ぼくが柔道を始めたのきっかけとなったのは、小学1年の頃にテレビで姿三四郎見たことだった。 ただその時は、三四郎がいつも山嵐という技で勝つもんだから、漠然と「山嵐かっこいいのう」と思っていただけにすぎなかったが。 その後柔道に対する思いがだんだん募っていき、ある日、母に「柔道を習わせてくれ」と頼んだ。 東京オリンピックで柔道が正式種目になったり、美空ひばりの『柔』がヒットしたりしていたせいもあり、家族は柔道に対して好印象を持っていた。 そこで「決してやめない」という条件で、柔道を習わせてもらうことになった。
さっそく母と、家から一番近くにある町道場に、入門手続きを取るべく行った。 「ごめんください」 「はい」 先生らしき人が出てきた。 「この子に柔道を習わせたいんですが」 「何年生かね」 「小学1年生ですけど」 「1年生?柔道は危険だから、小学校の高学年になって体が出来てから来なさい」 ということで、この時の柔道入門は却下された。
その後も柔道に対する情熱は衰えなかった。 小学5年生の時だった。 もう高学年になったからいいだろうと思い、母に頼んで道場に連れて行ってもらった。 ところが、また却下である。 理由は1年生の時と同じく、「柔道は危険だから、体が出来てから来なさい」だった。 しかし、その時は母が粘った。 「1年生の時、一度こちらに伺ったんですが、その時も『体が出来てから来い』と、今日と同じことを言われました。その頃に比べると体も大きくなっています。もういいだろうと思って来たんですが、まだだめなんですか?」 「はい。まだ規定に達していないからですなあ…」 「じゃあ、何年になったらいいんですか?」 「うっ…。6年、そう6年生になったら来なさい」 「じゃあ、6年になったら来ますから、お願いします」
ところで、1年の時はわからなかったのだが、5年の時は何か不思議な感じがしたものだ。 柔道場と言えば、結構広いようなイメージを持っていたのだが、なぜかその道場は狭かった。 それに、そこにいるのは先生と事務員さんだけで、練習生らしき人が一人もいなかった。 まあ、たまたま休みだったのだろう、と思うことにした。 そんなことよりも、6年生になれば念願の柔道が習えるという、喜びのほうが大きかった。
| 2004年08月30日(月) |
イーグルスのチケット(後) |
カードは家にしかない。 家に戻るのは早くても午後8時半である。 この状況からして、その時間までチケットが残っているとは考えられない。 ぼくは泣きたくなった。 しかし、このまま泣き寝入りするのも癪である。 「どうにかしなければ」
そこでもう一度カード入れの中を調べた。 やはりJCBカードは一枚も入っていない。 と恨めしくカードを元に収めようとした時だった。 『JCB』のロゴが見えたのだ。 「おっ!?」 よく見ると、それは銀行のキャッシュカードだった。 「そういえばこのカード、JCBと提携していたんだった」 これで何とかなりそうだ。 さっそくぼくはカード番号を携帯に書き込み、送信ボタンを押した。 しばらく待っていると、また「大変混み合っています。しばらくしてからアクセスしてください」の表示が出た。 再び『再読込』を押してみた。 ところが、今度は何度やっても画面が出てこなくなった。 10分ほど経過したが、画面が変わる気配はまったくない。 「しかたない。また1からやり直すか」と思い、通信を切った。 しかしよく考えてみると、チケットはちゃんと手に入ったのだ。 もう一度やり直すということは、余分に買うことに他ならない。
「さてどうしたものか?」と考えている時だった。 携帯の着信音が鳴った。 メールが届いたのだ。 何だろうと見てみると、それはJCBからのメールだった。 開いてみると『決済が完了しました』と書いてあるではないか。 チケットは郵送するとのこと。 「おお!」 成功である。 これでまた人生が広がる。 ということで、11月5日、福岡ドームに入って参ります。 しかし今回のチケット発売日のように、延期になることはないだろうか? それが心配である。
| 2004年08月29日(日) |
イーグルスのチケット(中) |
ところで、チケットの予約や販売だが、ぼくは過去何度か挑戦したことがある。 が、一度も成功したことがない。 一般電話、携帯電話、PHSを駆使してやったこともある。 しかし繋がらない。 ようやく繋がったと思ったら、「予約受付は完了いたしました」というつれない女性の声だ。 予約を開始してまだ20分しか経っていなかった。 何度やってもこんな調子なので、昨年の日本シリーズは最初からテレビ観戦を決め込んでいた。 で、今回のイーグルスだが、iモードを使っての販売だった。 いつも電話なので、これはやったことがない。 まあ、こちらのほうが気ぜわしくなくてすむ。
さて、その日がやって来た。 9時頃に一度予行演習をしたのだが、その際、なるべく早くアクセス出来るようにと、ログイン画面を『画面メモ』に入れておいた。 いよいよ10時になった。 さっそく『画面メモ』を開き、IDとパスワードを入れアクセスした。 ところが、ここでも繋がらない。 「大変混み合っています。しばらくしてからアクセスしてください」の表示。 しかし、今日はひるまなかった。 ID入力からやり直すのは時間の無駄だし、面倒である。 そこで何度も何度も『再読込』を繰り返した。 次に進んだ。 これで、何度もやっていると繋がることがわかった。 一つ進めば、また「大変混み合っています…」の表示が出る。 そこも『再読込』でクリア。 そういうことを繰り返していくうちに、さっと画面が出てきた。 見てみると「チケットを確保しました」の文字があるではないか。 「やったー」 思わず声が出た。 人生初めての、チケットゲットである。
気をよくしたぼくは、ボタンを押し続けた。 ところがである。 最後の最後に大きな問題が起きた。 カード番号を記入する画面が出てきたのだ。 ぼくは普段、クレジットカードはぷららカードしか持ち歩かない。 タバコを買うのも、ガソリンを入れるのも、すべてぷららカードでやっているのだ。 なぜかというと、このカードを使うとプロバイダ代がタダになるからである。 そういうことなので、その時もぷららカードしか持ち合わせていなかった。 今回のチケット販売はJCBの会員だけなのである。 だから、支払はJCBでなければならないのだ。 これは困ったことになった。 どこかにJCBは隠れてないかと、何度もカード入れや免許証入れの中を探した。 が、入っているのは例のぷららカードと銀行のキャッシュカードだけである。 「あーあ、せっかくここまできたのに…」
| 2004年08月28日(土) |
イーグルスのチケット(前) |
今月の11日だった。 いつものようにその日に来たメールに目を通していたのだが、その中にJCBからメールがあった。 普段なら、どうせ下らん内容だだからと、そのまま読まずに飛ばすのだが、この件名に目が止まった。 『【先行発売】イーグルス』である。 イーグルスが来日し、東京で公演をやるのは知っていた。 気になっていたことなので、いちおうそのメールに目を通してみたところ、 『イーグルスの9年ぶり3度目の来日。待望の福岡公演決定! 【受付期間】8月25日(水)正午〜11:59PM 【会 場】福岡ドーム 【公演日時】11月5日(金)6:00PM開演』 と書いてある。 何と何と福岡に来るではないか。
今月頭にジャニス・イアンのコンサートに行って、有名なアーテイストを、同じ空気の中で味わうことが、どれほどすばらしいものかというのを実感したものだ。 大げさに言えば、人生が広がったような気がしたのだ。 その人生をもっと広げるためには、なるべく多くのアーティストに触れる必要がある。 イーグルス、うってつけである。
実は「イーグルス来日」の話を聞いた時、東京に行きたいと思っていたのだ。 しかし、それをやると最低2連休は必要になる。 今の職場の人員ローテーションだと、それはちょっときつい。 そのため、泣く泣く諦めていた。 そういう時に今回のメールである。 これは何とかしなければ。 一昔前なら「かーちゃんを質に入れても見に行く」というところだが、今はカードという手段がある。 さっそくJCBチケットに登録し、発売日の25日を待った。 ところが、その日の朝、携帯でJCBのサイトを確認したのだが、どこにも「本日イーグルスのチケット発売」などと書いていない。 おかしいなと思い、発売情報のところを見てみると、何と28日午前10時からになっているではないか。 携帯でメールのチェックをしてみたのだが、最初に見てもらったとおり、発売はちゃんと25日正午になっている。 その後も発売日時変更のお知らせは来ていない。 「おかしい」と思いながらも、その日の挑戦はやめ、28日を待つことにした。
| 2004年08月27日(金) |
警察に出頭してきました |
朝、今日仕事だった嫁さんを会社まで送っていき、その帰りに警察署に行ってきた。 朝9時だというのに、駐車場は一杯だった。 ぼくが入った時に、タイミングよく出る車があったので、そこに駐めることにした。 満車状態なのだから、さぞかし署内は賑わっているだろうと思いきや、何と一番用があるだろう交通課には誰もいなかった。 ぼく以外の人は、いったい何をしに警察署に来ていたのだろうか? 当然警察署に用がない人は駐めるはずがないのだから、それ以外の事件で来たのか?
一階にある交通課の窓口に行き、「あのう、昨日電話もらったんですけど」と言った。 応対したのは婦警だった。 彼女はぼくがそう言うと、「えっ?」というような顔をして、「どういうご用件でしょうか?」と尋ねた。 「『車庫証明の申請をしてくれ』と言って、そちらから電話があったんですが」 「ああ、車庫証明ですね。ご自分の土地ですか?」 「いえ、違いますけど」 「じゃあ借りるわけですね」 「はい」 「はい、ではこちらの書類に書き込んで、あと駐車場を管理しているところで印鑑をもらってきてください」 「で、昨日聞いた車検証の住所変更は?」 「それは陸運局で行いますので、そちらのほうに行ってください」
何かよくわからない。 昨日電話で聞いた話と、だいぶ違っているのだ。 昨日の話だと、車庫証明と同時に車検証も住所変更するように言っていたはずだが…。 それが陸運局である。 だいたいぼくは、陸運局がどこにあるのかさえ知らないのだ。 隣の建物に行けというような気安さで「そちらのほうに」と言われてもねえ。 そういえば、以前友人が軽運送の仕事を始める時に、陸運局に行くとか言っていたなあ。 確かあれは、博多だたような記憶がある。 それも博多の中心部ではなく、あまり地理を知らない場所だった。 今日一日ですべてを終わらせようと思っていたのだが、博多に行かなければならないとすると、すべての処理が終わるのは次の休みである31日になってしまう。
ぼくに今の車を売りつけた友人のオナカ君に電話をかけ、陸運局のある場所を尋ねてみた。 「博多に行かんでも、曽根にあるぞ」とのことだった。 曽根、市内ではあるのだが、周防灘沿いにある町で、響灘近くの洞海湾沿いに住むぼくにとっては異国である。 そこに行くには、車で4,50分、いや渋滞するから1時間は見ておかなければならない。 確かに博多に行くよりは近いのだが、それでも今日行くことは出来ない。 昔ならともかく、今1時間の距離を走ろうと思えば、それなりに心の準備が必要であるからだ。 ただでさえ、連日オリンピックで寝不足が続いているのだ。 これは後日回しにするしかない。
ところで、オナカ君によると、車庫証明の書き方もいろいろ制約があって難しいという。 陸運局といい、面倒なことばかりである。 そこで、ぼくはすべてを、かつてぼくに車を売りつけたオナカ君に任せることにした。 ということで、今日は書類をもらってきた以外は何もしなかった。 ぼくの車庫証明変更をお待ちのかた、もう少しお待ち下さいませ。
仕事が終わってから、いつものように実家に行った。 「ただいま」 「あんた何かやったんね?」 母が真顔で言った。 「えっ?」 「さっき、警察から電話があったよ」 「警察?」 「うん。『出頭してくれ』ということやった」 「おれが何したんかねえ?」 「知らんよ。自分の胸によく聞いてみなさい」
不思議なものである。 警察と聞くと、なぜか反射的に「何か悪いことをしたかなあ?」と思ってしまう。 こういう時、なぜ「何か表彰されるようなことをしたかなあ?」と思わないのだろう。 ということで、最近あった「何か悪いこと」を思い起こしてみた。 監視カメラのあるところで、車を飛ばしたのか? そんな覚えはない。 酒気帯び運転か? それも記憶がない。 というより、日記に書いているとおり、飲みごとのある時は、車に乗っていかない。 一度ノンアルコールビールを飲んで運転したことはあるが、それなら今頃言ってくるはずはない。 運転中に携帯電話をかけていたのを見られたのか? あまりそんなことはしないしなあ。 「他には…」 いくら考えても、何も出てこない。 最近あった警察がらみの『事件』と言えば、拾った免許証を交番に届けたことくらいしかない。
「何も覚えがないよ」 「何もないのに、警察が電話してくるはずはないやろ」 「ちょっと電話して訊いてみる。何課からかかったんかねえ」 「交通課」 やはり交通課だったか。 ぼくは若干ビビりながら、電話番号を押した。
「もしもし、交通課お願いします」 「はい、交通課ですが」 「しろげしんたといいます。先ほど、電話もらったらしいんですが…」 「ああ、しろげさんですか」 「何かしましたかねえ?」 「えっ?いや、車庫証明の件なんですけど」 「車庫証明?」 「ええ、今の車、車庫証明の変更してないでしょ?」 「車庫証明の変更…?」 「今の車、Oさんのところで申請したでしょ?」 「Oさん…。ああ、そうです」 「今そこは使ってないでしょ?」 「ええ、今の家に移った時に解約しました」 「先日、しろげさんが駐めていた場所で、車庫証明の申請があったんですよ。それで調べてみると、しろげさんが変更してないことがわかって…」 「ああ、そうだったんですか。で、どうしたらいいんですか?」 「署に来て変更して下さい。おそらく車検証も住所変更してないはずですから、それも変更してもらわなければなりません」 「いつまで行ったらいいですか?」 「先方が待ってますから、なるべく早くお願いしたいんですが」 「何か持って行くものありますか?」 「印鑑と車検証のコピーを持ってきてください」 「わかりました」
電話が終わり、「大したことやないやん」と振り返って母を見ると、母は腹を抱えて笑いだした。 すべて知っていたのだ。 あいかわらず意地の悪いばあさんである。 ま、この子にしてこの親ありということか。 一本取られたわい。
| 2004年08月25日(水) |
阪神ファンはウィリアムスのことをどう思っているのか? |
取引先に大の阪神ファンがいる。 彼は大阪出身だから、根っからのファンである。 昼間、ぼくが居眠りをしている時に、その人がやってきた。 そこで、意地悪いぼくはこういう質問をしてやった。 「ウィリアムスが日本チームを押さえてよかったねえ。これで残り試合は大丈夫。2年連続優勝も夢じゃない。嬉しいやろ?」 その人は「うーん」とちょっと考えるしぐさをした後、こう答えた。 「複雑な気分ですねえ」 「複雑?じゃあ、もし日本チームがウィリアムスを打ち崩したらどうやった?」 「うーん」彼は考え込んだ。 そして「やっぱり複雑ですねえ」と答えた。 こういうもんだろうか。
そこでぼくは、この状況を無理矢理ダイエーホークスに置き換えてみて考えてみた。 例えば、ズレータがパナマ代表としてオリンピックに出場し、準決勝で日本チームと対戦することになった。 日本側のピッチャーは、同じホークスの和田。 9回裏、3点のビハインドを追うパナマチームは好投和田を攻め、2アウトながらも満塁のチャンスを作った。 一打逆転サヨナラの場面、ここでパナマチームは、代打にフリオ・ズレ−タを送った。 ズレータは和田のスライダーについて行けず、2ストライクと追い込まれた。 ところがその後、和田の制球が突然狂い、3球続けてボール。 そして和田の126球目だった。 失投。得意のスライダーが甘く入った。 ズレータはこれを逃さず、センター・バックスクリーンに特大の逆転満塁サヨナラホームランを叩き込んだ。
さて、仮にこうなったとして、翌日誰かに「どう思うか?」と訊かれたら、果たしてぼくはどう答えるだろうか? 先の取引先の人のように、「複雑ですねえ」と答えるだろうか? いや、決してそうは答えない。 きっと、「悔しい。素直に悔しい」と答えるだろう。 だからこそ、銅メダルで「良し」と出来ないのだ。 「金メダル以外はいらんから、今日の和田の登板はやめさせろ。早くホークスに戻してくれ」と、昼間のラジオで言っていた。 これがプロ野球ファンの多くの人の本音だろう。 阪神ファンとて、別にオーストラリアに優勝してもらいたいとは思わないだろう。 きっとウィリアムスにも、早く帰ってきてもらいたいはずだ。
【寝不足】 昨日の日記を書き終えてから、「さあ寝ようかな」と思っていた時だった。 突然電話が鳴った。 母である。 「今日、JRに乗って遠出するんよね。悪いけど駅まで送ってくれん?今から歩いていっても間に合わんとよねえ」 「何で起きとうことがわかったと?」 「昨日、『明日休み』と言いよったやろ」 「うん」 「あんたのことやけ、どうせオリンピック見ようやろうと思ってね」 母恐るべし。 よくわかってらっしゃる。 そこまで読まれていては、送っていかないわけにはいかない。 「じゃあ、今から迎えに行くけ、外に出て待っとって」 電話を切ってから5分後、実家に着いたぼくは、母を車に乗せ駅へと向かった。
途中寄り道したので、帰ってきたのは7時を過ぎていた。 さっそく寝ようかと思ったのだが、テレビにアニマル浜口が出ているではないか。 「これは見なければ」と思い、8時近くまで見ていた それから寝たのだが、起きたのは11時だった。 その間何度も目がさめているから、睡眠時間は実質2時間くらいのものだった。
【長嶋ジャパン敗退】 『…しかも、阪神の最後に出てきたウィリアムスはホークス選手の嫌いなタイプのピッチャーだ。 おそらくホークスの選手は打てないと思ったが、案の定そうなった。 ああいうピッチャーは、フォアボールなどでじっくりランナーをためてから、自爆を招くのを待ったほうがいいと思う。…』(2003年10月23日) 『…しかし、ウィリアムスは打てんなあ。 敵ながら本当にいいピッチャーだと思う。 バルデスなんか、昨日から何回三振しているのだろう。 もしかしたら… これはぼくの勝手な推測だが、ウィリアムス対策を最後の最後に取っているのではないだろうか。 そうであれば、城島の凡退やバルデスの連続三振もうなずける。 いや、ぜひそうであってほしい。 とはいうものの、やはり王監督も言っていたように、とにかくウィリアムスを投げさせない展開が望ましい。…」(2003年10月24日)
昨年の日本シリーズ第3・4戦の時に書いた日記である。 ダイエー打線は、ウィリアムスにさんざん苦しめられている。 で、今日のオリンピック対オーストラリア戦、7回にウィリアムスが登場してからは、日本打線はまったく打てなかった。 王監督が言ったように、ウィリアムスを投げさせない展開が望ましかったのに。
昨年の日本シリーズで解説者が言っていたが、ウィリアムスのようなタイプのピッチャーは、パリーグにはいない。 だからパリーグの選手がウィリアムスを打てなくても、何の不思議はない。 それは城島を見てもわかる。 昨年からまったくウィリアムスを打ててないのだ。 ここは、ウィリアムスといつも対戦しているセリーグの選手に、何とかしてもらいたかったのだが、 昨年ダイエーが優勝できたのは、福岡ドームの試合で、ウィリアムスを投げさせない展開が出来たからだ。 簡単に言えば、今回日本が負けた理由はそれが出来なかったからだ、ということになるだろう。
| 2004年08月23日(月) |
オリンピックで完徹だ |
【1】 今、夜中の3時である。 まだ起きている。 今日は、女子レスリングを見てから寝ようと思っていた。 が、それが終わると体操競技があるというではないか。 明日が休みなので、これは見ないわけにはいかない。 注目は、地元九州共立大の中野選手が登場する平行棒である。 とりあえず、今日はそれだけ見て寝ることにする。
【2】 今、夜中の3時50分である。 平行棒、冨田は惜しくも銀だった。 が、素人目だと、着地で揺れたトップの選手よりも、ノーミスだった冨田のほうがいいように見えたのだが…。 一方、ぼくの期待した中野は、残念ながらメダルに手が届かなかった。 とはいえ、3位の選手と比べても見劣りはしなかった。 いや、これもぼくには中野のほうが上に見えたのだ。 あの高さからの月面がどれだけ難しいものなのか、審査委員もわかっているだろうに。 しかし、そのへんはいろいろ決まり事があるのだろう。 深くせんさくしないことにする。
【3】 ところで、女子レスリングだが、金メダルを取った二人はともかく、ぼくが特に印象に残ったのは、2位の伊調姉のふてくされた顔と、3位の浜口の笑顔だった。 いくら順位が上だとはいえ、最後に負けて表彰台に上がるのと、一度は負けたものの最後に勝って表彰台に上がるのでは、こうも違うものなのだろうか。
田村亮子のオリンピック初出場はバルセロナ大会だったが、その時田村は銀メダルを取った。 初出場、しかもその時彼女は16歳だったから、銀は大健闘である。 ところが表彰台に上った田村は、笑顔一つ見せなかった。 それを見たその時の金メダリストは、「あなたは銀を取ったのに、どうして嬉しそうな顔をしないのか?」と訊いたというが、これが逆の立場だったら、その人も同じような顔をしたのではないだろうか。 格闘技で味わう敗北感は、他の競技とは比べものにならないほど強いものがある。 それは、格闘技の起源が戦(いくさ)にあるからだ。 つまり、負けは死を意味するということである。 そんな死に等しい敗北感を抱えたまま、表彰台に上がるのだから、選手はふてくされたくなるもなるだろう。 インタビュアーは大変である。 そんなふてくされた銀メダリストたちにも、「おめでとうございます」と言ってインタビューしなければならないのだから。 神経遣うだろうなあ…。
【4】 さて、そろそろ外の音がうるさくなってきた。 時計を見ると、もう6時を過ぎている。 4時過ぎに一度寝かかったのだが、結局今まで起きていた。 午後からは野球もあることだし、このへんで寝るとするか。
城島と和田が抜けて以来、最初の頃こそ、それまでの勢いに乗ってホークスは連勝していたものの、今月9日の西武戦以降、いつも同じような負け方をするようになった。 どういう負け方かというと、投壊である。 序盤からコツコツと点を取られ、気がついたら取り返しのつかない点差になっていたとか、それまで調子よくひょいひょい投げていたピッチャーが、突然崩れて一気に大量得点を許すといったパターンである。
確かに今シーズンの序盤にもこういうことはあった。 そのために、カブレラのいない西武に首位の座を明け渡していたのだが、心配はなかった。 そのうち、いつものように今年の必勝スタイルが出来上がっていき、連勝しにくいチームになっていったのだ。 ところが、城島や和田が抜けたとたん、それが崩れた。 ワンパターンの配球、暴投やパスボールのオンパレード、守備のエラー…。 こういったことが影響して、打てなくなる。 まるで、10年ほど前の、万年Bクラス時代を見ているようである。
ピッチャーを生かすも殺すもキャッチャー次第、ということだろうが、だからこそぼくは反対だったのだ。 和田はともかく、城島を取られることが。 他のチーム、例えば西武などは、松坂がいなくなっただけだから、落としても2,3試合だろう。 それはピッチャー一人の空きでしかないわけだ。 しかし、ホークスの場合は、オリンピック中、全試合城島が抜けるわけだから、ピッチャーが半分、いや全部いなくなったのと同じことなのだ。
さて、そういうわけで、ここ数日、ぼくはテレビのプロ野球中継を見ていない。 会社帰りにいつも楽しみにしているラジオのホークス戦実況中継も、もちろん聴いていない。 昔を思い出して、嫌だからである。
では、ここ数日、会社帰りの車の中で何を聴いているのかと言えば、NHKラジオである。 聴いているのは、もちろんオリンピックである。 ところがである。 このラジオのオリンピック中継、野球や水泳や柔道は、ラジオでもどういう状況なのかはわかる。 しかし、一昨日の女子バレーボール日韓戦は、わかったのは得点だけで、試合状況については、「佐々木のサービスエース!!」以外はまったくわからなかった。 一応バレーボールのルールや日本選手の名前は知っているつもりだが、そこにボールが絡むと、中継は俄然わかりにくくなる。 それはきっと、しゃべるより速く試合が動くので、すべてが後追いに実況になってしまうからだろう。 その後追いをやっている間も試合は動いている。 そのため、後追いをやっている途中に、突然「決まりましたぁ!」と入ったりするのだ。 その上、選手名が多く出てくるものだから、頭の中でそのシーンが描けない。 駐車場に着いて、慌てて家の中に駆け込んでテレビをつけても、すでに試合は別の展開になっている。 結局、アナウンサーが興奮しながら絶叫していたシーンは、わからないままになってしまうのだ。 以前サッカーの試合をラジオで聴いたことがあるが、あの時も試合がイメージできなかった。 ラジオ中継に不向きなスポーツもあるということだろう。
それほど弱い学校だったということである。 ちなみに、なぜそれほど弱い学校が、全国大会なんかに出られたのかというと、実はこの金鷲旗全国高校柔道大会は全国大会とはいえ、応募さえすれば出ることが出来る大会なのだ。 だから、インターハイや国体に出ることの出来ないような学校、いや地方大会でいつも一回戦負けしているような学校でも、気軽に参加できたのだ。 この金鷲旗全国高校柔道大会は団体戦で、出場するのは1校5人、勝ち抜き戦形式で行われる。
さて試合の方だが、こちらの先鋒・次鋒・中堅は、相手先鋒に立て続けに投げられていった。 ぼくは次の副将だったのだが、前の3人が投げられるのを見てぼくは、「よし、おれが止めちゃる!」、などとは思わなかった。 なにせ、『目標は、電車に乗って試合場に行くことです』なのだから、そこまで勝ちを意識していなかった。 それに加えて、その時文化祭に出るためのバンドの練習の方に頭がいっていた。 そのため、とにかく早く試合を終えて帰りたかったのだ。 そんな気持ちしか持ち合わせてなかったので、当然のこと、試合に勝てるはずがない。 ところが、その試合、相手が疲れているせいもあって、わりといい試合になったのだった。
さすがに相手は日頃鍛えられているだけあって、技にそつがない。 一方ぼくのほうは、普段ろくに練習もしてないから、すでに息の上がっている状態である。 「相手にならん。こりゃまた負けるわい」 そう思った時だった。 相手は大外刈りを仕掛け、勝負をかけてきた。 普通ならここで倒れてしまい、一本を取られるか、さもなくば技有りを取られ押さえ込まれるパターンである。 ところがである。 なぜかその時に限ってぼくの体は、とっさにその技に反応したのだ。 相手の足をすかし、倒れ込みながら、相手の両足を払った。 ちょうど『谷落とし』のような形になったわけだ。 それも引きが強かったせいで、相手はこらえきれず倒れてしまった。 我が部員の「技有りっ!」という声が聞こえた。 が、審判の判定は「なし」だった。 結局その後、相手にいいように振り回され、寝技で一本を取られた。 これでぼくの柔道人生は終わった。
さて、その『谷落とし』だが、今の国際ルールだと確実に『有効』以上は取れている。 今回のオリンピックを見る限りでは、あれは『技有り』だった。 もしあの時『技有り』と判定されて、そのまま時間切れになり、ぼくが勝っていたとしたら、その後の人生はどうなっていただろう。 案外その勝利が自信になって、その後真剣に柔道家の道を歩み、オリンピックなんかに出ていたかもしれない。 それを考えると残念である。 ちょっと早く生まれてきすぎたかなあ。
ソウルオリンピックの時だったと思うが、日本があまりにメダルを取れなかったのを嘆き、次の歌を作ったことがある。 『まただめか オリンピックにケチがつく さすがにほんの 足は短し』 あのオリンピックで日本は、金メダルが4つだけというさんざんな結果だった。 その中でも特に調子の悪かったのが、お家芸の男子柔道だった。 来る日も来る日も金メダルは取れず、ようやく金を取ったのは、柔道最終日、95�堋教蕕寮篤�仁だった。 あの時、斉藤は表彰台上でわんわん泣いていた。 それだけプレッシャーがかかっていたのだろう。
今日、その斉藤の愛弟子である鈴木桂治が優勝した。 ソウル大会以来、実に16年ぶりのことだという。 その間、前回シドニー大会の篠原のような不運もあったから、今回の優勝は格別なものがある。
今大会を見てぼくが思ったことは、『やはり一本を取りに行く柔道は強い』ということだ。 鈴木だけではなく、今回の大会の日本人選手は、勝った選手も負けた選手もみな背筋を伸ばし、堂々と試合をしていた。 いくら小刻みにポイントを稼いでいっても、一本には勝てないのだ。 そのことを今回出場した外国の柔道関係者は、身にしみてわかったことだろう。
しかし、このごろの柔道は、「えっ、あんなので一本?」というのが実に多い。 ぼくは高校時代に柔道をやっていたのだが、その頃、『寝技を防いで立ち上がろうとしたところを押し倒して一本』などということはなかった。 そいうのは一本どころか、効果もとれなかったのだ。 それで一本になるのなら、ぼくは高校時代何勝もしていただろう。 なにせぼくは、相手を『投げる』よりも、『こかす』ほうが得意だったのだから。
今のところぼくの生涯最後の試合になっている、金鷲旗全国高校柔道大会でのこと。 うちの高校は一回戦で、あの山下泰裕のいた東海大相模に負けるまで勝ち進んだK高校と対戦した。 うちの高校は、こちらが言いもしないのに『目標は一回戦突破です』と地元の西日本新聞に書かれたほどの弱い学校だった。 普通の学校なら、こう書かれると「なにくそ!」と発憤するものだが、我が校柔道部に限ってはそんなことはなかった。 「しんた、おまえ『目標は一回戦突破です』とか言うたんか?」 「言うわけないやろ。記者が勝手にそう書いたんたい。おれなら、『目標は、電車に乗って試合場に行くことです』と言うわい」 「そうやろうのう、おまえならそう言うやろ。しかしおかしいのう、しんたの得意技が跳腰になっとるぞ」 「えっ、跳腰ちゃどんな技か?」 という会話が飛び交ったのだった。
会社に行ってからのこと。 荷出しをしている時だった。 「ちょっといい?」 という声がかかった。 お客さんだった。 「どうしたんですか?」 「いやね、今15センチくらいのムカデを見たんよ」 「どこで?」 「そこで」 と、お客さんは隣の売場を指さした。 ぼくはそこまで見に行った。 「このへんにいたんですか?」 「ああ、その隅からヒョコッと出てきた」 「そうですか」 「どうしてこんなところにムカデがおるんかなあ?」 「ムカデだけじゃないですよ。蛇もいるしイタチもいる。山ネズミさえ出てくるんですから」 「山ネズミ?ここは山じゃないじゃないか」 「いや、ここは山を切り開いた土地なんです。だから、いまだそういう生き物が住んでいるんですよ」 「そうか。まあ、どうでもいいけど、そういうのはちゃんと駆除してくれんと困る。早急にやってくれ」 『早急に』と言われても、相手が姿を見せないことには、こちらも手の打ちようがない。 が、とりあえず「わかりました」と言っておいた。
それから30分ほどたった時だった。 うちのパートさんが「しんたさーん」と呼んだ。 「どうした?」 「今ですねえ、ムカデがいたんです」 「どこに?」 「このカウンターの下です」 「えっ!?」 「もうすぐ出てきますよ」 「何か叩く物はないんか?」 ゴキブリの時と同じで、とっさの時に何も見あたらない。 仕方なく、カタログを置いてあるところに行き、そこにあったカタログを手にとった。 その時、「出てきましたよー」という声がしたので、慌ててカウンターに戻った。
体長15センチほどのムカデがそこにいた。 おそらく、先ほどお客さんが言っていたムカデだろう。 ぼくは手に持っているカタログを丸め、2,3発叩いた。 カタログは、ゴキブリを叩いた時のチラシよりは厚みがあった。 が、ムカデは堅いので、2,3発では死なない。 身をよじらせてもだえている。 そこでもう一撃を喰らわせた。 動きが止まった。 そこで、ぼくはそこにあったチリトリにムカデをすくい入れ、朝のゴキブリ同様トイレに行き、便器の中にムカデを放り込み、水を流した。 息を吹き返したムカデは、水の中でもがきながら、便器の中に吸い込まれていった。 「南無阿弥陀仏」 これで終わりである。
『ちっ、また殺生してしまったわい』 朝、殺生はこれで終わると思っていた。 が、続く時は続くものである。
昨日の夜のこと、オリンピックを見ていた嫁さんがギャーギャー騒ぎ出した。 「どうしたんか」と訊くと、「ゴキブリ」と言う。 見てみると、そこに薄汚れた大きなゴキブリがヨタヨタ歩いていた。 ここに越してきて7年になるが、ゴキブリを見るのは昨日が初めてだった。
嫁さんは新聞紙を手に持っていた。 それで叩くのだろうと思って見ていると、嫁さんはゴキブリの上に新聞紙をかぶせ、上から手で何度か押さえている。 「おまえ何しよるんか。そんな悠長なことしよったら逃げられるやろうが」 「いや、手応えあったよ」 と新聞紙をとってみせた。 「あっ…?」 「おらんやないか」 「ちゃんと叩いたはずなのに」 「逃げられたんたい。ゴキブリは新聞紙丸めてバシッと叩かな」
そのゴキブリは、夕方の大雨でどこかから紛れ込んで来たのだと思う。 そのため今はおそらく一匹しかいないだろう。 が、このまま放っておくと居着いてしまい、数が増えていく。 そこで、ゴキブリが逃げそうなところ数ヶ所に殺虫剤を撒いておいた。
翌朝、つまり今朝、ぼくがネットでニュースを見ている時だった。 突然嫁さんが「しんちゃん、おった」と叫んだ。 ぼくは、その時ゴキブリのことを忘れていた。 『バカが何を騒ぎよるんか』と思いながらそこに行ってみた。 「何がおったんか?」 「昨日のゴキブリよ」 「ああ、そうやったのう。で、どこにおるんか?」 「そこそこ」 と、嫁さんはリビングのドア付近を指さした。 見てみると、そこに昨日の薄汚れた大きなゴキブリがいた。
ぼくは嫁さんにゴキブリを見張らせておき、叩く物を探した。 ところが、あいにくそこにはチラシ数枚しかなかった。 仕方なくそのチラシを丸め、ゴキブリに一撃を喰らわした。 が、チラシ数枚では、ゴキブリをびっくりさせるくらいの効果しかない。 ゴキブリは懸命に逃げようとする。 が、すでにコーナーに追いつめているため逃げ場がない。 そこで2発目を喰らわせた。 ゴキブリは仰向けに倒れた。 ぼくはすかさず、手に持ったチラシの上にゴキブリを乗せ、そのままトイレに持って行った。 便器の中にゴキブリを放り込み、水を流した。 ゴキブリは水の中でもがきながら、吸い込まれていった。 「南無阿弥陀仏」 これで終わりである。 今後、天変地異でもない限り、ゴキブリはしろげしんた家には現れないだろう。
会社に行く準備をしながら、『ちっ、朝から殺生してしまったわい』と思っていた。 『殺生』、あまりいい気持ちはしない。 そこで、『あれはあれで、ゴキブリの持つ運命だったのだろう』と思うことにした。
オリンピックの野球を見ていてふと思った。 もちろん日本に勝ってもらいたいのだが、そういう思いより、ひいきのチームの選手に活躍してもらいたいという思いのほうが強いのだ。 それはオールスター戦の時とよく似ている。 ぼくの場合のひいきのチームは地元の福岡ダイエーホークスだが、城島や和田の活躍が、他のどの選手の活躍よりもうれしい。
それは昨日の体操でもいえることだ。 富田や塚原という実力ある選手がいるものの、やはりテレビでは最年少の中野選手を追ってしまう。 彼は現在、うちの近くにある九州共立大体操部に所属しているのだ。 昨日の金メダル獲得で、地元の百貨店井筒屋にはきっと『中野選手、金メダル獲得おめでとう』の垂れ幕が出るはずだ。
地元のメダリストといえば、メキシコ大会の時にマラソンで銀メダルを獲得した君原健二選手がいる。 実は、ぼくはこの君原選手と競争したことがあるのだ。 と言っても、こちらが一方的にそう思っているだけで、君原さんはぼくのことなんか知らないだろうが。
新日鐵勤務していた頃の君原選手は、社宅から会社までマラソン通勤をしていた。 その通勤途上にぼくの通った高校があった。 高校時代ぼくは柔道部に所属していたのだが、その練習中、窓の外を一人のおっさんが人が走っていた。 それを見ていた部員の一人が、「おい、あれ君原やないんか?」と言った。 「え、君原!?」 ぼくたちは練習そっちのけで、外に飛び出し、君原を追いかけた。 が、ぼくたちがその途上に出た時には、君原選手はすでに遙か彼方を走っていた。 数百メートルほど全力疾走で追いかけたのだが、その差は広がっていくばかりで、最後には君原選手の姿は見えなくなった。 「くそー、今度は負けんわい」と思ったが、それ以降その時間に君原選手を見ることはなくなった。
以前、ノルディック複合の荻原選手(弟の方だったか?)が言っていたが、「日本人は試合で負けると勝つために練習をするが、外国人は試合に負けると勝つためにルールを変える」というようなことを言っていた。 かつて日本のお家芸とまで言われたスポーツが、このところ全く振るわなくなっているが、その理由の一つに、このルール改正というのがある。 女子バレーボールしかり、男子体操しかり、冬季も入れると前述のノルディック複合もしかりである。 やはり国際的には圧倒的に白人優位なのだ。
いつのオリンピックだったか、男子体操の森末選手が鉄棒で金メダルを取ったことがる。 その時、森末はフィニッシュで大技をやる予定だったらしいが、急遽それを変更して、着地時の乱れが少ない後方伸身2回宙返りを使った。 森末は例のごとく、満面の笑みを浮かべ、それがパーフェクト演技であることをアピールした。 結果は10点満点だった。
先に書いたとおり、森末はこれで金メダル奪取したわけだが、東京大会以来、ずっとオリンピックの体操を見てきた世代にとっては、何か一つ物足りなかった、に違いない。 なぜなら、そういう人たちは、山下跳びや月面宙返りなど、日本人が編み出してきたウルトラC技をリアルタイムで見てきたからである。 とりわけて塚原光男の、ミュンヘン大会で初めて披露した月面宙返りは凄かった。 あの大技が決まった時、会場は一瞬シーンとなった。 その後会場内に嵐のような拍手や歓声が起こった。 もちろんスタンディングオベーションである。 翌日の新聞では、一面にでかでかとストロボ写真が掲載された。 この大技『後方抱え込み宙返り2分の1ひねり、前方抱え込み宙返り2分の1ひねり』は、ぼくたちの間で流行語になったくらいだ。
その後体操競技は、そういった華やかな技よりも、着地の乱れの少なさなどで得点を争うという、ネガティブなものになった。 着地の時、半歩でも足が前に出ると減点されるのだ。 月面宙返りのような大技は、着地が非常に難しい。 塚原もミュンヘンの時は足が半歩出ていた。 が、その時の、塚原の得点は当時最高の9.90だった。 一方の森末は10点満点。 あれだけの大技よりも、着地で乱れない、というより見た目が楽しくない後方伸身2回宙返りのほうが点が高いという時代になってしまったのだ。 もし森末の時代に、塚原が初めて月面宙返りをやっていたとしたら、おそらく9.50くらいしかでなかったのではないだろうか? もはや技の時代ではなくなっていたのだ。 と同時に、これが技のデパートであった日本男子体操陣の、衰退の始まりだった。 おそらくその原因は、日本人が不利になるようなルール改正が行われたからだろう。
と、ここまで書いたところで、携帯に速報が入ってきた。 『体操男子団体で日本が1976年モントリオール大会以来6大会ぶりの金メダル』(時事通信) 久しぶりのお家芸復活である。 この速報を見た時、ぼくは思わず「うおーっ」と吠えていた。 しかし冷静に考えると、これも手放しでは喜べない。 またルールが変わるだろうからだ。
【支那を黙らせろ!!】 8月15日に聞く君が代は、また格別な味がある。 谷・野村・内柴各選手のオリンピック優勝は、戦没者に対して、最高の供養となっただろう。 相変わらず支那は、政府高官の靖国参拝について、ヤジを飛ばしているが、言いたい奴には言わせておけばいい。 仮に靖国参拝をやめたとしても、あの国は何かにつけ我が国に因縁をふっかけてくるのだから。 まあ、嫁いびりみたいなものですな。 実に女々しい民族である。
【野村はどうなってるんだ!?】 さて、ぼくの家は、地元の西日本新聞をとっているのだが、今日の朝刊を見て驚いた。(平成16年8月15日号その1) 地元出身の谷亮子が一面トップなのはわかる。 2連覇も確かにすごい。 が、オリンピック3連覇の偉業を達成した野村の、この扱いはなんなんだ!? 他の新聞にはもっと大きく扱っていたぞ。 さらに個人的な趣味から言わせてもらえば、谷亮子の優勝は確かにめでたいことだが、朝からどアップで見たくないわい。 しかも、メダルに「チュッ!」である。 宿舎に帰って、旦那とやってろ。
【いいかげんにしろ、北九州市】 うちのマンションは、なぜか市政だよりが入るのが遅い。 市政だより毎月1日と15日に市が発行するのだが、周辺の団地にはその2〜3日前くらいにポストに入っている。 だが、うちのマンションは違う。 早くてその日、遅い時は3日後になることもある。 一度、何かの催し物のお知らせが、市政だよりに載っていたことがある。 ところが、それが届いた時にはすでに開催日を過ぎていたということがあった。 まあ、大した催し物ではなかったので、気にはならなかったのだが、もしそれがぼくにとって大切なことだったとしたら、頭に来ていただろう。
さて、その市政だよりであるが、例のごとく期日通り今日ポストに入っていた。 その記事を見て唖然とした。(平成16年8月15日号その2) 一面に踊るハングル。 何かと思って見てみると、釜山市の紹介である。 それも5ページも費やして。 ところがそれは、行政がよくやるような歴史や地理の紹介ではない。 もちろん名所旧跡のことは書いてある。 だが、それはほんの少しで、そのページの多くを費やしているのは、ショッピングやグルメ、そしてデートスポットの紹介なのである。 これでは、旅行会社が発行しているパンフレットと、何ら変わらないではないか。 いつから北九州市は旅行会社になったのだろう。 というより、いつからかの国の手先になったのだろう。 こういうことを書かせているのが誰なのかということを、市民はよく知っている。 こんな下らんことに貴重な紙面を使うよりも、なぜ在日外国人に参政権を与える方向に進むようになったのか、そのへんを市民にちゃんと説明すべきである。
今日は閉店処理に手間取り、会社を出るのが若干遅くなった。 それに加えて、友人の初盆で実家に帰っていた嫁さんを迎えに行かなければならなかった。 そのため、家に帰り着いたのは午後10時を回っていた。
それから食事である。 今日は遅いのでというので、晩飯はビール・餃子・ソーメンという簡単なものですませることにした。 しかし、最近の餃子はおいしい。 冷凍物ではあるが、そのへんのラーメン屋にあるような餃子よりずっとおいしい。 ぼくの中のランキングで行くと、1位である黒崎の『鉄なべ』の次に来る。 3位以下はというと、残念ながらない。
さて、その後で日記を書こうかと思っていたが、今夜はオリンピックで野村や谷の決勝がある。 これを見ないわけにはいかない。 ということで、テレビの前にじっとかじりついていた。 毎週嫁さんが見ている『冬のソナタ』は、オリンピック放送終了後になるということなので、邪魔されずにすむ。
というところで、試合開始である。 最初は夜も遅いということもあり、静かに観戦していたが、さすがに優勝が決まった時には、「やったー!」と大声を張り上げ拍手をしていた。 結局、二人の表彰式まで見てしまったので、テレビを見終わったのは12時を過ぎていた。
しかし、君が代は何度聞いてもいい歌である。 それと同時に日の丸はいい旗である。 こういう国際的なイベントの場での君が代や日の丸は最高である。 毎年卒業や入学のシーズンになると、君が代や日の丸が問題になるが、いったい誰が問題にしているのだろう。 先のサッカーアジア杯にしてもそうだが、日本の観客は、みな起立して君が代を歌っていたではないか。 あれが普通の日本人の姿である。 おそらく君が代や日の丸を不快に思うのは、近隣の国の人たちと、その手先である一部の偏った日本人だけなのだろう。
さて、いよいよ始まったアテネオリンピックであるが、当分眠られない日々が続くなあ。 それに伴って、この日記の更新も遅くなるわけか…。
ここでようやく気がついた。 その目薬は、緩和されたような気にさせる薬で、決して症状を治す薬ではないということを。 「やはりアイボンしかない」と、ぼくは再び薬局に行き、アイボンを探した。 ところが、困ったことになった。 アイボンにはいろいろ種類があるのだ。 どれがいいのかわからない。 ぼくがそこで佇んでいると、パートさんがやってきた。 「アイボン? また、目が悪くなったんやね」 「うん」 「あらー、充血しとるやないね」 「さっきまで、充血はしてなかったんやけどねえ」 「アイボンなんかじゃだめ。抗菌目薬じゃないと」 「でも、ずっと以前こんなふうになった時、アイボンで治ったよ」 「でも、治りが遅かったやろ?」 「そう言われてみれば…」 「ほら、4月頃だったか、眼帯といっしょに目薬買ったよねえ。あれ、まだある?」 そういえば、今年の4月にまぶたが腫れたことがあった。(4月17日〜19日の日記参照) そうだった。その時抗菌目薬を買っていたのだ。 「確か家にあると思うけど」 「それなら、それ使ったらいい。わざわざ買うことないよ」 「そうやね。じゃあ買わん」
とは言ったものの、帰るまでにまだ時間はかなりある。 「やはりアイボンを買っておくか」 とは思ったが、パートさんに「買わん」宣言をした建て前上、買うわけにはいかない。 仕方なく、朝方買った目薬で「緩和された気分」に浸ることにした。
家に帰ったのは午後10時を回っていた。 鏡を見ると、目は真っ赤になっている。 それに伴ってか、かなり痛い。 ぼくはさっそくすぐに手を洗い、抗菌目薬を差した。 しみる。 しばらく目を閉じていた。 3分ほどして、痛みが引いたような感触があったので、目を開け再び鏡をのぞき込んだ。 相変わらず、目は真っ赤である。 「抗菌目薬でもだめか」 と、諦めかけた時だった。 まぶたの奥で、朝から居座っているコロコロが動いた。 動くというよりは、暴れ回っているように感じる。 それがだんだん大きくなっているような気さえする。 その状態が1分ほど続いた後、コロコロが目に刺さるような感触があった。 「痛いっ!」 そうぼくが叫んだ時だった。 目から何かが落ちたような気がした。 それ以降コロコロはなくなり、それに伴って痛みも消え失せた。
【4】 「いったい何が原因だったんだろう?」 前日千石峡や皿倉山に行ったのだが、その時に流れた汗が目に入った記憶もないし、目をこすった覚えもない。 木陰を歩いたものの、途中で雨が降ったわけでもない。 まったくわけがわからない。 とはいえ、思い当たる節がないことはない。 それは、カーエアコンの風である。 普通通りにルーバーを上に向けていたのだが、なぜかその日はやたら風が目に当たった。 何度上を向けても、結果は同じだった。 もしかしたら、エアコン内にこびりついていた菌がエアコンの風で飛ばされて、ぼくの目に入ったのかもしれない。
【5】 さて、コロコロがなくなってから、ぼくは日記を書き始めたわけだが、まさか書き終わるまでに、3日も要するとは思わなかった。 この件に関して書くのは、もううんざりである。
ぼくの番が来た。 先生がぼくの前に立った。 その時だった。 ぼくは思わず「先生、切開せんで下さい」と言ってしまった。 すると先生は、「はっはっは、切開するかどうか、診てみらなわからんよ」と言い、医者はぼくの目に光を当てた。 「ああ、これはひどいねえ」 「えっ、切開ですか?」 「うーん、切開ねえ。それもいいけど…。しばらく様子を見ようか。目薬を渡しておくから、それで治らなかったら、もういっぺん来なさい。その時切開するから」 「えっ…」 と言ったものの、ぼくはホッとしていた。 治らなくても、そこに行きさえしなければ、切開されることがないからだ。
帰りに目薬をもらった。 だが、あまり効き目はなく、2日経ち3日経っても目は一向に良くなる気配がなかった。 かと言って、医者に行くのはごめんである。 何かいい方法はないものかと悩んだ末、出た結論が薬局に行っていい目薬を探すことだった。 ぼくはさっそく薬局に行った。 そこで目についたのがアイボンだった。 アイボンを見たとたん、「これで地道に目を洗っていけば治る」という予感がした。 さっそくアイボンを購入し、家に帰ってから何度も目を洗った。 予感通りであった。 ぼくの眼病は、アイボンを買ってから2日後に完治してしまったのだ。
【3】 「やはりアイボンを買うか」 ぼくは車の中で、そう考えていた。 会社に着いてから、すぐに薬局に行った。 ところが、そこで目移りしてしまった。 『異物感に効く』と書いた目薬を見つけたのだ。 価格もアイボンに比べると若干安い。 「これにしよう」とレジに持って行った。
さっそく休憩室に行き、目薬を差した。 心なしか、まぶたの裏のコロコロが緩和されたような気がする。 「やはり能書き通りだ。これを何度か差しているうちに良くなるだろう」 しかし、コロコロがなくなったわけではない。 しばらくすると、またコロコロが気になり出す。 そこで再び目薬を差す。 そんな繰り返しをしばらく続けていた。 ところがである。 トイレに行った時に鏡を見てみると、何と目が真っ赤に充血しているではないか。 それも片目どころか、両目ともにである。
【1】 今はかなり良くなっているが、今日は目がひどいことになっていた。 朝、目が覚めた時、何となく左のまぶたが重く感じた。 まあ、そういうことはよくあることだし、放っておけば自然に治るので、それほど気にしないでいた。 ところが、何分か後に、まぶたの裏がコロコロしだした。 まつげが立っているのかと思い、洗面所に行って鏡を見てみた。 確かに2,3本、細かいまつげが目の中にあった。 そこで、まつげを取り出し、水道水で目を洗った。 これで楽になったと思いきや、しばらくするとまたコロコロが始まった。 そうこうしているうちに出勤時間が来てしまったので、治療は一時中断することにした。 車の運転には支障はなかったが、やはり気になる。 それは、20年ほど前に、やはりまぶたの裏がコロコロして、大変な目にあったことがあるからだ。
【2】 20年ほど前のある日のこと。 ちょうど仕事が休みで、今の嫁さんとファミレスに食事に行くことになった。 ファミレスは家の近くにあったので、歩いていくことにしたのだが、その途中で雨が降り出した。 傘を取りに帰ろうかとも思ったが、空を見るとすぐにやみそうに見えたので、その道の脇に生えていた木の下で雨宿りすることにした。 しばらくしてから、雨は小降りになった。 「さてそろそろ行こうか」と、その場を離れようとした時だった。 木の葉から落ちてきたしずくが、目の中に入ったのだ。 すぐにしずくを拭ったが、それがいけなかったのだろう。
翌朝、何か目の中がコロコロする。 「おかしいな」とは思ったが、その時もしばらく放っておいた。 ところが、そのコロコロでだんだん目が充血してきたのだ。 しかもコロコロ感はかなりひどく、角膜を傷つけているような気がする。 「これはまずい」と思い、眼医者に行くことにした。
眼医者に行くのは、小学生の頃トラコーマの治療に行って以来のことだった。 「どういう治療をするのだろう」と周辺の治療イスを覗いてみると、何と隣の治療イスでまぶたの切開をやっているではないか。 ものもらいのようなものを切っていたのだが、切った瞬間に血が吹き出ている。 それを見てぼくは、「もし切開すると言われたら、絶対に断ろう」と思ったものだった。
『空の日記』にも書いたが、今日、新日本三大夜景の一つである皿倉山に行ってきた。 「新日本三大夜景」などと書くと、どこか遠くのように感じるが、うちのすぐそばである。 今日の新聞に『皿倉山灯籠まつり』をやっていると書いてあったので、行ってみる気になったのだ。 この祭りに行くのは、昨年に続いて2度目になる。 祭と言っても夜店が出ているわけではなく、ケーブルカー駅前の山道に約300個の灯籠がただつり下げられているだけの簡素なものだ。 だが、この祭はそれだけで充分なのである。 山道の静けさの中、灯籠の不器用な灯りと、そこにつり下げられたガラス風鈴の「からから」という乾いた音色が、幻想的な世界を醸し出す。 その雰囲気を味わいたかったわけだ。
昨年と同じく麓に車を停め、そこからケーブルカーに乗り山上駅まで行く。 祭はその駅前で行われているが、それは後回しにして、まず山頂へと行く。 山上駅から山頂までは歩いてもそう遠くない距離なのだが、夜景を満喫するためにリフトを選んだ。 このリフトに乗ると、足下に夜景が広がり、体が夜景の上に浮かんでいるような錯覚に陥る。 それほど街が近くにあるのだ。
さて、山頂に着き展望台に行ってみると、昨年同様に多くの人が展望台を埋め尽くしていた。 その隙間に割り込んで、さっそく街を見下してみた。 が、今日は何か霞んで見える。 」普段はもっと街の灯りがくっきりと見えるのだが」 そう思って空を見上げてみると、こちらも星が霞んで見える。 これも暑さのせいなのだろうか。 しかし、せっかく来たのである。 ぼくはその夜景を携帯のカメラに収めることにした。 ナイトモードに切り替え、何度かシャッターを切ったが、『空の日記』にあるような画しか撮れなかった。 これくらいの画を撮りたいと思っていたのだが、やはり無理だった。
その後、山上駅に戻り、幻想の世界に浸った。 下界の華やかな夜景をバックにした淡い灯籠の灯りは、もの悲しくもあった。 そろそろお盆である。
※ぼくが特に気に入った灯籠を紹介します。 これらの画を見ながら、「からから」というガラス風鈴の音を思い浮かべれば、もしかしたら幻想に浸れるかもしれませんよ。
【小日本】 昨日の話の続きだが、支那政府は子供たちに、教育を通して反日思想を植え付けた。 その成果が、今回のアジア杯での一連の行動だったわけだ。 ところで、もう一つ見落としてはならないことがある。 それは、支那政府は自国民に反日を植え付けながら、さらに日本人に自虐を植え付けたと言うことである。 かの国の手先は、我が国のあらゆる分野にはびこっている。 政界、官庁、法曹界、マスコミ、教育機関、宗教関係…。 そういった手先を利用して、支那人の反日に対して速やかに呼応する日本人を養成したのだ。 その結果が、今の日中関係だ。
ところで『小日本』という言い方だが、今までは『大日本帝国』を受けてそういっていると思っていた。 だが、最近、「そうではないのでは」と思うようになった。 では、どこから来ているのかというと、『倭』である。 『小日本』が日本の蔑称であるように、『倭』というのも蔑称であった。 『倭』というのは、『背が曲がった、背丈の低い小人』という意味である。 つまり支那人は、今でも日本人のことを小人と思っているのだ。 支那は昔から「我が一番」と思っている国であり、他国を蔑視するお国柄なのである。
【占いおじさん】 嫁さんの会社に、姓名判断専門の占いおじさんが出没しているらしい。 何でも、最近商売を始めたばかりらしく、あう人ごとに名前を見てやっているというのだ。 先日嫁さんも捕まり、名前を書かされたらしい。 「小さい頃だいぶ苦労されてますねえ。親兄弟との縁が薄かったでしょう?」 「小さい頃苦労はしてませんし、両親はいましたし、6人兄弟ですけど」 「いや、それは名前に出ているだけで…」
「おお、おたくの夫婦は珍しい」 「えっ?」 「普通は一方がゆがんでいたら他方はまっすぐなんですが、おたくたちはどちらもゆがんでいる。似たもの同士なんですよ」 さらに彼は続けた。 「あなたは家庭運がとてもいいですね」 「えっ、さっきと話が違うじゃないですか。親兄弟との縁が薄いんでしょ?」 「いや、それは子供の頃の話で、今後良くなるということです」 「そうなんですか」 「ほう、後家運が出ていますなあ」 「どうして家庭運が良くなるのに、後家運なんですか?」 「いや、それは…。ははは」
何が「ははは」だ。 ということは、ぼくは余命幾ばくもないということじゃないか。 では、ぼくの持って生まれた『長命運』は、いったいどこに行くのだろう。 あるパートさんは、この占いおじさんから「ご主人は、あと2,3年で死ぬでしょう」と言われたらしい。 占いの世界では、人の生き死にについて語るのはタブーとされている。 救いようもない悪運の持ち主に出会っても、希望を持たせてやるのが、占い師のつとめである。 このおやじ、占い師としては最低である。
【1】 支那の人たちが、「日清戦争以来の屈辱だ」だとか「対華二十一箇条以来の屈辱だ」だとか言ったかどうかは知らない。 かつてサッカーで韓国が日本に敗れた時、かの国の新聞に『韓日併合以来の屈辱』という見出しがあったと聞く。 ということは、旧宗主国の支那が言ったとしてもおかしくはない。 なぜなら双方とも中華思想の国、つまり似たもの同士だからである。
【2】 しかし、相変わらず支那人は支那人である。 何年経とうと、何十年経とうと、いや何百年経とうとその性格は変わらないだろう。 負けた腹いせに暴動を起こし、略奪を繰り返し、あげくにそれは日本のせいだと言う。 案外、50年後・100年後には尾ひれがついて、「その日、勝ちに乗じた小日本軍は北京市内に繰り出し、1000万人もの人民を虐殺した」という話になっているかもしれない。 そして、2004年8月7日を『北京大虐殺の日』と定め、街に記念館などを建てるだろう。 また、日本企業の進出は侵略、日本に行っている留学生は強制連行された人たち、密航者は拉致被害者となっていることだろう。 彼らはこういうことをネタに、人のいい日本人に脅しをかけ、金を巻き上げようとするだろう。 なぜそうなるのかというと、この先も支那人は支那人だからである。
【3】 儒教でよく『仁』『義』『礼』『智』『信』と言われているが、これは徳目をランク順に並べたものらしい。 かつて田中角栄は、周恩来と会見した際に、周から『言必信、行必果』という言葉を贈られ、大喜びしたと言われている。 『言必信、行必果』、論語の言葉である。 「言葉に偽りなく、やり始めたことは最後までやり通せ」という意味であるが、孔子曰く「最低でもそれが出来んようじゃ、『士』(政治家)とは呼べないなあ」である。 周恩来は角栄を最低の『士』、もしくはそれ以下に見ていたというわけだ。
【4】 さて、今回のサッカーアジア杯で、支那政府はサポーターに「礼儀ある観戦」を呼びかけた。 ということは、「オリンピックがあるんだから、せめて3番目の士であってくれ」と呼びかけたわけだ。 最低の徳目である『信』すらうかがえない、いや『信』の意味すら知らないような人たちである。 そんな人たちに、『礼』を唱えてもわかるわけがないではないか。
【5】 老子に、『大道廃れて仁義あり』という有名な言葉がある。 その最後にくる言葉が、『国家昏乱して貞臣あり』である。 「忠臣が現れるのは、国が乱れている証拠である」という意味だ。 昨日の試合後、サポーターたちは「愛国無罪」と言い張って、暴動を正当化しようとしていたという。 現れましたな、忠臣たちが。 国が乱れている証拠である。
| 2004年08月07日(土) |
『福岡ロッテホークス』なんて嫌だ |
今日ダイエーホークスはオリックスブルーウェーブに勝って、後半戦初の5連勝となった。 2位の西武も勝ったためゲーム差4,5は変わらないままだが、これでプレイオフマジックがまた一つ減った格好になった。
ところが、ホークスが好調になると、なぜか売却の話が出てくる。 昨年もそうだった。 いったいダイエーの主力3行は何を考えているのだろう。 昨年のホークス優勝の時は、優勝セールの効果を目の当たりにし、球団経営に対してある程度の評価をしていた。 ところが、自分の足下が危なくなると、さっそく「球団売却要請」である。 まあ、売却が避けられない現状であるなら、それも仕方がない。 が、それならそれでシーズン終了後にそういう話を出してほしいものだ。 この時期にこういう話を出すなんて、無粋以外の何ものでもない。
しかも、今回はロッテとの合併というおまけまで付いてきた。 ロッテとの合併、このことは近鉄とオリックスの合併話が出た時から、一部の週刊誌等では囁かれていた。 その後、西武堤オーナーの「もう一つの合併がある」という発言から、『ダイエー+ロッテ』が大っぴらに報じられることになる。 しかし、ダイエー側はこれを完全否定。 それを受け、ダイエーを除いた組み合わせを模索することになる。 が、選手会やファンの1リーグ制反対にあい、問題は暗礁に乗り上げたかに見えた。
ところが、今回主力3行の『ホークス売却要請』のおかげで、合併が俄然真実みを帯びてきた。 ダイエー本社は相変わらず否定の姿勢を貫いているが、速報などで『ロッテ、合併申し入れ』『ダイエー、球団売却確実』『福岡ロッテホークスに』などという記事が出るに至って、本社側の姿勢が虚勢以外の何ものでもないような気がしてきた。
しかし、ぼくは『福岡ロッテホークス』なんて反対である。 ライオンズ所沢移転のあとだったが、「ロッテ球団を福岡に」という声が上がったことがある。 たしか稲尾和久氏がロッテの監督を依頼された時に、この条件を出したことが口金になったと思うが。 だが、その時は実現しなかった。 おそらく、ロッテ側に「誰があんな採算のとれない場所に行くか」という思いがあったに違いない。 その後、ホークスが福岡に来て、今やパリーグ一の観客動員数を誇る球団にまで成長した。 これはすべてダイエーとファンの努力の結果である。 今更どの顔を下げて、ロッテはやってくるというのだろう。 その理由の一つである「福岡が韓国に近いから」だが、そんなことは大昔からわかっていたことじゃないか。 では、何で十数年前に来なかったのか。 要は、今なら採算がとれると踏んだからだ。 そう、他人のふんどしで相撲を取ろうという腹である。 こんなところにホークスを買い取ってほしくない。
ぼくの飲み友だちに、Kさんという人がいた。 その人は初代の時に、どの社員よりいい評価を受けていた。 トップは何かにつけ「Kちゃん、Kちゃん」で、彼が何か問題を起こしても、すべて不問にしていた。 ところが、二代目に変わってから、Kさんの評価は最悪のものになった。 Kさんはある部門の責任者をしていたのだが、二代目はそれを認めず、Kさんより年下の人間を、Kさんの上に据えた。 ここからKさんの転落が始まる。
Kさんは酒に溺れるようになり、いつも人事不省になるまで飲み続けていた。 ぼくも時々一緒に飲みに行ったりしたが、その荒れ方はひどかった。 気がつけば刃物を手にしていた、ということもしばしばあったようだ。 その後、会社から禁酒令を出されたKさんは、それを不服として会社を辞めてしまった。
徐々に牙を抜かれていく個性派集団。 その中には、自分かわいさに寝返る人間もいた。 以前は口を開くたびに会社の悪口を言っていた人間が、ある日突然トップのポチとなっていた。 親会社の社長の息子が開発したという、何の役にも立たない商品があった。 当然売れ行きが悪い。 そこで、「その商品をどう売っていくか」ということで会議が行われた。 会議中、突然その男が手を挙げた。 そして、「私に任せてください。責任を持って売りますので」と言った。 トップはその意気を買い、その男にすべてを任せた。
それをお客さんに売るのなら、別にどうということはなかった。 ところがである。 功を焦った彼は、何とその商品と契約書を持って店内を回り、社員一人一人に「会社のためやけ」と言って、無理矢理商品を売りつけようとしたのだ。 みんなは唖然とした。 それもそのはず、前の日までさんざん会社の悪口を言ってきた人間なのである。 同期の者は、『何が会社のためだ。おまえからそんな言葉を聞きたくない』と思って、ほとんどが買わなかった。 が、事情を知らない後輩たちは、泣く泣く買わされていたようだ。
その後、不正を強要するトップが現れたり、人を叩いて使うような前近代的なトップが現れたりした。 そのつど個性派集団は、牙を抜かれていく。 誰もしゃべらなくなった。 そして、笑わなくなった。 もはやヤル気を失っていたのだ。 そして五代目トップの時に、同期社員10数人が辞めた。 その中にぼくもいた。 みな会社に望みをなくしてしまったのだった。
その翌年、社員はみな親会社に籍を移した。 もはや、名前だけの会社になってしまったのだ。 そしてその6年後、創業してから19年後、その会社は終焉の時を迎えることになる。 かつては百数十人いた同期社員は、すでに8人しか残っていなかったという。 ちなみに、そのうちの二人はポチである。
さて、何がこの会社を潰したかだが、いろいろ経営的な問題があったかもしれない。 が、その背景には、経営陣と社員の間がしっくりいってなかった、ということがある。 創業から潰れるまで、トップは7人いた。 一癖も二癖もある人間ばかりだった。 つまり個性(トップ)と個性(社員)のぶつかり合いが、悪い方向に進んだのだ。
ぼくは前の会社に創業の頃からいた。 その頃は、各社員に「新しい会社を自分たちの手で作るんだ」という意気込みがあった。 そのおかげで仕事に対する充実感があった。 朝早く出ようが、帰りが午前を超えようが、そういうことは一向に苦にならなかった。 いや、苦にならないどころか、逆にそういうことを自慢していたくらいだ。 また、所得もかなり低かったのだが、これも我慢できた。 「今に人並み以上の収入を得られるようになる」 みな一様に、会社の将来を期待していたのだ。 当時の社員の平均年齢23,5歳、個性派揃いでいつも社内はいつもにぎやかだった。 が、人間関係はさほど悪くはなかった。
ところが、1年経ち2年経っていくうちに、だんだん状況が変わっていった。 いつまで経っても収入は上がらない。 それが会社不信に繋がっていく。 創業当初、いっしょに汗を流した仲間が一人減り二人減りしていった。 気がつけば、百数十人いた社員は半減していた。 会社にとっては、それはふるいにかけたということになり、プラスの要素だった。 しかし、戦力ダウンは、当然売上げに響いてくる。 不採算部門は次々と閉鎖、それがまた会社の魅力を損なうことになる。
その後、さらに社員数は減り、往時の3分の1の人員になった。 こうなると一人あたりの責任が重くなってくる。 個人単位での数字の追求が始まる。 いつしか会社は、「成績の悪い者は、自分で買え!」「売る気のない人は、辞めてもらってけっこうです」といった言葉を、普通に口にするようになった。 トップの威を借りた卑怯な上司は、かばうことをせずに、逆に口汚く部下を罵る。 会社の雰囲気は最悪なものとなった。
その状態に、さらに追い打ちをかけたのが、管理である。 初代のトップは、売上げ以外のことに関しては一切文句を言わなかった。 だから社員は、売上げの確保さえして入ればよかったのだ。 ところが二代目は違った。 それまで『是』とされていたものが、すべて『非』とされるようになったのだ。 この人は管理畑出身の人で、売上げよりも『収益』『売掛』『在庫』といった管理面を重視するタイプの人間だった。 そういうことに関しては実に細かかった。 そのために専門の調査員を雇ったりもした。 売上げがよかったらよかったで「裏で何かやっているんじゃないか」と穿さくするし、何か問題を起こせば全体朝礼の場で「悪人」呼ばわりするしで、社員はいつも戦々兢々としていた。
とにかく最近は、すぐに時間が経ってしまう。 今日も晩飯が終わってからパソコンの前に座り、ブログのデザインを変えたりしていたのだが、2時間経っても日記の方はまったく手つかずで、気がつけばもう翌日になってしまっていた。 今0時36分だが、これから日記を書く。
さて、ぼくがパソコンに向かっている時に嫁さんは何をしているのかというと、全然パソコンに興味のない人だから、もちろんぼくの部屋にいるわけではない。 だいたい居間で寝ころんで、テレビを見ている。
ここ数週間、嫁さんはBSでやっている『美しき日々』を見ていた。 ぼくが「また韓国のドラマ見よるんか?」と聞くと、嫁さんは「うん。これ面白いんよ」と言う。 「そんなドラマばかり見ていたら、キムチ臭くなってくるぞ」 「だって、『イ・ビョンホン』カッコいいんやもん」 「『ペ』よりもか?」 「わたし、ヨン様好きじゃないもん」 好きじゃないなら、『ヨン様』などと呼ばないでほしいものだ。 何度も言うようだが、『ペ』で充分である。
「前に中尾彬が言っていたけど、韓国のドラマは日本の30年前のドラマと同じらしいぞ」 「そうやろね。だってこれ、ヒロインが白血病なんよ」 「えっ? ということは、山口百恵の『赤い衝撃』と同じやないか」 「うん」 「だから、その頃青春やったおばさまに受けるんやのう。おばさまに」 「うるさいねえ」 「そういえば、ニュースで『韓国では日本のドラマの視聴率が悪い』とか言ってたけど、30年前のドラマが普通やけ、きっと30年先のドラマがわからんのやろうのう。それ考えると、日本のトレンディドラマを理解するために、韓国はあと20年の年月がいるということか」 「そうやろうね」
嫁さんによると、『美しき日々』は今日で終わったらしい。 ということは、明日からは韓国ドラマを見なくてすむわけだ。 これで録りだめしていたビデオが見られる。 この間スカパー!でやっていた『ゲロッパ』、先月の『朝まで生テレビ』、昨日の『ウォーターボーイ2』…。 ところが、である。 「これで、ようやく普通の生活に戻れる」と思っていると、嫁さんが「ねえ、しんちゃん。明日からまた新しいドラマが始まるっちゃね」と言った。 「ええっー!? また韓国かっ?」 「うん」
| 2004年08月03日(火) |
ジャニス・イアンを聴きに行く |
昨日の日記を書いた後、午後4時頃まで、これまで書いた日記をブログ版のほうに写していた。 それから風呂に入り、出かけた。 出かけた先は博多。 そう、今日が前々からこの日記でお知らせしておいた、ジャニス・イアンのステージの日なのだ。
午後5時に家を出た。 家の前からバスに乗って折尾駅まで行く。 途中渋滞はあったものの、何とか特急の時間に間に合った。 折尾から博多まで特急で行くと30分ほどで着く。 7時開演だから、会場のある天神には、ほどよい時間に着くことになる。
博多駅から地下鉄に乗り継ぎ、6時過ぎに天神に到着。 さて、そこからが問題だった。 だいたいの場所はつかんでいたので、「行けば何とかなるやろう」と思っていた。 が、何とかならなかった。 なにせ九州一の繁華街である。 かなりの店が立ち込んでいる。 そこから店を探し出すのは、至難の業だった。 そこでぼくは、旧友であるコルグの所長に電話をかけ、場所を聞いてみた。 さすがに地元の人はよく知っている。 場所はすぐにわかった。
ブルーノートには6時20分頃に入った。 すでにかなりの人が入っており、飲食しながらコンサートを待っていた。 予約はしていたものの、全席自由のため、すでにいい場所はとられている。 係が「どこにしましょうか?」と聞いてきたが、空いている場所はステージの横しかなかった。
席に着いてからしばらくして、客席から拍手が起こった。 小柄な女の人が一人、客席を通ってステージに上がって行った。 ジャニス・イアンだった。 いよいよ開演である。 「みなさんこんにちは」 コンサートはこの言葉で始まった。 一曲目を歌い終わり、二曲目に入った。 イントロで大拍手が起こる。 『ウィル・ユー・ダンス』である。 さすが大物、日本のミュージシャンのようにもったいつけるようなことはしない。 惜しげもなく、大ヒット曲を歌いだした。 その後、『ジェシー』『スターズ』など有名な曲を次々に歌う。 ぼくが一番望んでいた『フロム・ミー・トゥ・ユー』をやってくれた時には、思わず涙がこぼれたものだ。 ラストは『17歳の頃』だった。 そして、アンコールに『恋は盲目(ラブ・イズ・ブラインド)』を持ってきた。 1時間半ほどのステージで、彼女は10曲ほど歌った。 すべて生ギター一本だった。
このコンサートの中で、彼女はいろいろ話をしていたが、ほとんど英語である。 ユーモアのセンスがあるのだろう、英語のわかる人は腹を抱えて笑っていた。 ところが、英語のわからない人には、何がおかしいのかがわからない。 しかし、彼女はプロである。 そういう人のために、日本の単語を交えて話をしてくれたのだ。 その話だけは、英語のわからないぼくにも何となく理解が出来た。 その単語とは、『うどん』であった。
昨日のこと。 売場で作業している時、天井の方に何かの気配を感じた。 ちょっと説明が難しいのだが、ぼくのいる売場の奥は、隣の店の休憩室になっている。 以前、うちの売場のバックヤードだったところを改造したのだ。 当初は店と部屋を仕切るだけだったのだが、なぜか休憩室用に天井をつけてしまった。 つまり休憩室の天井のさらに上に、うちの店の天井があるという格好だ。 そのため、ぼくの売場から見るとその部屋はカプセルのようになっている。 何かの気配を感じたのは、その天井と天井の間にある隙間からだった。 隙間と言っても6,70センチはあるから、空間と言ったほうがいいかもしれない。
さて、ぼくは最初、その気配を感じていたものの気にはしてなかった。 しかし、それが何度もなので、「いったい何がいるんだろう」とだんだん気になりだした。 そこで、次に気配がした時に見てみることにした。
それから3分ほどして、また気配がした。 素早くそこに目を移すと、そこには全長5センチほどの小さな生き物がいた。 天井の隅をトコトコと駆け回っている。 最初はネズミかなと思った。 だが、ネズミとは若干形が違っているようだし、色も違う。 ふと頭の中に、ある生物の名前が浮かんだ。 「ヤマネ」 確かそんな名前の動物がいたような気がする。 どんな動物なのか詳しくは覚えていない。 が、ネズミのようなものだったと思う。 『ヤマネ』というくらいだから、おそらく山の動物なのだろう 店は山の裾野に建っているから、そこに山の動物が紛れ込んで来たとしても、別段不思議なことはないし。 そんなことを考えているうちに、その生き物はどこかに行ってしまった。
しばらくして、また『ヤマネ?くん』は現れた。 今度はこちらを窺っている。 そしてまたどこかへ行った。 何度かそういうことを繰り返している。 その姿が実に愛くるしい。 そこで、ぼくはその姿をカメラに収めようと思い立った。
脚立を準備し、『ヤマネ?くん』が現れるのを待った。 しかし、待っているとなかなか現れないものである。 10分ほどが経過した。 しびれを切らしたぼくは、脚立に上り、『ヤマネ?くん』を探すことにした。 「いたいた」 『ヤマネ?くん』は奥の方を走り回っていた。 その姿を撮った。 が、あまりに小さくて、携帯の画面の中では点にしか見えない。 「もっと近づいてくれんかのう」と、ぼくは『ヤマネ?くん』に呼びかけた。 すると、『ヤマネ?くん』はその声に反応したのか、こちらに近づいてきた。 そして、天井の一番手前までやってきた。 シャッターチャンスである。 ぼくは手を伸ばし、『ヤマネ?くん』の目の前に携帯を持って行った。 逃げない。 それどころか、『ヤマネ?くん』はポーズをつけているようにも思える。 そこでシャッターを切った。
家に帰ってから、さっそくネットで『ヤマネ』のことを調べてみた。 『齧歯(げつし)目ヤマネ科の哺乳類。体長七〜八センチ、尾長四〜五センチ。体つきは丸く、灰茶色で背に黒い縦線が一本あり、尾に長毛がある。山林にすみ、樹上性で、果実・昆虫などを食べる。冬は木の穴などで冬眠する。日本特産種で、本州・四国・九州に分布。』(Yahoo!辞書) どうやら『ヤマネ?くん』は『ヤマネ』ではないようだ。 『ヤマネ?くん』の尾には長毛なんかなく、ミミズのようなものだった。 やはり『ヤマネ?くん』はネズミだったのか。 しかし、茶系色のネズミというのを見たことがないし、動きもネズミのようではなかったし、妙に人なつっこかったし…。 どうも腑に落ちない。
 (ヤマネ?くん)
| 2004年08月01日(日) |
『ヨン様』と呼ぶな! |
会社の帰り、ぼくはいつも実家に寄っている。 嫁さんの帰りがいつも遅いから、そこで時間をつぶしているのだ。 実家に行けば、晩飯のおかずを調達できるし、少なくともジュースは出るので空腹を紛らわせることが出来る。 実に重宝である。
ところで、なぜぼくが嫁さんを迎えに行っているのかだが、嫁さんの会社の周りには駅やバス停がない。 しかも、嫁さんは運転免許を持っていない。 だからぼくがいつも迎えに行っているのだ。
普通は9時半頃に電話が入り、それから迎えに行くことになる。 家に戻るのは、だいたい10時過ぎになる。 昨日は特別遅かったから、家に着いたのは11時を過ぎていた。
今日は昨日とうって変わり、ぼくが実家に戻ってからすぐに電話が入った。 「仕事終わりました。お迎えお願いします」 さっそくぼくは迎えに行った。 まだ、おかずの調達をしてなかったので、嫁さんを連れてもう一度実家に行った。
母と嫁さんは、割と仲がいい。 基本的によく似た性格をしているので、きっと分かり合える部分があるのだろう。 が、一番大きな要因は、母が男のぼくを見限っているというところにある。 ぼくが独身時代、よく母は「子供は女に限る。男は何も役に立たん」と、母の友人たちにこぼしていた。 そのため、ぼくが結婚した時の喜びようと言ったらなかった。 それ以来、母は何かあると、嫁さんだけを呼んで食事したり、買い物に行ったりしている。 母は嫁さんのことを人に紹介する時、決して「息子の嫁です」とは言わない。 「娘です」と言って紹介しているのだ。
さて、今日のこと。 実家に戻ってから、ぼくは腹が痛かったので、すぐにトイレに駆け込んだ。 しばらくして、トイレから出てくると、母と嫁さんが何やら盛り上がっている。 何の話かと思って聞き耳を立てていると、どうやら『冬のソナタ』の話のようだった。 母と嫁さんは、二人とも冬ソナにハマっているのだが、一度冬ソナを見ている嫁さんが、母にその後の展開を教えていたのだ。
「ちっ、また冬ソナか」 話について行けないぼくとしては面白くない。 そこで、試しに「あんな松尾貴史みたいな顔した奴が出とるドラマのどこがいいんね」と言ってみた。 すると、二人は声を荒げて「ヨン様のどこが松尾貴史ね」と言った。 「何が『ヨン様』か。『ペ』で充分たい。『ペ』で」 「ヨン様はヨン様やんねえ」と二人は顔を見合わせて言った。 もはや二人は、冷静さを失っているようである。
どうでもいいけど、早くしてほしい。 ぼくは腹が減ってたまらないのだ。
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