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望みどおりの人生。

今、自分は本当に自分のやりたい事をやっているか。

ふと思うことがある。

身体が弱かったり、お金がなかったり、勇気がなかったり。
何かしら理由をつけて、それを言い訳にしていないか。
まっすぐに、正直に、向き合うおうとしていないのではないか。

どんなに望んでも、それはきっと叶えられない。
そう自分で決め付けてしまっている。

そして、自分の一番の望み以外の事に精を出して、
こっちだって楽しい、これで充分幸せだ。
そう思おうとしている。

それは幸せのすり替え。

幸せになったフリをして、楽しいと感じているフリをして、
代わりの幸せで、満足したような気になって。

いつか終りが来た時、それで自分は悔いのない人生を送ったと言えるか。
やりきったと胸を張って言えるのか。

目の前の問題から目をそらさずに、
自分に正直に、自分を大切に。
今を生きたい。
2004年04月15日(木)

感情の露出。

最近自分の中に、感情を出したいという欲求があるらしい。
『喜怒哀楽』の表現。
私がもっとも苦手とする部分だろうと思う。
『素』の部分は見せてはいけないと思って来たし、
それが当たり前になってしまってからは、
出そうとしても、恥ずかしくて出来なくなってしまっていた。

ここ2,3年で、自分の中に変化が起きて来ているのは気付いていた。
それが、ここ半年くらいで加速してきたように思える。
何がどう関係してそうなったのかは分からないし、
そこの所は深く考えなくてもいいのかもしれない。

とにかく、私の中で変化が起きている。
という事だと思う。

テレビを見ていて、ほんの些細な事で泣く。
涙をポロポロ流しながら泣く。
フィクション、ノンフィクション関係なく。
登場人物の悲しみに共感しては泣き、
また、優しい気持ちや言動に癒されては泣き、
旦那のささいな一言や行動に感謝しては泣き。

昔から、明るい番組やお笑いが好きだった。
放って置くと暗くなってしまう自分を、上昇させるため。
家にいる時も、車を運転している時も、
テレビかラジオが付いていないとダメだった。
不安になったり、暗くなったりしてしまうから。
でも、最近は音の無い時間が過ごせるようになった。
というか、音が無い方がいいなって思う時がある。
静かな沈黙の中で、ゆったりとした気分でいたい。
そんな余裕は以前はなかった。
いつも何かに追い立てられていた。

怒りは昔から大きく表現されていた。
といっても、社会の人間関係に直接向けることはない。
それは親子ケンカであったり、夫婦喧嘩という形で現れていた。

ある時気付いたことがあった。
ケンカをした後の私は、すっきりさっぱりしている。
私はケンカをしている最中も、我を忘れることはない。
いつもどこかに冷めた自分がいて、
とんでもない行動をとらないように抑制していた。

ケンカをして大声を出したり、泣き叫んだり。
私はそれをする事で何かを振り捨てているようだった。
自分の中にたまった、さまざまなどうしようもないものを、
吐き出すための手段として、ケンカをしていたように思う。

たとえ相手にケンカをする気が無くても、
ひどいことを言って挑発する。
相手が乗ってくれば、しめたものだとばかりに応戦する。
だからケンカが終わってみると、
なんでケンカになったのかが分からないくらい。
私にとってのケンカは、ストレス発散のためのものだった。

『喜・哀・楽』が感じられるようになったのと反比例して、
『怒』は勢いを失っていった。
穏やかになった。荒れなくなった。
発散して、振り捨てなければならないものが、
私の中で、確実に減ってきているようだ。

私の短気は、元々の性格なのだと思っていた。
しかし、そうじゃなかったようだ。
こんなに穏やかな自分が存在するという新鮮な発見。
もちろん、今でも怒りを感じるという事は出来る。
まったく怒りを感じないというのも、不自然なことだから。

怒る必要のない事で怒らなくて済む。
それがまた精神の安定を生む。
旦那と付き合い始めてから何年か前までの私と、今の私はかなり違う。
ケンカの数も、激減している。

昔は、自分の中に渦巻いていた苦しみや怒りを、
家の中で、なんとか発散させて生きてきたんだと思う。
そうしなければ、生きていけなかったんだ。
PDという形でも現れてきたその膿。

私の中にたまった何かが消えていくことで、
PDも和らいで行くような気がする。
2004年04月14日(水)

扱われ方について。

社会の中で自分がどう扱われるか。

それをすごく気にしている自分がいる。

『バカにされてなるものか。』と思っている。

先日行ったお店で、客としての自分に対する態度に引っかかっている。

客を座らせて接客するタイプのお店なのに、

立ったまま対応され、書類を書き、商品を購入した。

次にそのお店を訪れた時も、気持ちの良い接客とは言えなかった。

そのお店で以前は常連だった。

しばらく行かなくなっていて、久しぶりの来店になった。

当時の顔見知りの店員さんはみんないなくなっていた。

顧客カードもなくなっていた。

お店の雰囲気自体も変わってしまったのかもしれない。

その怒りや、もやもやがなかなかおさまらない。


こんな風にされても、何も気にしない人もいるかもしれない。

なぜ私がこんなにも憤っているのか。

自分のペースで、自分の言いたい事を言い、

相手の反応を気にしないで行動出来ればいいのだろうが、

こちらがへりくだって、相手に合わせているから腹が立つ。

客なんだから、自分の希望を店員に伝えたり、

それなりのサービスを要求しても当然なんだろう。

嫌なら嫌、良いなら良いとはっきり言っても良いんだろう。

でも、それが出来ない、まったくの他人である店員にさえ、

嫌われたくないとか、良く見られたいという願望が出ている。

それだけに、ないがしろにされると怒りも倍増するのだろう。

こちらがこれだけ気を使っているのに、と。


また、自分の中に『バカにされてはいけない。』という思いがある。

自分自身の中のコンプレックスや、プライド。

自分に自信がないから、いつも警戒している。

もし相手の態度にこちらをバカにしている様子があったら、

それに敏感に気付いて、怒り対抗しなければならない。

そういう態勢が出来てしまっている。

だから、ほんとは気にしなくてもいいはずの事であっても、

引っかかってきてしまうんだろう。


『私は私としてしっかり存在しており、

この存在は誰からも侵害されず、誰からも否定されない。』

他人の言動によって、自分の価値を下げたりしない。

『SELF−CONFIDENCE』(自己信頼)

これが私の中にきちんと育っていれば、

自分の扱いについて不当だと思ったりしないのだろう。
2004年04月03日(土)



ひとりぶつぶつ。 / quartz うぃんちゃんのぺーじ
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