上最高の興行収入」とか、
「全米大ヒット」、「この夏話題沸騰」などと言った大袈裟な
形容詞で宣伝される映画に食傷気味の人に是非お勧めしたい作品だ。


2001年07月18日(水) 思い出の花火

電車内で消費者金融レイクの広告に見入ってしまった。

夜遅い時間のテレビCMでおなじみのレイクエンジェル。
CMでは、いつもお金のない冴えない男の顔の方についつい
目を奪われてしまいのがちであるせいかどうか、彼女達が
チャーリーズエンジェルのパクリであることに気づくのには
しばらく時間がかかった。まあ、そんなことは現下の問題じゃあない。

かといって、問題は消費者金融という名のサラ金による
苛酷な取立てということでもなければ、その借入れの手軽さ
ゆえに若年層に自己破産が急増している、なんていうことでもない。

ここで我々が注目すべきなのは、レイクエンジェル達の
決めポーズ「レ・イ・ク」だ。3人が体で文字を作っているのだが、
特に「イ」の字の担当する女性を要チェック。

逆立ちしながらなおかつ足を180度近く開脚させて
無理やり「イ」の字を作っている。
加えて、こちらを向いて笑顔なのだから恐れ入る。
CM中は微動だにしない。

それに比べて他の2人のなんと楽なこと。
「ク」の字役なんて前かがみになって手を突き出しているだけだ。
レイクエンジェル達のギャラに区別あるのかどうか
気になって仕方がない。それこそ本当の実力主義なのでは。

***********************************************************
本屋の店頭に並ぶ情報誌には皆一様にこれから始まる花火大会の
紹介記事が並んでいる。7月下旬から8月上旬にかけては各地で
花火大会が行われる。

去年の夏には、江東、相模川、隅田川の花火を見た。
花火自体はとてもよかったけれど、どの会場も混んでいて、
そのことに辟易してしまった。だから今年はあまり
見に行くつもりはない。やっぱり花火はしっとりとした
雰囲気で見たいから。

************************************************************
僕が印象に残っている花火は2つある。
1つは中学3年の夏、新潟県長岡付近を旅している時に、
夜の電車の車窓から見えた信濃川の花火だ。

信州・東北を周った初めての5日間の一人旅。
家族に「行く」と公言した手前、実行せざるを得ずに
不安を心の片隅に無理やり追いやって、旅に出た。
初日の夜行電車でいきなり誘拐事件に巻き込まれると言う
珍事もあったけれど、あとから振り返ればとても楽しかった旅だった。

その旅の終盤、そう丁度4日目の夜だった。
夜の田園地帯を走る電車の窓からはほとんど景色は見えなかったけれど、
本を読む気にはなれずにずっと外を見ていた。
期せずして、銀の額縁の黒のキャンバスに花火が描かれた。
僕は、すがるように食い入るようにその絵を見つめていた。

2つ目は去年の夏、東京湾の海ほたるから見えた
デイズニーランドの花火だ。夜の海ほたるからは
東京湾の夜景が一望できる。
左から横浜、羽田、お台場、デイズニーランド、千葉。
いろいろとうまく行っていなかった時期でもあったから、
夜景を眺めながら長いことボーっとしていた。

ふと右手から歓声が上がった。
遠くかすかにシンデレラ城が見えるあたりで花火があがった。
音も聞こえないし、とても小さなそれは小さな花火だった。
でも僕はその花火を見ることが出来てとても嬉しかった。

今年もこんな風に思いがけず素敵な花火と遭遇したいものだ。


2001年07月17日(火) 深夜の雷鳴

もう深夜0時だというのに、窓の外には時折、稲光が走る。
毎年毎年「異常気象」という言葉を耳にしていると、
気象が「異常」なのが当たり前になりつつあると感ずる。

雨が降ってきた。
久しぶりのお湿りだ。
この夏の関東は空梅雨だったからきっと水不足になるに違いない。

周りより一足先に夏休みに入った。
アルバイト先は学生が夏休みになったからといって
仕事が増えるわけでもなく、休み中も週2日のペース。
旅には8月の後半から出る予定。
あと一月ほどは今のような生活ペースだ。

ところが僕の周りの友人はなかなか忙しい。
妥協せずに志望を貫いて就職活動に励んだり、
難関の司法試験に挑んだり、大学院進学のための
勉強に励んだり、寸暇を惜しんでアルバイトに精を出すといった感じだ。
去年までと比べて一人で過ごす時間が多くなる。

***************************************************************
今更ながら、TOEICの勉強を始めた。
問題を解いてみると、リーデイングはまあまあだったものの、
予想通りリスニングが散々な出来だった。
勉強は少しづつ少しづつ。

これまで僕はどうしても資格を受けるという気になれなかった。
就職活動の履歴書も高校時代やっつけで取得した簿記2級を
申し訳程度に記して提出していた。

まあ、ただ、能力のないことを自慢をするというのもなんだか
おかしな気もするし、何より英語に長けたゼミの先生から
20代のうちに鍛えておくよう言われた。

英語が全てではないし、その前にまず日本語の言語感覚を磨くのが
先決だと言う思いも捨てきれないが、卒論にも、経済史研究にも
これからの生活にも、旅をするのにも必要であることだし、
重い腰を上げることにしたという次第。

せめてバイト先で英語の電話がかかってきた時、
何も話せずに受話器を代わってもらうような恥ずかしい
状況だけは脱したい。

8月にはゼミのプログラムで韓国の学生と英語で交流するだけに、
少しはやっておかなくては。

**************************************************************
腐りたくなる時、それは誰にでもあることだ。
努力をせずにうまくいくことなどないけれど、
努力をしたからといってうまくいくとは限らない。
自分をなだめ、奮い立たせることは相当に力の要ることだ。


2001年07月16日(月) 共感

通学で使う西武池袋線には「富士見台」という名の駅がある。
その名の通り、そこはかつては富士山が見えた丘だったのだろう。

近年、西武線の立体交差化工事が進み、富士見台の駅の付近も
高架化された。高架区間のちょうど環状8号線との交差する付近から、
南西の方角を望むと、よく晴れて空気の澄んだ冬の朝には
見事な富士が悠然と姿を現す。わずか10秒足らずの刹那の富士は、
寒い朝にラッシュに耐えている人々へのささやかなご褒美。
けれど夏となると、空気も濁っているせいか富士は見当たらない。

ところが、朝からうだるような暑さだったこの日、
行きの電車の中で僕は思いがけず富士と出会った。
いつも見慣れた頂上付近が冠雪した青い富士ではなく、
茶色くてどこか武骨な山。でもそれは確かに富士山だった。

旅をして、様々な表情の富士山を見てきた。
百人一首にも詠まれた田子の浦沿いの東海道から見上げる富士山、
河口湖から眺める裾野の広がった雄大な富士山、
三つ峠から見た「月見草のよく似合う」富士山。

けれど、僕がよく知る富士山は通学の電車の車窓から見える
あの富士山だし、その富士山が一番美しいと思う。

***********************************************************
就職活動中のこの日記に、地下鉄丸の内線の四ッ谷駅付近で
車窓から見える桜について記したことがあった。
自分の事だけしか見えていなかったあの頃、移動中の地下鉄から
見えた一瞬の桜の景色に、疲れきっていた僕の心はどれだけ
助けられたことだろう。期せずして、今僕はその桜のすぐ近くで
働いているのだが。

僕と全く面識のない、つまりインターネット上でこの日記の
存在を知って、こんなつまらぬ日記を読んでくれているある人が、
この春の就職活動中、同じような思いを抱いていたことを知った。

僕はそれを知ってたまらなく嬉しく思った。
共感、生きている上での根源的な喜びとでも言えばいいのだろうか。

***********************************************************
先日サークルの部室でかつての会誌を読み漁っていたところ、
後輩からは必ずしも評価の定まらないある先輩が、
こんなことを記していた。
うる覚えだから正確である保証はないけれど、話の筋は覚えている。


かつて僕のいる学部の科外講演で、ある世界的に有名な写真家の
講演会が開かれた。その写真家は講演会の冒頭、
「今日はこちらから一方的に私が話すのではなく、
皆さんからの質問を受けてそれについてお互いに話し合うという
形式にしたいと思います」と述べたという。

ところがその後すぐに、この講演会を企画した、
僕が講義を受けた限り、講義を90分聴き続けることができる位の
例外的に知的耐久力のある講義を担当する文学論の教員が、
その写真家の事を「○○先生は〜」と紹介してしまった。

そしてその瞬間から講演会は「世界的に著名な写真家」から
「無名の学生」が話を伺うという流れが出来てしまった。
その写真家を一番前の席から眺めていたその先輩は、写真家が、
講演の最中、どこかやるせない表情を浮かべていたのを
見逃さなかったという。


「あなたはかつて、既存の芸術をぶち壊すような自らの作品を
世に発表していくことで、認められていった。ところがその結果
として皮肉にもあなたは「世界的な」という形容詞がつけられる
写真家になってしまった。自らが、かつて徹底的に批判した
『既存の制度』に、なってしまった。

それを知っていたからこそ、そしてその形容詞があなたの
望むところではないからこそ、あなたは講演会の冒頭にあのように
述べたのでしょう?今日はかつて自分がいた学生の側と、
無用の壁を作ることなく話し合って、自らの原点を確認
したかったのでしょう?」

講演会の後、タクシーに乗ろうとする写真家に、先輩が
意を決してそう訊ねると
「今日僕はそういう質問を聞きたかったんだよ」
と答えたのだと言う。


読書会、という実利に乏しく、人気のないこのサークルに
それでも関わる人間がいつづけるのは、
「問い」を「共に」考え「感じる」ことができる
極めて稀な場所であるからなんだ。
単なる「お勉強」をする場ではないんだ。


その先輩はそう結んでいた。

***************************************************************
先週の木曜日、あまり知られていない大学内の夜景スポットで
政治思想を専攻する大学院志望のサークルの友達と話していた。

「なんか下手に小さくまとまっている奴が多すぎると思う。
『大学での思い出の場所は図書館でした。古典を漁るほど読んで
本が恋人でした』って具合にやばさも必要だよ」

彼はそういっていた。
妙に嬉しくて仕方がなかった。


2001年07月15日(日) 大バカモノ

炎天下、さしたる必要性もないのにノコノコと外出するのは
「バカモノ」であろう。

そして、汗だくになりながら外に2時間も居続けるのは
「大バカモノ」であろう。

そうと知りつつやってしまったのだから
不肖私おじゅんは「大バカモノ」である。

************************************************************
高校野球の地区予選が始まった。
所在地を変えた僕の母校は校舎移転に伴って、
今年から出場地区が東東京から西東京へと変更されたため、
はるばる立川球場まで行ってきた。

「いい年をした大学4年生が高校生に混じって・・・」なんていう
向きもあるかもしれないが、好きなものは好きなのだから仕方がない。

同じく高校野球好きの「中ちょん」とスタンドに着くと、
吹奏楽部の席へ。これまでなら、後輩に知った顔が何人かいたから
堂々と座れたものだが、さすがにもう知った顔も少ない。
どうしたものかなあと思っていたら、卒業後に部室へ遊びに行った
時にかろうじて挨拶をした記憶のある後輩がいて、余っていた
ホルンを貸してくれた。

本当に久しぶりのホルン。懐かしい。
去年の夏にこうして応援した時以来だ。
楽器を定期的に吹かなくなってからもう3年以上になる。
唇はマウスピースの感覚も忘れていて、すぐにばててしまった。
けれど不思議なもので指先は感覚を覚えていて、
どの応援曲も楽譜などみないで吹くことが出来た。
いつの間にか暑さなどすっかり忘れていた。

試合自体は圧勝で内容はあまり面白いとは言えないもの
だったけれど、やっぱり楽しかった。

*************************************************************
母校での6年間の吹奏楽部時代、野球応援が楽しくて仕方がなかった。
特に高校の3年間は毎年、甲子園出場をかけた地区大会の決勝に
進出したからなおのことだった。日頃教室で机を並べる
クラスメートが大活躍する姿を追っかけることに夢中だった。

まさかの敗戦あり、奇跡の逆転劇あり、鮮烈なサヨナラあり、
因縁の相手へのリベンジあり。
ドラマよりもドラマティックだった。

高校野球を極端に美化ばかりするつもりはない。
この夏も有名高校が不名誉な事件で出場できなくなったし、
行き過ぎた上下関係などのように「どうかな」と
思わず首を傾げてしまうようなことも一部には
未だに残っているのだろう。

*************************************************************
けれど、負けたら後がないという一発勝負の非情なトーナメント。
ワンプレーに懸ける選手、先頭にたって音頭をとる応援部、
試合を盛り上げる吹奏楽部、声をからして応援する生徒、
勝ち負けに関係なく惜しみない拍手を送る観客。
他には見られないこの高校野球の雰囲気が僕はたまらなく好きだ。

中でも甲子園出場をかけた予選決勝では球場全体が
異様な緊張感につつまれた雰囲気となる。
高校2年の夏、同点で迎えた9回に同級生が甲子園を決めた
決勝ホームランのシーンは今でも鮮明に覚えている。
今でも、神宮球場の三塁側のスタンドに行くと、あのシーンが
フラッシュバックする。楽器を投げ捨てて先輩と抱き合った。

**************************************************************
今年も夏が始まった。
結局今年も、球場へ足繁く通うことになりそうだ。
どうか「長い」夏でありますよう。


2001年07月13日(金) 卒業論文に向けて

水曜日、前期最後のゼミが終わると、先生がおもむろに
研究室の冷蔵庫を開け、ウーロン茶を僕に渡し、
「おじゅんくんはこれ」と。

??

と、続けてワインが出てくる。
研究室で酒盛りだ。これも3、4年生合わせて3人の
ゼミだからこそなせる技(自虐)。

その後、教職員レストランへ。ここは意外に豪華で教職員同伴
でないと入ることが出来ない。残念ながら次に講義のあった
僕は途中で抜けたが、お開きの前に再び参戦。
すっかり酔った先生は普段聞けないようなプライベートの
ことまで話してくれた。楽しい一時。

前期最後のゼミは卒論中間発表だった。

*************************************************************
自分がつきたいと思っていた日本経済史の先生が
大学を辞することを知ったのは僕の入学直前のことだった。
入学直後、僕は大学で何を勉強していけばいいのか悩んでしまった。
それでも今のサークルに入り、先生のことをよく知る先輩から
話を聞いたり、先生の著作を読む進めることで、先生がいなくても
僕は自分が高校の時に惹かれたテーマを追っていこうと思い直した。

2年生になると学部のカリキュラム改革の一環で「アジア経済史」
という新しい講義が設置された。その講義を担当されるために
着任されたのがいまのゼミの先生だった。

この講義はあまりに鮮烈で刺激的だった。
ヒト・モノ・カネの動きを追うだけではなくそこに住む人々の
行動原理、社会構成原理に着目した比較経済史。
その精緻を極めた講義レジュメに圧倒され、先生の独特の
語り口もあいまって僕は講義に魅了されていった。
特に印象的だったのは、前期と後期の各々最後の講義だった。

試験直前と言うことで試験のことばかりが気になっている大多数の
学生をよそに、その講義の時だけ、先生はレジュメも配布せず、
講義ノートも見ずに自説を展開してゆく。
先行研究、通説に対する実証的な批判。
僕は自分の問題関心の所在に迷った時は
今でもその時の講義ノートを見返す。

3年次、就職や人気を考えて−それ自体は何も悪くないけれど−
ゼミ選びで迷う多くの学生を横目に僕は口先でこそ「迷っている」
と嘯きながらも、この先生のゼミに入ろうと決意していた。
そうするはずだったし、そうしなきゃいけないんだと思った。

僕に経済史の面白さを教えてくださった日本経済史の先生のために、
自らの問題意識を追究するために、そしてゼミの先生の指導に
報いるためにも、この夏は卒論作成に励もう、すっかり
酔っぱらった千鳥足の先生とゼミ生で駅まで歩く道すがら、
そう思った。

**************************************************************
なんで卒論のことでこんな情緒的な文章を書いてしまったのだろう。
書き終えた今、ふとそう思った。


2001年07月10日(火) 懐かしい顔ぶれ

自らの基準で周囲を見てしまうその危険性は知りつつも
そうするより他に仕様がないので、最近、耳に入ってくる
周囲の出来事に戸惑わずにいられない。
そしてとても悲しくなってしまう。

泥沼の人間関係に溺れる人がいて、刹那の心地よさを求める
傍若無人な振る舞いで友人を失う人がいる。
そして、中学のクラスメートの名が載った新聞記事を
目にしたときは、ただただやるせなかった。

これらの人は、ごく深い関係ではないけれど、
お互いに面識はあるし、やはり悲しみを覚えずにいられない。

そうなってしまった事自体の価値判断は各人がするべきことだし、
人の背景にある状況について、これは当然のことだけど、他人は
あまりに無知だから、とやかくいうのは筋違いなのかもしれない。

それでも、と思わずにいられない。

*************************************************************
日曜日、家の用事で祖母と両親を車に乗せて埼玉の越生へ。
関越高速に入る。

高速道路の運転は久しぶりだ。昨夏に横浜新道を運転して以来だろうか。
料金所を抜けインターチェンジの長く続くカーブを走るうちに、
まるで非現実の遊園地の乗り物に乗っているような感覚に襲われる。

そして一気に加速するアプローチ。
緊張感が高まる。

気分爽快。
*************************************************************
ドライバーの特権で自分の好みで選んだMDをかける。
ちょっと祖母には悪かったかな。

寝不足のはずの両親は寝る気配すら見せず、
目的地に着くなり大きなため息。

「お前の運転が心配で心配で・・・」
ひどすぎる。

**************************************************************
午後、一足先に電車で帰京。一路渋谷へ。
この日は他大学のサークルの同期との4年会。
懐かしい顔ぶれに出会う。
酒が入ってからの、ラデイカルなトークは相変わらず。

僕らが初めて出会ったのは1年生の終わり頃。
あの頃の僕は大学生活の過ごし方がわからず、自分と周囲を比べては
途方に暮れて、悩んでばかりの日々を送っていた。
そんな時サークルで渉外の役を任され、彼らと交流組織の運営を行ううち、
次第に彼らは心のよりどころとも言うべき存在になっていった。
僕が将来、大学生活を満足して振り返ることが出来るのだとしたら
(そうであると信じているけれど)、それは彼らのおかげだ。

僕らも今では、4年生になって進路の話などをしている。
将来、それも30年も40年も経った時、
またこうして皆で集える機会があることを切に願うばかりだ。


2001年07月07日(土) 身勝手な叫び

期待していた「マレーナ」を見に行くと、非情にも
「誠に勝手ながら『マレーナ』の上映は中止させていただきます」
の文字が。本当に「勝手」すぎるなあ。

それで代わりに上映していたのがスピルバーグの「A.I.」というの
だから笑わせてくれる。

池袋シネマロサよ、君は一体いつからスピルバーグの作品などを
上映するようなつまらない映画館になってしまったのだ。
池袋での、メジャー作品の上映はシネマサンシャインとHUMAXに
任せておけばよいのだ。君とシネリーブルは儲からない
マイナー作品の上映に徹してくれ。

**************************************************************
金曜日、午後からアルバイトに出勤すると
「おじゅん君は何時までできる?」と。

「夜まで大丈夫ですけど」
「じゃあ終電で帰れればいいよね(笑顔)」

北欧では夏至の日に盛大なお祭りを催すらしく、スケジュールの都合で
僕のバイト先ではこの日に行うことになったとのこと。
17時過ぎからぞくぞくと料理が運び込まれ仕事どころではなくなる。
オフィスを整理し、パーティーの準備が始まる。

この時間、男は僕一人という事もあって力仕事は全て押し付けられる。
僕をこのバイトに紹介してくれたゼミの女の先輩の方が絶対に力は
あるはずだけど、口に出したらそれはそれで恐いのでこの逆セクハラ
におとなしく従うことにする。

19時過ぎになると、エージェントが続々と到着。
大使館、航空会社、旅行会社などの人が中心。
それにしてもここにきた外国人の酒の飲み方は尋常ではない。
赤ワインを水でも飲むかのようにぐいぐいと。たまげてしまった。

酔っぱらった客がアルバイトと合コンの交渉を始めたり、
酔いに任せて阿波踊りなんかを披露し始めたものだから、
辟易した僕はウーロン茶を片手に避難開始。

オフィスの窓から外に目をやれば、こんな夜でも見事な月だった。
月を見て、それを視覚でのみ感じてしまうのは「近代人の感覚だ」
と文学論の先生は言っていた。宮沢賢治の「月夜のでんしんばしら」
と言う作品では「月の光ははらわたにしみわたった」という表現がある。
内臓で、身体で感じる感覚、自分では味合うことができないのだろうか。


2001年07月06日(金) 「ベルサ」でしてやったり

「ベルサ」という題名は大当たり。
日記サイトから来てくださった方の数が常連さんの数を上回るほど。
「ベルサ」という言葉はそれだけ旬の言葉なのか。

来週は水曜に2つのゼミで発表を控え、さらに木曜は唯一の試験。
そんなわけで忙しい週末になりそうだが、こういうときに限って
いろいろ記したい出来事があったりするから困る。

7月4日水曜日は内内定式があった。
久しぶりにスーツに袖を通し、猛暑の中大手町へ。

全く関係ないが、7月4日は米国独立記念日。
この日になると、オリバー・ストーン監督トム・クルーズ出演の
「7月4日に生まれて」を見たくなる。ベトナム戦争物では
大学の図書館で「デイアハンター」を見ただけだ。

集合時間からしばらく待たされ、何人かの内定者と話して過ごす。
総合職の人たちとはもう何度も顔を合わせているので、
お互いのことも大分わかるようになってきた。

人事部長との面談の後、内内定式。人事部長の簡単な講話で
式は終わり拍子抜けしてしまった。その後、一般職の人達と
互いに自己紹介をして、性格診断テスト、講演会という流れ。

講演会の講師は就職活動中、僕の面接をしてくださった方だった。
年に100以上の講演をこなしていると言うだけあって、講演の進め方は
非常にうまかった。講演内容も非常に示唆に富んだ内容で参考になった。

内容は簡単に言ってしまえば、「組織と個人」の問題。
個人の意見を如何に組織にボトムアップしてゆくか、
そして組織で議論することの難しさ。

この点は高校時代の吹奏楽部で痛いほど感じたことだ。
部活では高校2年生が合議で運営について議論するのだが、
ある先輩は「この会議はいつも誰も望まない結論に落ち着く」
と評していた。

講演の後に立食形式の懇親会。
例によって乾杯のビールすら空けられず、ウーロン茶へ避難。
総合職は25名ほどだが一般職を合わせると60人近くとなる。
大人数のなかで話を進めていくのが苦手な僕は、疲れてしまった。

一般職はすべて女性。総合職のサポートをするという位置付けだ。
もちろん自分だって、そういう職種分けがあることを承知で
この組織を選んだわけだけど、正直言って、職種を分ける意味が
どれほどあるのか僕にはわからない。
この制度など、僕のサークルの人間に言わせれば非難轟々だろうな。
僕は何も言葉をもたないけど。

未来の同僚を横目にふと窓の外に目をやると、ビルの合間から満月が
のぞいていた。それは見事な満月だった。

*************************************************************
木曜日は4限、5限と出席。
久しぶりにサークルの友人と顔を合わせた。
5限は登録していないのだが、彼に勧められて、
モグっている「社会経済史」という講義だ。

彼は大学院進学を目指し、猛勉強中だ。
春休み以降に読んだ本のリストを見て仰天してしまった。
彼の専門は日本政治思想だが、近世の経済史とも密接な
関係があり、僕の研究テーマとも重なる部分が大きい。

キャンパス一高い建物の図書室でしばらく勉強し、
図書室横の休憩スペースで再び彼と顔を合わせた。
互いに参考文献を紹介したり、近況を話したり。
ここから見る夜景は本当に素晴らしい。

東京タワー、文京シビックタワー、池袋サンシャイン、
駿河台の明大リバテイタワー、飯田橋の法大ボワソナードタワー。
友達曰く、冬の晴れた日の夕方には西に富士山を望むことも
できるとか。この夜景スポットは学内でもあまり知られていない。
遅い時間まで図書室で勉強に励んだ学生のささやかな特権。

その後まもなく取り壊しされてしまうサークルの部室で夕食を取る。
部室に行く途中の階段の踊り場から見える講堂の姿や、
部室の窓から見る夕焼けが僕はとりわけ好きだった。

就職が現実感をもって迫り始め、学生時代の出来事は
思い出へと変容し始めた。
少しづつ、動き始めた。


2001年07月03日(火) ベルサ

題名と話の出だしで話の大部分は決まってしまう
といったような意見を聞いたことがあるけれど、僕も同感。
コントで言う「つかみ」のことだろう。
この日記もタイトルと書き始めに悩むことが多い。
今日のタイトルのつかみは・・・?

今日は朝からアルバイト。
出勤の際に「ずいぶん疲れきっていますね」なんて声をかけられる。
いかんいかん、もっと若者らしく溌剌としなければ、見かけだけでも。

ウェブのメンテナンスの仕事は大分軌道に乗ってきた。
タイトルを全てロゴにしてさらにロールオーバーをかけたり、
数枚の写真を連続してコマ送りにしろ、なんていうデイレクターの
要求にもどうにかこうにか応える事が出来た。
努力の結晶へはリンク集からどうぞ。
せっかく培った技術だしこのサイトにもいずれ反映させたい。

今日は仕事のキリも良かったので、ほぼ定時に帰宅。
最近のOL言葉ではこういうのを「ベルサ」というらしい。
「ベルサッサ」の省略形。
「終業のベルが鳴ったらサッサと帰る」のとのこと。
なんだかなあ。これ認知度高いのだろうか?
最近知って嬉々として使ってしまっている僕は相当
遅れているんだろうか。いや、別に日常生活では使っていないけど。

乗換えが池袋のため帰り道に誘惑が多い。
2日連続でHMV詣で。桑田佳祐の「波乗りジョニー」を購入。
コカコーラのCMで使われている曲。
シングルCDを購入したのは久しぶりのことだ。
初めて聴いた時からCDを買おうと決めていた曲だ。
もちろん今はリピートでバックで流している。
週末にちょっと車で遠出しなきゃならないのでそのBGMに使おう。


2001年07月02日(月) 短冊にこめられた願い事

昼休み部室で昼食を取っていると、後輩に
「おじゅんさんの日記って暗いというか重たいですよね」
と言われた。

そんなに暗いかな。まあどう読んでも「底抜けに明るい」って
わけにはいかないだろうけど。日常の生活で嬉しいことも
あるけれど、それをどう表現したらいいのか悩むことはある。
でも、等身大の自分をできる限り再現しようと
したのがこういう日記になっているわけで。
まあ、感想は読んだ人に任せます。
読んでいる人の心まで暗くさせてしまうことはないよう。

よくあること、なんだけど、まあ最近は少し物事が
うまくいっていない。そんなときは何もせず淡々と
時が過ぎるのを待つしかない。

今日は午後の講義も出る気がせず(いつも大して出てないけど)、
早めに大学を出る。すると、地下鉄の乗換駅のコンコースに
恒例の七夕の飾りがあった。今まで10年間、この時期になると
笹の木に結ばれた短冊を見ながら乗り換えたものだ。

思わず笑ってしまうような願い事「卒業させてください」、
ちょっと切実な「志望校に受かりますように」、
そして「いい出会いに恵まれますように」。
少し心が和んだ。

池袋のHMVでは無性にEnyaを聴きたくなって衝動買い。
さらにクラシックコーナーでアルフレッド氏に先日勧めた
Elgarの "Sault d'Amour"の入ったCDを見つけついつい手が伸びる。

こういう気分のときは一人で音楽を聴きながら車を運転したくなる。
今夜も用事のついでに大回りをして、音楽のボリュームを上げて
夜の街を走る。30分も走れば、自然と心も落ち着いてくるものだ。


おじゅん |MAILHomePage

My追加