頑張る40代!plus

2004年04月30日(金) 好きな食べ物(ジャガイモ編)

小学生の頃まで、ジャガイモが大嫌いだった。
月に一度、給食でポテト状のジャガイモが出ていた。
塩と若干の青海苔を混ぜた程度のものだったのだが、それがジャガイモと合わなかったのか、変な味付けになっていた。
一度それを口にしたぼくは、あまりのまずさに二度とそれを食べようとは思わなかった。
そんなことがあり、ジャガイモ自体が嫌いになった。
それまでカレーは中に入っている野菜も残さずに全部平らげていたのに、それ以来ジャガイモだけは残すようになった。
ジャガイモ嫌いはその後ずっと続いた。

ところが、ある時からその嗜好が変わる。
それは、東京に出てからのことだった。
友人たちと居酒屋に行った時、誰かがジャガバターを注文した。
最初は『ゲッ、ジャガイモか』と思って無視していたが、友人があまりにおいしそうな顔をして食べているのを見て、「それおいしいんか?」と聞いてみた。
すると友人は「最高だぜ。ちょっと食べてみなよ」と言う。
「ジャガイモ好きじゃないけ」と、いったんは断った。
すると友人は「こんなにおいしいのに。騙されたと思って食べてみろよ」と言う。
そこでぼくは、そのジャガバターに箸を付け、恐る恐る口に運んだ。
一口目、あの給食を思い出して、鼻で息をすることをしなかった。
が、食べた後にバターのいい香りが鼻を包む。
二口目、今度は鼻で息をした。
サツマイモを食べているようだったが、甘みがないぶんバターの味が引き立ち、それがジャガイモの味と調和している。
思わず「おいしい」と口走った。
友人は「ほら、おいしいだろ」と言った。
「ジャガバターち、こんなにおいしかったんか」
「ジャガバターだけじゃない。ここは肉じゃがもおいしいよ」
「へえ、じゃあおれ、肉じゃが頼もう」
と、ぼくは肉じゃがを注文した。
これがまた絶品だった。

思うに、ぼくは元々ジャガイモが嫌いではなかったのだ。
たまたま味付けの悪い給食に出会っただけで、それが嫌いだったというだけの話だったわけだ。
その証拠に、それ以来ぼくはジャガイモの虜になったのだ。
飲みに行くと必ずジャガバターや肉じゃがを注文するし、マクドナルドやモスバーガーに行くと必ずフライドポテトを注文する。
毎日の弁当の中にも、必ずポテトを入れている。
今となっては、ジャガイモのない生活は考えられない。



2004年04月29日(木) 嫌いな食べ物

【グリーンピース】
何が嫌いと言って、『ピースご飯』ほど嫌いなものはない。
味は当然のこと、あの臭いもだめである。
ぼくが子供の頃、母はよく『ピースご飯』を作っていたのだが、もちろんぼくは食べなかった。
それを食べなかっただけではない。
その臭いのせいで食欲も失せ、『ピースご飯』が出た時には、何も食べなかった。
そのうち、食欲が失せるだけでなく、『ピースご飯』の臭いを嗅いだだけで、吐き気も催すようになった。

その後母は、ぼくの前ではピースご飯を作らなくなった。
が、ぼくが出張した時などには作っていたようで、ぼくが結婚する前に「今日、しんたがおらんけね、『ピースご飯』を作ったんよ。食べにお出で」と言って、嫁さんを呼んだことがあるらしい。
今でも、ぼくが飲み会に行っている時などには、二人で『ピースご飯』パーティをやっているようだ。
「どうして、しんたは『ピースご飯』が好かんとかねえ」
「そうですよ。こんなにおいしいのに」
きっと、食卓では、こういう会話がなされているはずだ。

『ピースご飯』が大嫌いだと書いたが、では、グリーンピース単体はどうなのかというと、やはり嫌いなのである。
チャーハンやオムライスには、決まってグリーンピースが混じっているが、そのたびにぼくは、それを一つ一つ拾って、灰皿の中に入れている。
皿の中に除けておけばよさそうなものだが、同じ皿の中にグリーンピースがあること自体許せないのだ。

どうしてそんなにグリーンピースが嫌いなのかはわからない。
かつては食べたことがあるのだから、決して食わず嫌いというわけでもない。
充分に吟味して、大っ嫌いになったのだ。

【ピーナッツ】
ぼくには、もう一つ嫌いなものがある。
それはピーナッツだ。
ピーナツを食べるのも嫌なら、ピーナッツ風味の食べ物も嫌である。
酒のつまみに、柿の種を小皿に盛って出されることがある。
が、もしその中にピーナッツが入っていたら、ぼくは手を付けない。

そういえば、小学校の頃、時々給食にピーナッツバターが出ていた。
クラスのほとんどは「お、今日はピーナッツバターやん」と言って喜んでパンに塗っていたが、ぼくは何も塗らずに食べていた。
「しんた、ピーナッツバター塗らんのか?」
「おう、こんなの塗って食えるか」
「じゃあ、くれ」
ぼくはいつもそれを人にあげていた。

ピーナツが嫌いなら、アーモンドやマカデミアンナッツなども嫌いなのかというと、そうではない。
特にアーモンドは大好きで、酒の席にアーモンドが出たら、一人で全部食べてしまい、ひんしゅくを買っている。
「‥‥お前なあ、ナッツ類だめやったんやなかったか」
「ピーナッツがだめなだけ。その他のナッツは大好きなんよ」

では、なぜピーナッツがだめなのか。
実は、ぼくは小学校に上がるまで、ピーナッツが大好きだった。
ある日のこと、親戚のおばちゃんが買ってきた落花生を一袋、一人で平らげてしまった。
ところが、それからしばらくたって、鼻血が出てきた。
鼻血が出るのはいつものことだったが、おばちゃんがそれを見て「ほーら、あんたが落花生を全部食べるけ、鼻血が出るんよ」と言った。
それを聞いて以来、ぼくはピーナッツがだめになったのだった。



2004年04月28日(水) 急患センター(後)

そうこうしているうちに、嫁さんの番が来た。
「お待たせしました。お入り下さい」
そこで医師は、通り一遍の診察をした後に言った。
「レントゲンを見る限り、骨には異常はないようですね」
整形外科医は、何かあると、すぐに骨折に結びつけたがるものである。
ところが、次の言葉に驚いた。
レントゲンで骨には異常がないと自分で言っているくせに、「では、『骨折の疑いがある』ということにしておきますので、整形外科に行って、その旨を話し、もう一度レントゲンを撮ってもらって下さい」と言ったのだ。
それを聞いて、ぼくは『こいつ自信がないのか』と思ったものだった。

医者が「どこか、かかりつけの整形外科はありますか?」と聞いた。
「いいえ」
かかりつけの整形外科があるほど、嫁さんは怪我をすることはない。
もちろんぼくにもない。
「いずれにしろ、明日整形外科に行って、レントゲンを撮ってもらって下さい。では、今日はギプスをしておきますので」
足をくじいたくらいでギプスはないだろう。
嫁さんが「ギプスをしないといけないんですか?」と聞くと、医者は「いちおう骨折の疑いがあるので、今日はこれで固定しておかないと。明日病院に行って、骨折でなければ外してけっこうです」

それを命じられた看護婦は、すぐにギプスを持ってきた。
ギプスをはめながら看護婦は言った。
「奥さんは松葉杖を突いたことありますか?」
「いいえ」
「ギプスをしていると不便でしょうから、松葉杖を3千円でお貸ししますので…。ああ、これは保証金です。松葉杖を返してもらったら、もちろんお金はお返ししますよ」

ギプスをし終わった後、看護婦は松葉杖を持ってきて、演技指導を始めた。
「こうやって、こうですね。じゃあ、やってみましょう」
嫁さんがやると、「ああ、お上手ですねえ。それでいいです。じゃあ、骨折の疑いが晴れるまで、これを使って下さい。いらなくなったら、持ってきて下さい。お金をお返ししますので」

その後手続きを終え、ぼくたちは急患センターを出た。
着いたのが9時前、出たのが11時だったので、およそ2時間急患センターにいたことになる。
帰りの車中、その2時間のことをいろいろ思い起こしていたのだが、その時、あることに気がついた。
それは、嫁さんは診察は受けたものの治療を受けてない、ということだった。
ギプスをして、松葉杖の指導を受けた以外、マッサージをするわけでも、湿布をするわけでもなかった。
あげくに「治療は整形外科で受けてくれ」と言う。
一体何のための急患センターなんだろうか。
あれでは、赤ん坊は泣きやまないし、じいさんの血圧は下がらないだろう。



2004年04月27日(火) 急患センター(中)

さすがに、30万以上の人口を抱える区の急患センターだけあって、かなりの人が来ている。
特に多いのが赤ちゃん連れだった。
待合室、診察室、レントゲン室など、至る所から赤ちゃんの泣き声がする。

次に多いのが、老人だった。
ぼくたちが座っているところに、老人の夫婦連れがやって来た。
じいさんのほうが悪いようで、待合室に置いてある血圧計で、何度も血圧を測っていたのだが、そのたびに文句を言っていた。
「あっ、また上が5上がっとる。おれは、だいたい血圧が低いんやけ、5も上がったらフラフラするやないか。何ですぐに診察してくれんとか!」
フラフラするならジッとしていればいいのに、血圧を測るたびに立ち上がって、待合室の中を「診察はまだか!?」と文句を言いながら歩き回っている。
見かねた看護婦が「今、一人診てますから、もう少しお待ち下さい。それが終わってから診察しますので。ね、そこに座って」となだめた。
じいさんは、その言葉で大人しくなった。
が、看護婦がいなくなると、また同じように「診察はまだか」と怒鳴りながら、待合室の中を歩き回っていた。

さて、嫁さんのほうだが、レントゲンを撮った後、待合室に戻り、診察を待っていた。
しかし、ぼくは面白くなかった。
赤ん坊の泣き声と、じいさんの怒号、異様に辛気くさい待合室。
元々病院嫌いなので、こういうことに耐えきれなかった。
そこで、遊ぶことにした。

ぼくは立ち上がって、おもむろに嫁さんの車いすのハンドルをとり、ゆっくりと壁際まで運んで行った。
嫁さんが「どこ行くと?」と聞いたので、ぼくは「今にわかる」と答えた。
そして、嫁さんを壁向きに置き、ぼくは元の席に戻った。
「何、これ。戻して」
「だめ」
「ねえ」
「うるさい。人様に顔をさらすんじゃねえ。しばらくそうしてろ」
「嫌っちゃ、戻して」
「病院内では静かにしろ」
そう言ってぼくは、入口にあった自動販売機まで、ジュースを買いに行った。

待合室に戻ってくると、嫁さんの後ろに看護婦が立って、「どうしたんですか?」などと聞いていた。
嫁さんは「主人がここに持ってきたんです」と言った。
看護婦はぼくの方を向き、「どうかしたんですか?」と聞いた。
そこでぼくは、「普段の行いが悪いから、反省させているんですよ」と答えた。
「かわいそうに。戻してやって下さいよ」
「いや、孤独が好きだから、そのままにしといてやって下さい」
すると、看護婦が、嫁さんの耳元で何か囁いた。
嫁さんは小声で、「いや、いつもこうなんですよ。意地が悪いから」と言っていた。



2004年04月26日(月) 急患センター(前)

嫁さんは姿勢が悪いせいか、時々変な歩き方になっている。
その影響からかどうかは知らないが、今朝、新聞を取りに行く時に足をくじいたらしい。
今日はお互い休みだったため、前々から計画していた、生鮮食品の即売に行き、近くのお寺に藤棚を見に行ったのだが、その時は別に変わったところはなかった。

ところが、夕方のこと。
突然「足が痛い」と言い出した。
ぼくが「どうしたんか?」と聞くと、「朝くじいたところが痛くなった」と言った。
「昼間はどうもなかったやん」
「うん、だんだん痛くなって」
とりあえず、湿布を貼って様子を見ることにした。

ぼくが風呂から上がった頃、いよいよひどくなったようで、立つことも出来なくなっていた。
「何なら、医者に行くか?」
「別に医者に行くほどのことは‥‥。いや、やっぱり連れて行って」
時間は8時を過ぎたところだった。
「この時間、開いとる病院あるかのう?」
「産業医大は開いとうよ」
「そうか」
ということで、家からさほど離れてない場所にある産業医大に向かった。

産業医大に着き、受付に行った。
事情を説明すると、受付の人は「通院されている方ですか?」と聞いた。
「いいえ、初めてですけど」
「すいませんが、ここは通院されている方だけしか診てないもので」
「じゃあ、どこに行ったらいいんですか?」
「急患センターの本部の電話番号を教えますから、そこで聞いて下さい」
受付の人から、電話番号を書いた紙を受け取り、病院を出てからそこに電話をかけた。

「どちらにお住まいですか?」
「八幡西区ですけど」
「ああ、八幡なら、市民病院で受け付けてますので、そちらに行って下さい」
市民病院は、八幡駅の近くにある。
産業医大からだと、車で20分はかかる。
ぼくは『足をくじいたくらいなんやけ、ここで診てくれればいいのに』と思いながら、市民病院に向かった。

市民病院に着き、受付に行くと、先方から「どうされましたか?」と聞いてきた。
さすがに急患慣れした対応だった。
嫁さんが事情を説明すると、受付の人は「では、こちらの書類に必要事項を書いて下さい」と言った。
嫁さんが書類を書いている時、受付が「あ、ご主人、奥様は立っているのが辛そうなので、入口にある車いすを持ってきて下さい」と言った。
「えっ、車いすですか?」
「ええ」
『足をくじいたぐらいで大げさな』と思いながらも、ぼくは車いすを持ってき、嫁さんをそこに座らせた。



2004年04月25日(日) 宿曜占星術

昨日、会社帰りに本屋に寄った。
毎週購読している週刊誌を買い忘れていたので、買いに行ったのだ。
週刊誌を買った後、時間が余ったため、しばらく本屋でブラブラしていた。
最初は新刊などを見ていたのだが、特に面白い本は見つからなかった。
そこで帰ろうとしたのだが、その時、一冊の本が目に飛び込んできた。

『宿曜占星術』というタイトルだった。
密教の占星術だということだ。
この本によると、人間というのは27種類の星に分けられるらしく、その星は生年月日で決定されるという。
ということで、その本では、その一つ一つの星の持つ意味を説明していた。

そこで、ぼくは自分の星を探し、そのページをめくってみた。
そこに書いてあったことは、ぼくは、かつては町内に必ず一人はいた、口やかましいおやじタイプの人間だということだった。
また、自分の中にいくつもの格言を持っている人だとも書いてあった。

ぼくは、気が乗らないとしゃべらないタイプの人間だから、普段は黙っていることが多い。
気が乗らないぼくしか見たことがない人は、おそらく無口な人間だと思っているにちがいない。
そういう人間のどこが「口やかましい」のだろう。
まあ、酒が入れば、かなり軽口になるので、もしかしたら「口やかましい」にはそういう意味も含まれるのかもしれない。

もう一つの格言は当てはまるだろう。
ぼくは確かに、いくつもの格言を持っている。
例えば、このサイトの冒頭にある、『いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう』なんかは、その最たるものである。

さて、この本を読んでいて、一つだけ「おっ!」と思ったことがあった。
それは、ぼくと同じ星生まれの有名人を見た時である。
ボブ・ディラン、吉田拓郎、矢沢永吉、司馬遼太郎、立川談志など、ぼくのお気に入りの人たちが多くいるのだ。
こういった人たちを、ぼくはたまたま好きになっていったのだが、そういう人たちに「同星のにおい」を感じたのかもしれない。
落ち着いてそういう人たちを見たり聴いたり出来るのも、きっとそのせいだろう。

もしかしたら、ぼくの日記が好きで見に来てくれている人も、同じ星なのかもしれない。
ぼくの星は「觜」だということです。



2004年04月24日(土) 夫婦の何気ない会話

「ねえ、この家、何かおるような気がせん?」
「おる? 何がおるんか? ネズミか? イタチか? ヘビか?」
「いや、そんなんじゃなくて…」
「そんなんじゃない? じゃあ、何か?」
「うん、幽霊とか…」
「幽霊? 何でこんなところにおるんか。ここはマンションの6階ぞ」
「そうよねえ。6階に幽霊なんかおらんよねえ」
「おう。幽霊っちゃ、地縛霊がほとんどなんやろ。6階は元々空間やないか。そこで人が死んだなんて考えにくい」
「そうよねえ」

「でも、何でそう思うんか?」
「いや、時々、寝ている時に、何かが窓から出て行くような気配があるんよねえ…」
「寝ている時っちゃ、何時頃か?」
「夜中やけど…。3時頃かねえ…」
「夜中の3時か」
「うん」
「それはおれやの」
「えっ?」
「それはおれっちゃ」
「はっ?」
「いつも、その時間になったら幽体離脱しよるけのう」
「幽体離脱したら、窓から出ると?」
「おう。体から抜け出した後に、窓から出ることあるのう」
「どこに行くと?」
「どこに行くかは決まってない。いつも意思とは違う方向に飛んで行くけ。この間行った所は、どこかの墓地やった」
「気味悪いねえ」
「墓地がか?」
「いや、幽体離脱とか」
「そんなことはない。誰でも知らんうちに幽体離脱しよると言うし」
「そういえば、そう聞くねえ」

「この間、寝とる時に、何かがおれの上をまたいで行ったけど、あれはきっとお前やろう」
「そうなん?」
「おう、間違いない」
「でも、そんな記憶ないけど」
「そんなもんなんよ。幽体離脱を自覚する人もおれば、せん人もおる、と言うことたい」
「そういうことか。でも、心配して損した。あれはしんちゃんやったんか」
「そういうこと」



2004年04月23日(金) 燃え尽き症候群

昨日に引き続き、何も出てこない。
ただパソコンの前に空しく座っている状態だ。
別に他のことをやっているわけではない。
ただ座っているだけである。

理由はわかっている。
燃え尽き症候群である。
ここ2週間近く、ずっと『月夜待』の録音にはまっていた。
慣れない機械をマニュアル片手に触ったり、やったこともないアレンジを自分なりに考えたり、思い通りに動かなくなっていた指を往時に戻そうと必死に動かしたり、出ない声を無理して出したりしていた。
結果的に失敗作が出来上がったわけだが、それでもその時は何かをやっているという充実感はあった。
しかし、それが終わった後に、何をやるか考えてなかった。
そのために、何に対しても興味が持てず、何をやっても中途半端で、変に老後のことばかり気になる、といった日々を過ごしているのだ。

喩えてみると、小学生時代の、運動会が終わった後の一週間と同じである。
ぼくは特に足が早いほうではなかったので、運動会自体は好きではなかった。
が、練習などで、普段つきあいのない他のクラスの連中と話すことが出来たり、何かやっているという充実感を味わったりと、けっこう楽しんでいたのだ。
しかし、運動会が終わると、そういう楽しみがなくなってしまう。
しかも、当時運動会は9月にやっていたので、次のイベントである冬休みまでは先が長い。
それまでずっと勉強の毎日かと思うと、嫌気がさしたものだった。
そのため、運動会が終わってから一週間は、遊びにも、もちろん勉強にも気合いが入らなかった。
「あーあ、面白くない」といつも、ため息をついていたものだった。
現在、その時と同じ状態なのだ。

さて、これをどうやって克服していこうか。
やはり、ギターを弾いていくしかないのか。
しかし、ギターだけでやる曲というのは出し尽くしたのだ。
他の曲をやろうと思えば、シンセサイザーなど他の楽器が必要になってくるのだが、結構な価格がするので、そうそう容易く手に入るものではない。
まあ、クレジットで買うという手もあるのだが、そこまでして買う価値も見当たらない。
いっそ、シンセサイザーを持った人を探して、バンドでも組むか。
他の興味も見当たらないことだし、今はその方法が一番だろう。
とは言え、バンドやるのも面倒だしなあ。
さて、どうしようか。



2004年04月22日(木) 書くこともなく

【月夜待の場所】
「月夜待はどこにあるのか?」
「月夜待はどんな所?」
「地名にはどういう由来があるのか?」
などという問いが寄せられた。

「月夜待はどこにあるのか?」
福岡県遠賀郡水巻町吉田にあります。
最寄り駅は、JR筑豊線東水巻駅です。

「月夜待はどんな所?」
ただの交差点です。
その交差点の周りには商店街があります。
その交差点の下に筑豊線が走っています。
以前、その東側にはボタ山がありましたが、今は整地され、近々分譲されると思われます。
そのまだ先には、何軒かのホテルがありますが、ぼくは利用したことがありません。

「地名にはどういう由来があるのか?」
水巻町民ではないので、よく知りません。
今度、そのへんに住んでいる友人に聞いておきます。


【素朴な疑問】
最近、新聞などを読んでいると、すでに人質事件の真相よりも、自己責任批判のほうに関心が移っているように思える。
というより、事件の真相はうやむやにして、論点を外圧の自己責任問題にすり替えようという意図さえ感じとれる。

ここ何日かのニュースやワイドショーで、例の演出があったとされるビデオの検証が行われている。
「ノー小泉、ノー小泉」、まるでデモのスローガンのような臭いセリフ。
カメラを向けられてから、初めて悲鳴を上げる女性・・・。
最初こそ緊張感を持って見ていたものの、最近はこの映像を見るたびに「何と平和な空間なんだ」と思うようになった。

ところで、ぼくには一つの疑問があるのだが、あのビデオを撮る時、武装グループは人質三人に、怯えたような動作をするように強要したという。
ということは、その時、あの三人は怯えてなかったということになりはしないだろうか。
泣いている者に対して、あえて「泣け」とは言わないように、怯えている者に対して、あえて「怯えろ」とは言わないはずだからだ。

もしかしたら、犯人側は、恐怖感が感じとれない三人を見て、「怯えろ」と言ったのかもしれない。
そこには、イラク人と日本人の怯えの表現の違いがあるのかもしれないが、もしそうなら、ビデオはイラク国内に向けて発信するのではないから、そこは日本人的怯えでよかったのではないだろうか。



2004年04月21日(水) 月夜待の月

 『月夜待』

 君に逢えれば こんなことだって
 忘れられると 思ったものさ
 笑い話に 君のことを
 歌ったことも 昔のことさ

 夢はいつも 美しいもので
 しあわせそうな 二つの影を
 映し出しては 消えていった
 あこがれては 思い悩み

  月夜待から 二つの道を
  選ぶいとまが 君との川で

 流れては 遠くなる恋を
 見つめては しあわせなんか
 こんなおれに くるもんかと
 つぶやきながら あおる酒よ

  月夜待から 二つの道が
  出逢うところで 君を夢見た

 いつか知らず 時は過ぎていった
 君に逢えるのは 夢の中だけと
 月夜待に かすかに浮かぶ
 月を見ては 君を想う 


16歳から25歳までの10年間、ぼくはずっと歌を作っていた。
最初の作った歌が、『怪獣になって』というつまらない歌だった。
それから200曲近くの歌を作ったのだが、その最後になったのが、この『月夜待』だった。
もちろん、その後も何曲かの歌を作ることは作ったが、それはその10年間に作った歌の焼き直しにすぎない。

なぜ25歳で歌作りをやめたのかというと、作る意義を失ったからである。
この日記に何度も書いているが、ぼくには高校1年から好きだった女の人がいた。
ずっと片思いで、途中何度も諦めようとしたのだが、結局諦められないでいた。
その想いが数々の歌になったわけだが、いよいよ諦めざるをえない時がやってきた。
風の噂で、彼女の結婚を聞いた時だった。

その頃には、もはや諦めてはいたものの、現実に結婚という言葉を聞いた時は、かなりのショックを受けたものだ。
それが25歳の時だった。

ぼくにとって歌というのは、彼女に対する強い想いを表現する術であり、またその想いに伴うストレスの解消であったのだ。
それゆえに、彼女を失ったぼくに、歌は不要なものとなってしまった。
それを実証するかのように、それからしばらくして、ぼくの興味は他のものへと移行する。

『月夜待』、
北九州市近郊にある地名である。
詩には書いているものの、ぼくは別にここで彼女を諦めたわけではない。
ただ、詩情溢れるこの地名に、ぼくの恋を乗せたかったのだ。
つまりこの曲は、16歳から25歳まで恋の遍歴を、ぼくなりにまとめた歌なのである。



2004年04月20日(火) 飲みごと

今日は、久しぶりに飲みごとがあった。
会社の新年会以外では、半年ぶりである。
20代から30代前半にかけて、ほとんど毎日のごとく飲み歩いていたのが、ここ数年は年間数えるほどしか飲みに行かなくなった。
現在やっている飲みごとと言えば、年数回やっている高校の同級会のようなものと、長崎屋でアルバイトをしていた頃いっしょに働いていたメンバーの集い、あとは会社の忘年会や新年会くらいである。

その理由は、もちろん車で通勤するようになったからということもあるのだが、最大の理由は飲みごとで楽しむことが出来なくなったからだ。
まあ、会社の催し物を除いては、気心知れた連中と飲むわけだし、毎回ゲストの登場があったりして、楽しいものである。

では何で楽しめなくなったのかというと、昔よくあった「しんちゃん、今日一杯やるか?」というやつに原因がある。
そういう飲みごとに行くと、決まって相手からグチを聞かされるのだ。
グチを言って発散している相手は、それなりに楽しんでいるのだろうが、こちらはたまったものではない。
面白くもない他人のグチを聞かされた上に、「ね、そう思うやろ!?」などと同意を求められる。
否定すると話が長引くので、適当に「うん、そうやね」と相づちを打ってやらなければならない。
こういう飲みごとは、実に疲れる。
一度や二度なら、そう気にもならなかっただろうが、毎回これだからやりきれなくなってしまった。

しかも、そういう人は、なぜか酒に弱いものである。
グチを言っているうちはまだいいのだが、だんだん酒に飲まれていき、しまいには人事不省に陥る。
介抱するこちらはたまったものではない。

そのうち、そういうお誘いは断るようになった。
「しんちゃん、今日一杯やるか?」
「え、今日ですか?残念ですねえ。今日は用があるんですよ」
「最近冷たくなったねえ」
「また今度誘って下さい」
これを何度かやっているうちに、相手もグチの発散先を変えていくようになる。

そういうことで、飲み会は、今の年数回に落ち着いたわけだ。
まあ、若干の寂しさはあるが、そのおかげで、夜の貴重な時間をこの日記に費やすことが出来るわけだから、良しとすることにするか。



2004年04月19日(月) 眼帯(後)

ところが、いったん疲れてしまった目の神経は、別に携帯を見なくても、目を開いているだけで疲労度が増す。
30分後、とうとう完全に頭痛になってしまった。
目の神経からくる頭痛は、普通の頭痛とは痛みの質が違う。
そのため、目を閉じてみたり、首筋を揉んでみたりしても、痛みが和らぐようなことはなく、かえってひどくなっていくように感じる。

そこで、眼帯を外すことを考えた。
しかし、せっかく購入し、初体験を楽しんでいた眼帯を、そうやすやすと外す気にはならない。
とにかく、慣れるまで待とう、ということになった。

それからしばらくしてからのこと。
倉庫から「商品が入荷したから移動してくれ」との連絡が入った。
行ってみると、かなりの量である。
台車で5往復はしなければならない。
困ったことになった。
台車を押している時に、もしバランスを崩すことがあったら、商品やお客さんに当てるかもしれない。
ただでさえぼくは台車の使い方が下手で、しょっちゅう什器に当てているのだ。
「しかたがない、台車を押している時だけでも、眼帯を外すか」
と、いったん眼帯を外した。

台車を押している間、眼帯はポケットの中に入れておいた。
ところが、3往復した時だった。
ポケットからはみ出ていた眼帯のひもが台車に引っかかり、そのまま床に落ちてしまったのだ。
ぼくは慌ててそれを拾おうとした。
ところが、焦ったせいで台車にぶつかってしまい、乗せている商品が眼帯の上に落ちてしまった。
そのせいで眼帯は破れてしまい、使い物にならなくなった。

結局眼帯は、目のためには何も役に立たなかった。
そればかりか、頭痛を呼び込んでしまう疫病神になってしまったのだ。

ということで、ぼくの眼帯初体験は、眼帯を買ってから3時間で終わってしまった。
後に残ったものは、ひどい頭痛だけだった。



2004年04月18日(日) 眼帯(中)

立ち上がった時にふらついてしまったのだ。
というより、危うく転ぶところだった。
体勢を整えてから歩き出したものの、どうもバランスがうまく取れない。
廊下の中央をまっすぐ歩いているつもりなのに、なぜか壁のほうに寄ってしまう。
荷物を避けたつもりなのに、なぜか体が触れる。
片目をつぶると遠近感がなくなるのは知っていたが、まさかバランスまで失うとは思ってもいなかった。
まあ、しばらく歩いているうちに、何とかバランスを保つコツを掴んだ。
が、それでも何かしっくり来ない。

そこで、通りがかりのパートさんに「眼帯した時、その目は開けとっていいんかねえ?」と聞いてみた。
パートさんは「いいですよ」と言った。
「やっぱりね。片目をつぶって歩くと、どうもバランスが取れんでねえ…」
「え、目をつぶってたんですか?(笑)」
「‥‥、ああ」
笑われてしまったが、聞いてみてよかった。
安心したぼくは、眼帯をした左目を開けた。
なるほど、目を開けると楽である。
これで一日乗り切れると思ったぼくは、接客したり、荷物を運んだり、携帯で遊んだりという普通どおりの行動を始めた。

ところが、しばらくしてからのこと。
今度は頭が痛くなってきた。
ぼくは熱気でのぼせると頭が痛くなるのだが、特に店の中が暑いわけではない。
頭痛の原因の一つになっている、夜更かしをしたわけでもない。

「おかしいなあ」と思い、いろいろと原因を考えてみた。
しかし思い当たることがない。
「ということは、原因はもしかして眼帯じゃないだろうか?」
という疑惑がぼくの頭の中をよぎった。
眼帯をしていても目は開いているわけである。
ということは、両目とも何かを見ているということだ。
眼帯をつけてない右目は、当然外を見ており、一方の左目は、眼帯の内側を見ているわけだ。
つまり、遠くと近くを同時に見ていたことになる。
そのために、目の神経が疲れてしまったのだ。
それに加えて、ぼくは暇があれば携帯の小さな文字を読んでいる。
それが、ただでさえ慣れないことをして疲れている神経に、追い打ちをかけ、頭痛に繋がったのだろう。
ということで、今日は携帯を見ないことにした。



2004年04月17日(土) 眼帯(前)

2,3日前から左目に違和感があった。
最初は目の中がコロコロとして気持ち悪かったのだが、ゴミか何かが入ったのだろうと思い、あまり気にはしなかった。
それからしばらくして、目を閉じた時、まぶたに熱を感じるようになった。
しかし、この時も「よくあること」と思って気にはしなかった。
ところが、それ以降、ちょくちょく目やにが出るようになった。
目薬を注すようになったのは、その時からだ。

そして今日。
朝起きると、上まぶたが重く感じる。
どうしたんだろうと鏡を見てみると、何と、上まぶたが赤く腫れ上がっているではないか。
見えにくいなどとことはないのだが、その部分が気になってしかたがない。
そこで、目薬を注した後に、まぶたを氷で冷やすことにした。
とは言え、今日は仕事だったので、家でゆっくり冷やすというわけにはいかない。
通勤途中、信号待ちの合間を利用して、氷をまぶたに当てていたのだ。
だが、腫れは引かなかった。

会社に着いてから、さっそく目薬を注そうとポケットを探ってみると、入ってない。
氷に気を取られて、家に忘れてきたのだ。
しかたなく、薬局に新しい目薬を買いに行った。
薬局に行くと、H先生はまだ来てなかった。
が、パートさんが来ていたので、その人に見てもらうことにした。
「すいません」
「あ、おはようございます。どうしたんですか?」
「目がちょっとねえ」
「目‥‥?あっ、ホントだ。二重が大きくなってますよ(笑)」
「そうやろ。これにいい目薬ある?」
パートさんは「まぶたの腫れだから、これですね」と、抗菌目薬を取り出した。
「じゃあ、それにする」と言った時、ふと『目薬だけじゃ、心許ないなあ』という思いがよぎった。
『心許ないか‥‥。そうだ、眼帯だ!』
ということで、眼帯もいっしょに買うことにした。

買ったばかりの目薬と眼帯を持って、ぼくは休憩室に行った。
そして、眼帯についていた消毒用のガーゼで目の周りを拭き、目薬を注した。
いよいよ眼帯の装着である。
ぼくは生まれてこの方、眼帯をつけたことがなく、今日が初めての体験だった。
ガーゼを目に当て、眼帯を装着した。
ひもの長さを調整して、さあ出来上がりだ。
たかが眼帯であるが、何せ初めてのことなので、妙に嬉しい気がする。
ところが、すべての作業が終わり、立ち上がった時だった。
その嬉しい気持ちが、一度に吹き飛んでしまったのだ。



2004年04月16日(金) 会話文

ぼくの日記を読んだ人から、よく「会話文が多いですね」と言われる。
「そうかなあ」と改めて日記を読んでみると、なるほど会話文が多い。
最近、この日記からエッセイに転載した『シャミン党一座』シリーズなどは、ほとんど会話文である。

そういえば、ぼくは小学生の頃から、作文によく会話を書いていたような気がする。
現物が残っていないので『よく書いていた』と断定は出来ないないのだが、印象に残っている作文は確かに会話文が多かった。

小学5年生の時、「ことわざを使った作文を書いてこい」という宿題が出たことがある。ぼくは元々人と同じ言葉を使うのが嫌いなたちなので、誰もが知らないようなことわざを使ってやろうと思い、わざわざ本屋に行って、ことわざ事典でそれを探した。
そして、「これは!」ということわざに出会った。
それは『勝って兜の緒を締めよ』だった。
そのことわざを見つけた時、「これを知っているやつは、まずいないだろう」と思ったものだ。
もちろん、ぼくもそのことわざを知らなかった。

そのことわざを、ぼくは陣地取りという鬼ごっこの一種に絡ませることにした。
作文には、敵陣とのやりとりを中心に書いたのだが、その文章のほとんどが会話文だった。
意図的にそうやったのではなく、ただ単に、途中の能書きを書くのが面倒だったからだ。文章としては全体にいい加減なものだった。
ことわざと言えば、最後に「こういうのを『勝って兜の緒を締めよ』というのだろう」と、とってつけたように書いただけで、そこまでの本文とはまったく関係のないものだった。
したがって、点数も大してよくなかった。
が、会話文が面白かったのか、クラスの笑いが取れたことに、ぼくは満足していた。

学生時代は、それ以降、作文を書くことがなくなった。
というより、小学6年生以降は、宿題をしていったことがないのだ。
当然、作文も書かなかったということになる。

久しぶりに作文を書いたのは、社会に出てからだった。
前にも書いたことだが、ぼくは約1ヶ月の間、出版社でライターの真似事をやっていたことがある。
その時、上司から「喫茶店をテーマにして、作文を書いてこい」と言われた。
そこでぼくは、当時よく通っていた喫茶店でのやりとりを書くことにした。
が、あいかわらず能書きを書くのが面倒に感じる。
そういうことで、その作文をすべて会話文で書くことにした。
ところが、上司はそれが気に入らなかった。
その作文を見たとたん、「おい、しんた。何かこれは。これのどこが作文なんか!?」と大声で怒鳴った。
よせばいいのに、ぼくは応戦した。
「どこがって、そのすべてが作文ですよ」
「誰一人、こんなわけのわからんことを書いてないぞ!」
「わけがわからん? ちゃんと喫茶店での日常会話を、文章にしているじゃないですか」
「おれは認めんぞ!!」
その時から、上司とぼくの確執が始まったのだった。

以上見てきたように、ぼくが会話文を多用するのは、能書きを書くのが面倒だからである。
しかし、面倒だからとは言え、こうやってホームページを張っている以上、そんないい加減な文章をお見せすることは出来ない。
そこで、会話文の行間に、意味を持たせることにした。
決してそれが確立したものだとは言えないが、ぼくなりに前向きな努力だけはしている。
ただ、それが伝わっているかどうかは、別問題ではある。



2004年04月15日(木) 新曲はまだです

先日、強烈な歌を登録すると書いたが、一昨日からその歌の録音を開始した。
ラジカセやMDでラフに録音するのは、5,6年ほど前までやっいた。
が、専用の機械を使っての録音は、実に15年ぶりのことである。
例の『生活習慣改善フォローアップ健診』から帰ってきて、パソコンの置いてある部屋(書斎と呼んでいる)に、録音機材をいっぱいに広げ、「さあ、開始しよう」とスイッチを入れた。
そこまではよかった、が、どうもうまくいかない。
録音機材はちょっと前に買ったやつを使っているのだが、実はこの機械、使ったことが一度しかないのだ。
そのため操作をまったく忘れてしまっている。
そこで取扱説明書を取り出し、説明を見ながらの録音となってしまった。
録音はただでさえ疲れるのに、説明書を見ながらとなると、なおさらである。

まあ、録音と言っても、別に難しいものを録音するわけではない。
あくまでもギター1本で弾き語るのが基本で、あとは申し訳程度に間奏を入れるくらいのものである。
しかし、それが機械以上にうまくいかないのだ。

とにかく、長年やってないもんで、どうもイメージ通りにいかない。
どこがイメージ通りではないかというと、まず、声の質が変わってしまったために、マイクを通した声が今までと違うということがあげられる。
そのため、違和感を感じてしまい、そこに気を取られてうまく録音出来ないのだ。
また、ここ10数年間、カラオケばかり歌ってきたせいで、いつしかカラオケ的な歌い方になってしまっているのだ。
そのため、ギターと歌との掛け合いがうまくいかない。
さらに、普段声を出していないため、息が続かなくなってしまっている。
そのくせ、無理して息を続かせようと頑張るために、声がとぎれとぎれになったり、声が裏返ったりしてしまうのだ。
やはり15年のブランクは大きい。
それに加えて、あまりやったことのない多重録音をしようとしている。

ということで、今回の録音にはどうも無理があるようだ。
早く録音して、早く休みたいので、気も焦っている。
しかし、今のぼくには、これ以上の技術は望めないから、ほどほどのところでやめることにしよう。
うまくいかなかったら、15年前の録音を上げてもいいし。

次の曲を聴かれる方へ一言。
「次の曲は、音の良さも望めないし、それをカバーする技術も望めません。したがって、次の曲は、しろげしんたのいい加減さを楽しむようにして下さい。 以上」



2004年04月14日(水) 続・生活習慣改善フォローアップ健診(後)

ところが、おばちゃん看護婦は、またしてもしゃべりかけてきた。
「ここにジュース飲まないって書いてあるけど、本当に何も飲まないの?」
「いや、酢と青汁は飲んでますよ」
「そう。お酢はいいのよねえ。私なんか、自分で作ってるんよ」
「そうですか」
「…あらっ、やっぱり高いよ」
「話しかけるからですよ。もう一度やって下さい」
「同じだと思うけどなあ」
「あのう、今度はデジタルじゃなく、手動でやってもらえませんか?」
「いいけど、結果は同じだと思うよ」

「いいですか、話しかけないで下さいね」
そう言って、ぼくは3度目の挑戦をした。
ところがこのおばちゃん、またしても話しかけてきたのである。
「ねえ、体重が減ったって書いてあるけど、前回と変わってないじゃない」
「そりゃ、前回は夏場にやったでしょ。今日みたいに着込んでなかったからです」
「ああ、そうか…。あ、そうそう私も体重減ったんよ」
勘弁してほしい。
誰も、おばちゃんの体重なんて聞いてない。
しかも、まだ測定中じゃないか。

案の定だめだった。
「やっぱり高いねえ」
「毎日家で測ってるけど、いつもは正常ですよ」
「ふーん、そう。じゃあ、今日は何回やってもだめな日なんよ」
そりゃそうだ。
このおばちゃんが測る限りだめだということは、ぼくでもわかる。
「じゃあ、お大事にね」
おばちゃんの声に送られながら、ぼくは部屋を出た。

さて、いよいよ最後の問診である。
あいにく先客がいた。
しかたなく、ぼくは部屋の前のイスに腰掛けていた。
「あーあ、早く帰りたいのになあ」と思いながら、問診票を何気なく見ていると、何と、その問診票はぼくのものではないではないか。
「あ、血圧の時だ!」
ぼくは慌てて、血圧の部屋に戻って行った。

「すいませーん」と言いながら部屋に入ると、その問診票の持ち主が困った顔をしていた。
若い看護婦が、「ありましたね。ああ、よかった」と言った。
例のおばちゃん看護婦が「ほーら、やっぱりあんたやったね」と笑いながら言い、さらに何か言おうとした。
このおばちゃんと関わるとろくなことはない。
問診票を交換して、「問診待たせてますから」と言って、そそくさとその部屋を飛び出した。

問診の場所に戻ると、看護婦がぼくを探しているところだった。
「おたくでしたよね?」
「はい」
「どうぞ」
中には若い医師がいた。
彼はぼくの胸や腹に聴診器を当て、「異常はありませんね」と言った。
その後ぼくの問診票を見ていたが、「ああ、尿酸値か。ちょっと高いだけじゃないですか」と言った。
ちょっと高いだけで、わざわざこんなところに呼ばないでほしいものである。
てっきり高い血圧のことに触れるかと思っていたが、そのことには触れなかった。

その部屋を出て時計を見ると、ここに来てから、すでに1時間以上経過している。
当初20分くらいだと思っていたのに、これで完全に予定が狂ってしまった。
それもこれも、おばちゃん看護婦のところで手間取ったためだ。

最後に受付に行き、問診票を渡す。
受付嬢は「はい、以上で終わりです。結果を楽しみにしておいて下さい」と言った。
尿酸値で悩んでいるなら結果も気になるだろうが、ぼくはまったくそのことを気にしてないのに、いったい何を楽しみにしろというのだろうか。
「楽みになんかしたくないわい」とつぶやいて、ぼくは健康センターを出た。



2004年04月13日(火) 続・生活習慣改善フォローアップ健診(前)

今日は嫁さんが仕事だったので、朝早く起きて会社まで送り、その足で例の生活習慣改善フォローアップ健診に行った。
さすがに朝早いせいか、人間ドックに入っている人以外の受診者はほとんどいない。
受付けで手続きを取る。
「生活習慣改善フォローアップ健診ですね。・・・。では、こちらからお呼びしますので、ロビーの方でお待ち下さい」
普段ならここで数十分待たされるのだが、今日は受診者が少ないせいで、すぐにお呼びがかかった。
「今日は尿酸の検査ですね。では、最初に採血して下さい」

採血の場所の案内を受け、ぼくはその場所に行った。
そこには若い看護婦が待っていた。
「腕を出してください」と言うので、ぼくは右腕を出した。
「そちらは利き腕ですよねえ?」
「そうですけど」
「じゃあ、左腕にしましょう」
ぼくは彼女に言われるまま、左腕を出した。
ところが、この看護婦、ずっとぼくの左腕をなで回すばかりで、なかなか針を刺そうとしない。
しばらくしてやっと口を開いた。
「あのう…。前回はどちらの腕でやりましたか?」
「右腕ですけど」
「じゃあ、右腕出してください」
どうもこの人は、ぼくの静脈の位置がわからないらしい。
こんなことは初めてである。
今までどちらの腕でやっても、すぐに採血してくれたものだ。
採血が終わった後で、左右の腕を見てみたが、左右ともあまり変わらない位置にあったので、素人のぼくでもどこが静脈かはすぐにわかった。

次に体重を量り、血圧測定に行かされた。
前日、遅くまで起きていたので、もしかしたら正常ではないかもしれない。
そんなことを思いながら、測定を受けていると、担当のおばちゃん看護婦が、突然「ありゃ、生活改善、何もやってないの?」とぼくに言った。
「やってますよ。ちゃんとそこにビールをやめた、と書いているでしょ」
「ああ、ビールやめたのね。で、今は何を飲んでるの・」
「焼酎です」
「それじゃあ、変わらないじゃないの」
「そんなことはないですよ。尿酸値はビールを飲むと高くなるんでしょ?」
「そりゃそうだけど…。あらっ、血圧高いねえ。前回よりずっと高いじゃないの?」
そりゃそうだろう。
血圧を測っている時に、しゃべってくる看護婦がどこにいるだろうか。
「話しかけるけですよ。もう一回やって下さい」
「じゃあ、もう一度測ってみるね」
「お願いします」



2004年04月12日(月) 生活習慣改善フォローアップ健診

明日、健康診断がある。
毎年9月に、定期的に行っているのだが、今回のそれは正規のものではなく、『生活習慣改善フォローアップ健診』という、長ったらしい名前の健康診断である。
これは再検査ではなく、定期の健康診断後に、どれだけ健康に関心を持ち、どれだけ改善に取り組んだかを調べるものだ。
例えば、ぼくの場合、定期の健康診断で、尿酸値が若干高いという結果が出ていたが、その結果に対し、それをどう受け止め、どう生活習慣を改善したかというのを、数値と軽い問診で調べるのだ。
要は、各自に健康数値という目標を持たせ、そこに目を向けさせた上で、ちゃっかり儲けようという健康センターの姑息な作戦である。

正直、迷惑な話である。
不摂生している人ならともかくも、ぼくは自分の健康には人一倍気を遣っているつもりだ。
なぜなら、病気になったりすると大嫌いな病院に行かなくてはならないからだ。
そこでもし入院することになったとしたら、この日記が書けなくななってしまう。
ぼくにとってこの日記は、すでに生活習慣になっているのだ。
いつも「今日の日記は何を書こうか?」なんて思っているし、晩飯のあとは体が自然にパソコンの前に向かうようになっている。
更新が遅れることはあるが、休もうなんて思ってはいない。
もし休むようなことになったら、心身のバランスを失い、それこそ病気になるだろう。

ところで、その尿酸値だが、前々回よりは下がっているのだ。
そのために、ぼくは尿酸値に影響のあるビールをやめ、焼酎や日本酒中心の生活に変えた。
さらに前回の健康診断以降は、毎朝青汁を飲み、毎晩黒酢を飲み、さらに寝る前には体操までやっている。
おかげで体重は6キロ下がり、腹回りの脂肪もかなり減ったのだ。
日記に、肩が痛いだの腰が痛いだの書いてはいるものの、それらはすべて疲労や寝不足からきたものであって、決して病気からきているものではない。

ぼくは、自分の健康は自分でちゃんと管理しているのだ。
寝不足で体調が悪くなれば、なるべく早く寝る努力をしているし、胃に痛みがあれば、なるべく胃に負担をかけないようにしている。
そういう人間に向かって、「生活を改善しましょう。出来たら、タバコもやめましょう」とは何ごとだ。

なるほどそこにいる人たちは、そういった専門の教育を受けている立派な人たちかもしれない。
が、所詮、数値でしか物事を判断できない人の集まりじゃないか。
「では、改善するためにはどうしたらいいか?」という問いには、「散歩がいいですよ」としか答えられないじゃないか。

健康の真の目的は、数値を標準にするのではなく、長生きすることにあるはずだ。
『生活習慣改善フォローアップ健診』などという、つまらないことで貴重な時間を無駄にさせるより、長生きの秘訣でもアドバイスしろよ。



2004年04月11日(日) プロは凄い

午前中のことである。
売場に立っていると、他の部門のパートさんから、すぐに来てほしいという連絡が入った。
「どうしたんだろう?」と思い、その売場に行ってみると、パートさんが困った顔をしてぼくのところに寄ってきた。
「どうしたん?」
「お客さんが、エンジンをかけようとしてキーを回した時に、キーが根元から折れたらしいんです」
「えっ、折れた?」
「はい」
「で、エンジンはかかったと?」
「いいえ。運転できないで困っているらしいんです」
「そりゃそうやろね」

ぼくは、車のことはまったくと言っていいほど疎いので、そういう場合どこに連絡していいのかもわからない。
そこで、車に詳しい人に助けを求めた。
ところが、その人も鍵のほうは知らないという。
「どうしようか?」と迷ったあげく、ぼくは知り合いの修理屋さんに電話をかけた。

「・・・、ということなんですよ」
「それは困ったねえ」
「誰かいい鍵屋さん知りませんか?」
「うちが取引している鍵屋さんがあるけ、そちらに頼んでみようかね」
「お願いします」
ということで、鍵屋さんに来てもらうことになった。

20分ほどして鍵屋さんはやって来た。
事情を話した後、失礼にも「取り出せるんですか?」と聞いてみた。
鍵屋さんは笑って、「まあ、やってみらんとわからんです」と言った。
その表情には、余裕が漂っていた。

鍵穴に鍵を突っ込んで、その根元が折れたとあっては、もうどうしようもないだろう。
ぼくの常識では、そういうものを直すということは不可能である。
シリンダを割って取り出すしか、方法はないじゃないか。
もしそれで取り出せたとしても、もうそのシリンダは使い物にならないだろう。
「ということは、鍵ごと交換するしかないか。これは高くつくぞ」

ところがである。
それからしばらくして、鍵屋さんは戻ってきた。
「やっぱり出来なかったんかなあ」などと思ていると、「はい」と何かをぼくに手渡した。
見てみると、何と、折れたキーの根元とその先の部分ではないか。
「ええっ!? 取れたんですか?」
「ちょっと難航したけど、何とか」
「おおーっ」
ぼくは息を呑んだ。
「凄いですねえ」
「ははは…」
鍵屋さんはこともなげに笑って、帰って行った。



2004年04月10日(土) よくわからん事件です

犯罪というのは、犯人が利益を得るために行うものである。
例えば誘拐。
若王寺さん事件がそうだったように、犯人はお金が目的であった。
例えば殺人。
金を得るために殺す者もいれば、精神的な欲求を満たすために殺す者もいる。
彼らは、そういう目的のために殺人を犯し、利益を得る。
犯罪は、利益の法則に動かされていると言ってもいいだろう。

そういったことを考えると、今回の事件は不可解である。
「自衛隊が我々の精神的な重圧になっているので、それを排除する」というのなら、利益の法則も成り立つだろう。
しかし、丸腰の自衛隊を撤退させることで、利益を得る、つまり精神的な重圧から解き放たれるイラク人が、果たしているのだろうか?
それ以外に考えられることと言えば‥‥。
宗教的な欲求が満たされることだろうか?
米軍にダメージを与え、より優位な立場に立つということだろうか?
それとも、金か?
まったくもってわからん。

ところで、事件発生からそう時間も経ってないのに、日本では各地でデモが行われている。
「待ってました」とばかりに、各地の市民団体なるものが動き出したのだ。
それにしても、この短時間に、よくあんなに人を集めたものだ。
まるでこの日にデモをやると、以前から決めていたかのようである。

さて、自衛隊を撤退させることで、利益を得るイラク人がいるのかどうかはわからないが、自衛隊を撤退させることで、利益を得る日本人がいることはわかる。
まさかそういう人たちが、今回の事件を仕組んだわけではないだろう。
が、不可解な事件であるがゆえに、「そういうこともあるのではないか」と、つい思ってしまう。



2004年04月09日(金) いつもこうである

【その1】
ぼくの受け持っている電器売場は、人員が少ない。
そのため、電器の売場でありながらもセルフ形式を取っており、接客というのは、お客さんから声をかけられた時くらいにしかしない。
この辺が、闇雲に販売スタッフの多い専門店とは違うところである。

そのかわりに、商品が入荷した時は、人数の少ない分、一人あたりの仕事量が多くなる。
そういう時に限って、お客さんから「すいません」と声がかかるのだ。
それも一人や二人ではない。
来る時は、一度に集中してくる。
その応対に、かなりの時間を要するのだ。

【その2】
ようやく『すいません』攻撃が終わり、「ああ疲れた。ちょっと息抜きにタバコでも吸ってこよう」と思い、売場を離れかけた時、決まって店内放送で「電話が入ってます」という呼び出しがかかるのだ。
受話器を取ると、取引先からで、別に電話しなくてもいいような内容である。
「はいはい、わかりました。その件は後で連絡します」
しかし、大した用ではないので、後で連絡したことはない。
希に連絡することがあっても、「えーっと、何の用でしたかねえ?」と返されることが多い。

【その3】
タバコを吸っている時にも、よく電話が入る。
それも火をつけて、すぐのことが多い。
これまた取引先からのことが多く、先ほどと似たり寄ったりの電話だ。
「悪いけど、今事務所におるんやけど。かけ直してくれん?」
先方は「はい、わかりました」と言うものの、大した用ではないので、かけ直してくることは、まずない。

【その4】
トイレに入っている時もそうである。
よく呼び出しを喰らう。
先日も話したかもしれないが、特に大の時が多い。
恥を忍んで「今から、大に行ってくるけ」と、わざわざ周りの部門の人に告げてから行っているのにである。
トイレの中で、「ちゃんと言ってから来たのに、何で呼ぶんかのう」と、一人でブツブツ言いながら、お尻を拭いている。
行ってみると、別に大した用ではないことが多い。
用が終わって、再びトイレに行っても、二度目は出ないのである。

【その5】
食事中にもそんなことがある。
前にいた店の時は、かけそばを出前で取ることが多かった。
休憩室で、「さあ、食べよう」と思っていると、呼び出しがかかる。
行ってみると、そこに取引先の人がいる。
「今、食事中やけ」と断るのだが、「いや、すぐ終わりますから」と相手は食い下がる。
しかし、すぐ終わったことは一度もない。
少なくとも30分は話していくのである。
ようやく解放されて、休憩室に行ってみると、そばはすでに伸びてしまっている。
今の店に移ってからは出前を取るようなことはなくなったが、それでもカップラーメンにお湯を入れた時に、呼び出しを喰らうことがある。
戻ってみると、カップラーメンはすでに伸びきって、雑炊のようになっている。



2004年04月08日(木) 用がある時、いつもそこには人がいる

【その1】
例えば、ある商品が入荷してきたとする。
さっそく出そうと思って、そこに商品を持って行ったところ、なぜか人が立っている。
おかげで、出すことが出来ずに、商品を持ったまま、その周りをウロウロしている。
いつもこうである。

例えば、本屋に行ったとする
そこで本を探していると、隣の棚にいい本がある。
ところが、なぜかそこに人が立っていて取れない。
いつもこうである。

例えば、キャッシュディスペンサー。
店には2つの銀行のキャッシュディスペンサーが置いてある。
給料日はそこでお金を下ろしているのだが、他の会社の給料日もその日のため、いつも長蛇の列が出来ている。
そこで、空いた時に行こうと思って、いつも売場からキャッシュディスペンサーのほうを見ている。
幸い、誰も並んでいない。
「今だ!」と思い、急いでそこに行く。
と、どこから現れたのか、もう人が立っている。
いつもこうである。
万事がこうである。
そう、ぼくはこういう運の持ち主なのである。

【その2】
今日、夕方少し暇になったので、薬局に行って、薬剤師のH先生と話をしていた。
先日も話したとおり、H先生は、ぼくの高校の先輩である。
高校の話から発展して、地元出身の有名人の話になった。
「そういえば、何年か前に、北九州が舞台になったNHKドラマがあったねえ」
「何年か前にあったNHKドラマ…?ああ、村田喜代子原作のやつですか」
「そうそう。で、その時の女優、誰やったかねえ?」
「栗原小巻でしょ」
「ああ、そうか。栗原小巻か。さっきパートさんとその話になってねえ。その女優の名前が出て来んやったんよ」
「そうなんですか」
「で、栗原小巻は、こっちの出身らしいね」
「そうやったですかねえ。お父さんは、ぼくの小学校の先輩だと聞いてますけど、娘もそうやったんですか?」
「そうよ。小さい頃こっちで育ったらしいよ」
「へえー」
「女優と言えば、黒崎出身の女優がおったねえ」
「ああ、いましたねえ。えーっと、誰やったか。顔はわかるんですけど。えーっと…」
そこにパートさんが戻ってきた。
先生がそのパートさんに「黒崎出身の女優、誰やったかねえ?」と言うと、パートさんは「またその話ですか?」と苦笑いした。
その後、三人で、その女優の名前を思い出そうとしたが、なかなか出てこない。
結局、名前が思い浮かばないままになってしまった。

こういう時、ぼくはムキになって思い出そうとする癖がある。
売場に戻ってから、しばらくそのことを考えていた。
『ああ、確か、下の名前は、みどりやった」
しかし、姓が出てこない。
ここで悪戦苦闘すること30分、ようやくその答えが落ちてきた。
「ああ、そうか。萩尾やった。萩尾みどりやった」
さっそく、喜び勇んで、薬局に報告に行った。
ところが、そこに人がいた。
どうも話が長引いているようだ。
しかたがないので、ぼくは売場に戻った。
そしてそのまま時間は過ぎていった。
結局、今日は報告出来ずに終わったのだ。
いつもこうである。



2004年04月07日(水) 深刻、寝不足問題

最近、また寝不足が続いている。
そのせいで、朝は「不機嫌そうな顔」(パートさん談)をして出勤するわ、仕事中は居眠りするわ、人とは話したくないわで、まったくペースが狂ってしまっている。

今日の昼食時のこと。
弁当を開いた後に、お茶を入れていた。
ところが、お茶を入れた先は湯飲みではなく、何と灰皿だった。
あふれ出してからようやく気づき、慌ててテーブルを拭いた。
が、ヤニの臭いが漂ってしまい、弁当の味がまずくなってしまった。
いったい何を考えていたのだろう。

昨日、布団に潜り込んだのは、午前3時だった。
それからしばらく寝つかれなかった。
うつらうつらし出すと夢を見る。
その夢でまた目が覚めてしまう。

いったいどんな夢を見ていたのかというと、幽体離脱をする夢だった。
幽体が肉体を抜け出すまではいいのだが、そのあとで「この壁を通り抜けてみよう」と試み、失敗する。
何度も何度も挑戦するのだが、やはりだめである。
そこでドロップキックの要領で、足から通り抜けようとしてみた。
すると、「ドーン」という音とともにはじき返された。
そこで目が覚めた。
どうも寝ながら足で壁を蹴ったようで、隣に寝ている嫁さんが目を覚まし、「今の音、何の音?」と聞いた。
ぼくは「知らん」と言って、再び目を閉じた。
ところが、また同じ夢を見るのだ。
先ほど壁を蹴って、かかとの部分を痛めていたのだが、その記憶が蘇り、再び目が覚める。
結局、完全に寝入るまで、かなりの時間を要したのだった。

さて、どうして寝不足なのかということだが、別に日記の更新のせいではない。
逆に日記は、影響を受けている方なのだ。
最近、どうも日記の更新が遅れがちになるのだが、その原因が寝不足なのである。
思考能力が低下してしまい、ちょっとした単語さえも思い浮かばないことがある。
その単語を思い出そうとして必死になってしまい、時間が過ぎて行くのだ。
一行書くのに、30分かかることも希ではない。

では、どうして寝不足なのかというと、それは例の『プレイヤーズ王国』である。
2月から始めた『プレイヤーズ王国』であるが、曲数も10曲近くになったため、ひとまず休止しようかと思っている。
そこで、最後に一発、強烈な歌を登録しようと思い、今必死に練習しているところなのだ。
曲のほうは、以前『歌のおにいさん』で公開していたから、知っている方もいると思う。
そのまま登録してもいいのだが、やはり最後だから、新しい録音で、ということで練習しているのだ。

その登録が終わったら、また本業の日記屋に専念し、ネタの提供をしていきたいと思っている。
また、頑張るリストから日記を拾うのは大変だろうから、気に入ったものをエッセイで取り上げようとも思っている。
『プレイヤーズ王国』のほうは、おそらく月一の更新になるだろう。
やはりぼくは、二足のわらじが履けない人間なのだ。



2004年04月06日(火) 昨日までの生きざま(下)

ぼくに必要だったのは、一歩外に出る勇気だった。
2ヶ月間、そんな簡単なこともわからず、一人部屋の中で、意味もなくのたうち回っていたのである。

何とかその秋には活路を見つけたものの、まだ克服には到らなかった。
克服するためには、北九州で甘えていてはならなかったのだ。
そのため運命は、翌年、まったく知らない土地、東京にぼくを向かわせた。
西から風が吹いてきて「帰ってこいよ」と言うまでの2年間、ぼくは『社会に対する恐れ』と闘っていたわけだ。

さて、『昨日までの生きざま』から始まる1年間というのは、ぼくの人生に置いて、どういう意味を持っていたのだろうか。
もがいてももがいても、一向に抜け道は見つからず、「このままおれは、死んでしまうのではないだろうか?」という不安にさいなまれたこともある。
とにかく、すべてが空回りした時期であった。

人間には、誰しもさなぎの時期があると聞く。
ぼくにとって、おそらくその1年が、その時期に当たるのだろう。
しかし、「そこを乗り切ったからこそ、ぼくは成虫になれた」などとは思っていない。
なぜなら、あれから30年近くも経つのに、あいかわらずその後遺症が出るからである。
一人を好む性格はこの頃に培われたものだったし、人のちょっとしたしぐさが気にかかるようになったのもこの頃からである。
確かに、症状はその当時ほどひどくはない。
しかし、多少ながらも、そういうものがいまだに尾を引いているというのは、実に辛いことである。

とはいえ、その後遺症が役に立ったこともある。
一人を好むようになったことで、一人でいることが多くなったことと、人のちょっとしたしたしぐさを気にするようになったことで、観察力が高まったことがあげられる。
そのおかげで、このサイトが出来たと言ってもいい。
もし、後遺症がなければ、おそらくこのサイトは存在しなかっただろう。
なぜなら、一人の時間が、前の会社にいた頃に観察したモリタ君という、一人の変な男の存在を思い出させてくれたからだ。
それを人に伝えたいと思う気持ちが、ぼくにエッセイを書かせたのだ。
そして、そのエッセイの発表の場として、ぼくはホームページを選んだわけだ。
今なおこのサイトが存続しているのは、エッセイ『モリタ君』をみなさんが読んでくれるおかげなのだ。
それを考えると、後遺症様々である。



2004年04月05日(月) 昨日までの生きざま(上)

  『昨日までの生きざま』

 夜は明けて、日は昇り、雲は隠す
 鳥は鳴き、風は吹き、今日でお別れ
 また街は揺れる、いつものように

 人は声もかけず、忘れたふり
 空は泣き、ぼくは泣き、涙は尽き
 くたびれた靴が、この街の想い出

 この道は、いつもの道、歩き慣れた
 傘もなく、びしょぬれの荷は重く
 水たまりを濁す、別れの足跡

 夢は消え、バスは来て、足は重く
 ぼくはただ、窓にもたれ、ため息つく
 昨日までの甘い、生きざまは終わる


エッセイ『長い浪人時代(孤独と焦燥編)』のテーマソングと言ってもいい歌だ。
これを作ったのは、1977年4月だった。
その頃のことは、エッセイのほうに詳しく書いてあるので、ここには書かないが、その孤独と焦燥が始まった頃と、この『昨日までの生きざま』を作った時期がちょうど重なっているのだ。
そこからぼくは、地獄へ落ちてしまう。

高校1年の時、ぼくに大変よくしてくれた先輩が、自殺するという事件があった。
その事件は新聞でも結構大きく取り上げられた。
見出しには「文学青年自殺」と書いてあり、記事には「出来ることなら、あの人たちの中に飛び込みたい」というような詩篇が紹介してあった。

1977年のぼくは、まさにそういう心境だった。
あの中に飛び込みたいのだが、容易に飛び込むことが出来ない。
その壁になっていたもの、それは社会に対する恐れであった。
その原因となったのは、社会に対する甘えにあった。
それまでが順調すぎたのだ。
それゆえに、つまずいた時のショックは大きかった。
「こんなはずはない」
この言葉を何度吐いただろうか。
もがけばもがくほど、深みにはまってしまう。

その結果、ぼくは外に出るのが怖くなり、2ヶ月間の引きこもり生活に陥ってしまう。
しかし、家にいても何ら克服の糸口が見つからなかった。
克服するために、何が必要だということがわからなかったのだ。
いや、そういうことを考える余裕がないほど、大きなダメージを受けていたのだ。



2004年04月04日(日) 頑張れ!フォークミュージシャン

プレイヤーズ王国で公開しているぼくの歌は、すべてフォーク部門に籍を置いている。
最初の歌こそJポップで登録したのだが、そこに登録している人の演奏を聞くと、「これはプロじゃないか」と思えるほど華やかで、バラエティに富んでいる。
それを聞いてぼくは、「到底ギター一本では太刀打ち出来そうにない」と思ったものだ。
バッキングマシンなどを買い込んで、打ち込みしてもいいのだが、今のぼくにはその暇と金がない。
そこで、比較的ギター一本登録の多い「フォーク」で登録し直した。
それ以降はブルースでも何でも、すべてフォークにしている。
フォークはぼくの音楽のルーツだから、何のこだわりもなく入り込めたのだ。

ところがこのフォーク、ポップスやロックが8000曲近く登録してあるのに対し、500曲足らずの登録しかない。
この差は何なのだろう。
30年ほど前なら、おそらく逆の展開になっていたはずである。
確かに、手間暇かけていいサウンドを作るのもいいだろう。
それなりに重みがあるから、「音楽をやってるんだ!」という充実感も味わえるだろう。
しかし、そういうものだけが音楽ではないはずだ。
ぼくみたいに暇や金のない人間だって、やれる音楽はある。
それがフォークなのである。

フォークというのは、実に便利な音楽である。
まず、一人で出来るから、ロックのように人数を集める必要がない。
変にかっこつけなくても、やることが出来る。
難しい機械を前に、悪戦苦闘する必要もない。
電源などいらないから、どこででも出来る。
大きな音を出すわけではないから、スタジオなんか借りる必要もない。
またその音で、人に迷惑をかけることもない。
特に楽器を要しない。
まあ、ギターを弾けるにこしたことはないが、別に弾けなくても、やろうと思えば誰にでも出来る。
かつてぼくの友人に、公園のベンチを叩きながら、フォークを歌っていたやつがいた。
あまりうまくはなかったが、それなりに味があってよかった。
フォークは、気持ちなのだ。

そういえば、高校1年の頃まで、ぼくの夢は曖昧だった。
人から「将来、何になりたい?」と聞かれても、「さあ…」としか答えられなかった。
そんなぼくに夢を与えてくれたのが、フォークだった。
それに目覚めて以降、「将来、何になりたい?」と聞かれても、堂々と「フォークシンガーになりたい」と答えることが出来るようになった。
10年以上後に、ぼくの夢は潰えてしまうわけだが、それでもフォークシンガーという、夢を追い続けた意義は大きかった。
そのおかげで、このホームページが出来たと言っても過言ではない。
そう、すべてはフォークのおかげなのだ。

時代は、フォークからビューティフル・フォーク、さらにニューミュージックへと移り、ついにJポップなるジャンルが確立してしまった。
確かに、ロックやフォークなどを総称してJポップと言うのだろう。
しかし、そういうふうに一括りにされるのが、ぼくは気に入らない。
だからぼくは、フォークで行くのだ。

お手軽だっていいじゃないか。
サウンドが軽くったっていいじゃないか。
テクニックがなくったっていいじゃないか。
立ち上がれ、フォークミュージシャン達よ。
ポップス中心の世界を、かき回してやろうぜ。



2004年04月03日(土) 寝るための準備運動

ひと頃、首が痛いだの、背中が痛いだの言って騒いでいたが、ここに来て、ようやく治ったようだ。
別に、整骨や針灸に通ったわけではない。
もちろん、外科医なんかにも行っていない。
では、自然に治ったのかというと、そうではない。
実は、首・背中が痛くなって以来、毎日欠かさずにやっていたことがある。
それは、寝るための準備運動である。

寝る準備運動というと、変に思われるかもしれないが、一日の中で、一番体を痛めやすいのは、寝ている時間である。
確かに、起きている時には怪我をすることもあるだろうが、それは注意すれば、ある程度は防ぐことが出来る。
仕事などで、ずっと同じ姿勢を取っていても、起きているから、何らかの矯正は出来るというものだ。
しかし、寝ている時は、そうはいかない。
変な姿勢を取っていたりしても、気づくことがないのだ。
その結果、腰が痛かったり、肩が重かったり、首を寝違えたりし、日常生活に支障を来すことになる。
寝るための準備運動というのは、そういうことを極力防ごうとするための運動である。

で、寝るための準備運動とはどういうことをするのか?
別に特別なことをやるのではない。
やるのは、ただのラジオ体操である。

ラジオ体操というと、簡単に思えるかもしれないが、毎日となると、話は違う。
簡単と思っていたラジオ体操が、急に難しくなるのだ。
体操そのものが難しくなるのではない。
継続してラジオ体操をやることが、難しくなるのである。
ぼくは、今まで何回も挫折している。
しかし、今回は頑張った。
そのおかげで、完治したのだ。

ラジオ体操と言えば、以前ぼくが体調を崩した時に、ある人から「いつも体調崩しとるみたいやね。何か運動しよる?」と聞かれたことがある。
その時、ぼくは「しよるよ」と答えた。
「どんな運動?」と聞くので、ぼくは真面目に「ラジオ体操」と答えた。
すると、その人は突然笑い出し、「ははは、ラジオ体操が運動か?ただの準備運動やないね」と言った。
「準備運動だって、立派な運動やん」
「そりゃそうやけど、‥‥ラジオ体操…、ハハハ…」
何が受けたのかは知らないが、その人の笑いは止まらなかった。

そのあと、その人は会う人会う人に、そのことを言って回ったようだ。
それを聞いた人たちが、ぼくのところにやってきて、「しんちゃん、あんた面白いねえ。ラジオ体操が運動なんね?」と、面白がって言った。

『じゃあ、聞こう。
あんたたちは運動だと思って、テニスとかバレーボールをやっているらしいけど、それは毎日やっているのか?
どうせ、サークルなんかでやっている、お手軽なものだろう。
週1回か2回やってるだけじゃないか。
間が開くせいで、やった翌日は、肩が上がらんの腰が痛いの言っている。
ぼくに言わせれば、そんなもの運動でも何でもない。
闇雲に体を痛めつける、ただの競技じゃないか』
ぼくはその時、そう思ったものだった。

ラジオ体操を侮ってはいけない。
確かに5分そこらの体操かもしれないが、真剣にやると、しっかり汗をかくのだ。
『安心』や『爽快』などの健康雑誌があるが、そこにはきなこドリンクやアロエなどとならんで、時々ラジオ体操の効能も書いてある。
しかし、テニスをやって難病が治ったとか、バレーボールをやって長年苦しんできた腰痛から解放されたとかいう話は、一切載っていない。

そもそも、このラジオ体操は、健康増進を目的として作られた運動である。
だから、毎日やっていれば、嫌でも健康体になれるのだ。
時間もかからないし、どんな場所でも、どんな服装でも手軽に出来る。

今、午前2時である。
そろそろ、ラジオ体操の時間だ。



2004年04月02日(金) パソコンの前に座って

【ギター生活、その後】
今日は、一日パソコンの前に座っていた。
しかし、パソコンを打っていたわけではない。
パソコンの前に座って、ギターを弾いていたのだ。
以前日記で書いたとおり、2月からギター生活を再開したわけだが、もう1ヶ月半近くが過ぎた。
毎日少しでもいいからギターを触ろうとした試みは、さぼることなく続いている。

指先は、ギター弦を押さえるものだからへこんでしまい、そこにタコができてカチカチになっている。
こういうのも久しぶりで、20代以来のことではないだろうか。
ただ、あの頃は、まだひどい状態だった。
何せ、毎日最低でも2時間はギターを弾いていたものだから、指先がざらざらしていた。
そこを毎日ヤスリでこすっていたので、指先はいつも白くなっていた。
また、弦を押さえる部分は、ギター弦のギザギザが刻印されており、そこに弦の油がしみて黒くなっていた。

しかし、そこまでやっても、ギターの腕は上がるものではなかった。
指は思うように動かないし、押さえた弦もはっきり音が出ない。
もっとも、プレイヤーのギターコピーをやっていたのは20歳頃までだったから、それ以上の腕の向上は望めなかった。
しかし、ギタリストを目指して始めたギターではなかったので、ぼくとしてはそれで充分だった。
じゃあ20歳以降は何のためにギターを弾いていたのかというと、オリジナル曲の伴奏のためである。
年を追うごとに増えてくるオリジナル曲を忘れないためにも、毎日の練習は欠かせなかったのだ。
おかげでオリジナル曲の伴奏は、今でも全部覚えている。


【自画自賛】
そういえば、パソコンの前に座って、もう一つやっていたことがあった。
以前の日記を読み返していたのである。
これは時々やっていることだが、誤字脱字や表現におかしい箇所がないかのチェックをしているのだ。
しかし、最初は真面目にチェックしているものの、やっているうちに、ついその内容に心を奪われてしまう。

ぼくは、いつも時間に追われながら日記を書いているので、書いたらそこで終わりなのだ。
つまり、じっくり読み返すことがないということだ。
そのため、どんなことを書いたのかすらも忘れてしまっている。
こうやって読み返してみると、けっこう面白いことを書いているではないか。
その表現に、思わず「おっ」と唸る部分もある。

これはぼくにとって、まさに奇跡である。
なぜなら、普段では書かない、いや書けない文章を書いているからだ。
普段ぼくが書く文章は、抽象的で、何を書いているのかわからないものが多い。
以前は、よく計画書や報告書などを会社に提出していたが、「抽象的すぎる」という理由で、何度突き返されたことだろう。

そうやってみると、つくづく「人間せっぱ詰まると、普段の力以上のものが出せるんだなあ」と思ってしまう。
もし、時間に追われることがなく、じっくり腰を据えて書いていたとしたら、この日記に書いているような文章は、とうてい書けないだろう。
それは、計画書や報告書のみならず、日記の下書きや、昔ノートに付けていた日記を読んでもわかる。

とは言うものの、時間に追われる毎日というのは、やはり嫌なものである。



2004年04月01日(木) 歌に誘われて

福岡県に住んでいる人なら知っていると思うが、西鉄バスのCMで流れているけだるい歌がある。
昨年から流れ出したのだが、ぼくが夜中パソコンの前に座っていると、いつもリビングに置いてあるテレビから、この歌が聞こえてきた。
かなり印象的なメロディで、郷愁を誘うのだ。

その声からして、歌っているのが井上陽水だということはわかったのだが、あいにくぼくの部屋には音しか届かないため、それが何の番組でかかっているのかがわからなかった。
また、いろいろ記憶をたどってみたのだが、その歌が、陽水のどのアルバムに入っているのかもわからなかった。

ある日、テレビを見ていると、西鉄バスが走っている映像のバックにこの曲がかかっていた。
そこで嫁さんに、「この歌、よく夜中に流れよるよのう」と言うと、「うん、西鉄バスのコマーシャルの歌よ」と言う。
「何という歌かのう?」
「知らん」
「聞いたことがあるような気がするんやけど、前に、『コーヒールンバ』とか、人の歌をカバーしたアルバム出したやん。あれに入っとったんかのう」
「そうかねえ、入っとったかねえ」
そこで、以前人から焼いてもらったCDを聴いてみようと思った。
ところが、そのCDがどこに行ったのかわからない。
何日間かかけて探してみたのだが、結局見つからなかった。
「まあ、そのうち出てくるだろう」と思い、気にかけないでいたら、そのうちその歌のことすらも忘れてしまった。

一昨日のことだった。
バイヤーがやってきて、「しんちゃん、西鉄のコマーシャルの歌知っとう?」と聞く。
「ああ、陽水が歌っている歌でしょ。知ってますよ。それがどうかしたんですか?」
「いやね、あの歌のことで、西鉄本社に問い合わせが殺到しとるらしいんよ」
「へえ」
「それで、急遽、あの歌をCD化して発売することになったらしい」
「そうなんですか?あの歌やったら欲しいな」
「発売は4月1日らしいよ」
「どこで売るんですかねえ?」
「CDショップに行ったらあるんやない?」
「じゃあ、今度の休みに行ってみよう」

さっそく、家に帰って西鉄のホームページを見てみると、この歌は『歌に誘われて』というタイトルで、陽水が「少年時代西鉄バスに乗って、福岡や北九州に出かけた時の気分をイメージして作った」歌だという。
CDの発売は、バイヤーの言ったとおり4月1日で、福岡県限定らしい。
売っているところも限られていて、西鉄のバスセンターと一部の小売店だけにしか置かないということだ。
あいにくぼくの住んでいる近くには、売っている所はなかった。
価格は500円と手頃だが、わざわざ遠くまで交通費を払って行くのも馬鹿らしい気がする。
しかし、あの歌いいしなあ…。
持っていたら、長渕剛の『新宮霊園』のCM曲のように、お宝になるかもしれないし…。
迷うところではある。


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