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自分の気持ちを感じる。

たとえば、誰かからひどい事を言われて傷ついた時。

キツい仕打ちを受けて腹が立った時。

『あの人は、なんでこんな事するんだろう。』とか、

『ああいう事をするなんて、なんてひどい奴なんだ。』と、

相手に対して思いをめぐらせるのを止めてみる。

そして、自分の感じている気持ちを味わってみる。

『あんな事をされて、とても悲しい。』

『ああいう事を言われるなんて、ムカムカする。』


悲しいのに平気な振りをしたり、怒っているのを隠して笑ってみたり。

いつもそんな事をして来てしまったので、私の感覚は少しマヒしている。

いったい今、自分がどんな気持ちなのか分かっていない事がある。


喜びを素直に表現する事は、恥ずかしい事だとか、

悲しみを人に見せるのはみっともないとか、

それが私が私に課したルールだった。

だから、嬉しくてもはしゃがない。

悲しくても人前で涙は見せない。

そしていつからか、ココロを感じないようにして来ていた。

感じてしまってから抑えるより、

感じるのを止めてしまった方が楽でしょ?


理由も無く流れてくる涙なんてなかった。

幼稚園の頃、大好きだった先生が私の卒園と共に、

結婚退職するという話を聞いたその日。

家に帰って、出迎えた母に向かって、

『先生、幼稚園を辞めちゃうんだって!』と言いながら泣いていた私を、

少し離れた所から見ている私がいた。

私はほんとに悲しかったんだろうか、こういう時はこうやって悲しむものだと、

パターンのように演じていただけじゃなかったのか。

そんな疑問まで湧いてきてしまう。


相手が取った行動の理由、自分が感じた気持ちの理由。

そういう事を考えないようにしてみる。

そしてただ、自分の感じている事を感じる。

悲しんでみる、怒ってみる。


でもそれは、相手にこちらがどれだけ悲しんでいるかとか、

腹を立てているかを分からせるために取る行動ではない。

極端に言えば、相手は関係ないのだ。

でも、それが結果的に相手に何かを感じさせたり、伝えたりするかもしれない。

そして、なんで自分がそう感じたのかを考えていないのに、

ふとその理由が分かってしまう事まであるのだ。


答えは考えるから出るのではないと思う。

出るべき時に、出るべくして出る。

だから、答えを出そうと努力しない。

自分の気持ちに正直でいれば、物事は動くべき方向へ動く。

自分をごまかさない事が大事。


不安発作が起きた時も、同じような事が言える。

不安を感じたら、その不安の理由を考えない。

『なんで不安なんだろう。なんで調子が悪いんだろう。』

なんとか納得出来る理由を探して、安心したくなる。

『あぁ、寝不足が続いているからだ。』

『身体が疲れているのかもしれない。』

でも、理由が分かったからといって、不安は治まらない。


そこで不安の理由を考えるのを止めてみる。

そして、『あぁ、私は今不安を感じているんだなぁ。』と思う。

不安を感じているのに、それを体調や状況のせいにしてしまうというのは、

不安をかき消そう、なかった事にしようという態度であり、

自分が不安を感じているという事を、無視してしまう事になる。

無理矢理抑えられた感情は、別の形を取って表面化しようとする。

過呼吸になったり、動悸がしたり。

それは、不安な感情の自己主張なのだ。


だから、不安が存在する事を認めて、そのままにしてあげる。

すると、不安は自分の存在を脅かされる事が無いので、

認めてもらおうとして暴れる事が無くなる。

そして、満足したら、自分から去って行ってくれるのだ。

不安は誰のココロにも存在する。

まるでいじめっ子のように、

『あっちへ行って!』と振り払おうとすればするほど、

もっと意地悪をしようと近づいてくる。


これが、私が最近思っていること。

不安との共存。
2003年07月10日(木)

確認作業。

寝る時とか、出掛ける時とか。

ガスや電気のスイッチや家の鍵をちゃんと止めたか、

閉めたかがとても気になる。

いつも指さし確認をして、さんざん確かめて出て行くのに、

気になって戻ってくる事がある。

階段を下りた所で戻ってくる事もあれば、

車でもう途中まで出ているのに、戻ってくる事もある。

家を出て行く時は、すべてちゃんと出来ているか不安になる。

何度も思い返して、心配な所はないか考える。

気になって戻った時でも、99.9%はちゃんと出来ている。


これがもっとひどくなって、生活に支障を及ぼすこともある。

『強迫神経症』である。

何度も何度も果てしなく、確認しないと落ち着かなかったり、

一度決めたら次もそうしないと気が済まなかったり。

これをやらないと悪い事が起こるというジンクスから、

抜け出せなくなったりもする。


子どもの頃、右手を動かしたら、

必ず左手も同じように動かさないと気が済まなかった。

今でも、洋服を着る時や靴を履く時は必ず左から。

何かの拍子に右からになってしまったら、やり直したりする。

鍵をかけたら、何度もガチャガチャ確かめないと不安。

ガチャガチャやる回数にもこだわりがあったり。


生活に支障を来たすというのが、

病気とそうじゃない状態を分ける基準なら、病気には入らない。

でも、自分としてはこのこだわりに縛られる部分があって少し窮屈。


これを治していくには。

まず、止めてみる。(こだわりに基づいた行動を。)

それがいいらしい。

ジンクスを止めてみても、何も悪い事は起きないと分かる。

やってしまえばキリがないのだ。

とりあえず止めてみる。


でも、今現在ものすごく苦しい思いをしているわけではないので、

このこだわりを続ける事よりも、止める事の方が辛い気もする。

ほんとに困らないと、変えようとは思わないものなんだ。
2003年07月08日(火)

幸せに生きる。

誰といても、一人でも。

誰かが何かをしてくれなくても、誉められたりしなくても。

幸せだと感じていたい。


自分のままで存在する事を自分自身が認めれば、

相手がその人のままで存在する事を許せる。

相手が何もしてくれなくても、勝手に好きな事をしていても、

今ここに、私の側に存在してくれるだけで嬉しい。

そして、きっと相手もそう思ってくれていると信じられる。


役に立たない自分は人から必要とされないとか、認められないと思っていると、

自分のために何かをしてくれない人の事を認められない。

何もしていないのに愛されている人を見ると、嫉妬してしまう。


私はこんなに頑張って、気を使って生きているのに、

あの人はなんで気を使わないで、あんなに気楽そうに生きているんだろう。

私はこんなに辛いのに、こんなに苦しんでるのに。


他の人に向かう怒りは、自分のココロの投影。

自分が自分に許していない事を他の人がすると、怒りが湧く。


ほんとは自分も、そうしてみたいんだ。

自分最優先で、自分の人生を楽しんで、言いたい事言って。

それができないから、相手にもそれをさせたくない。


でも、誰も悪い事なんてしてない。

自分も自分を大事にして、好きな事をすればいい。

そして、自分一人でも幸せだと思える自分でいたい。


幸せな人同士が一緒にいれば、もっと幸せ。

一人でも幸せ、二人でいても幸せ。

相手に我慢をさせたくない。

そして私も我慢しない。

義理や義務じゃなく、一緒にいたいからいるんだって思えるように。
2003年07月07日(月)



ひとりぶつぶつ。 / quartz うぃんちゃんのぺーじ
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