| 2002年10月31日(木) |
ADSLその後/やんぽう通信 |
「やはりおかしい」 繋がらなくなって、もう3日が経過してしまった。 このままでは埒が明かないので、もう一度NTTに連絡してみた。 とりあえず、116番にかけてみると、フレッツ・カスターマーズセンターがあるから、そちらに連絡してくれ、ということだった。 そちらのほうに連絡を取ってみると、「さっそく調べてみましょう」との返事。 数分後、NTTのほうから携帯に、折り返し電話が入った。 「ADSLが切れてますねえ。装置を取り替えますから、家に帰ってから繋がっているかどうか確認して下さい。もし、まだ繋がらなかったら連絡して下さい。24時間応対していますので」
家に帰ってから、さっそく繋いでみたが、相変わらず繋がらない。 もう一度カスタマーズセンターに連絡を取った。 「おかしいですねえ。こちらのモニターでは繋がっているようになっているのですが。一度モデムの電源を切ってみて下さい。その際パソコンも再起動させて下さい」 電話を切ってから、ぼくはカスタマーズセンターの人の言うとおりにやってみた。 繋がった。 繋がるのが当たり前なのだが、何日も繋がらなかったので、何か初めてパソコンを使うような、新鮮な気分になった。 その後、LANケーブルを換えたり、パソコンを移動したり、何かと忙しかった。 気がついたら、午前3時を過ぎていた。
ということで、今日は経過報告だけしか出来なかった。 それでは、あんまりなので、以下を付け加えました。
カトリ 「よし、あと一勝で日本一だ! 一人一人が役割をきっちりこなせば、優勝は間違いない」 選手 「おう!」 ハラ 「あのう・・。ぼくは何をしたらいいのかなあ?」 カトリ 「監督は、勝利監督インタビューの台本作りとか、胴上げのポーズの研究とか、いろいろとやることがあるでしょ? カメラがベンチを映したら呼びますから、じっとしといて下さい」 ハラ 「おう!」
10月26日 ツツミ「イハラ君、私は松坂で始まり、松坂で終わるようなシリーズを望んでいる」 イハラ「わかりました」 10月30日 ツツミ「よくやった」 イハラ「・・・」
アベシン 「ドイとカンは間抜けだ」 ドイ 「私は間抜けではない」 シマダ 「あんたは腑抜けだ」 カン 「ぼくも間抜けではない」 カン夫人 「でも、脇が甘い」 キ○タク 「ぼくは脇が臭い」 シズカ 「私は蓄膿かもしれない」
将軍様 「日本政府が引田天功を連れてきてくれたら、家族を永住帰国させる用意がある。(もう喜び組は飽きた)」 息子 「日本政府がおれの入国を認め、東京ディズニーランドに行かせてくれたら、親父を説得する用意がある。(もう東南アジアは飽きた)」 ヘギョンの父親 「日本のテレビがおれを出してくれたら、ヘギョンを日本に行かせる用意がある。(もう名前だけの存在には飽きた)」 赤十字会 「おれたちをホテルから出してくれたら、養老牛丼を食べに行く用意がある。(もう吉野家は飽きた)」
朝鮮中央放送大物女性アナウンサー 「シーンアイナル、キム・ジュオーンイルチドーチャトンジ、ノーランシャスイーブン、マロヌンクサラミ。オジャパメン、ナネガミヨジョソ。トラワヨプサンハンエ。アンニョンハシムニカ。カムサハムミダ!!」(怒)
今日、NTTに電話をかけ、さっそく来てもらうことにした。 しかし、モデムに異常はないとのことだった。 とりあえず、LANケーブルを買って帰り、繋ぎ変えてみた。 が、相変わらず、ほとんど繋がらず、時々繋がる状態が続いている。
一つだけわかったことがある。 それは、モデムのLANランプが点いてない、つまり、今までのLANケーブルは死んでいたのだ。 まあ、今度いつ繋がるかわからないけれど、気長に状況を見ていこうと思っている。 まあ、いつか正常に戻るだろう。
正常。 ああ、今日は日朝交渉の最終日だった。 だいたい予想したとおりの展開・結果だったようだ。 あくまでも北は、「(日本がああまで言うから)仕方がない。正常化してやるか」というポーズをとりたいのだろう。
ところで、最近マスコミは肝心なことを隠しているんじゃないか、いや、言いたくても言えないことがあるんじゃないか、と思えることがある。 例の少女、ヘギョンのことである。 だいたいあの国で、15歳の小娘が一人で空港に行くというのがおかしい。 ただでさえ自由に歩行できない国なのに、北にとって重要な拠点であるピョンヤン空港に行けるはずがない。 小娘が一人で、「じいちゃん、ばあちゃんに会いに来ました」と言ってやってきたら、そこを警備している兵士に詰問され、追い返されるか、悪くすれば逮捕されるだろう。 しかし、彼女はちゃんと空港まで来ている。 国家の作戦だと言ってしまえばそれまでだが、それなら誰か付き添いがそこにいたはずである。 だが、それが誰であるかを政府やマスコミは言わない。 これはおかしい。
単独インタビューの時、彼女は中学5年生だと言った。 あの国では通常、中学生といえば、例の赤いスカーフみたいなのを首に巻いているはずである。 しかし、彼女は私服で出ていた。 あれも国家の作戦か? 北の人はみないい服を着ている、というふうに見せるための宣伝だったのか。 なぜそこをマスコミは突っ込まないのだ。 聞きたくても聞けない理由でもあるのだろうか。
さらに言えば、なぜあの子は「偉大なる将軍様の配慮で」という枕詞を使わなかったのだろうか? この枕詞を言わなかったがために、収容所に送られた人がかなりの数いると聞いている。 あの子は北では、特に成分が悪いと言われている、日本人とのハーフである。 一発で収容所送りのはずである。 それなのに、なぜ彼女は言わないのだ? 日本では評判の悪い言葉だから、決して言うことのないように、と指導でも受けたのだろうか? そこをマスコミは、なぜ突っ込まないのだ。 おかしいではないか。
実は、マスコミの人は、うすうす感じているのだ。 ヘギョンの出自を。 しかし、確証がないから言えないのだ。 それは、先週号の週刊新潮の記事を見てもわかる。 ああいう回りくどい言い方しか、今は出来ないのだろう。 なぜ、父親が出てこないのか。 ただ単に出せない人物からなのだろうか。 そうだったとしても、出ないと不自然だから、本物は出さないにしろ、替え玉を出してくるはずだ。 替え玉を使ったりすることくらい平気でやる国である。 しかし、それをしない。 なぜだ? ぼくが思うに、その父親があまりにも恐れ多い人物だからだ。 もしそうだとすると、日本人は毎日ヘギョンの父親をテレビで見ていることになる。 メガネをかけた、あの人を。
昨日からADSLの繋がりが悪い。 そのせいで、昨日の日記の更新が今日になってしまった。 午前11時頃、ようやく繋がったので更新は出来たが、それ以外の時間帯はほとんど繋がらなかった。
何が悪いのかはわからない。 プロバイダを変えてみても同じであるから、プロバイダのせいでもない。 かといってパソコンが悪いせいでもない。 時々は繋がるのだ。 ということで、考えられるのはADSLしかない。 そういえば、うちのパートさんも繋がりが悪いと言っていた。 パートさんのところは、ヤフーBBである。 ぼくはフレッツだが、それはあくまでもプロバイダ的な違いだけで、使っている回線はどちらもNTTのものである。 しかし、NTTからは何も言ってきてはないし、サイトを調べても、その件については一言も触れてない。
困るのは今日の日記である。 どうかして更新したいと思っているのだが、その術がない。 ダイヤルアップで繋ごうにも、ADSLにした時点で、もはや必要ないと思いモデムをはずしてしまっている。 携帯で繋ぐという手もあるが、携帯に接続するケーブルを持ってない。 朝起きた時に繋がっていれば、問題はないのだが、もし繋がらなかった時は更新が夜になってしまう。 どうしよう。
こういう時、ノートだと便利だ。 携帯に接続するケーブルが、付属でついているものもある。 エディタに書いて、後は送信するだけだから、それほど通信費もかからないだろう。 「買ってしまおうか」 しかし、そうそう簡単に買えるような額ではない。 今の経済状態からすれば、余裕を持って買うまでには、あと3年はかかるだろう。 そうなれば、この日記は3年後に更新されることになる。 その頃には、ADSLはもう過去の産物になっているだろうから、3年後にこの日記を読んだ人は、「ADSL・・・? ああ、何年か前に流行ったなあ。しかし、何を今頃言ってるんだ」と思うに違いない。
さて、朝になった。 相変わらず繋がらない。 会社に着いたら、NTTのほうに問い合わせてみよう。 しかし、きっと「おかしいですねえ。そんなことはないはずですが。お宅のパソコンがおかしいんじゃないですか?」言うにきまっている。 いつもそうである。 ISDNを申し込んだ時は、半年近くも待たされた。 どうなっているのか、と問い合わせてみると、「おかしいですねえ。受け付けた形跡がないんですが」という返事だった。 さらに「調べてみます」と言うので、ぼくは「調べなくていいですから、今受け付けてください」と言った。 すると、「ああ、今からだと、開通は2ヶ月先になりますねえ」という返事だった。 結局、ISDNを申し込んでから開通するまで、8ヶ月を要してしまった。 またそういうことにならなければいいが・・・。 とにかく問題は、この日記をどうやって更新するかということだ。
| 2002年10月28日(月) |
ショッピング・カートの痛み |
よくスーパーマーケットに行くと、ショッピング・カートが置いてある。 もちろん、うちの店にも置いてあるのだが、今日そのショッピング・カートを見て、ふと思ったことがある。 うちの店には、大・中・小と三つの種類のカートがある。 そのうち、大と中は子供を座らせることのできるタイプだ。 カゴの後部、ハンドルの下あたりに折りたたみの簡易イスがついている。 子供を乗せる場合は、その折たたみの部分を倒し、子供を後ろ向きに座らせる。 簡易イスには、うしろに倒れないように背もたれがついている。 また、ショッピング・カートから落ちないように、子供の股の部分に5cm幅のガードがついている。 子供はそのガードを股に挟んで、ショッピング・カートを押す人の前で足をぶらぶらしている格好だ。
さて、ぼくが気になったのは、子供の股の部分の5cm幅のガードだ。 女の子の場合は問題ない。 しかし、男の子の場合は問題だ。 もし、このカートが電線などを踏んだ場合のことを考えて欲しい。 電線の段差の刺激がショッピング・カートに伝わる。 当然その刺激はガードにも伝わる。 さらにガードに伝わった刺激は、股間に伝わる。 ああ、考えただけでも痛い。 よく子供は我慢できるなあ。
ぼくは小さい時から、よく股間部分を打って、死ぬ思いをしてきた人間である。 覚えているのは、小学校5年の頃、家の前の広場で野球をしていた時だった。 ぼくはその時ピッチャーをやっていたのだが、何回の守備の時だったか、相手チームのバッターが、ピッチャー返しをやってくれた。 投げた次の瞬間、その球は勢いよくぼくの玉に当たった。 内野安打である。 ぼくはタイムをとり、しばらくの間声も出ず、必死に痛みをこらえていた。 こういう時、なぜか「大丈夫か?」などと声をかける奴はいない。 決まってみんな笑うのだ。 当たったほうは死ぬ思いをしているのに、よく笑えるものだ。
プロ野球でも、キャッチャーの股間に球が当たり、苦しむ場面を目にすることがある。 トレーナーが駆けつけ手当てをしているのだが、その間ベンチは心配しているのかといえば、そうではなく、監督以下ニヤニヤと笑っている。 「あらー、球が当たった。あれ痛いんだよなあ」 などと言って、思い出話でもしているのかもしれない。
柔道に『内股』という技がある。 相手の内股を足ですくう技である。 しかし、ヘタクソな人はこの技を、股間を蹴上げる技だと思っている。 当然股間直撃である。 ぼくの相手はヘタクソしかいなかったのか、よくこの技で泣かされた。 中には、かかとで蹴上げる奴もいた。 これはたまらなかった。 内出血してしまい、1週間ほど患部は青黒くなっていた。 下着が擦っただけでも痛く、この痛みが引くまで、しばらく変な歩き方をしたものだった。
一度柔道の団体戦の時に、蹴上げられたことがある。 この時も痛かった。 審判が苦しんでいるぼくのところに寄って来た。 「大丈夫か」と聞いてくるのかと思いきや、なんと彼のはいた言葉は、「はい、飛んで」だった。 もちろん、股間を打った時は、飛ぶことがいいのはわかっている。 しかし、声も出ず、体を動かすことさえ苦痛な状況で、すぐさま飛べるものではない。 ぼくは手を上げ、「待ってくれ」というゼスチャーをし、痛みが回復するまで必死にこらえていた。 もちろん、ぼくのチームのメンバーは、笑っていた。
さて、ショッピング・カートに話を戻すが、だいたいショッピング・カートにイスをつけること自体が間違っている。 子供がいると、いろいろとわずらわしいという理由から、そういう便利なものを開発し、利用者も重宝がるのだろう。 しかし、これでは、痛みに耐える人間は育成できても、自分を守れる人間は育たない。 鍛えて鍛えられる場所ではないので、とにかくとっさによけるという反射神経を養うことが必要になる。 そのためには、子供を歩かせることが一番だ。 歩くことで、人は自ずと自分を守る術を身につける。 歩かせると子供が疲れるし私も疲れる、座らせると子供も楽だし私も楽だ、そういうことが結果的には虐待に繋がるということを知っておくべきである。
「あのう、今の歌、何という歌ですか?」 「黄昏のビギン」 それでぼくはピンと来た。 中森明菜の『歌姫�供戮箸いΕ▲襯丱爐貌�っている歌じゃないか。 「誰の歌ですか?」 「水原弘です」 「中森明菜も歌ってますよ」 「ほう、明菜が」 「いい歌ですね」 「うん」
そういう話をしている時、ママさんがぼくの席にやってきた。 そして言った。 「あの人ね、前は歌手やったんよ」 「へえ」 「ほらここにも名前があるよ」 そう言って、ママさんはぼくにカラオケのメニューを見せた。 「ほら、ここ」 そこには、ぼくが聞いたことのない名前が載っていた。 『K.J』 「へえ」と答えておいた。 もしかしたら偽者かもしれない。 ちょっと古い歌手だし、一般には顔も知られてないような人だから、地方に行けばごまかせる。 元ヴィレッジ・シンガーズの清水道夫の例もあることだし。 しかし、そのおっさんが本人でも偽者でも、ぼくにはどうでもいいことだった。
ぼくのグループが仕事の話などを始めたので、ぼくはその『K.J』なる歌手のおっさんの横に移動した。 「歌手だったらしいですね」 「昔ですね」 「歌手なら先生ですね。いよっ、先生!」
「先生はどちらの出身ですか?」 「北海道です」 「東京に出て歌手になったんですか?」 「まあ」 「それから黒崎に来たんですか?」 「いや、博多に5年いましてねえ」 「で、黒崎に」 「いろいろありましてねえ」 「先生も苦労されたんですねえ」 ぼくが歌手のおっさんのことを「先生」と呼んだので、気分をよくしたのだろう。 「まあ、一杯やらんですか」と、ぼくに酒を勧めてきた。 その後もぼくは「先生、先生」と持ち上げたので、歌手のおっさんは完全にぼくを気に入ってしまった。 カウンターの中に入り、勝手に酒をついでは、ぼくに振舞った。 しかし、質の悪い冷酒だった。 これで、ビール、焼酎、ウィスキー、日本酒、と全部の酒を制覇したことになった。 もちろん、今日頭が痛かったのも、チャンポンで飲んだせいだろう。
帰るまでずっと、歌手のおっさんと話をしていた。 歌手のおっさんは話の中で、有名な歌手の名前を連発していた。 みな懇意らしい。
店を出たのは2時を過ぎていた。 タクシーで帰り、すぐに布団の中にもぐった。 日記は朝起きてから書いた。 会社に行く前に風呂に入ったのだが、頭の痛みはそれで引いた。 しかし、酒はまだ抜けなかった。 二日酔いというよりも、まだ酔っ払っていた。 おそらく、歌手のおっさんからもらった冷酒が効いたのだろう。 この酔いは午前中一杯続いた。 立っているのが辛く、歩くとフラフラした。 きっと周りの人は酒臭かっただろう。
しかし考えてみると、その状態で車を運転して行ったのだから、恐ろしいことである。 運転中に、並走車や対向車が、こちらに向かってくるような錯覚を何度か起こした。 会社に着いた時、よく死ななかったものだ、と一人で感激していたほどだった。 けっこうスピードを出していたから、ちょっとした運転ミスで大惨事になっていたかもしれない。 もしそうなっていたら、「また、福岡県の事故件数が増えた」と、福岡県公安委員会のおっさんを嘆かせることになる。
ところで、昨日飲んだグループとは、年内に何度か飲む約束をした。 次回は、ぼくの休みの前の日にして欲しいものだ。
今日は飲み会である。 今の店に移ってから、初めて早帰りをさせてもらった。 しかし、土曜日とはいえ、夕方の渋滞はひどいものだった。 普段20分もあれば、家に帰り着くのだが、今日は倍以上の50分もかかってしまった。 実際これがあるから、早帰りはしたくないのだ。 初めてとはいえ、これまでも何回か早帰りをするチャンスはあった。 「しんちゃん、今日早よ帰り」 と、何度か声をかけられたことはあるが、ぼくはそのつど断った。 理由は先に書いたとおり、夕方の渋滞が嫌いだからである。 例えば、8時に仕事をあがったとしよう。 この場合だとすでに夕方の渋滞が終わっているから、8時20分には家に着くことになる。 では、7時に帰った時はどうなるか。 今日のペースだと家に帰り着くのは、7時50分ということになる。 1時間早く帰っても、家に着くのは30分しか変わらない。 この時間のロスが、ぼくは嫌なのである。
と、ここまで書いて、ぼくは飲みに行った。 場所は焼き鳥屋だった。 ビールを特大ジョッキで1杯飲んで、それから焼酎のお湯割を5杯ほど飲んだ。 考えてみたら、その間、ウィンナー1串とうずらの玉子5串しか食べてない。 こういう飲み方をすると、翌日頭がガンガンするのはわかっている。 しかし、30年近くこの飲み方できているので、そう簡単に習慣を変えることは出来ない。 案の定、これを書いている今(27日になっている)、頭がガンガンしている。
1次会が終わったのは、11時を回っていた。 ここで一人が抜けた。 「明日仕事なので」ということだった。 しかし、同じく翌日が仕事の、ぼくは抜けない。 いつものノリで、次の飲み屋に行った。 ここで抜けていたら、今の頭ガンガン状態も、少しは緩和されていただろう。
2次会は、場末の小さなスナックだった。 ばあさんが一人でやっている。 お客は2人いたのだが、すでに1人は眠ってしまっている。 もう1人は暇をもてあまして、何度もぼくたちのほうを伺っていた。 いつもようにカラオケが入り、いつものように「しんた、歌え」が始まった。 あまり気乗りしなかったのだが、とりあえずリクエストに応えて拓郎の歌をうたった。 うたい終わると、暇をもてあました1人がぼくのところにやってきた。 60代半ばの男性だった。 「いい歌ですなあ。誰の歌ですか?」 「はあ、吉田拓郎です」 「ほう、拓郎がこんな歌をうたっていたとは知らなかった」 そして彼は「この歌知ってますか?」と言って、うたい始めた。 けっこう古い歌だった。 歌の題名は知らないが、どこかで聞いたことのある歌だった。 『どこで聞いたんだろう』と思っているうちに、歌は終わった。
免許の更新に行ってきた。 奇しくも蓮池薫さんと同じ日の更新になったわけだ。 ぼくは一度覆面パトに捕まっているから、今回は一般運転者扱いだった。 青色の免許証である。 まあ、5年有効だから、別に金色でなくてもいいのだが、捕まった時の状況が状況だけに悔やまれる。 その時の状況をノート(平成12年11月17日付)に書いている。 「・・・18キロオーバーだった。 左車線に入りたかったのだが、一台の車がなかなか入れさせてくれないので加速した。 するとその車は赤色灯をあげた。 覆面パトだった。 汚いよねー。 もっとも、相手も引け目を感じていたのだろう。 実際はもっとスピードを出していたと思うのだが、『メーターを68キロで止めておきました』と、温情をかけてきた・・・」 罰金は12000円だった。 点数は2ヶ月で戻ったのだが、当時はまだ道交法改正前だったので、「あーあ、次は有効期限が3年になるのか」と嘆いたものである。
今日一番緊張したのは、視力検査だった。 以前の更新の時、左目の調子が悪くて何度もやり直しをさせられたことがある。 「右」 「え、右ですか?」 「ああ、上」 「え?」 「いや、左」 「もう一度」 「下です」 全部言わせてもらった。 後ろが混んでいたので、検査員は何もコメントしなかったが、もし後ろに誰も並んでなかったら、「めがねを作ってから、もう一度来て下さい」と言われていたはずだ。 しかし、今回は大丈夫だった。 乱視の入っている左目はやはり不安定だったが、映像が揺れながらも、何とか見えた。 これで、また「眼鏡等」の条件を付けられずにすんだ。
さて、一般運転者の講習は1時間だった。 それも、「何時から」というふうに時間が決められていた。 前回は優良運転者の講習の時だったのだが、講習は30分で、別に「何時から」という規制はなく、好きな時に講習室に入ってよかった。 係員の応対も、今回は事務的だったが、前回は丁寧なものだった。
講習は最初から最後まで、「福岡県は事故件数、事故率ともに、全国1,2位です」ということばかり言っていた。 よほど、その順位が悔しいのだろう。 あたかもドライバーの運転やマナーが悪い、と言わんばかりだった。 しかし、それは警察の怠慢である。 ぼくたちのような、善良なドライバーのちょっとしたスピード違反を、目の色を変えて捕まえることばかりしているからそういう結果になるのだ。 もっと悪質な、それこそ事故に繋がりかねない、暴走行為を繰り返す兄ちゃんや、ベタ付け運転や割り込み運転を平気でする人こそ取り締まるべきだ。
一時間後、講習が終わり、免許証をもらった。 毎回、ぼくは免許証をもらった時には、本籍地や住所の確認よりも、まず写真を見てしまう。 ああ、今回は間抜けな顔をしている。 免許証の写真というのは、どうして変な顔に写るのだろう。 やり直しがきかないから緊張するのだろうか。 今日はそう思って、リラックスするように努めた。 その結果が間抜け顔である。
しばらく写真を見ていたが、「おや?」と思うことがあった。 鼻がおかしいのだ。 変な影がある。 「どうしたんだろう?」と思っていたが、そのうちふと思い当たることがあった。 先日風邪を引いて、小鼻に熱の花が出来たのだが、それがまだ完全に治ってなかったのだ。 この影が、間抜け顔に拍車をかけている。 あーあ、今日行くんじゃなかった。
昨日、先日行われた健康診断の結果がきたのだが、アホらしいので、封も開けずに会社の机の中に入れておいた。 ぼくにとって、健康診断の結果報告というのは、新聞や週刊誌に載っている「今日(今週)の占い」と同じなのである。 見てみたい気もするが、見たら疲れるだけだ。 だから、いつも見ないでいる。
さて、今日の夕方のことである。 ぼくは夕方になると、いつも「今日は何を書こうか?」と、その日の日記のことを考えている。 この日記『頑張る40代!』のテーマは、だいたい夕方出来上がる。 あとはそれに肉付けしていくだけの、安易なものである。 しかし安易だとは言うものの、何も思い浮かばない時もある。 今日はその日だった。 「さて今日は」などと考えているうちに、袋小路に迷い込んでしまった。
そんな時だった。 店長代理が、「健康診断の結果どうやった?」と聞いてきた。 「いや、別に興味がないから見てないです」とぼくは答えた。 「まあ、再検査要の紙が付いてなかったけ、大丈夫やったんやろうね」 「そうですね。検査の時、特に何か言われたわけでもないし。仮に何かあっても、再検査なんかしませんけどね」 『そうか、その手があった!』とぼくは思った。 これで今日の日記のテーマが決まったのである。 今日はぼくの健康状態を赤裸々に述べていくことにしよう。
まず報告書を開いてみると、性別と年齢と生年月日が書いてある。 そんなことわかっているのだから、別に書かなくてもいい。 それとも、今年と来年とでは、年齢以外の箇所が変わるとでもいうのだろうか。 今年男だった人間が、来年女になるのか。 そうじゃないだろう。 おかまになっても、法律上は性別は変わらんわい。 まあ、生年月日は変わってもいい。 毎年「生年」が増えていけば、若返るということだから。 ところで、年齢のところだが、「44歳」となっている。 何かピンとこない。 年齢だけ見ていると、他の人の報告書を見ているような気がしてくる。 やはり、年はとっていくものだ。
「身長177,3cm」 これは手抜きせず、毎年測ってもらいたいものだ。 もしかしたら、まだ背が伸びているかもしれないじゃないか。 こっちだって、O脚を直して180cmの大台に乗せたいと必死に努力しているのだから、その成果をぜひとも知りたいものである。
「体重80,4kg」 生まれて初めて、80kg台に乗ってしまった。 おそらく、運動不足と、毎日のオロナミンCとアイスクリームが祟っているのだろう。 しばらくやめだ!
「視力右0,7 左0,7」 これは前にも書いた。 最近「マジック・アイズ」という本を買い込んで、寄り目の練習をしている。 毎日5分の練習で、視力が回復するらしい。 これを1年続けて、来年はリベンジだ。
「最大血圧152 最小血圧90」 これが問題だ。 健康診断が終わった後で、店の血圧計で測ってみたのだが、最大値が135、最小値が85だった。 何度やっても同じだった。 こうなれば、健康診断用の血圧計を疑うべきだろう。 ぼくは、健康センターが使っていたのと同じテルモ製で測ったのだから。 機械に異常がないのなら、電池を替えろ!
コレステロール、中性脂肪、どちらも「基準値内」 中性脂肪は、2年前は基準値ギリギリの148だったが、今年は95に減っている。 ぼくは中性脂肪というものが、どういうものかを知らない。 また、それが多かったら、どういうふうになるのかを知らない。 だから、2年前に医者から「中性脂肪が多いですねえ。気をつけてください」と言われた時、何をどう気をつけたらいいのかわからなかった。 しかし、少なくなっているのだから、きっと気をつけたのだろう。
「尿潜血+−」 何だ、これは! こんな回りくどいこと書きやがって。 「0」でいいじゃないか、「0」で。 ところで、この尿潜血が昨年問題になった。 昨年は「2+」だったのだ。 その時、「特に再検査の必要はないのですが、気になるようだったら医者に行って検査して下さい」と言われた。 気にならなかったので、医者には行ってないが、これも中性脂肪同様、自ずと治っていた。 医者はいらんわい。
他はぼくの理解を超える言葉ばかり書いてあるので、コメントのしようがない。
さて、総括である。 「医師の意見」と書いてある。 「血圧が上昇気味(境界域)です。減塩を始め、食事に注意し、さらに運動・節酒・節煙等に心がけ摂生して下さい」 「尿酸値がやや高めです。通風予防のため食事に注意し、万一指等の痛みが起こったらすぐ受診して下さい。尚、深酒は良くありません」 コンピュータ手相占いか! ネットの四柱推命か! 「人生」「性格」「適職」「恋愛」各々にコメントをつけるように、ただ測定数値にマニュアルどおりのケチをつけただけのものじゃないか。 具体性がまったくない。 「食事に注意」とは何を注意したらいいのだろう。 箸の持ち方か? 茶碗の持ち方か? よく噛んで食べましょう、ということか? 蠅のついたご飯を食べるな、ということか? 「何かあれば受診しろ」と書いてあるが、これでは『もっと詳しく鑑定してもらいたい方は、‘有料鑑定’をクリックして下さい』と書いている占いのサイトと、何ら代わりがないじゃないか。
これを読んで、誰が「偉大なる先生様の御意見に従い、食事に注意するようにしました。何か気になることがあれば、すぐさま敬愛するお医者様に、はせ参ずる所存でございます」と言うだろうか? 何が健康診断だ! ふざけるな! である。
1、 昨日も今日も、西高東低の冬型の気圧配置だったが、寒さだけがやってきて、肝心の天気は曇りだった。 今日は夕方から雨が降り出す有様だ。 「女心と秋の空」と言われるが、今日も秋の空にふられたわけだ。
2、 ところで、不安定な「秋の空」と同等に扱われている「女心」だが、ぼくは今まで、秋の空ほど気まぐれな女性にあったことがない。 というか、そんなに深く女心に立ち入ったことがないせいで、わからなかったのだろう。 そのため、ぼくはこの言葉を聞くたびに、いつも「そうかなあ」と思ってしまう。 「秋の空」はわかるのだが、どうも「女心」で引っかかってしまうのだ。 「金正日と秋の空」と言ってくれたほうが、今のぼくにはわかりやすいのだが。
3、 男は「性欲の動物」だということだ。 それゆえに、男は次から次に女を変える。 それは、常にはけ口を探しているからである。 これは体の構造からも言える。 男は常にむき出しの状態である。 むき出しであるからこそ、常に刺激を受けている。 だから、これをどうにかしなければならない、という発想に繋がる。 「女心と秋の空」、元々は「男心と秋の空」と言ったらしい。
4、 一方で、女は「物欲の動物」だという。 つまり、女にとって男は『物』なのだ。 アクセサリーやぬいぐるみと同じ存在である。 ということは、女性がアクセサリーやぬいぐるみを見て「かわいい」と言うのと、ジャニーズ系の男の子を見て「かわいい」と言うのは、同じことになる。 ぼくを見て、「しんたさん、白髪頭かわいい」などと言わんで下さい。 言われたとたん、ぼくは『物』になってしまう。
5、 女性からアクセサリーやぬいぐるみを見せられて「ねえねえ、見て。これかわいいやろ」と聞かれることがある。 しかし、ぼくはそう聞かれると、『どうして女性は、物に感情移入が出来るんだろう』と思ってしまう。 ぼくはそれを見ても、別段かわいいとは思わない。 それに、口先だけでも「そうやね」と同調するようなことはしない。 聞いてくる女性としては、実に面白くない男に見えるだろう。 過去、そのためにチャンスを逸したこともあるのかもしれない。 しかし、自分でかわいいと思わないものを、無理やり「かわいい」とは言いたくない。
6、 『ラストダンスは私に』という歌がある。 「誰と踊ったってかまわないけど、最後は私と踊れ」という内容だったが、この余裕、まさに男は『物』である。 こういう発想が男には出来ない。 好きなら一直線だ。 しかし、冷めるのも早い。
7、 以前、女性ばかりの飲み会に、ゲストで呼ばれたことがある。 全然違った世界がそこにあった。 普段さりげなく話している人も、そのときばかりは別人に見えた。 どうも、その会話の中に入っていけない。 一つの話題の終わりに、必ず「しんたさんは、どう思う?」と聞かれたが、何も考えてなかったので、すぐに答えることが出来ない。 ようやく口を開こうとすると、もう次の話題に移っている。 こちらが話題をふっても、知らん顔だ。 人の歌を聞いているふうでもないし、しまいには、『もう二度とこんな会に来るか!』と思ったものである。 まあ、その人たちも面白くなかったのだろう。 二度とぼくがその会に呼ばれることはなかった。 おそらく、彼女らにとって、ぼくはその場のアクセサリーの一つに過ぎなかったのだろう。 きっとアクセサリーは、口を開いてはいけないのだろう。
今日は、ぼくが毎月恒例にしている銀行デイである。 昼から黒崎に出て、福岡銀行・福岡ひびき信用金庫・みずほ銀行・福岡シティ銀行の順で回った。 この四行、距離的には大して離れた場所にあるのではないが、一気に回るとけっこう疲れる。 例えば福岡銀行とみずほ銀行は、直線距離にすると20メートルくらいしか離れてないのだが、そこに行くためには、ビルの3階分の高さがある歩道橋を上り下りしなければならない。 ま、その歩道橋にはエスカレーターがあるので、それを使えばいいのだが、自分の体に中年と認めさせないために、なるべく階段を使うようにしている。 しかし、渡りきった時には、いつも息が切れている。
さて、銀行を回った後は、いつものように本屋である。 今日は特に欲しい本はなかったのだが、行ってみてよかった。 岡崎二郎の『アフター0』というコミックの再編集版が出ていたのだ。 ぼくは、このコミックのオリジナル版は持っているのだが、今回のは未収録作品も多数入っているということだった。 再編集版は全8巻で、今日現在まで6巻が発売されていた。 さっそく、ぼくはそこにあった6冊を購入した。 もちろん、残り2巻(今月末発売)を予約したのは、言うまでもない。
もう一つ買ったものがある。 CDである。 昨日の話だが、ラジオに元憂歌団の内田勘太郎が出ていた。 今日福岡でライブをやるということで、その宣伝をかねてのゲスト出演だった。 そこで、ギター・ソロのアルバムを出していると言ったのを聞き、これは欲しいと思ったわけである。 ぼくは昔から憂歌団のファンで、中でも内田勘太郎のギターに憧れていた。 ぼくのやっていた音楽と系統が違うので、コピーなどはしなかったのだが、ああいうギターを一度弾いてみたいと思っていたものだった。 昨日は放送中に、アルバムに入っている曲の中から、『ムーン・リバー』を生でやってくれた。
そのCDを探すのには、ちょっと苦労した。 まずJ−POPのウの段で探したのだが、見つからない。 次に憂歌団のところを探したが、見当たらない。 インストゥルメントを探しても、ない。 「もしかして」と思い、ぼくはジャズのコーナーに行ってみた。 たくさんあるジャズのCDを一枚一枚見ていった。 ありました。 全然関係ないところにポツンと置かれていた。 まあ、ジャンルが定めにくいのはわかるのだが、これはジャズじゃなくJ−POPだ。 もし、これをジャズに置くなら、憂歌団もジャズのところに置かなければならないはずだ。
久しぶりに本屋でいいものが買えたので、何となく嬉しくなって、今日は少し贅沢をした。 帰りに、こちらで餃子のおいしい店として有名な『鉄なべ』で、餃子を食べることにした。 数年ぶりだった。 餃子2人前とビールを注文した。 相変わらず小振りで、味も衰えてなかった。 しかし、昼間からビールを飲むものではない。 すぐに目に来てしまった。 帰りのJRの中で、眠たくなった。 このまま寝ていたい衝動に駆られたが、乗っている時間は実質1分、すぐに降りなければならない。 「家に帰れば、ゆっくり寝れる」と思い、その1分を必死に耐えた。
ところが、JRを降りて家に向かっている途中に、肝心なことを忘れているのに気がついた。 そう、今日は車が戻ってくる日だった。 午後5時に取りに行くと約束していた。 あと、1時間しかない。 眠たいとか言っている暇はない。 ぼくは急いで家に戻り、酔い覚ましのために、コーヒーをがぶ飲みした。 そのおかげで、眠気も一気に覚めた。 そして、目線の低い軽自動車を運転して、修理屋に向かった。
今日は、そういう一日だった。
車を修理に出しているため、代車生活を強いられている。 今日でちょうど一週間目になる。 感覚はつかめるようになったが、まだまだ慣れない。 修理に出している車がRV車で、今回の代車が軽自動車なので、目線がまったく違うのである。 普段は立って歩くくらいの目線なのだが、今はアヒル歩きの目線なのだ。 この目線の違いが、幹線道路を走る時の障害になる。 何が障害かといえば、それは気持ちである。 怖いのである。 ぼくはただでさえ軽自動車をあまり運転したことがないのだ。 そういうぼくが、大型トラックやトレーラーなどが頻繁に走っている幹線道路を走るなど、自殺行為に等しい。 普段は大型トラックなどと競り合いながら走っているのに、今はそれが出来ないのだ。 そのくせ、普段の癖が出て、競り合っている。 それが怖い。 普段はそう感じないのだが、軽だとすべての車が幅寄せしているように思える。 後ろの車も、軽だからといってなめているように思えるのだ。 「ふざけるな!」 「離れろ!」 「これはおれの車じゃない!」 などと、一週間車の中で叫び続けている。
もう一つある。 それは、スピード感だ。 通常ぼくは、時速60〜70kmで走っている。 目線が高いと、そう速く感じるスピードではない。 しかし、アヒル歩きの目線だと、極端に速く感じるものだ。 このまま空を飛ぶんじゃないか、と思えるほどである。 ハンドルを取られるような錯覚に陥ることもある。 そのため、気がつくとハンドルを必要以上に強く握り締めている。 これも怖い。 後続の車が見たら、ぼくの車は小刻みに揺れているのかもしれない。 代車に人を乗せることはないのだが、仮に乗せたら、その人は酔ってしまうだろう。
ところで、当て逃げされた愛車の修理代だが、今日、修理に出している代理店の人がぼくの店に来て教えてくれた。 「修理代が18万かかるらしいよ」 「え!? 18万ですか? 12,3万じゃなかったんですか?」 「いや、他の箇所にも歪があったらしい」 そう言って、彼は修理中のぼくの車の写真を見せてくれた。 18万といえば、車検料より高いじゃないか。 保険を使っておいてよかった。 まあ、300万も取られるわけじゃないけど、安月給のサラリーマンにとって、18万は痛い。 しかし、来年から保険の等級が下がるわけだから、当然保険料が上がってくる。 それも頭の痛いことである。 憎むべきは、当て逃げ野郎だ。
代車で疲れ、仕事で疲れ、修理で疲れる毎日である。 明日、愛車が戻ってくる。
ペク君「ところで、帰国者から、何か連絡はあったか?」 リー君「いや、今のところない。彼らも工作員に囲まれているから、連絡が取りにくいんだろう。こちらから連絡しようと思っても、ホテルの電話は盗聴されているから使えんし」 ペク君「困ったもんだなあ。何かいい方法はないのか?」 リー君「実は、今日ソーレンのほうから、こういうものが届いた」 ペク君「お、携帯電話か」 リー君「これはただの携帯電話ではない。iモードという日本の最新兵器らしい。これ一台で、電話はもちろん、手紙のやりとりもできる。しかもこれにはカメラが付いている」 ペク君「すごいなあ」 リー君「デジタルだから盗聴されにくいということだ」 ペク君「ほう。ところで、帰国者はその電話番号を知っているのか?」 リー君「ああ、ソーレンが、みんなに知らせてくれている」 ペク君「じゃあ、まもなくかかってくるわけだな」
(ケータイ)「プルル、プルル、プルル」 リー君「お、さっそくかかってきた。はい、リー・・・。あれ? おかしいなあ」 ペク君「どうした?」 リー君「いや、切れてるんだ」 ペク君「切れてる? 誰からだったんだ? 履歴を見ればわかるだろ」 リー君「ああ。・・・。やっぱり、おかしいなあ」 ペク君「どうした?」 リー君「誰も電話してきた者がいないのだ。え? 何だ、この印は? さっきはこんな印なかったぞ」 ペク君「どれどれ。・・。ああ、これか。漢字の『四』に似た印だなあ」 リー君「ちょっと、ソーレンに聞いてみる」
リー君「もしもし、リーだが。今なあ、iモードなる兵器の呼び鈴が鳴ったんだよ。で、出てみると切れていた。おかしいと思って画面を見てみると、漢字の『四』みたいな印が出てるんだよ。これは、何かね」 ソーレン「漢字の『四』?・・・。ああ、それはメールですよ」 リー君「ああ、これがその印か」 ソーレン「はい。『プルル』って鳴ったでしょ。それが合図です。電話の場合は『リーン』と鳴るようにセットしています」 リー君「そうか。ところで、君はどうして『メール』などという敵国語を使うのかね。共和国の人間なら、ちゃんと手紙と言いなさい」 ソーレン「? ・・すいません」
リー君「手紙の印だそうだ」 ペク君「そうか、手紙か。で、誰からだ?」 リー君「ちょっと待て。・・ん? 全文日本語で書いてある。同志は日本語が堪能だったな。ちょっと読んでくれんか」 ペク君「どれどれ。・・・。なに!?『×××されたい主婦/綺麗系のお姉さん/学生・OL・人妻/無料で試食可能』、何だこりゃ」 リー君「それは暗号だよ。共和国に早く帰りたい、と言ってるんだ」 ペク君「ああ、なるほど。暗号か」 リー君「あれだけの工作員に囲まれているんだ。まともなことは書けないだろう」 ペク君「そうだな」
(ケータイ)「プルル、プルル、プルル」 リー君「また手紙か。もう10件目だぞ。今度は何だ?」 ペク君「これも暗号だ。『簡単に会えるデキル/出会い初心者歓迎』となっている」 リー君「敬愛する将軍様に早くお会いしたい、という意味だ」 ペク君「そうか。しかし、こう手紙ばかりだと飽きるなあ。相手もわからんし」 リー君「これも日本の工作員のせいだ」
(ケータイ)「リーン」 リー君「お、今度は電話だ」 ペク君「しかし、すぐ切れたなあ」 リー君「おそらく、工作員に見つかって、すぐに切ったんだろう。今度は履歴が出ている。ここに折り返しかけろということか。ん?」 ペク君「どうした?」 リー君「おかしいなあ。市外局番が06になっている。ニュースでは大阪に行ったとは言ってないんだが」 ペク君「そうだなあ」 リー君「ああ、出た出た。もしもし、もしもし、もしもーし」 ペク君「出ないのか?」 リー君「音楽が鳴っている」 ペク君「音楽?] リー君「ああ。あ、女性の声だ。もしもし」 ペク君「女性か」 リー君「え? 泣き出したぞ」 ペク君「変わろう。もしもし、ペクという者だが・・・。あ?」 リー君「どうした?」 ペク君「悲鳴が聞こえる」 リー君「ひ、悲鳴が!? 拷問を受けているのかも知れんぞ」 ペク君「切れた」 リー君「工作員から口を割らされているんじゃないだろうな」
(ケータイ)「リーン」 リー君「もしもーし」 (ケータイ)「ツー、ツー、ツー・・・」 リー君「また切れた。大変なことになっているのかもしれん」 ペク君「また大阪からか?」 リー君「ん? 今度は名古屋だ」 ペク君「おれがかけてみる。・・・。また音楽だ。女性の声、・・、泣き声、・・、悲鳴。また同じだ」
リー君「こうはしておれん。予定を切り上げて、早く退散しよう」 ペク君「よし、党本部に連絡して、日本政府に交渉してもらおう」
10月某日 リー君「ソーレン本部かね。リーだが。明日帰国することになった」 ソーレン「お疲れ様です」 リー君「宿泊費は頼んだぞ」 ソーレン「もちろんです。ところで・・」 リー君「何だ?」 ソーレン「電話の請求書が回ってきてるんですけど」 リー君「それもそっち持ちだろ」 ソーレン「も、もちろんです。ところで、どちらにおかけになったんでしょう?」 リー君「帰国者から連絡があったんだけど、こちらが出る前に切れるので、かけ直しただけだ」 ソーレン「何回電話されましたか?」 リー君「2,30回ほどかなあ」 ソーレン「さようですか。それにしても・・・」 リー君「何かあったのか?」 ソーレン「ええ、ちょっと・・」 リー君「言ってみろ」 ソーレン「請求金額が尋常じゃないので」 リー君「請求金額が? いくらだ?」 ソーレン「さ、三百万円でございます」 リー君「な・・・。日本はインフレか?」 ソーレン「そんなことはございません」 リー君「じゃあ、かけ直したら高くつくのか?」 ソーレン「そうじゃありませんけど・・。先生、もしかして呼び鈴はすぐに切れませんでしたか?」 リー君「ああ、1回鳴っただけだった」
−完−
昨日の夕方のことだ。 タバコを吸おうと、店の外に出た。 その時、少し煙ったようなにおいがしてきた。 「ああ、雨が降るな」 ぼくはそう思った。 それから、2時間後に雨が降り出した。
ぼくはいつの頃か、雨が降るのを予測できるようになった。 別にそういう能力があるわけでもなんでもない。 ただ気がついただけである。 先ほど言ったように、煙ったようなにおいがする時に、必ず雨が降るのだ。 こういうにおいがする時は、だいたい小雨の時が多い。 低気圧が近づく時は、また違ったにおいがしてくる。 海の近くに住んでいるからかどうかは知らないが、低気圧が近づくと潮のにおいがしてくるのだ。 その潮のにおいの元が、かつての死の海・洞海湾だと思うと、あまりいい気分はしないのだが。 北九州工業地帯が華やかなりし頃は、潮のにおいが隠され、重苦しい工場のにおいがしていた。 ぼくは以前、低気圧が近づくたびに頭が痛くなっていたが、それは工場のにおいのせいだったのだろう。
ところで、なぜ低気圧が近づくと潮のにおいがするのか。 今までその理由は、洞海湾がぼくの住む場所の東側に位置しているためだと思っていた。 雨の日はだいたい東風が吹くからだ。 しかし、その推測は違っていたようだ。 今ぼくが勤めているところから見れば、洞海湾は西に位置する。 それでも、低気圧が近づくと潮のにおいがするのだ。 ということは、低気圧東風説というのは成り立たなくなる。 おそらく、低気圧が潮のにおいを呼ぶのではないだろうか。
まあ、ぼくは理科が大の苦手なので、そういうことを詳しく調べてみようとは思わないが、もしかしたら、においと気象とは何か特別なつながりがあるのかもしれない。 寒気団がくる時には、寒いにおいがする。 また、夏場夕立が降る時は、決まって石のようなにおいがするものだ。 ぼくがまだ気がついてないだけで、本当は各季節ごとに天気のにおいというのがあるのかもしれない。
寒いにおいで思い出したが、ぼくは寒がりで、冬という季節はすべて寒いと思っている。 そのため、冬になるといつも体が縮こまっているために、寒さの程度がよくわからない。 そこで、このにおいを頼りにすることがある。 家から一歩外に出た時にこのにおいがしたので、いったん家に戻って厚手のセーターに着替えたことがある。 まあ、厚手のセーターを着込んでも、ぼくには同じ寒さなのである。 ところが、会社に行ってわかったのだが、その日はやはり寒かったようだ。 他の従業員も寒いと言って、みな着込んで出社していた。
さて、今は昨日から降り続いた雨もやんでいるが、今はどういうにおいがするんだろう。 ・・・ 今窓を開けにおって来たが、なぜかかび臭い。 このにおいでは、明日の天気は占えん。
「パレード」というレーザー・ディスクを持っている。 ポーランドの映画で、1988年のソウルオリンピック開催中に、北朝鮮で行われた建国40周年の祝賀風景を映したものだ。 北朝鮮国民による100万人のパレードや、大競技場で繰り広げられるマスゲームの数々。 この映画は、翌年の第32回ライプチヒ国際映画祭でグランプリを受賞したという。 会場で上映された時は、「全編爆笑、失笑、嘲笑の渦」だったらしい。
ぼくは2度ほどこの映画を見たが、マスゲームはともかく、笑ったのは最後の場面だった。 幹部連中が、音楽ホールかどこかで、競って金親子を讃える歌をカラオケでうたっている風景だった。 どの曲もマイナー調のド演歌で、中には涙を流して歌っているものもいた。 それはまるで、そのへんのおっさんがカラオケを歌っているようだった。 「北朝鮮には他の歌はないのか」と思うくらい、延々と金親子を讃える歌が続いて、映画は終わりになる。
かなり前に見た映画なので、ぼくはこれを書くに当たって一度見ておこうと思ったのだが、機械の調子が悪くて見れなかった。 まずDVDでは出ないだろうから、機械を修理するか友人の機械を借りるかして、ビデオにダビングしておかなかければならない。
ぼくが北朝鮮に興味を持ったのは、今からおよそ10年前、まだ日本国内で北朝鮮が話題に上る少し前だった。 その頃ぼくは、本屋で偶然、テリー伊藤の『お笑い北朝鮮』という本を見つけた。 それから北朝鮮が病み付きになっていった。 当時そごうの中にあった旭屋書店に行って、人目を気にしては本を買いあさっていた。 なぜ人目を気にしたのかというと、この辺は在日の方が多く住んでいるので、尾行でもされたらかなわん、と思ったからである。
とにかく読みまくった。 今でもその本は書棚にあるが、その数2,30冊にのぼっている。 全部が全部読んだわけではないが、要点は抑えたつもりである。 そのおかげで、その後明るみに出た、数々の北朝鮮の起こした問題すべてに、「さもありなん」と頷くことができた。
また、一連のオウム事件を見た時、これは北朝鮮が絡んでいるのでは、と思うことがたびたびあった。 金正日と麻原彰晃が、非常によく似ていたからである。 双方とも被害妄想の持ち主である。 互いに、地上の楽園を作ろうとした。 外部に向かって、いつもファイティング・ポーズを見せる。 事件を起こすたびに、知らぬ存ぜぬを繰り返す。 近所迷惑である。 敵は、アメリカと日本。 ロシアと仲良し。 脱走者には手荒い罰を与える。 密告社会を作り、密告された者には制裁を加える。 女に甘い。 嫉妬深い。 金に弱い。 面白いことに、一方は核、一方はサリンで査察を受けている。 やはり独裁者というのは似てくるのだろうか。
時々、テレビで金正日の人柄について語っていることがある。 しかし、変に専門過ぎて、今ひとつわかりづらい。 テリーさんが言った「田舎町の社長の息子として生まれた、わがままな二代目」のほうがわかりやすいのではないだろうか。 ぼくは、テリーさんのその一言で、金正日の全体像が見えてきた。 要は、ボンボンなのである。
さて、今後北朝鮮はどうなっていくのだろう。 核問題がまた浮上したし、拉致問題も全然解決してないし、金正日の息子正男は失脚するし。 まだまだ、あの国からは目が離せない。
連日、テレビで拉致被害者の帰国報道ばかり見ている。 本人たちの記者会見なんか開いても、なかなか本音などは聞けないだろうから、そういうことは一切やめて、そっとしておいてやるのが、ぼくは一番だと思っている。
ところで、今回ぼくが帰国者に対して一番注目したのは、言葉だった。 先日一時帰国した寺越さんは、日本語が出来なくて、朝鮮語で会見に臨んでいた。 そのことがあったので、今回はどうだろうと思っていたのだ。 結果は全員日本語だった。 ただ、一番日本語がしっかりしていた地村さんや蓮池さんも、助詞の使い方が不安定であり、語尾に力強さがなかった。 おそらく彼の国で、家の中までも日本語の使用を禁じているせいだろう。 とは言うものの、帰国者の方々は日がたつにつれ、日本語がうまくなっている。 その極端な例が、曽我ひとみさんだ。 帰国当初、あの方の日本語の発音は、唯一外国人の発音だった。 しかし、佐渡に戻ってからの発音は、日本人のそれになっている。 もし日本での生活が許されるなら、1ヶ月もせずに完全な日本の発音に戻るはずだ。
さて、ぼくが一連の放送を見る理由は、拉致被害者の帰郷の光景を見たいということももちろんあるのだが、それとは別に、帰国者とは直接関係のない面白い人たちを紹介してくれるからだ。 それは、あるニュースで『招かざる客』と紹介された、朝鮮赤十字の職員たちである。 彼らは日本政府から同行を拒否されたものの、「金を出すからチャーター機に乗せてくれ」とせがみ、帰国者から隔離された状態で同行してきた。 帰国者といっしょにタラップを降りることを許されず、帰国者が空港を離れた後にノコノコとタラップを降りてきた間抜けな姿が、ぼくにはおかしかった。 さらにおかしかったのは、彼らへの執拗なレポーター攻撃である。 「いったい何をしに日本にやってきたのですか?」 「今からどこに行かれるのですか?」 などと聴かれ、さらに移動すれば尾行される。 さすがに彼らも、「日本はプライバシーを守るということがないのか」などと口走り、いささかうんざりした表情をしていた。
彼らは知らないだろうが、日本のレポーターはプライバシーを暴くことを商売としている。 ぼくは基本的には、レポーターの質問を聴くたびに「余計なお世話」と思ってしまうのだが、今回は別である。 どんどんやってやればいい。 日本の報道は北に筒抜けだと言っていた。 じゃあ、それを逆手にとって、彼らの不利になるような質問を投げかけてやればいいのだ。 「日本はどうですか? 北よりもずっといい暮らしをしているでしょう。あなたたちもこういう国で暮らしたいと思いませんか?」 「今回、帰国者に同行してきたのは、あなたたちが亡命するためですか? 亡命先はどこですか? 韓国ですか? アメリカですか?」 「リさんの亡命のうわさが出ているのですが、その件について答えてください」 「日本に女でもいるんですかー?」 こういう質問をされれば、いかに狡猾な彼らといえども、「こんな質問を受けているところを報道されたらまずい」と思い、ホテルから出なくなるだろう。 さらに、レポーターはロビーにも張り込んでいるから、結局部屋から一歩も出られない状況になる。 その上で、教育放送しか受信できないように、彼らの部屋にあるテレビやラジオのチューナーをハンダ付けしてやればいいのだ。 もちろん電話も内線のみにしてしまう。 そうすれば、彼らの活動は出来なくなり、帰国後、親愛なる指導者同志にお目玉を食らうことになるだろう。
今日で拉致被害者の方々も全員帰郷したことだし、もうマスコミも彼らを追い回すことはやめ、そっとしておいてあげてもいいのではないだろうか。 代わりに、このおかしな『招かざる客』、朝鮮赤十字職員の報道をどんどんやってもらいたいものである。
今日は実に暇な一日だったが、ぼくはなぜか朝からいらだっていた。 それが鼻風邪のせいだということはわかっている。 鼻の中がむず痒く、シュンシュンする。 ポカンと開いた口。 常に虚空を眺める充血した目。 微熱に侵された思考。 こういう状態が、午後からのぼくの行動に大きく影響することになる。
いつものように、午後3時半から昼食をとった。 もちろん時間が時間だけに、食堂には他に誰もいない。 ぼくが毎日この時間に昼食をとるのには理由がある。 一つは夕食が遅いこと。 いつもぼくは9時に帰宅しているため、夕食を食べるのは10時半頃になる。 もし普通の人のように12時や1時に昼食をとっていたら、夕食まで10時間近くもあくことになる。 これは耐え切れない。 もう一つの理由は、普通の人と同じ時間帯だと、多くの人といっしょに食べなくてはならない。 人がいると、元来おしゃべり好きのぼくは、黙って食べるようなことをしないだろう。 そうなると、食べ終わるのにかなりの時間を要してしまう。 そのため、昼寝もできなくなる。 ここ数年の習慣である昼寝を削除するということは、後の仕事にも影響する。 ああ、もう一つあった。 これは店長が替わってから始まったことだが、今食堂内では11時〜15時まで禁煙タイムになっている。 食事の後にタバコを吸えないことほど苦痛なことはない。 以上のような理由から、どんなことがあろうとも、食事は3時以降に取るようにしている。
今日も誰にも邪魔されることなく、一人で弁当を食べていた。 その時、小さくトントンと食堂をノックする音がした。 しかし、食堂は別にノックして入るような場所ではないので、ぼくは無視していた。 ドアが開いた。 背の高い男の人が入ってきた。 彼は食堂内を見回して、そこにあった健康器具を見ていた。 続いて、やせ気味の女の人が入ってきた。 彼女も食堂内を見回していた。 男がぼくに言った。 「今食事ですか?」 「はい」 「ここにある健康器具はどうしたんですか?」 「知りません」 「景品か何かでもらったんですか?」 「知りません」 まさか、衛生週間の検査の時にいい印象を与えるために、急遽店長が不良品置き場に置いてあった健康器具を食堂に持って来た、とは言えない。 男は続けた。 「みなさん、これ使ってますか?」 「使っている人を見たことがありません」 「そうですか・・・」
女が言った。 「ここは禁煙ですか?」 「壁に貼っている紙を見て下さい」 壁には『禁煙タイム11時〜15時』と書いてある。 「じゃあ、それ以外の時間は吸っているんですね」 「そうです」 「あのう、この紙剥いでもらえませんか?」 「え?」 「もう貼らなくていいです」 「じゃあ、時間に関係なく吸っていいんですか?」 「いや、時間に関係なく禁煙だということです」 ぼくは『この女何者だ』と思い、胸についているネームプレートを見てみると、そこには『医師』と書いてあった。 『愛煙家が肩身が狭い思いをしなければならないのも、こんな医者がいるからだ』と思うと、ぼくは急にムカついてきた。 そして、その医師の目を睨み言った。 「それは嫌煙家の言い分でしょ。確かに嫌煙権というのは社会的に認められたでしょう。それはそれでいいと思います。しかし、嫌煙権というものが認められるなら、喫煙権も認められていいんじゃないですか」 「いや、これは厚生労働省からの・・・」 「そんなの認めません!」 「でも、ここには体の悪い人もいるわけだし・・・。そういう人にとってタバコの煙はよくないんです」 「じゃあ、喫煙者は全員外で吸え、ということですか?」 「そういうことになりますね」 「ぼくたち男はそれでいいですけど、女性は外では吸いませんよ」 「そんなにタバコを吸う人が多いんですか?」 「ここで働いている人の半数以上が吸います」 「でも、建物の中で吸われるとねえ」 「煙が部屋に立ち込めなければいいんでしょ。あそこに換気扇がありますけど、その下で吸ったらいいじゃないですか」 「ああ、そうですね。分煙したらいいですね。しかし、それだけではだめです。ビニールか何かで囲まないと」 「じゃあ、そういうふうにしろ、と店長に言って下さい」 このやり取りを、後から入ってきたタバコを吸わない店長がハラハラした顔をして見ていた。 医師は店長に、「この方は自分の管理のもとで、タバコを吸われていくそうです。それはそれでいいですから、そういう人のための環境を作ってやって下さい」と言って、具体的な方法を指示した。
医師は再びぼくのほうを向いて言った。 「じゃあ、喫煙コーナーを設けてもらいますから、それまでは禁煙タイムを守って下さいね」 「言われなくても、最初からその時間帯は外で吸っています」 「・・・」
せっかくの食事の時間を、こんな討論で費やしたくなかった。 鼻風邪さえ引いてなかったら、ぼくもそこまで食いつかなかっただろう。 医師の言うことに従わないにしろ、言うことを黙って聞いていたかもしれない。 しかし、医師に喫煙を認めさせたというのは大きい。 禁煙タイムなどという悪習からも解放されるわけだ。 おそらく数週間後には喫煙コーナーができるだろう。
| 2002年10月15日(火) |
シャミン党一座 秋桜祭 |
テレビ局で ヨーコ「ねえ、マスゾエ君。キム・ソーショキって何者?」 マスゾエ「え、先生知らないの? 北の最高指導者じゃないか」 ヨーコ「それって、『親愛なる指導者同志』じゃないの?」 マスゾエ「北の人はそう呼んでいるらしいね」 ヨーコ「じゃあ、キム・ソーショキって、『親愛なる指導者同志』のことなの?」 マスゾエ「ああ、そうだよ」 ヨーコ「・・知らなかった」 マスゾエ「知らなかったって、君のいるシャミン党と北とは、大の仲良しじゃないか」 ヨーコ「いや、うちの党では、みんな『親愛なる指導者同志』って呼んでいるのよ。きっと名前なんか知らないわ」
シャミン党本部で トンちゃん「やあ、おタカさん久しぶり」 おタカ「あーら、トンちゃん先生。お元気そうで」 トンちゃん「ところで、北のキム・ソーショキなる人物が拉致を認めたとニュースで言っておったが、いったいキム・ソーショキって何者なんだ?」 おタカ「そうそう、今党本部では、そのことでもちきりなんですよ」 トンちゃん「よくあんな卑劣な奴を、『親愛なる指導者同志』が北の代表としてコイズミと合わせたもんだなあ。聞くところによると、あの不審船も、テポドンも、そのほかのテロ行為も、すべてキム・ソーショキという男の仕業と言うじゃないか」 おタカ「『親愛なる指導者同志』も、さぞ心を痛めておられることでしょう」 トンちゃん「でも、『親愛なる指導者同志』はあれだけ偉大なお方だ。きっと何か深いお考えを持っておられるのだろう」 おタカ「きっとそうですね」
ミズホ「党首、大変です」 おタカ「どうしたの?」 ミズホ「ヨーコ先生が離党すると言ってます」 おタカ「え!? こんな大事な時期に、何を馬鹿なことを。ヨーコを呼んできなさい」 ・・・・・ ヨーコ「何か用ですか?」 おタカ「用ですかはないでしょ。あなた離党すると言ったらしいわねえ」 ヨーコ「ああ、言いましたよ」 おタカ「何か党に不満でもあるの?」 ヨーコ「大アリです! 党の人は、誰も私に『親愛なる指導者同志』がキム・ソーショキだと教えてくれなかったじゃないですか。私、大恥かいたんですよ」 おタカ「何馬鹿なことを言ってるの。わが『親愛なる指導者同志』が、あの悪党のキム・ソーショキなわけないじゃないの。誰がそんなデマを飛ばしているの?」 ヨーコ「ジミンとかミンシュの人。アサヒにもそう書いてましたよ」 おタカ「ジミンやミンシュならともかく、あれだけ『親愛なる指導者同志』のお世話になっているアサヒが、そんなこと言うわけないじゃないの。そんなこと信じちゃだめよ。あなたはすぐに洗脳されるんだから」 ヨーコ「タケシさんもオータケさんも言ってましたよ。あとマスゾエ君も」 おタカ「あなたもキヨミちゃんと同じね。私よりも党よりもテレビを信じるのね。わかりました。辞めるのなら、勝手に辞めなさい。ついでに議員もね」 ヨーコ「何で議員まで辞めないとならないんですか?」 おタカ「考えてごらんなさい。あなたはシャミン党の看板があったからこそ議員に選ばれたんでしょ」 ヨーコ「言わせてもらいますけど、シャミン党は、私のおかげで議員数を増やせたんじゃないですか」 おタカ「もう好きにして。せっかく力を合わせて『親愛なる指導者同志』の理想をこの国に実現しようと約束したのに。二度と私の前に現れないでちょうだい!」
おタカ「・・・ということで、ヨーコには辞めてもらいました」 トンちゃん「おう、それがよかろう。しかし、これも元はと言えばあの憎きキム・ソーショキのせいじゃ」 おタカ「トンちゃん先生、先生は北に顔が利くんだから、一度キム・ソーショキにガツンと言ってやったらどうですか?」 トンちゃん「わしもそれを考えていたところじゃ」 おタカ「誰か、北に電話して」 ・・・・・ ミズホ「つながりました」 おタカ「トンちゃん先生、つながりましたよ」 トンちゃん「よし!」 ・・・・・ トンちゃん「あ、もしもし、わしは日本のシャミン党のトンちゃんというものじゃが」 北「あ、トンちゃん先生でいらっしゃいますか。その節はどうも」 トンちゃん「われらの『親愛なる指導者同志』はお元気でいらっしゃいますか?」 北「『親愛なる指導者同志』におかれましては、ご健勝にてあらせられます」 トンちゃん「おお、それはよかった。あのお方は人類の太陽じゃ。わしは、いやわが党は、あのお方こそ、この混乱の世界を救う救世主だと思っとる。よろしくお伝え下され。ところで、最近日本でキム・ソーショキが、日本人を拉致をしたと言った、と騒ぎになっておるが」 北「『親愛なる指導者同志』が、そんなことをするわけないでしょうが」 トンちゃん「そうじゃろう、そうじゃろう。『親愛なる指導者同志』がそんなことをさせるはずがない。おかしいと思ったよ」 (トンちゃん「おタカさん、思ったとおりじゃ。拉致はキム・ソーショキのデッチ上げだったぞ」 ) (おタカ「やっぱり」) トンちゃん「ところで、キム・ソーショキ君はいるかね」 北「え、誰ですか?」 トンちゃん「キム・ソーショキ君だよ、キム・ソーショキ。いないのかね?」 北「先生、たちの悪い冗談はやめてください」 トンちゃん「何がたちの悪い冗談かね。わしはキム・ソーショキを呼べと言っとるだけじゃ」 北「キム総書記様に、どんな御用でしょうか?」 トンちゃん「最近のキム・ソーショキの行動は目に余るものがある。『偉大なる指導者同志』の顔に泥を塗らないように、ひとつ意見をしてやろうと思ってな。ハハハ」 北「・・、ガチャ!!」 トンちゃん「・・・」 おタカ「先生、どうされました?」 トンちゃん「ちっ、切られてしもうたわい。何か気に障ることでも言ったかのう?」
ミズホ「党首、シャミン党のサイトに『拉致はデッチ上げだ』という文章が載っている、と言って世間で大騒ぎしています」 おタカ「だって、デッチ上げなんだからしかたないだろ」 ミズホ「キム・ソーショキが拉致を認めているのに、何でそんな文章を載せるのか、と言ってます」 おタカ「だから、拉致はキム・ソーショキのデッチ上げだと言ってるだろうが」 ミズホ「いや、サイトには『拉致は韓国の安企部によるデッチ上げ』となっているのですが」 おタカ「じゃあ、キム・ソーショキと書き直しとけばいいだろ」 ミズホ「それでいいんですか」 おタカ「ああ、それでいい。それで誰も文句を言ってこんだろう」
おタカ「トンちゃん先生、最近の若い者は常識を知らなくて困りますわ」 トンちゃん「本当じゃ。早くわが『親愛なる指導者同志』の理想をこの国に作り上げねば、大変なことになってしまうのう」 おタカ「我々はまだ引退できませんね」 トンちゃん「そのとおりじゃ」 おタカ「そのためにも、早くあの憎きキム・ソーショキをどうにかしないと」 トンちゃん「そうじゃ。わが『親愛なる指導者同志』のためにも、のう」
― 幕―
| 2002年10月14日(月) |
愛車、当て逃げされる |
今日は朝から忙しかった。 別に、よく売れたから忙しかったわけではない。 午前中一人だったため、修理の受付、部品の受付、現品の箱詰めなど、全部ぼく一人でやらなければならなかった。 それで忙しかったわけである。 さらに、ここ数日続いている鼻風邪が疲れを倍増させた。
午後2時前、やっとのことで一人から解放された。 パートさんが出勤してきたのだ。 しかし、そのパートさんの挨拶代わりの一言が、ぼくの疲れをピークにした。。 「しんちゃーん、こんにちはー」 「ああ、こんにちは」 「オカマ掘られとったね」 「は?」 「ぶっつけられたんやろ?」 「何が?」 「しんちゃんの車」 「えっ!?」 「何ね、知らんかったと?」 「知るわけないやん」 「かなりひどいよ」 ぼくは、頭がボーっとしてしまった。 「ちょっと来て」 ぼくはパートさんといっしょに、車を停めている場所に行った。
「ほら」とパートさんが言った。 これはひどい。 後部のバンパーが見事にへこんでいる。 そのへこみは上までつながっていて、ナンバープレートにまで達している。 ぼくは、これは自分の車じゃないのではないか、と一瞬疑った。 しかし、ナンバーは見慣れたナンバーだ。 当て逃げである。 ここまでひどい傷なら、修理代は優に10万円を越すだろう。 頭の中は、当てられた悔しさよりも、どうお金を工面するかということでいっぱいだった。 来年は車検である。 そのための貯金を崩すわけにはいかない。 「ボーナスで払うか」 しかし、ボーナスは各種ローン(真面目な意味の)の支払いで回らない。 「どうしよう」 迷った挙句、ぼくは保険屋さんに連絡した。 「当て逃げされたっちゃ」 「当て逃げ?!保険使うんか?」 「うん」 「そんなにひどいんか?」 「うん、かなりひどい」 「この間更新したばかりなのに。おまえ等級落ちるぞ」 「仕方ないやん」 「じゃあ、とりあえず警察に連絡せ」 「わかった」 ぼくは電話を切り、警察に連絡した。
「はい、警察署です」 「あの、当て逃げされたんですが」 「場所は?」 「○○町です」 「お名前は?」 「しろげしんたです」 「わかりました。すぐに係のものを行かせます」
15分ほどして警察官がやってきた。 「車はどこですか?」 「こちらです」とぼくは警察官を車を停めている場所まで案内した。 警察官はぼくの車を見るなり、「これはひどいなあ」と言った。 「おそらく、トラックか何かでしょうなあ」 「そうみたいです」 「でも、犯人は見つからないと思いますよ」 「犯人なんかどうでもいいです。一応警察に届けたら、保険がおりると保険屋さんに言われましたから」 「わかりました。車検証と免許証を出して」 警察官は汚い字で、調書を書いていった。 書き終わると警察官は、「じゃあ、事故としてあげときます」言って帰って行った。
それから20分ほどして、修理屋さんが来た。 彼もぼくの車を見るなり、「これはひどい」と言った。 「どの位かかりそうですか?」とぼくが聞くと、「ざっと見積もって13万円ほどやろうね」と修理屋さんが言った。 「やっぱりね」 「免責はどうなっとる?」 「ああ、免責は0です」 「じゃあ、手出しせんですむね」 「先々週、その保険にしたんです」 「ああ、それはよかった」 「今日持って行きますか?」 「いや、明日入庫する。代車が明日戻ってくるけ、ちょうどいいやろ」 「じゃあ、お願いします」
さらに1時間後、保険屋さんがやってきた。 「おれこんな仕事しよるけど、修理前の車見るの初めてっちゃの」 「じゃあ、じっくり見てください」 そして、彼も「これはひどい」と言った。 「修理屋さん、どの位かかると言いよった?」 「13万円ほどかかるらしいよ」 「そうやろの。この傷ならそのくらいかかるやろ」 「まあ、よろしくお願いします」
明日からしばらくの間、愛車とお別れである。
「午後2時に家を出た。 黒崎でサングラスを買った後、友人のH宅に行く。 すでにIが来ていた。 H宅から歩いて八幡駅に向かった。 午後4時、八幡駅に着く。もう、みんな集まっているようだ。 そうそう嫌なものを見た。J子だ。 中学時代の英語の教師だ。 娘を見送りにきたのだ。 Y子が挨拶している。 そして、Y子はぼくを呼んだ。 ・・・」
古いノートをめくっていたら、以上のような日記を見つけた。 そこに書かれているのは、今から28年前の10月13日、高校の修学旅行の初日の様子である。 高校の修学旅行というと、学生最後の修学旅行になる。 そういう特別な行事のしょっぱなに、ぼくが中学の時一番嫌いだった教師J子が現れたのだ。 せっかく忘れていたのに、なにもよりによってこんな日に現れなくてもいいだろう。
J子は、ぼくと同じ高校に通っていた娘の見送りに来ていたのだ。 ぼくと同じ中学出身のY子が、へらへらと挨拶をしていた。 当然ぼくは無視していた。 「このまま知らん顔して、列車に乗ってしまおう」と思っていたのだ。 ところが、Y子がぼくを呼んだ。 「しんたくーん」 「あ!?」 「J子先生よ」 ぼくはどうしようかと迷ったが、離れた場所から、「ああ、どうも」とそっけなく頭だけ下げておいた。
後で、ぼくはY子に文句を言った。 「ばかか、おまえ。J子ごときで、おれを呼ぶな!」 「いいやん。J子先生にお世話になったんやろ」 「誰がお世話になんかなるか」 「J子先生、『しんた君どうしよる?』と心配しよったよ」 「何で、あんな奴から心配されんといけんのか。自分の娘のことでも心配しとけ」 J子先生のことは以前日記にも書いたが、ぼくを毛嫌いしていた先生で、ぼくの母親を4度も学校に呼びつけたことがある。 J子が吹聴したおかげで、ぼくは中学の3年間、問題児扱いされたのだ。 どうしてそんな先生から心配されないとならないのだろう。 高校に入ってからも、問題児しているとでも思っていたのだろうか。 今でも、J子のことを思うと不愉快な気持ちになる。 「とにかく、今後J子が学校とかに現れても、絶対におれを呼ぶなよ」 「呼んでやるけ」
Y子とは小学校からいっしょだった。 小学3年、4年、中学2年の時に、同じクラスだった。 ぼくとはけんか友だちみたいな関係だった。 彼女は小学校の頃から勉強が出来たので、当然T高校に行くものだと思っていた。 それがわざわざ1ランク下げて、ぼくと同じ高校を選んだのだ。 受験の時、横に座っていたので、ぼくは「何で、こいつがここにおるんか」と思ったものだった。 合格発表の日、高校の門をくぐると、そこにY子がいた。 すでに発表を見てきたと言うことだった。 そして言わなくてもいいことを口走った。 「うちの中学、みんな合格しとったよ」 この一言で、合格発表を見る楽しみがなくなった。 おかげで、掲示板に貼り出された自分の名前を見た時、色褪せて見えたのだ。
高校に入ってからも、2年でまたいっしょになった。 いつも中学年でいっしょである。 ぼくが学生時代に楽しかったのは、小3・小4・中2・高2の時だった。 それらの学年は、すべてY子とクラスがいっしょである。 しかし、別にY子がいたから楽しかったわけではない。 ぼくが個性を充分に発揮できたから楽しかったのだ。 ぼくはY子のことを、女として見たことがなかった。 おそらくY子も、ぼくを男として見たことはないだろう。 二人はただの同級生だったのだ。
高校を卒業して、Y子は音大に入った。 ぼくは、長い浪人生活を送った。 再会したのは、社会に出てからのことだった。 ぼくは駅まで自転車で通っていたことがある。 いつものように駅まで急いでいた。 気がつくと、ぼくの横を一台のスクーターが、ぼくの速度に合わせて走っている。 そして、スクーターの人は「今行きようと?」と、ぼくに声をかけた。 ヘルメットをかぶっているので、顔がよくわからない。 『おばさんみたいやけど、近所の人やろか』とぼくは思った。 「はあ、今行ってます」とぼくは言った。 一時沈黙していたが、相変わらずスクーターは併走している。 そして、信号が赤になったので止まった。 すると、そのおばさんが「私よ」とヘルメットを取った。 Y子だった。 「なんか、お前か。近所のおばさんかと思った」 「相変わらず失礼やねえ」 あまり長話は出来なかったが、聞いたところによると、Y子はある高校の音楽の講師をしているとのことだった。 「あんた今何しようと?」 「教えられん」 「教えたっていいやろ」 「じゃあの」 そう言って、ぼくは別の道を行った。
それからY子とは、高校の同窓会で一度会ったっきりである。 結婚して子供が出来たとは言っていたが、今どうしているのだろう。 まあ、あいつがどうなっていようと、ぼくの知ったことではない。 たまたま古い日記を見て、思い出しただけなのだから。
| 2002年10月12日(土) |
メンソレータムとオロナイン軟膏 |
長崎屋で勤めていた頃、昼食といえば、店員食堂だった。 だいたいそこを利用していたが、一度だけ隣のビルにあったお好み焼き屋に行ったことがある。 その店は自分で焼かなければならなかった。 焼きあがるまでけっこう時間がかかるので、ぼくはタバコでも吸おうと、そばにあった灰皿をとった。 ところが、その灰皿は鉄板の熱でかなり熱くなっていた。 「あちーっ!」 すぐさま水の入っているコップに手をあて、患部を冷やした。 右の親指と人差し指、「こりゃあ、完治1,2週間はかかるやろう。こんなとこに包帯でも巻いたら、箸もつかめんわい。困ったのう」と憂鬱な気分になった。 とりあえず、お好み焼きを痛む手を操って食べ、職場に戻った。
職場に戻ったぼくは、さっそく薬箱の置いてある事務所に行った。 「やけどしたんやけど・・」 そこには女性の事務員がいた。 「まあ、どうしたんね」 「お好み焼き屋で灰皿取ろうとして」 「ああ、灰皿が焼けとったんやね」 「ちょっと見せて」 ぼくが指を差し出すと、事務員は「ああ、これは火ぶくれが下がるねえ。なんかいい薬なかったかなあ」と言い、薬箱の中をあさった。 「何もないみたいやねえ。とりあえず、メンタムでも塗っとき」と言って、その人はガーゼにメンソレータムを塗りたくり、それを患部に当て、包帯でぼくの二つの指をぐるぐる巻きにした。 「ま、どうにかなるやろ。お大事に」 「ありがとうございました」 ぼくは礼を言って事務所を出たが、内心「メンタムなんかで治るんやろか」と思っていた。 仕事中、かなり指がうずいていた。 職場の人が「病院に行ったほうがいいよ」と言ってくれたが、その当時からぼくは病院嫌いだった。 「いや、精神力で治します」と言って、ぼくは耐えていた。
家に帰り、もう一度メンタムを塗りなおして、その日は風呂に入らずに寝た。 夜中もかなり指がうずいていた。 が、その頃からメンタムが効いてきたのだ。 指がうずきだすと、メンタムが効いてスーッとする。 最初は心臓の動機に沿って襲ってきた痛みも、1分おき、2分おきと痛みの周期が長くなってきた。 そのうち痛みよりも、メンタムの心地よさを意識するようになり、ぼくはいつの間にか眠ってしまった。
翌朝、痛みは完全になくなっていた。 包帯を取ってみると、患部は若干硬くなっていたが、火ぶくれは下がってなかった。 用心のために、もう一度患部にメンタムを付け、包帯を軽く巻いてい家を出た。 しかし、仕事中にいつの間にか包帯がはずれていた。 いつはずれたかもわからないほど、ぼくの指は回復していたのだ。
それ以降、ぼくはメンタムを万能薬扱いにし、常備するようにした。 切り傷にもメンタム、デキモノにもメンタムである。 切り傷にはすり込まず、大目の量を軽く患部に乗せるのがいいようだ。 またデキモノの場合は、いったん出来てしまうと、いくらメンタムでも治せない。 出来始めに付けるのが効果的である。
さて、何でメンタムの話を長々としてきたかというと、実は今ぼくの小鼻にデキモノが出来ているのだ。 最初はちょっと痛痒い程度だったが、そのうちにうずくようになってきた。 よく見ると、うずいているところから血が出ている。 最初のちょっと痛痒い時にメンタムを塗ればよかったのだ。 うずきだしてからメンタムを塗った、それもすり込んだものだから、逆効果になってしまった。 おそらくすり込んだ時にばい菌が入ったのだろう。 小鼻がただれてしまった。 さらに飛び火して、鼻の下も腫れてきだした。 おまけに首筋のリンパが腫れてしまい、口を開くのも億劫だ。 もはや、メンタムでは埒が明かない。 ということで、昨日薬局に相談に行った。 すると、「何で、メンタムなんかつけるんですか!」と、叱られてしまった。 「そういう時は、何をおいてもオロナインです!」 そう言って、薬局の人はぼくにオロナインを薦めた。 オロナインなら家にあるので、ぼくは買わずに帰った。 「まあ、薬局の人が言うんだから」と、昨日からオロナインを塗っているが、なるほど効き目があるようだ。
オロナインに興味を持ったぼくは、大塚製薬のサイトを覗いてみた。 すると、そこには「オロナイン軟膏、発売50周年記念」というようなことが書いてあった。 なるほど、キャンペーンをやっているのか。 それで薬局の人が薦めたわけか。 そう思うと、ぼくの小鼻はまたうずきだした。 しかたない、メンタムでも塗っておくか。
ぼくが小学生の頃は、10月に運動会をやっていた。 だいたい10月10日前後だったと記憶している。 今は運動会といえば、だいたい5月か9月にやっている。 何も好き好んで、汗ばむ季節にやらなくてもいいと思うのだが。 やはり運動会は、10月のさわやかな風の中で行うのがベストだと思う。
さて、ぼくは、柔道を始めてからO脚になったせいもあり、今はあまり足が速くないほうだが、その頃は、まあまあ足の速いほうだった。 よくクラス対抗リレーや紅白対抗リレーに借り出されていた。 かけっこのほうも、だいたい1番だった。 小学6年の時だったが、ハードル走で、運動神経がよく足が速いと言われている男と走ったことがある。 ところが大方の予想に反して、ぼくのほうが速かった。 最初から独走状態だった。 しかし、最後のハードルを飛びそこなってしまった。 足を引っ掛けて転倒、結局その時の順位は5位。 小学校生活最大の汚点を残した。 後に友人に「おれのほうが速かった」とアピールしたが、誰も信じてくれず、「お前が、あいつに勝てるわけないやんか。そんなに言うなら、中学の運動会で証明してみ」と言われた。 中学の時には、もう柔道を始めていたので、かなり足が遅くなっていた。 そのため、ぼくのアピールも無効になってしまった。
これはぼくたちの小学校だけかもしれないが、運動会になると決まって流行るものがあった。 それはサポーターである。 足首にサポーターを着けると、足が速くなるという噂が学校中に流れたのである。 そういえば、足が速いといわれている人間は、みなサポーターを着けている。 「そうか、あいつらの足が速いのは、サポーターのせいだったのか」と、単純なぼくたちは、さっそく文房具屋で、サポーターを買い求めた。 なるほどサポーターを着けると、足が軽い。 「やはり、これを着けると足が速くなるんだ」と勘違いしてしまった。 ある男は、サポーターを10個ばかり買い込み、足中にサポーターをつけていた。 ぼくが「それだけつけると、かなり足が速くなるやろ」と聞くと、その男は「おう、効きよるぞ。足がジンジンしてくるけ」と言った。 「ほんとか! やっぱりサポーターは効くんやのう」 バカなぼくたちのサポーター神話は、その男の一言で不動のものになった。 要は、血行が悪くなって、足が痺れただけである。 結局、サポーター10個男はドベだった。 きっと足が思うように動かなかったのだろう。 情けない・・・。
組体操は5年の時からやった。 「ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ」という先生の笛に合わせて、サボテン、帆掛け舟、扇、ピラミッド、やぐらなどの形を作る。 今やれと言われても、きっと出来ないだろう。 仮に体が動いたとしても、怪我が怖い。 やはり、小学生の頃は、誰も向こう見ずだったのだろう。 ぼくが6年の時、5年生がやぐらの上から落ち、腕を折ったことがある。 今なら親が出てきて大変なことになるが、当時は親が学校のことに口を挟むようことはなかった。 ぼくたちの親は、そのほとんどが大正や昭和一桁生まれなので、聖職である先生に物申すなんてとんでもないことだったのだろう。 もちろん、聖職の先生も誠意を尽くしたのだと思う。 大問題に発展するようなことは、決してなかった。
運動会のメインエベントといえば、何といっても騎馬戦である。 ぼくたちの学校では、騎馬戦と呼ばず、川中島と呼んでいた。 今のように帽子取りや旗取りをするのではなく、真剣勝負だった。 入場する時も、有名なあの「鞭聲粛々 夜河を渡る〜」という詩吟をかけ、演出を盛り上げていた。 大将は、はちまきに三日月マークをつけていて、かっこよかったのを覚えている。 だいたい大将になるのは、体の大きな相撲の強い子だった。 この時ばかりは、PTAの子息であろうが何であろうが、無視である。 先生は勝ちにいっていたのだ。 とにかく、させるほうも、やるほうも、真剣だった。 運動会が終わった後も、しばらく川中島の話題で盛り上がったものだ。 やはり、運動会は騎馬戦が最高である。
運動会の翌日、月曜日が後片付けとなったため、火曜日が代休になることが多かった。 その代休の日に何をやっていたのかというと、近所の子が集まっての運動会ごっこだった。 校長先生の挨拶の真似から始まり、万歳三唱まで、まったく同じようなことをやっていた。 ぼくたちの地域では、毎年2回運動会をやっていたことになる。 休み明けに友人から、「昨日何をしよった?」と聞かれると、いつも「運動会」と答えていた。
かつて、ぼくの住む団地に花之助という猫がいた。 オスのきじ猫で、えらく人懐っこかった。 ぼくが帰ってくると、どこからともなく鳴き声が聞こえてくる。 お出迎えである。 「ミャー」と声を上げて、ゆっくり近づいてくる。 ぼくの足元まで来ると、突然尻尾を立て、何度もぼくの足に体を擦りつけ、ぐるぐる回っている。 ぼくはしゃがみこんで、花之助の背中をなで、あごの下をくすぐってやった。 花之助は「グルグル」とのどを鳴らしている。 しばらくそうやって遊んだ後で、ぼくは家に向かった。 ところが、ぼくが家に戻ろうとすると、花之助がぼくについてくる。 ぼくが階段を上ると、さっと先回りして、階段の踊り場で待っている。 で、ぼくが方向転換して、階段を下りると、花之助はまた先回りして階段の下で待っている。 何度か鬼ごっこをやった後、花之助のすきを突いて、ぼくはさっと家の中に入った。 花之助はドアの向こうで、しばらく「ミャーミャー」鳴いていた。 きっと寂しかったのだろう。 最近花之助を見かけることがなくなった。 猫修行にでも出かけたのだろうか。 もしくは死んだか。 いつかぼくは花之助に歯磨き粉のにおいを嗅がせてやろうと思っていたので、もし死んだとしたら残念なことである。
花之助もそうだったが、猫というのは寂しがり屋である。 以前、親戚が2日ばかり家を開けるので、仕事が終わってからでいいから、行って猫に餌をあげてほしいと頼まれたことがある。 その猫はぼくには懐いてなかった。 しかし、よほど人恋しかったのだろう。 ぼくが親戚の家に入ると、その猫はぼくに寄り添ってきて甘えだした。 今まで見せたことのない行為だった。 餌を食べた後も、ぼくのそばから離れようとはしなかった。 ぼくが帰ろうとすると、「ミャーミャー」鳴き、ぼくの前に立ちはだかった。 きっと、ぼくを行かせまいとしていたのだろう。 しかたないので、翌日は、朝までいっしょにいてやることにした。 その間、猫はぼくのそばから離れなかった。 しかし、親戚の人が帰ってくると、もはやぼくは用なしである。 ぼくを見るとコソコソと逃げて行った。
猫はマッサージが好きである。 何年か前、太宰府の都府楼跡に行った時に一匹の猫と出会った。 ぼくを見ると近づいてきたのだ。 いつものように、ぼくは猫をなでてやった。 普通はこれで終わりなのだが、その時はどういうわけか、猫にマッサージをしてやりたくなった。 猫の肩をもむわけはいかないので、頭をマッサージすることにした。 しばらく頭を揉んでいると、猫は恍惚状態になった。 おそらく頭が凝っていたのだろう。 実に気持ちよさそうな顔をしている。 しかし、猫は頭が凝るようなことがあるのだろうか。 どう見ても、頭を使っているようには見えない。
ところで、猫に関していつも疑問に思っていることがある。 それは花之助のところで書いた、尻尾を立て足に体を擦りつける仕草である。 猫はよくそういう仕草をするが、あれはいったい何を意味しているんだろう。 トムとジェリーで、トムが飼い主の奥さんの足に擦り寄っていたことがある。 犬のスパイクとトムのどちらかを追い出そうという話が出た時、追い出されまいとしたトムが必死に飼い主の機嫌を取っていた。 その場面ではあの仕草は、甘えているのであり、「これだけ、あなたのことをお慕い申し上げております」という愛情表現だった。 しかし、あれは本当に甘える仕草なのだろうか? 愛情表現なのだろうか? もしかしたら、友好のしるしなのかもしれない。 「君とぼくは、今日から友だちだ。仲良くしようぜ、兄弟」と言っているのかも知れない。 さらに、自分がボスだと認めさせる行為かもしれない。 「おれのにおいをつけてやったから、今日からお前はおれの子分だ。困ったことがあったらいつでも言ってこい」 動物の社会は、力関係で成り立っているから、案外こういうことなのかもしれない。
まあ、猫にしかわからない世界ではあるが、そのへんを知りたいと思っている。
先日読んだ本に面白いことが書いてあった。 日本人は、猫が好きな国民だということだ。 その証拠に、猫を使った言葉が実に多い、ということだった。 はたしてそうだろうか、とぼくは辞書で調べてみた。 なるほど確かに多い。 「猫に小判」「猫の手も借りたい」「猫も杓子も」「借りてきた猫」「猫の額」「ねこばば」「猫をかぶる」「猫背」「猫舌」「猫にかつおぶし」「猫なで声」「猫足」「猫目」「猫いらず」「猫かわいがり」などなど。 ペットの対抗馬である犬のほうを見てみると、 「犬猿の仲」「犬も食わぬ」「犬も歩けば棒に当たる」「犬畜生」「犬死に」「犬釘」くらいのものだった。 まあ、言葉が多いというだけで、猫好きの国民だと片付けることは出来ないかもしれないが、猫好きで犬嫌いのぼくとしては嬉しいことではある。
以前親戚の家で、犬と猫を飼っていたことがある。 最初に飼ったのは犬のほうだった。 当初は家族一同の愛情を注がれていた。 ところが新参者の猫の登場で、状況は一変した。 猫は愛想も糞もないが、みんなに可愛がられた。 一方の犬には誰も見向きもしない。 それでも、みんなに気にしてもらおうと、「ヒーン」と鼻で鳴いたり、尻尾をしきりに振ったりしている姿が哀れだった。 当然犬は、「あの猫さえいなければ」と思うようになり、隙あらば懲らしめてやろうと構えていた。 猫のほうは、ただの興味本位で犬を眺めていた。 そして、時にはちょっかいを出す。 鎖の届かないギリギリところまで来て、猫パンチを繰り出している。 たまに鎖がはずれていたりすると、それはもう大変だった。 トムとジェリーさながらの追っかけっこが始まる。 最後は、猫が屋根に上り、犬が地団太を踏む、という構図で終わった。
親戚の犬はかわいそうだった。 穴を掘ると叱られ、吼えると物を投げつけられ、人を噛むと叩かれていた。 いつも鎖につながれて自由はない。 毎晩9時になると鎖をはずしてやっていたのだが、人を噛むといけないのでいつも口輪をつけられていた。 9時になるとしきりに「ヒンヒン」と鼻で鳴き出す。 「早く口輪をつけて放してくれ」と言っているのだ。 口輪を見た時の興奮の仕方は、実に哀れだった。 興奮しすぎて、小便まで漏らす始末だった。
猫のほうは、幸せだった。 小言も言われないし、餌には困らない。 出入り自由で、クッションまで準備されている。 金魚を食べても咎められなかったし、柱を引っかいても文句を言われなかった。 芸を仕込まれることもなく、ただのほほんと生きていた。
こうやって書くと、誰でも犬に同情するだろう。 猫に嫌悪感を感じるだろう。 しかし、それでもぼくは犬が嫌いなのだ。 それでも猫が好きなのだ。 犬のどこが嫌いかと言うと、人に媚びるようなあの目と、優等生ぶる態度である。 猫のどこが好きかと言うと、何ものにも縛られないあの奔放さと、どんなに可愛がられても我関せずという一貫した態度である。 この好き嫌いは、おそらく一生変わらないだろう。
今日は肌寒かった。 天気予報でも、今日の北九州地区の平均気温は20度を切った、と言っていた。 いつまでも夏にこだわり、夏気分を捨て切れなかったぼくも、ついに秋を認めた。 ぼくは毎年、10月に入っても夏にこだわって、頑張れるところまで半袖を着ている。 しかし、今日は素直にそのこだわりを捨てた。 ついに長袖を着て外出したのだ。 また家の中にいる時、昨日まではTシャツとトランクスだけだったのだが、今は上はTシャツ一枚でいるものの、下はジャージをはいている。 昨日まで開けていた窓も、今は閉めている。
さて、今日の夕食はすき焼きだった。 いよいよ鍋物の登場である。 すき焼きといえば、昔は肉を中心に食べていたのだが、最近は野菜を中心に食べるようになった。 健康のことを考え、意識的に野菜を食べるようになったのではなく、ただ嗜好が変わっただけの話である。 昔あれだけ嫌いだった白菜が、今は一番好きになっている。
ところで、ぼくは「水炊き」や「もつ鍋」といった鍋物の本場福岡に住んでいながら、鍋物(すき焼きを除く)が苦手である。 特に豆腐が入ったものは、ぜんぜんだめである。 だから宴会などをやる時は、鍋料理の店などは避けるようにしている。 仮に他の人の意見が強くても、ぼくはいい顔をしない。 その理由をぼくはいつも、「冬が嫌いだから、冬を連想させる鍋物が嫌いだ」と言っている。 しかし、これはある理由を隠すためのこじつけである。 冬料理でも、おでんのように好きなものはある。 また、その理由からすれば、冬の果物も冬を連想するから嫌いということになるはずだが、ぼくが果物の中で一番好きなのは、冬の果物の代表選手であるミカンである。 ということは、当然この理由は通らなくなる。 が、それに気づいた人はいない。
ぼくが鍋物を嫌いな理由は他にある。 実はそれは、ぼくの肉体的欠陥にあるのだ。 その欠陥というのが、「猫舌」である。 人と外食をする時、先にぼくの料理が運ばれてきた場合、ぼくは箸をつけないでいる。 その人は「遠慮せんで、先に食べていいよ」と言ってくれるのだが、それでもぼくは箸をつけない。 もしかしたら、その人は「気配りのある、いい人だなあ」と思っているかもしれない。 しかし、ぼくはそういう人間ではない。 「気配りのない、悪い人」である。 先に箸をつけないのは、ただ料理が熱いからである。 その証拠に、その人の料理が運ばれてきてからも、しばらくぼくは料理に箸をつけないでいる。
「熱いのがだめだと言うのなら、おでんだってだめなはずじゃないか」と言う人もいるだろう。 いや、そうではない。 おでんの場合は、ぼくの食べるものが決まっているからいいのだ。 ぼくの食べるものは、きんちゃく・大根・玉子・丸天である。 これを先に取って、後は冷ましておけばいい。 おでんは鍋物よりも、ずっと回転が遅い食べ物である。 もしそれで足りなくても、まだたくさん残っているから大丈夫なのだ。
そういえば、一ヶ月ほど前の「探偵ナイトスクープ」で、猫舌は治ると言っていた。 しかし、そのためには努力が必要だということだった。 その努力とは、熱い物を食べ慣れることである。 しかし、ぼくには無理である。 最初の一歩が踏み出せない。 最初の一歩である「食べる」ことが出来ないのに、「食べ慣れる」なんて出来るわけがないじゃないか。 そんなことするくらいなら、一生鍋物を食べなくてもいい。
これから年末年始にかけて、宴会の数も増えてくる。 そこでお願いなのですが、鍋物好きの人、頼むからぼくを誘わないで下さい。 どうしてもぼくを誘うなら、焼き鳥か、おでんにして下さい。 もしくは二次会からにして下さい。 飛んで行きますから。
ぼくのハンドルネームは、本名をもじってつけている。 前にも言ったが、「しんた」がその本名をもじったほうだ。 さて、何と言うでしょう?
あ、今日はそういうのがテーマではなかった。 昨日、売れ筋商品の在庫が切れていたので、注文することした。 発注は、店名・担当者名・商品名・型式及び数量を注文書に書いてFAXを流すだけの簡単なものである。 そこにぼくは必要事項を書き込み、最後に担当者名を「しんた」と書き入れて流した。 もちろん昨日は日曜日なので、納品に対する返事は来なかった。 ということで、今日その返事が来たわけだが、納品日は10月8日になっていた。 普段はその納品日を確認すると、あとは書類入れの中に入れてお終いなのであるが、今日はちょっと事情が違った。 その返信用紙のある一点に、ぼくは目が釘付けになってしまったのだ。 その一点とは、宛名のところだった。 何とそこには、「トンタ サマ」と書いてあったのだ。 『これは笑える。誰かに見せないと』とぼくは思い、隣の売場に見せに行った。 「おーい、これ見てみ」 「え?」 「何か変やろ」 「どこが? 送信元N社やろ、10月8日お届けやろ。別に変じゃ・・。あ、何これ! ハハハ、とんた様、ハハハ・・・」 しかし、どうして「しんた」が「とんた」になるのだろう。 発注書を見返してみたが、ちゃんと「しんた」になっている。 誰に見せても、「しんた」だと言う。 仮にFAXで文字が流れたにしろ、これを「とんた」と読む人はまずいないだろう。 しかし、N社の人だけが「とんた」に見えるのだ。 一度、お会いしてみたいものである。
ところで、ぼくの名前はよく読み間違えられる。 もちろん漢字で書いた場合だが、当用漢字的な読み方をすれば、まず間違えるようなことはない。 ところが、どういうわけか、変に難しく読む人がいるのだ。 何人かに一人は、「えーと、何とお読みしたらいいんですか?」と聞いてくる。 ぼくは『おいおい、素直に読めよ』と思いながらも、「しんたと読みます」と答えている。
最初にやられたのは高校の頃だった。 2年の時、保健委員を決める選挙で、ひらがなで「しんか」と書いた人がいる。 「しんた君。しんた君。・・・。しんか・・、え、何これ?」 もちろん爆笑である。 その選挙が終わってからしばらくの間、意地の悪い友人から「おい、しんか」とぼくは呼ばれていた。 また、東京にいる頃、下宿のおばさんは最後まで正しく呼んでくれなかった。 最初は気にならなかったのだが、あまり頻繁に間違えるので、一度注意したことがある。 おばさんは、「ああ、そうだったね」と言って詫びたが、次に呼ぶ時はまた元に戻っていた。 もう二度と注意する気にはならなかった。
前の職場にいた時、上司に「上島」さんという方がいた。 「うえじま」と読むのだが、この人はこだわる人だった。 FAXの返信用紙に「ウエシマ」と書かれていたら、さっそく送信元に電話をかけて「さっきFAXが流れてきて、『ウエシマ』と書いてあったんだけど、ぼくは『ウエジマ』です。ちゃんと覚えとって下さい」と言っていた。 一度返信用紙に、「ウレシマ サマ」と書かれていたことがあった。 彼の顔色は見る見る変わっていった。 もちろん、即電話である。 「今FAXを流した人は誰ですか。ぼくはねえ、『ウレシマ』じゃない!どこをどう読んだら『ウレシマ』になるんですか!ぼくは『ウエジマ』なんです」と文句を言っていた。 「馬鹿が。別にそんなこと、どうだっていいやん」と思いながら、ぼくはその面白いやり取りを聞いていた。
昔ドラマで「ムー一族」というのがあったが、その中で樹木希林が名前にこだわる人の役をやっていた。 「カネダさん」 「カネ『タ』です」 学生の頃には、よくこんなこだわりを見せる人がいた。 最近はこういう光景を見る機会も少なくなったが、たまにこういう人を見かけると、ぼくは面白がって、そのやり取りを聞いている。
今もそうだが、ぼくの通った小学校は国道の西側にある。 今は国道の東も西も住宅街になっているが、ぼくが小学生の頃は東側が住宅街で、国道の信号を渡り、一歩西側に入ると風景が一変した。 突然ど田舎なのである。 しかも、信号を渡り終えると、強烈な臭いがしてきた。 牛の臭いである。 そこには牛小屋があり、さらにその横手に牧場があったのだ。 ぼくは、小学校に入ってから初めてその道を通った。 まさかこんな近くが、こんな状況になっているとは思わなかった。 とにかく小学校の6年間、ぼくはこの牛の臭いに送られて学校に行ったのだった。
その牧場を通り過ぎると、竹林があった。 運動会の時、弓を作るのためにお世話になった事がある。 お世話になったとはいっても、持ち主なんかいるとは思わなかったので、勝手にそこにあった竹を拝借しただけである。 しかし、そのせいで学校にクレームが入るようなことはなかった。 その竹林には、もう一つの思い出がある。 小学2年の時だったか、友人と家に帰る途中、急に友人が「しんた、ちょっと待っとって」と言い、竹薮の中に入って行った。 何をしているのだろうと覗いてみると、なんと友人はそこで野グソをたれていた。 その竹林が人の持ち物だとわかったのは、ごく最近のことである。 実は、ぼくが借りている駐車場のオーナーが持ち主だったのだ。 もちろん「昔、竹を勝手に切らせてもらいました。すいません。それと、友人が野グソをたれました。重ねてすいません」などとは言ってない。 もう時効である。 今はその竹林もなく、○○台という新興住宅地に変わっている。 友人が野グソをたれた所には、○野さんという方の家が建っている。 もちろんそのことを○野さんは知らないし、仮に知ったとしても、もう時効である。
その竹林を過ぎると、そこから道は線路と平行する。 小学生当時はまだSLが走っており、ぼくたちが手を振ると機関士さんは汽笛を鳴らしてくれた。 その頃はまだ石炭が盛んな頃だったので、貨物列車がしょっちゅう走っていた。 学校は踏み切りの向こうにあった。 そのため遮断機が下りている間、ぼくたちはいつもコンテナの数を数えていた。 だいたい50両前後だった。 1両でも多い貨物列車を数えた時は、みんなに自慢したものだった。 「おい、今日60両あったぞ」 「うそつけ」 「ほんとっちゃ」 「じゃあ、今度61両のを数えちゃるわい」 友人は悔しそうな顔をしていた。 今考えると、どうでもいいことである。
線路脇には水路があって、そこにはたくさんの魚が泳いでいた。 小学1年の時に「メダカの学校」という歌を習った時、ぼくは本当にメダカの学校があると思っていた。 そこでその水路のふちに座り込んで、メダカの行方を追っていたことがある。 しかし、どこにも学校はなかった。 面白くなかったので、水路の中に大きな石を投げ込んだ。 その水しぶきが2級上の女子にかかってしまい、服を汚してしまった。 謝ろうかとも思ったが、その人はいつもツンとすましている人だったので、ぼくは「バーカ」と言って逃げた。 今考えると、悪いことをしたと思う。 が、もう時効である。
農閑期になると、田んぼには藁が積まれていた。 ぼくはこれを初めて見た時、そこにブー・フー・ウーが住んでいると思っていた。 「これじゃあ、狼に吹き飛ばされてしまうばい」と真剣に思っていた。 高学年になると、ぼくたちはその藁の上で、空中回転やバク転の練習をしていた。 その傍らで、ぼくらは思い思いに立小便をした。 藁を積んでいた田んぼは、いつの間にか住宅地になり、地価もかなり高くなっている。 まさかぼくらの小便で、値がついたわけではないだろう。
ぼくが小学生の頃にあった風景は、今はもうない。 今は普通の住宅地である。 高校に入った頃、ぼくの住んでいる所をド田舎と言った人たちがいた。 しかし彼らは、牛小屋の臭いを知っているのだろうか? 野グソをたれたことがあるのだろうか? SLの機関士に汽笛を鳴らしてもらったことがあるのだろうか? メダカを見たことがあるのだろうか? 田んぼに積んである藁に触れたことがあるんだろうか? 考えてみると、彼らはそういうド田舎に触れることなく成長していった、かわいそうな人たちである。 密集した住宅地に住みながらも、ド田舎で学校生活を送ったぼくは幸せだった。
昨日の日記も翌朝、つまり今朝の更新になった。 実は昨日飲みに行ったのだ。 午後7時から飲み始めて、帰ってきたのは午前2時を回っていた。 最初はビールで乾杯、それから焼酎のお湯割り、さらに焼酎の水割り、最後は焼酎のロック、とガンガン飲んだ。 おかげで、眠たくなるわ、頭がうずくわ。 で、家に帰ると何もしたくなくなっていた。 家に帰ってからすることといえば、そう、日記の更新である。 とにかく、体が言うことを聞かない。 しかたなく、朝起きてから書くことにした。
さて、横になったまではよかった。 が、それからがいけなかった。 頭痛がひどくなったのだ。 枕の上に乗せた頭が、凄い勢いで脈打っている。 そのたびに来る、のた打ち回るような痛み。 久しぶりにこんな痛みを経験した。 「このままくも膜下で死ぬんじゃないか」と思ったほどだった。
しかし、このまま頭痛に負けていたら、いつまでも眠ることが出来ない。 眠ることが出来ないと、日記の更新も危うい。 ということで、ぼくは対策を練った。 鎮痛剤を飲めば治るのかもしれないが、それはしたくないので、頭をマッサージするなどしていた。 が、埒が明かない。 「何かよい方法はないか」と考えを巡らしていると、ふと先日書いた日記のことを思い出した。 「病気とは、病を気にすること」 言い換えれば、病を気にするから病気になる、ということだ。 「じゃあ、この理屈を頭痛に応用してみるか」とぼくは思った。 つまり、頭の痛みを気にするから頭痛になるのだ。 それなら、気にしないようにしよう。 そのためには、気持ちを頭痛から切り離すのが一番だ。 さっそく、ぼくはこの方法を実践することにした。 気持ちを頭痛から切り離して、頭のどこの部分が痛いのかを観察してみた。 まず後頭部に痛みがあった。 そこで、後頭部に意識を集中して、「痛みよ、出て行け!」と強く思った。 すると、痛みが体の外に出て行くような感覚があった。 その瞬間、痛みが消えた。 しばらくすると、また頭が痛くなった。 今度は右側頭部だった。 同じように、右側頭部に意識を集中して「痛みよ、出て行け!」と強く思った。 側頭部の痛みが消えた。 この作業を何度かするうちに、ぼくは眠りについていた。
5時に一度目が覚めた。 まだ若干痛みが残っている。 そこで、また「痛みよ、出て行け!」をやってみた。 今度も痛みは消えた。 いいことを発見した。 これで頭痛も怖くない。 「頭痛よ、ドンと来い!」である。 朝7時に起き、内容は気に入らなかったが、なんとか昨日の日記の更新を終えた。 会社に行ってからも、相変わらず頭痛が襲ってきたが、もう気にはならなかった。 暇になると「痛みよ、出て行け」をやっていた。 そのうちに頭痛は完全になくなった。
この方法は腹痛などにも応用できるかもしれない。 もしかしたら、風邪にも効果的かもしれない。 鼻が詰まったら、鼻に意識を集中して、「わが道を塞ぎし魔物よ、汝、速やかにこを立ち去れ!」とでも思ってみるか。 そうしたら、スッと鼻が通るかもしれない。 のどの痛みにもやってみるか。 もし、これがうまくいけば、「風邪よ、ドンと来い!」である。 いやー、今年の冬の楽しみが出来たわい
健康診断の時、毎回言われることがある。 それは血圧のことである。 案の定今回も、「血圧が高いですねえ」と言われた。 そこでぼくは、「はい、健康診断の時だけ高いです」と答えた。 係の人はムッとしていた。 だけど、血圧が高いのは、本当に健康診断の時だけなのである。 家で計ると、ちゃんと正常値を示しているのだ。 「いったいどちらが本当なんでしょうね?」 健康診断の係員は答えられなかった。 その程度だろう。 だいたい建前だけの健康診断なんだから。
さて、今回の健康診断で愕然としたことがあった。 それは、視力が低下していたことだ。 前回は右0.9左0.8だったのが、今回は両眼とも0.7になっていた。 ぼくの健康診断史上最低の記録である。 ぼくは小学生の頃から目がよく、20代前半まではだいたい1.5〜1.2だった。 20代後半から若干視力が落ちたものの、昨年までは1.0と0.9を行ったりきたりしていたのだ。 別に0.7ぐらいなら、そんなに愕然とする必要はないじゃないか、と思われる方もいるかもしれない。 しかし、実は今回はっきり見えていたのは0.3までで、それ以上は勘に頼っていたのだ。 左にいたっては乱視が入っているので、「C」の文字が揺れる揺れる。 「もう一回いいですか?」と、何度かやり直しさせてもらい、0.7に行き着いたのである。 ついにパソコンライフがたたってきたか。 近々運転免許証の更新があるので、早めに治しておかなければ。
さて、レントゲン撮影のため、車の外で順番待ちしている時だった。 ノソノソと猫が歩いていた。 ぼくは猫を見ると、反射的に「チチチ」と舌を鳴らして呼ぶ癖がある。 いつものように「チチチ」と猫を呼んでいると、猫は立ち止まってぼくのほうを見た。 そしてそのまま座り込み、毛づくろいを始めた。 そこでぼくは猫のほうに寄って行った。 ノラだったが人馴れしているようで、ぼくが寄って行っても逃げようとはしなかった。 しかし、猫というのは指を突き出すと、どうしてにおってみるのだろう。 この猫もそうだった。 目をうつろにして、鼻をピクピクさせている。 ただ他の猫と違っていたのは、この猫はにおうだけではなく、ぼくの指先を舐め出したのだ。 ザラザラした猫の舌が、ぼくの指に触ってくる。 あまり感じのいいものではない。 朝は健康診断のため食事をしてないのに、どうしたんだろう。 検尿した時、尿の飛沫がかかったのだろうか。 それとも、朝方、お尻を拭いた臭いが指先についていたのだろうか。 それにしても、猫はおいしそうに舐めている。 そのどちらにしても、ぼくの体に異常はないことになる。 猫も健康な尿や便だから舐めるのである。 ということは、来年からは健康診断を受けなくてもいい。 猫に尿や便を舐めさせればいいのだ。 猫が無事に尿や便を舐めたら健康。 渋ったら異常あり。 検査員「ミーちゃん」とでもして、印鑑代わりに肉球を押させるか。
今日は健康診断だった。 ぼくが受けたのは心電図と採血と血圧測定とレントゲン撮影で、いつものように検便と胃透視は拒否した。 周囲の人が「しておいたほうがいいよ」と言ってくれるのだが、本人に何も自覚症状がないのにする必要もないだろう。 それに、ぼくは病はすべて一過性だと思っているので、自覚症状があっても、あまり気にしない。 何か見つかったとしても、その時たまたま具合が悪かっただけである。 その「たまたま」を見つけた時、健康診断の人は鬼の首を取ったように大騒ぎする。 しかし、健康診断の結果というのは、ただの点なのである。 今回何かが見つかったからといって、次回そうであるとは限らないのである。 どんなことでも、流れを見ずに点だけを見つめると、ろくなことはない。 放っておけば治るものを、変にいじって、もし大病にまで発展したら、彼らはどう責任を取ってくれるのだろう。
よく健康診断で癌が見つかったという話を聞く。 それはもう大騒ぎしている。 「○○さん、健康診断で癌が見つかったらしいよ」 「あら、お気の毒に。まだ若かったのにねえ」 「癌」という一言で、その人は死んだような扱いをされる。 しかし、どんな人にも癌細胞はあると言われている。 ということは、その人は、健康診断で調べた箇所にたまたま癌細胞があっただけの話である。 例えば、胃に癌が見つかったとすれば、その人の癌細胞は胃にある、というだけのことだ。 逆に、他の人はその箇所には癌細胞はないが、他の箇所にはあるということになる。 もし癌というのが死に至る病気だとしたら、双方癌で死ななければならない。 ところが、死ぬのはいつも、健康診断で癌が見つかったほうである。 これはおかしい。 そこでぼくは、「なぜ発見されなかった人が死なないのか」を考えてみた。 一つに、それらの人が癌を気にしなくてすむ、というのがある。 癌は誰もが持っているというのなら、それは自然のことなのだ。 ということは、癌自体は病気ではないということになる。 では、病んでいるのはどこか? 心である。 昔から病気というのは「気を病むこと」と言われているが、ぼくはそうは思わない。 病気というのは、病を気にすることだと思っている。 つまり、病んでいるのは癌の住んでいる肉体ではなく、癌を気にする心だということである。 もう一つは、変に体をいじられなくてすむ、というのがある。 あって当たり前のものを切り刻んだり、薬で殺したりするから、体が変調をきたし、抵抗力をなくし、挙句の果てに死に至ってしまうのだ。
そう考えていくと、「癌は本当に恐ろしいものなのだろうか?」と疑いたくなってくる。 そもそも癌が怖い病気だと世間に植えつけたのは、学者であり医者である。 今更彼らの口から「癌は治る病気である」「癌細胞はどんな人にでもある」、だから「癌を恐れてはならない」などと言われてもねえ。 「癌は怖くない」と信じ込もうとしても、いったん植えつけられた恐怖心は、そう簡単に消えるものではない。 そんな無駄な努力をするよりも、「自分は健康だ」と思い込んで、検診など受けなければいいんだ。 そうすれば、心に余計な負担がかからない。 健康診断とは心に負担をかけるための悪習である。 そんなもの、すぐに止めてしまえ! 誰しも命運尽きれば死ぬのだから、そんなことを気にせずに好きなことをやるのが一番だ、とぼくは思っている。
いよいよ、最後の日になった。 ぼくは各社員に挨拶をすませ、最後に店長のところに行った。 「お世話になりました」 「あ?おれは前に言うたのう、義務を果たせと。まだ報告書を、おれはもらってないぞ」 すでに報告書は出来ていたのだが、ぼくはわざとその日まで出さなかった。 再棚卸の結果は、ぼくの予測どおり思わしくなかったらしい。 店長は焦っていただろう。 それがぼくの狙いだった。 「じゃあ、後で持ってきます」 そう言ってぼくは事務所を出た。 その後売場に戻ったぼくは、部下とバカ話をしていた。 そうこうするうちに午後9時を過ぎたので、ぼくは部下を帰らせた。 店長はぼくの報告書をずっと待っている。 しかし、ぼくはまだ提出しないでいた。 一人で残務整理をしていると、バカチョーが「しんたー」と大声を上げてやってきた。 「何ですか?」 「報告書はまだか。店長待っとるぞ」 「そうですか。あと少しで出来ますから、もう少し待ってくれと伝えて下さい」 「早くしろ!」
それから30分ほどして、またバカチョーがやってきた。 「おい、まだか!?」 「もう少しでーす」 「もう帰るぞ!」 「課長は帰ったらいいやないですか」 「そういうわけもいかん」 「じゃあ、もう少しお待ちください」
10時を過ぎた。 ぼくは用意していた報告書を袋の中から取り出した。 そして、事務所に向かった。 事務所では店長とバカチョー、それに事務所の責任者がいた。 「持ってきたやろうのう」と店長が言った。 「はい、これです。これだけ書けば、充分でしょう」と、ぼくは20枚以上に及んだ報告書を手渡した。 これがぼくの最後の仕事になった。 平成3年10月31日、ぼくは10年8ヶ月働いた会社を後にした。 悲しくもなかった。 辛くもなかった。 感傷に浸ることもなかった。 10年を振り返りもしなかった。 「ああ、やっと終わった」 ただ、それだけだった。
ところで、ぼくは一つ手を打っていたことがある。 それは些細なことだった。 だが、後にそれが波紋を呼ぶことになる。 辞表のことである。 通常辞表というのは、お伺いを立てるという意味で、形の上では「退職願」と書いて出すものである。 しかし、ぼくはそう書かなかった。 「退職届」と書いて出したのだ。 内容も「いついつをもちまして、退職します」という宣言文にした。 辞表を提出して2週間後、それは本社の社長の机の上に置かれていた。 その辞表が常軌を逸していたものだったので、本社の幹部連中が「これはおかしい」と思い、調査に乗り出した。
ぼくにも調査のための電話が入った。 商品部の課長からだった。 「しんた君、辞めるらしいねえ」 「はい、いろいろお世話になりました」 「どうして辞めるんかなあ。理由があったら教えてくれんかねえ」 これは調査だ、とぼくは思った。 そして、わざとぼくは「いやあ、課長が期待しているような理由はありませんよ」と答えた。 「いや、正直に言ってくれていいんだよ。参考にしたいだけだから」 「本当です。そういう理由じゃありませんって」 「じゃあ、どうして辞めるん?」 「やりたいことがあるからです」 「やりたいこと?何だろう?」 ぼくは、「歌手になりたいんですよ。ハハハ」と答えておいた。
「課長の期待している理由」とは、つまり、店長のことである。 4月に新店長として就任して以来、何人もの人が会社を辞めている。 それに加えて今回のぼくの「退職届」である。 いよいよ店長の管理能力が問われだしたのだ。 調査の電話でこういう受け答えをされると、かえって「怪しい」と思うものである。 ついに取締役たちも動き出した。
11月、ぼくが会社に行かなくなってからのことだが、ぼくのことを知っている何人かの取締役から、残留組の10年生に電話が入ったという。 「しんちゃん、辞めたらしいなあ」 「はい」 「何かあったんか?」 「さあ?」 「店長か、問題は」 「よくわかりません」 「そうか・・」
ぼくが辞めた後も、何人かの社員が辞めた。 これで、店長の管理能力のなさが決定的なものになった。 翌年の3月、店長は閑職に追いやられた。 それから現在まで、彼は日の当たらない場所にいるという。 あの「退職届」こそが、ぼくの店長に対する反撃ののろしであった。
(完)
朝礼が終わってから、店長がぼくのところにやってきた。 「こら、お前よくもロスを出してくれたのう」 「すいません」 ぼくは悪びれずに言った。 「謝ってすむ問題か!もう一度棚卸しろ!」 「無駄です」 「あー?」 「無駄です」 「何が無駄か!」 「原因はわかってますから」 「原因がわかっとる? わかっとるなら、どうして防ぐことをせんか!」 「こちらがいくら防いでも、本社のほうで何もやってくれません」 「ふざけるな、やり直しだ!」 ぼくはこの言葉にカチンときた。 店長就任以来、ぼくはとうとう口を開いた。 「何が『ふざけるな』ですか!」 ぼくは店長の目を睨みつけ、一歩前に出た。 店長は後ずさりした。 「何が『やり直し』ですか!」 「・・・」 「何度も何度も、こちらはその件で本社に掛け合ってるんです。それなのに何もしてないようなことを言われたら、誰でも頭にくるでしょうが」 「・・・」 「そっちこそふざけんで下さい!」 「・・・」 「何がやり直しですか!みんな夜遅いから疲れているんです。あんたはそんなこともわからんとですか!」 「・・・」 「後日、その旨の報告書を作って提出しますから、やり直しは辞めて下さい!」 「・・・」 気がつくと、ぼくは店長を壁際まで追い詰めていた。 ぼくがしゃべっている間、店長は一言も口を挟めなかった。 攻撃型の人間は、守勢に回ると脆いものである。 「もう、いい」 そう言って店長は、逃げるようにして戻っていった。
ぼくは報告書作りのために、資料の置いてある事務所に行った。 そこに店長がいた。 ぼくは無視していた。 すると店長はぼくのそばに来て、小声で「しんた君」と言った。 いつもの威勢のいい『おい、しんたぁ!』ではなかった。 先ほどの件がだいぶ堪えたのだろう。 何を言い出すかと思えば、「頼むから、もう一度棚卸をやってくれ」だった。 「何度も言うようですが、無駄なことはやめましょうよ」 「いや、そうしないと、示しがつかんし・・・」 「やるなら勝手にやって下さい。でも、解決にはなりませんからね」 「わかった」 そこには本来の強気なしんたがいた。 おそらく店長は、本来のぼくを見るのは初めてだっただろう。
しかし、ぼくが店長に本来の顔を見せたのは、これが最初で最後だった。 いや、もう一回あった。 「有給休暇の消化をさせてくれ」と言いに行った時だ。 店長は「勝手に会社を辞める奴に、どうして休みをやらんといけんのか!」と言った。 またもやぼくはカチンときた。 「前に辞めた奴が出来たのに、どうして自分だけだめなんですか!?」 店長は「またか」というような顔をした。 そして、急にアホなことを言い出した。 「お前は今、権利を主張したな。じゃあ、義務を果たせ」 「権利?何が権利ですか。いつ権利を主張しましたか?有休消化は就業規則でしょうが」 店長はまたもや話を変えた。 「お前、前に棚卸の資料を提出すると言ったろうが。おれはまだもらってないぞ」 「そんなことが義務ですか?わかりました。それでは義務を果たしましょう。でも、有休はしっかりもらいますから。いいですね」 「・・おう」 店長は憮然とした顔をしていた。
その後、朝礼や会議の場で、店長は相変わらずぼくを罵倒したが、ぼくは『馬鹿が何か言いよるわい』と気にしなかった。 衆目の前で強がる。 これぞ弱い男の典型である。
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