会社に、みんなから「バカチョー」とあだ名されている課長がいた。 やたら部下を怒鳴り散らしている人間だった。 彼は店長の腰ぎんちゃくだった。 自分の考えは何一つ持たず、すべて店長の言うがままだった。 そういう男だから、当然ぼくに対しても風当たりが強かった。
翌9月28日、いつもと同じように、ぼくは開店前の掃除をしていた。 すると、「おーい、しんたぁ」という大きな声がした。 バカチョーである。 「こら、お前、何で商品をこんなに乱雑に置いとるんか!」 隣の売場である。 いちおうぼくが管轄していたのだが、その売場の責任者は他にいるのだ。 「そっちはいいから、こっちをやれ!」と、バカチョーはえらそうに言った。 普段、こういう時は「また始まった」と知らん顔をしているのだが、その時ばかりは対応を変えた。 「ああ、わかりましたっ!」と、バカチョーに負けないくらいの大声で返した。 そして、「そんなに頭ごなしに怒鳴らんで下さい」と言った。 バカチョーはムッとした顔をして、「何をー」と言った。 「それよりも、早くおれの後継者を決めたほうがいいんじゃないですか」 「えっ?」 「おれ辞めますから」 「は?」 「辞めると言ってるんです」 「おれに言うな。おれは知らんぞ。そんなことは店長に言え」 「『おれは知らん』じゃないでしょう。課長が直接の上司なんですから、ちゃんと店長に伝えて下さい」 「知らん」 そう言って、バカチョーはその場から逃げて行った。
その日一日、バカチョーはぼくを避けていた。 翌日、ぼくはバカチョーを捕まえて、「昨日の件、店長に言うてくれたでしょうね?」と聞いてみた。 「いや、まだ言ってない」 「ちゃんと言うて下さい!」 バカチョーは怯えているようだった。 「部下に辞められるということは、管理能力が欠けている証拠だ」と店長に受け止められる、とでも思っていたのだろう。 しかし、ぼくは妥協しない。 バカチョーと顔を合わすたびに、「言ってくれましたか?」と聞いた。 バカチョーもついに観念して、「棚卸が終わってから、言うとくわい」と言った。
翌30日は棚卸だった。 棚卸は、いつも営業時間が終わってからやっていた。 ぼくの部門はCDなど細かい商品を扱っていたため、けっこう時間がかかった。 その日棚卸が終わったのは、午前0時を過ぎていた。 帰る時、ぼくはバカチョーに声をかけた。 「課長、言ってくれたでしょうね」 「今日は遅いけ、明日言う」 「じゃあ、明日必ずお願いしますよ」 そう言って、ぼくは帰った。
翌日、ぼくは店長に呼ばれた。 バカチョーもいっしょだった。 「課長から聞いたんやけど、お前辞めると言ったらしいなあ」 「はい、言いました」 「いつまで、ここにくるつもりか?」 「今月いっぱいです」 「・・・」 「辞表はあとで提出しますから」 「・・・」 店長はそのあと、一言も口を利かなかった。 その後、会議の席上などでは相変わらずぼくを罵倒していたが、マンツーマンでは話を一切しなかった。 このまま辞めるまで、店長と話さないでくれたら楽なのにと、ぼく思っていた。
ところが、思わぬところから、店長とマンツーマンで話さざるをえない状況がやってきた。 棚卸の結果が出て、ぼくの部門が多額の商品ロスを出してしまったのだ。 その部門はオープン当初から、いつも多額の棚卸ロスを出していた。 CDという商品の性格上、盗難にあうんだろう、と誰もが思っていた。 しかし、ぼくが調べた結果、原因は盗難にあるのではないことがわかった。 その原因とは、本社の仕入れ管理のずさんさだった。 実際の仕入額と、電算上の仕入額がいつも違っていたのだ。 その差額は、毎月何十万円にもなった。 棚卸は半年に一度だから、いつも多額のロスが出てしまう。 本社に何度か「おかしいから調べてくれ」と掛け合ったのだが、「電算が正しい」というようなことを言われ、全然相手にしてくれなかった。 今回の棚卸ロスにも、そういう背景があったのだ。
ここまで読まれた方は、ぼくが退職に至った理由が、会社への幻滅感と店長との不仲にあると思われるかもしれない。 確かにそれもあるのだが、もしそれだけだとしたら、ぼくは遠の昔に会社を辞めていなければならない。 いつまでたっても増えない収入に、幻滅感を抱いたこともある。 ぼくがその会社に入社して5年間は、とても人に言えるような収入ではなかった。 5年たって少しは改善されたが、それでも世間一般の収入ではなかった。 また、その店長と同じくらい仲の悪かった店長もいる。 その時の店長から左遷されたこともある。 それを聞きつけた大手スーパーDが、「うちに来てくれ」と言ってきた。 しかし、ぼくは辞めなかった。 創業以来勤めている会社に対して、強い思い入れがあったからだ。 希望もあった。 だから、そのくらいのことで辞めたくはなかったのだ。 「もう少し我慢すれば、必ずよくなる」 その思いが、ぼくを会社に居座らせた。
しかし、創業して10年たったのに何も改善されない。 逆に労働時間は増えていくし、ろくでもない店長は来るし。 ぼくはだんだん先が見えなくなっていった。 しかもその間、同期の人間が次々と辞めていく。 おそらく彼らもぼくと同じ考えであったに違いない。 一人辞め、二人辞めしていくうちに、ぼくの「希望」も危ういものになっていった。 そういう時、あのクレーム事件が起きたのだ。
それからしばらくして、ぼくを退職に走らせる決定的なことがあった。 それは、先に会社を辞めていた一人の先輩からの電話だった。 「おい、しんたか」 「はい」 「お前、まだ会社におるつもりか?」 「は?」 「おれなあ、悪いうわさを聞いたんやけど」 「何ですか?」 「お前たち10年生は全員飛ばされるぞ」 「え?」 「ある人から情報が入ったんやけど、片田舎の店に転勤になるらしい。もし断ったら、辞めないけんようになるらしいぞ」 「・・・」 「そのために今の店長が行ったらしい」 ぼくは呆然とした。 その先輩の情報が確かだとしたら、今までの経緯からして、ぼくが真っ先に飛ばされるだろう。 ぼくは親を見ないとならないので、転勤など出来ないのだ。 ということは、辞めるしかない。 ぼくはこの時、初めて「辞めよう」と思った。 どうせ辞めさせられるのなら、こちらから先手を打とう。 さもないと、もし辞めさせられたら、ぼくはそのことを一生引きずっていくことになるだろう。 まさに「プライドが許さん!」である。
この先輩情報を「ガセネタ」とみることも可能だった。 しかし、あの店長のことである。 前に、その店長が以前いた店でも、何人もの人を飛ばし、何人もの人を辞めさせたと聞いたことがある。 「ここは情報どおりに捉えておいたほうが無難だ」とぼくは思った。 はたしてこの判断は正しかった。 ぼくが辞めてから1ヶ月ほどして、会社に残っていた同期の人間が、関東行きの辞令を受けたのだ。 彼は断った。 そして、転勤の日に会社を辞めたという。
さて、退職を決断したぼくは、辞めるタイミングを計っていた。 そういう時、あの歴史に残る大型台風がやってきた。 9月27日だった。 後日、青森のりんごを壊滅させた、台風19号が北九州を通過したのだ。 付近の百貨店や商店は早々と店を閉めたのだが、うちの店だけは定時通り営業を行った。 電車やバスは当然運休になり、ぼくは帰る手段をなくしてしまった。 どうしようかと迷ったあげく、ぼくは店の近くで働く高校の同級生に電話をかけた。 「しんたやけど」 「おう、どうした?」 「帰れんくなったけ、飲み行こうや」 「いいよ」
ぼくは、友人といつもの店で待ち合わせた。 ぼくが店に着いてからしばらくして、友人はやってきた。 いつものように馬鹿を言いながら飲んでいると、突然友人が真顔になって、「しんた、今の仕事辞めたいと思わんか?」と言った。 「どうした?」 「おれ、今まで我慢してきたけど、もう限界だ」 いろいろ友人の愚痴を聞かされた。 そこで、ぼくは言った。 「じゃあ、辞めようや。おれも辞めるけ」 「しんたも?」 友人は唖然とした顔をしていた。 「で、しんたはいつ辞めると?」 「早いほうがいいやろ」 「そうやのう」 「明日辞めようや」 「じゃあ、そうするか」
そういうことで、ぼくたちは翌28日に、各々の会社に退職の意思を伝えた。
もう少し、店長の話を書いておく。 元々、ぼくと店長は折り合いが悪かった。 話はその半年前、平成3年の3月にさかのぼる。 それまでいた店長が本社取締役に復帰することになり、新任の店長が来ることになった。 3月末、旧店長最後の日に歓送迎会が行われることになり、ぼくが幹事をすることになった。 一次会も終わりに近づき、いよいよ幹事最後の仕事となった。 それは二次会の参加を促すことだった。 「これで一次会を終了します。続いて二次会を、○○町の××で行いますので、皆さん奮って参加して下さい」とぼくは言った。 これで幹事の仕事が終わり、ぼくは二次会会場へと向かった。
ところが、である。 二次会の会場には、肝心の新店長の姿がなかった。 一次会の時新店長の周りにいた、下請けの社長連も来ていない。 ぼくは言い忘れたかと思い、そこにいた人間に確認した。 「おれ、ちゃんと場所言うたやろ?」 「ああ、言うたよ」 「何で店長来てないんかのう」 「さあ?でも、今までの店長とは仲が悪いらしいけ、気にせんでいいんやない」 その言葉に安心した。 そういうことなら、別にこちらが気を回す必要もない。 あちらはあちらで適当にやっているんだろうと思い、ぼくは酒を飲み始めた。
それから一時間ほど経った頃に、二次会会場に電話が入った。 「おい、しんた。電話ぞ」 「あ?」 「幹事を呼べ、と言いよる」 誰だろうと電話に出てみると、新任の店長だった。 「おまえが幹事か?」 「はい」 「名前は?」 「しんたといいますけど」 「おう、しんたか。お前よくもおれの顔に泥を塗るようなまねをしてくれたなあ」 「は?」 「どうして二次会の場所を教えんか」 「ちゃんと言いましたけど」 「何、言っただとぉ。おれは聞いてないぞ」 ぼくはわけがわからないまま、とりあえず「すいません」と謝ってから、二次会の場所を教えた。 しかし、腑に落ちない。 二次会の場所を知らない人間が、どうして二次会の場所に電話をかけてくるんだろう。 新店長は「今からそちらに行くから待っとけ」と言って、電話を切った。
しばらくしてから、店長一派はやってきた。 新店長は店に着くなり、大きな声で「誰がしんたか?」と聞いた。 ぼくは手を上げ、「はい、自分です」と言った。 「おまえがしんたか」 新店長はそう言ってぼくの席にやってきた。 そしてぼくの頭を2,3発叩いた。 「おまえのおかげで、どんなに恥ずかしい思いをしたと思っとるんか!お前は、おれと○さん(旧店長)の仲を知らんのか!?」 「はあ・・・」 「○さんはおれの恩人なんぞ。恩人の送別会におれが出らんかったら、世間の笑いものになるやないか!」 「すいません」 「覚えとけ。これからずっとお前には仕打ちをしてやる」 まるでヤクザである。 ぼくはもう一度「すいません」と言うと、新店長は「いいか、忘れるなよ」と言って、自分の席に戻った。
二次会は他の店の店長たちも来ていたのだが、みなぼくに同情して「しんちゃん、気持ちはわかるけど、ここは馬鹿になっとき。あとの相手はこちらでするけ」と言ってくれた。 旧店長も「あんまりしんたを責めんでくれ」と言っていた。 その後会は盛り上がったが、ぼく一人面白くなかった。
会も終わりに近づいた頃、新店長と行動をともにしていた一人の下請けの社長がぼくのところにやってきた。 そして、「しんた君、実は二次会の場所、新店長は知っとったんよ」と言った。 「やっぱり」 「まあ、あの人はあの人の考えがあってしたことなんやけ、今日のことは忘れたほうがいいよ。本人もああ言いながらも、大して気にしてないと思うよ。後はおれたちが悪いようにはせんけ」 そう言ってくれたが、ぼくの気持ちは晴れなかった。 だいたい人の頭を叩くというのは何事だ。 あの本能寺の変も、信長が光秀を衆目の中で罵倒し、頭を鉄扇で叩いたことから始まったと言われている。 それほど頭を叩かれるというのは、屈辱的なことだ。 ぼくは怒りとともに、この先こんな奴といっしょにやっていくのかと思うと、目の前が真っ暗になった。
下請けの社長の言葉とは裏腹に、その後も新店長はことあるごとにぼくを罵倒した。 例の件があるし、ぼくは風貌がボーっとしているように見えるので、それも気に入らない要因になっていたのだろう。 頭を叩かれることもあった。 ある時、ぼくが商品の清掃をしている時、突然店長が目の前に現れ、「何をボーっとしとるか!?」と言った。 そして、頭を一発叩いた。 ぼくは「この野郎」と思い、店長を睨みつけた。 しかし、口を開くことはせず、じっと耐えていた。
ぼくと店長の間には、以上のようないきさつがあった。 しかし、ぼくも黙ってばかりはいなかった。 その後、反撃に出るのだ。 そのせいで店長はサラリーマンとしての致命傷を負うことになる。
前の会社にいた時は、今の会社よりもずっと休みが少なく、一週間に一度休めればいいほうだった。 その会社は、朝が早く、さらに夜も遅くまで働かなければならなかったので、疲れは今の会社の比ではなかった。 しかも疲れは体だけではなかった。 責任も今よりずっと重かったので、心労も重なる。 ということで、たまにある公休日は死んだように眠っていた。 しかし、休みの日にも会社からひんぱんに電話がかかってくる。 「今から出て来い」ということがしばしばあった。
前の会社を辞める2ヶ月前、平成3年の9月初旬のことだった。 ぼくがエアコンを紹介販売したお客さんから、クレームが来たことがある。 その日ぼくは休みだったのだが、午後4時頃店長から電話が入り「今から来てくれ」と言う。 ぼくは嫌々ながら会社に行った。 会社に着くと、まだそのお客さんはいた。 お客さんはぼくに「しんたさん、休みのところわざわざすいませんねえ。配達の人の応対が悪くてねえ。悪いけど、この間買ったエアコンはすべてキャンセルさせてもらうから」と言った。 そのお客さんは大口で、各部屋に1台ずつ、さらにそのお客さんがやっている事務所にもエアコンを付けたため、総額は200万円を超えていた。 200万円もキャンセルされたら一大事と、店長は慌ててぼくに電話してきたのだった。
とりあえず、ぼくはお客さんにクレームになったいきさつを聞いてみた。 その日は工事の日だった 朝一番に取り付けサービスのほうから電話がかかったらしい。 「今日の工事の件ですが、お昼からになりますが、ご都合のほうはよろしいですか」 「ああ、お昼からですか。わかりました。よろしくお願いします。あ、それと、悪いんですが、来る時にパテを余分に持ってきてもらえませんか」 「パテですね。わかりました」 そう言って電話を切った。 ところが、電話をかけた者が、パテの件を工事の人に伝えてなかったのだ。 お客さんが工事の人に「パテを下さい」と言うと、工事の人は「パテですか?さしあげるほど持っていません」とぶっきらぼうに言った。 「さっき電話で言ったんですけどねえ」 聞いてないなら聞いてないで、その場で電話するなりして確認すればよいものを、その工事の人は強い口調で「聞いてませんよ!」と答えた。 それでお客さんが切れたのだった。 「もういい。帰ってくれ」ということになった。 工事の人が帰ってしばらくしてから、お客さんが店に乗り込んできたのだった。
このお客さんのクレームはこれが初めてではなかった。 ぼくが契約の話を詰めている時にも、エアコンの売場の者とトラブルを起こしたことがある。 その日はちょうど台風が接近している時で、激しい暴風雨の中、ぼくはびしょ濡れになってお客さんの家に謝りに行った。 その誠意を認められて、何とか契約までこぎつけたのだ。
ぼくは「たかがパテひとつのことで」と思いながらも、とにかくお客さんに謝った。 しかし、お客さんはへそを曲げたままだった。 「今度という今度は許さん。しんたさんに協力してあげられなくて悪いけど、今回はキャンセルする」 そして店長に「教育がなってない!」と言って帰っていった。
その後、それが問題になり、会議の席でも「クレームの件をどうするか」というのが議題になったほどだった。 その席上で、店長はぼくに向かって「おまえが一番悪い」と言った。 しかし、どう考えても、今回の件はぼくが悪いとは思えない。 ぼくが憮然とした顔をしていると、店長はさらにぼくに難癖をつけてきた。 「だいたい、おまえの気配りが足りんからこういうことになるんだ。そんなことだから、部門の売り上げも悪いだろうが」 「どこの部門も夜遅くまで頑張って仕事をしとるのに、おまえはさっさと部下を帰らせやがって」 おまえが、おまえがの連発だった。 しかし、今回のクレームと売場の数字とは何も関係ないし、ぼくの部門は女子社員ばかりだったので早く帰さなければならない。
結局クレームの件は、「しんたとエアコンの売場の者で、ちゃんと解決しろ」と言うことになった。 しかし、売場の者は何一つ行動を起こさなかった。 ぼくひとりが駆けずり回り、何とかキャンセルを食い止めた。 一方的に個人を責めたて、責任を押し付けて良しとする会社の体制、チームワークのなさ、その他もろもろのことを考えていくうちに、ぼくは会社に幻滅感を抱いてしまった。
東京にいた頃の話。 下宿に帰ると、門の前に一人の男の人が立っていた。 ぼくは軽く会釈をして、その人の前を通り過ぎようとした。 その時だった。 「すいません」と男が言った。 「はい」とぼくが答えると、「君、いなかどこ?」と聞いてきた。 「北九州ですけど」 「へえ、北九州か。知ってるよ。大分県でしょ」 「は?福岡県ですけど」 「あ、そうそう福岡だったね」 話を聞くと、その男は新聞の勧誘マンで、その日はぼくの下宿付近を回っていたのだった。 「ねえ、新聞取って下さいよ」と男は言った。 「そんな余裕ありません」 「3ヶ月先からでいいからさあ」 「いやです」 「そんなこと言わずに」 この男、相当しつこい。 そこで、「北九州を大分と思っている人からは取れません。新聞取ってもらいたかったら、北九州にある区名を覚えてきて下さい」と、ぼくは言った。 「わかった。じゃあ、今度覚えてくるから。その時は取ってね」と言って男は去って行った。
同じく東京での話。 「しんたさん、いなかどこだっけ?」 「北九州やけど」 「ああ、福岡県の県庁所在地だろ」 「違う。県庁所在地は福岡市」 「ところでさあ、福岡市の近くに博多ってあるだろ?」 「博多は福岡市にあるんやけど」 「え、そうだったの。知らなかったなあ」
東京にいる時、ぼくはいつもこの「いなかどこ?」攻撃にあっていた。 しかも聞いてくる人は、地理を十分に把握していない人が多かった。 「そんなに人のいなかを聞きたいのなら、少しは地理ぐらい勉強して来い。話がそこから進まんやないか」 いつもぼくは、そう思っていた。
かといって、ぼくはそんなに地理に詳しいわけではない。 いまだに群馬県や栃木県の県庁所在地を聞かれたら、詰まってしまう。 「宇都宮、前橋、どっちがどっちだったか」と迷ってしまうのだ。 だから、ぼくはその人の訛りを聞いて、出身地がどこであるのか判断がつきにくい場合は、なるべくその人の出身地を聞かないことにしている。 そこが行ったことのある場所や知っている場所なら話も弾むが、知らない場所なら話はそこで途切れてしまうからだ。 例えば前出の前橋の場合は、詩人の萩原朔太郎の出身地くらいしか知識を持ってない。 もし前橋の出身の人と会ったら、「前橋は、萩原朔太郎の出身地ですよね」、で終わってしまう。 その後が出てこないのだ。 宇都宮にいたっては、「TMネットワークに宇都宮というのがいたなあ」である。 上記の2ヶ所にお住まいの方には大変申し訳ないが、今現在ぼくにはこの程度の知識しかないのです。 この次、上記の都市名を使う時までには勉強しておきますので、その時は新聞取って下さい。(笑)
逆に行ったことのある場所や、知っている場所やから来た人と対する時は、非常に饒舌になる。 例えば沖縄出身の人と対した時は、琉球村・万座毛・東南植物園・玉泉洞・喫茶マカオに始まり、続いて那覇やコザについて語り、なんと最後には民謡まで歌っている。 ここまでやると、自分の故郷が嫌いな人以外は、だいたい親近感を抱いてくれるようだ。 大阪出身の人もそうだ。 「じいちゃんが、昔住んでいてね〜」で始まり、『ふりちん痰つぼ』まで話をすることもある。 「しんたさんは、けったいな人や」と思われているかもしれないが、その後の人間関係は、おおむね良好である。
まあ、相手の出身地で人間関係が決まるわけではないのだが、人間関係を築くための、ひとつのきっかけになっているのは確かだ。 そのためには勉強が必要だ。 「TMネットワークに宇都宮というのがいたなあ」では、話にならない。 冒頭の新聞勧誘マンも、「北九州か、無法松だね。『小倉生まれで 玄海育ち〜♪』」とやっていれば、その場で打ち解け、朝刊ぐらいは取っていたかもしれない。
ぼくの身長は177.8cmである。 10年前に測ったものだから、もしかしたら今はもう少し低いかもしれない。 この身長は世間一般から見れば高いのだという。 なるほど、職場では若いアルバイトも含めて、ぼくが一番背が高いようだ。 しかし、自分では決して高い身長だとは思ってはいない。 まあ、物理的にまだ高い人がいるからというのもあるが、ぼくはこれを小学校以来のイメージが残っているからだと思っている。 ぼくは小学校の頃から、背はだいたい真ん中より少し後ろ位だった。 これは中学校に行っても変わらなかった。 おそらく高校1年の頃まではそうだったと思う。 高校2年の頃は、体育や集会の時、背の順とは言いながらも適当に並んでいたので、身長ことを考えたことはなかった。
初めて背が高いと思ったのは、高校3年になった時だ。 全校集会の時だったか、先生が「ちゃんと背の順に並べ」と言った。 その時ぼくは自分の持っているイメージ通り、真ん中から少しうしろのほうに並んだ。 するとその後ろのやつが、「しんた、お前もっとうしろやろ」と言った。 ぼくは「そんなことはないやろう」と言って、そいつと背を比べてみると、なるほどそいつより高い。 それから、背を比べながら後ろに下がっていくと、なんとうしろから2番目まで来てしまった。 「おれ、こんなに高かったかのう」と狐につままれた気持ちになったものである。
しかしながら、自分の持っているイメージというのは、そうそう変わるものではない。 いくら背が高いと言われても、実際にその数字を示されても、相変わらずぼくの身長は、「真ん中から少しうしろ」なのである。 おそらくそのイメージというのは、一生変わらないだろう。
15年ほど前に、自分の持っているイメージを変えようと試みたことがある。 アメリカの自己啓発の本に、「私は小さい頃、痩せっぽちだった。そういう自分が嫌いだった。どうにかして『太っちょ』と呼ばれたいと思っていた。そして、自分が『太っちょ』である、というイメージを抱くことにした。何年か後、人から『太っちょ』と呼ばれるようになった(訳者はもっと気の利いた言葉を使えなかったのだろうか。『太っちょ』などという言葉はふつう使わんだろう)」と書いてあった。 これを読んで、ぼくは「ふーん、イメージで体格が変えられるなら、一度試してみようか」と思い、やってみることにした。 しかし、イメージを持つというのは大変なことである。 まず、自分がどうありたいのか、というのを決めなければならない。 その上で、そうなった自分を想像しなければならない。 どういう自分になろうか、といろいろと考えてみた。 その結果、自分を大きく見せようと思うに至った。 身長はもういいからと、全体に厚みのある自分をイメージしてみることにした。 1ヶ月位やったろうか、そのうち、そういうイメージを持つことが面倒になってしまい、やめてしまった。
ところがである。 それから5年ほど経って、その効果が出てきたのである。 ぼくの体は、徐々に厚みを増していった。 痩せ気味だった体重も増えてきた。 それを自覚した時、「やはりイメージを持つということは大切なんだ」と、ぼくは思ったものだった。 ただ惜しいことに、お腹の周辺に厚みが集まった後、次第にその効果が薄れてきた。 ということで、今はお腹だけが極端に厚みのある、変な体型になってしまっている。 これも、1ヶ月しかイメージを持たなかったせいだろう。 残念である。
| 2002年09月24日(火) |
どうでもいいことではあるが |
一ヶ月ほど前から気になっているポスターがある。 職場に貼っている『北九州国際音楽祭』のポスターである。 バイオリニストの諏訪内晶子氏他、そうそうたるメンバーが出演するようになっている。 公演は9月30日と11月4日の二回。 あのウォシュレットのTOTOも特別協力している一大イベントである。
まあ、ぼくは、誰が来ようと、どこが協力しようと、どうでもいいことなのだが、そのポスターには非常に興味を示している。 何でそんなにポスターに興味があるのか? それは、そのポスターには、肝心の会場が載ってないからだ。 開催場所も載せずに、どうやって人を呼び込むのだろう。
手落ちなのだろうか。 そのポスターはどう見ても素人が作ったとは思えない。 プロの作品である。 もし手落ちであったならば、そのポスター製作者は、二度と仕事にありつけないだろう。 「こんなイージーなミスをしやがって」と言われ、仕事を干されるのは目に見えている。 しかし、最終チェックは主催者がやるのだから、もしそうであれば主催者も同罪ということになる。 手落ちと手抜きの共同作業ということになる。
そうでなければ、意図したものなのだろうか。 確かに連絡先の電話番号は載せてある。 しかし、悪く取れば、そこには、「今度は諏訪内呼んでやったぞ。行きたければ会場を教えてやるから電話して来い」という尊大な姿勢さえ伺えるではないか。 電話恐怖症の人はどうなるんだ? 彼らがいくら諏訪内を見たくても、電話しないと会場を教えてもらえないのなら、「今回は諦めよう」ということになるじゃないか。 また、「諏訪内は見たいが、電話までして会場を聞くのも面倒だ」と思う人もいるはずだ。 そういう人たちに対して、そんな尊大な姿勢を示したら来てもらえないのではないだろうか。 余談だが、ぼくは後者のタイプである。 最近コンサートに行ってないのも、電話での先行予約とかになったからだ。 以前のようにプレイガイドで直接買えるシステムなら、少しはコンサート会場に足を運んだかもしれない。
それはともかく、もし肝心のお客の入りが悪かったら、主催者は諏訪内になんと言って言い訳するのだろう? 「諏訪内さんが来るというポスターを作って、市内の主なところに貼っておいたのですが、電話がかかってきませんでした」とでも言うのだろうか。 「北九州市民はこういう高尚なものには疎いもので。会場すら知らない有様でして、へへへ」とごまかすのだろうか。
いずれにしても、これは主催者側の落ち度である。 今からでも間に合うのだから、テレビやラジオを通じて、ちゃんと会場を伝えるべきである。 そうしなければ、二度と諏訪内は来てくれなくなるだろう。 まあ、ぼくにとっては、どうでもいいことではあるが。
6,7年前、昼食は、会社を抜け出し、車に乗って繁華街まで食べに行っていた。 そこには安くて、ボリュームがあって、味もそこそこの店があった。 だいたいその店では日替り定食を注文していたのだが、たまに他の物を注文することがあった。 チャンポンもその一つだ。 その食堂には友人と行っていたのだが、その日たまたま二人ともチャンポンが食べたかったのだ。 「すいません、チャンポン二つくださーい」 「はーい、チャンポン2丁」 しばらくしてチャンポンが二つ運ばれてきた。 その店はチャンポンもおいしかった。 しかも、当時まだ大食だったぼくたちには充分の量があった。
チャンポンが残り3分の1ほどになった時、突然友人が「あっ!」と言った。 どうしたのかと見てみると、どんぶりの中に5センチほどのこげ茶の物体が浮かんでいる。 よく見ると、その物体には足があった。 ゴキブリである。 友人は「どうしようか?」とぼくに言った。 「店の人呼び」とぼくは言った。 「すいませーん」 「はーい、何か?」 「あのう、ゴキブリが入ってるんですけど」と小声で言った。 「えっ!?」 「ほら」 そう言って友人は、どんぶりの中を見せた。 「あらー、ほんと。ごめんなさいね。すぐに作り変えますから」 店のおばちゃんは、素早くそのどんぶりを下げた。 それからしばらくして、新しいチャンポンが運ばれてきた。 お詫びにというので、スイカまでついていた。 「そちらの方もどうぞ」 そう言っておばちゃんは、ぼくの前にもスイカを置いた。 友人は「もう入らんわい」と言いながらも、新たなチャンポンとスイカを全部平らげた。
その時ぼくは、あることを考えていた。 それは、「この事件の一番の被害者は誰だ?」ということだった。 チャンポン二つ同時に頼んだわけだから、当然同じ鍋でチャンポンを作ったことになる。 たまたまゴキブリ本体は友人のどんぶりに入ったのだが、ゴキブリの浸かったスープ、つまりゴキブリのエキスは、当然ぼくのチャンポンにも入っていたということだ。 それなのにおばちゃんは、友人ばかりに謝り、スイカもぼくのほうが小さかった。 この差は何だ! ぼくは友人がゴキブリを発見したあと、チャンポンには一切箸をつけなかった。 友人より小さなスイカを食べたっきりだった。 店を出てからも友人は「腹いっぱいで苦しい」と言っていたが、逆にぼくは腹が減ってたまらなかった。 店に戻り、結局パンを買って食べた。
さて、この場合、被害者は誰なんだろう? ゴキブリ入りのチャンポンを食べた友人か? 同じゴキブリ入りスープのチャンポンを食べ、不当に扱われたぼくか? ゴキブリのためにチャンポンを一杯損した店の人か? それとも、ゆでられたゴキブリか? 秋の夜長に、ぼくはそんなことを考えている。
今朝は焦ってしまった。 食事のあとで眠たくなり、日記は朝早く起きて書こうと、昨日は早々と寝てしまった。 ところが、目が覚めたのは何と7時50分だった。 仕事に出かけるのは9時、あと1時間10分で日記を書き上げなければならなかった。 しかもその間に、髭も剃らなければならないし、顔も洗わなければならない。 さらに、トイレにも駆け込まなければならない。 ネタは何もなし。 思い余って、おととい行った駄菓子屋のことを書いてしまった。 駄菓子屋については、もう少し踏み込んだことを書きたかったのだが、何せ時間がない。 思いつくままに書いていった。 そのせいで、とりとめのない日記になってしまったわけだ。 また機会があったら、駄菓子屋のことをもう少し踏み込んで書こうと思っている。
最近また腰痛に悩んでいる。 前にも書いたが、ぼくは「電気腰」という病気(?)にかかっている。 長いこと電気業界にかかわった人間がかかる病気である。 まあ、長いことかかわったとはいうものの、それは「真面目にやった人間が」という条件がつく。 要領ばかりで、ろくに大型テレビやエアコン室外機の積み上げなどをやったことのない人間は決してかからない。 いわば電気腰は真面目人間の証なのである。
まあ、自慢話はさておき、この歳になっても相変わらず立ち仕事をしているぼくには腰痛は応える。 何か腰痛を治す良い方法はないかと、以前からいろいろと探している。 まず、整骨院に行ったのだが、これは失敗だった。 痛い箇所に電気を当てるだけのお手軽なものだった。 次は整体院。 背骨の矯正をやるのだが、これが痛い。 「はい、力を抜いて下さい」と言われるのだが、痛いとわかっているので、体のほうが緊張してしまう。 確かに「ボキッ」という音がした時の快感は何ものにも代えがたいものがあるのだが、「ボキッ」と鳴るまでの過程が嫌だ。 さらに、健康保険が利用できないため、料金が高いときている。 「じゃあ、明日来て下さい」と言われるのが辛い。 「料金が高いんだから、一ぺんで治してくれ」と言うのだが、「毎日少しずつ矯正していかないと、根本からは治りません」と返されると、口を閉ざさざるをえない。 そのため、整体院はぼくの中では、いざという時の応急処置の場所という認識しかない。
整骨院だめ、整体院だめ、となればあとは病院しか残ってない。 しかし、ぼくは根っからの病院嫌いである。 腰に注射などを打たれたら、確実に発作を起こしてしまうだろう。 前にうちの親戚の姉ちゃんが、腰痛で病院にかかったことがある。 腰に注射を打たれたまではいいが、意識不明になり、体が冷たくなっていったという。 ま、その時は何とか一命を取り留めたのだが、いつもそうだとは限らない。 まして、ぼくのような薄幸の人間は、そのままあの世に逝ってしまうかも知れない。 ということで、病院は最初からパスしている。
とはいえ、このまま一生腰痛とお付き合いする気もない。 そこで考えたのが、腰痛体操である。 『腰痛体操』というビデオソフトを買い込んで、日夜励んでみた。 が、結局長続きしなかった。 挙句の果てには、ビデオソフトが行方不明になる始末だ。 仕方がないので、うる覚えのまま腰痛体操をやっていたのだが、「あの部分が違っているんじゃないか」などと考え出すと、もういけない。 そう思い出すと、もはややる気がしなくなる。
さて、このごろ始めた運動がある。 『思いっきりテレビ』でやっていた運動で、「バレリーナ・ポーズ」というのがある。 バレリーナがよくやるポーズなので、そういう名前をつけたらしい。 右手を前に伸ばすと同時に、左脚を浮かして、後ろにピンと伸ばすのだ。 今度は左手と右脚。 これを交互に20回、それを毎日3セットやるだけでいいというのだ。 こうすることにより、お尻の筋肉が鍛えられ、骨盤をバランスの取れたものにするらしい。 骨盤のバランスが良くなると、背骨の歪みが治る。 背骨の歪みが治ると、筋や内臓に負担をかけることがなくなり、万病を防ぐことが出来る。 確かに、喘息の治療のひとつに背骨の矯正というのがある。 また、骨盤の歪みは、自律神経失調症を引き起こすとも言われている。 もちろん、肩こりや腰痛にも効果的である、というのは言うまでもない。
しばらくこの「バレリーナ・ポーズ」をやっていこうと思っている。 もし腰痛が治ったら、お知らせすることにします。
「バレリーナ・ポーズもいいけど、お茶の効用はどうなったんでしょうか?」 「・・・、知らん」
昨日は、銀行に行った旨を話したが、そのあとで、ぼくは久しぶりに駅ビルに行った。 あてもなくビルの中をウロウロしていたのだが、一軒気になる店を見つけた。 駄菓子屋である。 まあ、駄菓子屋といっても、ぼくが子供の頃に行っていた汚い駄菓子屋とはかなり違う。 店の中はきれいで、商品も埃にまみれているようなことはない。 いかにも「駄菓子屋でござい」というような店作りになっているが、何か物足りない。 それは、こういう店の主役である子供がいないということだ。 駄菓子屋とはいうものの、来ているお客は、みな昔を懐かしむ大人ばかりなのだ。 たまには子供も来るのだろうが、ブランド物で身を固めているような子供はこういう店に似合わない。 やはり駄菓子屋には、ランニング姿の日焼けしたガキや、ひざに赤チンを塗りたくった赤チン小僧や、青っ鼻の鼻たれ小僧がよく似合う。 駄菓子屋をよく知る世代の人間としては、そのへんが寂しい。
昔とあまり変わってないものも売っていた。 『ココアシガレット』『コリスガム』『フィリック・ガム』『えびせん』などなど。 「ふーん、こういうのもまだあるんだ」と懐かしがって商品を見ていった。 と、そこに意外な物を見つけた。 『前田のクラッカー』である。 あんかけの時次郎(藤田まこと)の「おれがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」で一世を風靡した伝説のクラッカーが、まだ売られていたのだ。 コンビニやスーパーに行っても、『前田クラッカー』は置いてない。 もはやこういう店にしか売ってないのだろうか。 中学か高校の頃にラジオで、藤田まことが前田製菓のCMをやっているのを聴いたことがある。 それが何のCMかは忘れたが、クラッカーではなかった。 「前田の○○。最近はこれですわ」と言っていた。 これを聴いて、ぼくは「前田製菓はまだやっているのか」と小さく感動したのを覚えているが、昨日の感動はそれ以上のものがあった。
メンコ、ビー玉、コマ、奴凧も健在だった。 しかし、こういうものを買う人は、別にそれで遊ぶわけではないだろう。 おそらく、部屋のインテリアか何かに使うのだと思う。 もしこういうもので真剣に遊んだら、体内の脂肪も少しは減るのかもしれない。 ぼくの性格上、痩せるために何かをしたのでは長続きしない。 何かをやった結果痩せたという方法でなければ、痩せることは出来ないと思っている。 その「何か」をいつもぼくは探している。 もしかしたら、メンコやビー玉がそれなのかもしれない。 誰か仲間を見つけて、こういうのをやってみようかなあ。
おっと、もう午前8時半を過ぎているじゃないか。 早くしないと遅刻してしまう。 では、これで。
「序」 今日は午前中仕事だった。 先週の火曜日に休んで以来、休みの日には会社に出ているから、これで10日連続して会社に行ったことになる。 無料奉仕なので、必要以外の仕事はしないことにしている。 終わったら長居せず、さっさと帰る。 これが疲れをためないコツである。 とはいえ、一日中仕事のことを考えなくていい時間がほしいものである。 あと4日、仕事に行かなくてはならない。
「暑さ寒さも彼岸まで」 さて、早めに仕事を終えたぼくは、午後から墓参りに行った。 そう、今日から彼岸である。 今日も日中は暑かった。 心なしか風は冷たかったのだが、何といっても日差しが強い。 「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、別に太陽が「おお、今日から彼岸か。じゃあ、火を小さくしようかのう」などと、焼肉屋みたいなことを思っているわけではない。 太陽の熱さはいつも一定だ。 福岡県のデータでは、秋の彼岸以降30度以上の真夏日になった日が過去4度あるらしい。 もしかしたら、今日は5度目だったのかもしれない。 それほど暑かった。 「暑さ寒さも彼岸まで」では、裏切られた時の苦痛が大きい。 いっそ「暑さ寒さは彼岸から」にしたほうがいいのではないだろうか。
「ティッシュ」 墓参りから一度家に戻り、今度はJRで黒崎に向かった。 そう、今日は20日、給料日である。 月例の銀行回りの日だ。 午後4時を過ぎてからも日差しは強かった。 駅に着いたぼくは、さっそくティッシュ攻撃を受ける。 武富士、アイフル、レイク、三洋信販などなどである。 それにしても消費者金融業界は馬鹿だ。 ティッシュしか頭にないのだろうか? 他に何かしゃれたものをくれたら、こちらも受け取るのに、どこもかしこもティッシュだから、一つもらったら充分である。 こちらは、そんなにたくさんもらうほどの入れ物を用意しているわけではないのだ。 小学校以来、ハンカチやちり紙をポケットに入れるのが嫌いなのに、二つも三つもどこに入れろというのだ。
「ハト攻撃」 さて、ティッシュ攻撃が終わると、今度はハト攻撃である。 人を見ると、ハトが寄ってくる。 「当然、あんたも何かくれるんでしょ」とでも言いたげな顔をしている。 お前らにやる餌なんか持ってないわい!
だいたい、誰かがいい人ぶってハトに餌なんかやるもんだから、ハトが人を恐れなくなるのだ。 昔、ある坊さんが、寺に鹿が来るたびに、棒で叩いて山に追い返したという。 ある人が見かねて、「どうして罪もない鹿を叩くのですか?」と尋ねた。 すると坊さんは、「こちらも鹿が憎くて叩いているのではない。ただ鹿が人を恐れなくなると、返って困るのは鹿のほうだ。ゆくゆくは悪い人間から殺されるだろう」と言ったという。 これこそ本当の慈悲心である。
いい人ぶる人は、ハトに餌をやるという行為が、ゆくゆくハトを不幸にするというということがわかっていない。 いずれハト公害が叫ばれ、ハト駆除へと続いていくのは目に見えている。 さらに、いい人ぶる人は、自分が街を汚しているということに気づいていない。 ばら撒いた餌の残りや、ハトの糞は誰が掃除するんだろう? 自分がいいことをやっていると思うのなら、ちゃんと掃除までやるべきである。 彼らこそ無慈悲で無責任な人間であるといえるだろう。
「総括」 今日は天気予報では「くもりのち雨」になっていたが、実際は「くもりのち晴」だった。 ま、こんなことどうでもいいや。
うちの店で働いているバイトの中に変な男がいる。 某大学の学生で、めがねをかけ、いつも顔は無表情である。 ぼくはその男のことを、彼の名前をもじって「キチマン君」と密かに呼んでいる。 あまり接したことがないので、ぼくはキチマン君のことをよく知らないのだが、とにかく変わっているということだ。 融通が利かないとか、頑固だとか、チェックマンだとか、ルールマンだとか。 例えば、お客さんに「○○はどこにあるか」と尋ねられた時、普通の人なら極力自分で探そうとするが、キチマン君は違う。 わざわざ店内放送をかけ、その担当者を自分のいるところに呼びつけるのだ。 後で、「そのくらい自分で探せ。この忙しいのに」と文句を言われている。 が、相変わらずキチマン君は店内放送をかけている。
ぼくは昼食の時間が遅い。 いつも午後3時か4時に食事をしている。 4時からの時に、キチマン君と出くわす。 彼は4時から15分間の休憩に入るのだ。 入ってくるなりぼくの顔を見て「こんにちは」と言う。 ぼくも「ああ、こんにちは」と返す。 休憩室のテーブルはひとつで、向かい合わせに座るようになっているのだが、キチマン君はどういうわけか、背中を向けて座る。 そしてずっと頭を抱えている。 そのまま15分が過ぎ、キチマン君は店内に戻る。 いったい何をしに来ているのだろう。 しかも、その後必ず彼の店内放送が聞こえる。
昨日のこと、キチマン君がぼくのところに走ってきた。 「すいません。ちょっといいですか?」 「何ね?」 「あのう、○○のことなんですけど」 「は?あんたここ部門が違うやろ。ちゃんと担当者がおるんやけ、そこに行くか、いつものように呼び出すかすればいいやないね」 「あ、そうでした」 そう言ってキチマン君は戻っていった。 しばらくして「○○担当の方・・・」とキチマン君の声が店内に響いた。 その声を聞くと、どういうわけか、ぼくは安心した。
キチマン君は高校の頃、登山部に入っていたらしい。 今日、キチマン君のいる部署で、その話題が出た。 たまたまそこに行っていたぼくは、キチマン君に聞いてみた。 「登山部は、試合があるんかねえ?」 周りにいる人は、「登山に試合なんかあるわけないやんね」と言っている。 キチマン君はそれを聞いて、憮然とした顔で、「競技会があります」と言った。 「スピードを競うんね?」 「それもあります」 「他になんかあるんね?」 「登山姿勢とか」 「腰は45度に曲げないかん、とか?」 「まあ、そんなとこです」 相変わらず仏頂面だ。 「走ったらいけないところもあります」 「ふーん」 笑顔もなく、真面目くさって語るキチマン君をぼくは観察していたが、これが何も特徴がない。 面白くないので、ぼくはその場を去った。
あとで、その部署の女の子に、「もしかして、登山の試合の時、ここからここまでは歌を歌わないけん、とかあるんかねえ?」と聞いてみた。 「さあ、聞いてみたらどうですか?」 「いや、あいつには聞きたくない。でもあったら面白いやろね。 例えば、この岩からあの橋までは『ピクニック』を歌いましょうとか。 『ララララ、アヒルさん ガーガー。ララララ、やぎさんも メー 〜♪』とか歌ったりして」 ぼくはキチマン君が真面目くさった顔で『ピクニック』を歌っている姿を想像してみた。 急に笑いがこみ上げてきた。 「『ガーガー』という声に照れがあるから減点1」 「キーが外れているので減点1」 「笑顔がないから、さらに減点1」
そういえばボーイスカウトは、よく歌いながら歩いている。 キチマン君もボーイスカウトだったら面白いのに。 しかし、仏頂面に半ズボンやハイソックス、想像しただけでもおかしい。
区内に、朝鮮初級中級学校と朝鮮高級学校がある。 今日はお休みだったらしい。 ま、今回のことで、後ろめたさを感じる必要もないと思うのだが、右翼が絡んでいるもんだから、身の安全を考えてのことだろう。 ぼくの住む地区の人は、学生の頃、さんざん彼らからいやな目にあわされているから、おそらくは一般の人が朝鮮学校の学生に何らかの攻撃を加えることはないと思う。 もしやれば、仕返しが怖い。 彼らは決して一人では来ない。 大勢で攻めてきて、しかもしつこい。
ぼくも学生時代に何度かそういう目にあったことがある。 一度は中学生の頃。 友人と、ある公園を歩いている時だった。 遠くから「おーい」という声がする。 何だろうとそちらのほうを見てみると、その声の持ち主が「おまえ、何見よるんか。文句あるんか」などと言っている。 他に人はいない。 どうやらぼくたちに向かって言っているようだ。 「何かー」と言い返そうとした時に、友人が「ばか、何も言わんほうがいい。無視しとけ」と言った。 「何で。あいつ一人やんか」 「一人でも、言い返したら、ぞろぞろと出てくるんよ」 「他に誰もおらんやん」 「おまえここがどういうことか知っとるんか?」 「いいや」 友人は、この地区は在日朝鮮人がたくさん住んでいる場所だと教えてくれた。 そして、「少しでも手を出そうものなら、後でひどい目にあう」とも言った。 しかたなく、その時は友人の忠告に従って、無視しておいた。
高校の頃、学校帰りに友人と学校近くの雑木林を歩いている時だった。 突然木の影から一人の学生らしき男が出てきて、「おい」とぼくたちを呼び止めた。 「あ?」と振り返った時に、ぼくは一発パンチを食らった。 男は手にナイフを持っていた。 「おまえたち、『朝鮮、朝鮮』と言って馬鹿にしよろうが」と彼は言った。 「別に馬鹿にしてないけど」 「うそつけ!馬鹿にしよろうが」 「してないっちゃ」 言いあいをしているうちに、ぞろぞろと男の仲間が現れた。 ぼくたちは怖くなって逃げた。 ぼくはこの言葉どおり、朝鮮人を馬鹿にしたことはなかった。 しかしそれ以来、暴力団を見る目で朝高の生徒を見るようになった。
その後も、デパートで言いがかりをつけられたり、駅で絡まれたりしたが、それらはすべて朝高生徒のしわざだった。 よく在日朝鮮人は差別を受けていると言われるが、ぼくの住んでいる地域のように在日朝鮮人が多く住んでいる地域の人は、逆に彼らが日本人をいじめの対象としているとしか思えない、と思っている人のほうが多い。 そう思っている人たちにとって、朝鮮人とは被差別的存在ではなくて、暴力団的存在なのだ。 出来たら触れたくないのだ。
その後、拉致・核・ミサイルなどの言葉が新聞に踊るたびに、ぼくは暴力団的見方を強くしていった。 親元も同じようなことをやっているのだ。 彼ら北朝鮮組系在日一家は、忠実に親分の教えを守っていると言えるだろう。
ところでこの親分、実にしたたか者である。 謝罪という形をとりながら、「うちは拉致をやったんだぜ」と言った。 「8人死んでるんだよなあ、この国で。へへへ、4人はまだ国内にいるんだぜ。この意味がわかるかなあ?ジュンちゃんよぉ」 言外でこういうことを言われると、嫌でも「共同宣言」に署名せざるをえないだろう。 外野はとやかく言うが、それは相手を国家として捉えた場合の外交手段を言っているのだ。 しかし、相手は暴力団なのだ。 ぼくは今回の小泉さんの決断は正しかったと思っている。 それ以外に、どんな方法が取れただろうか。
| 2002年09月17日(火) |
敬老の日特集「じいちゃん」 その3 |
じいちゃんは、いつも最後に風呂に入っていた。 なぜなら、じいちゃんの入った後の風呂は汚かったからだ。 湯船には、いつも白い垢が浮いている。 洗い場で愛用の痰つぼを洗うため、床面はヌルヌルしている。 じいちゃんを先に風呂に入れると、誰も入ろうとしないので、じいちゃんは最後と決まったのである。 じいちゃんが風呂に入る時は、いつも自分の部屋で真っ裸になり、痰つぼを持って風呂場に向かった。 目が悪いので、風呂場への最短コースを歩いていた。 じいちゃんの部屋から風呂場に行くには、応接間を通ったほうが、廊下を通って行くよりもはるかに近い。 そのため、誰が来ていようとかまわずに応接間を通っていった。 もちろん、ふりちん痰つぼスタイルである。 一度従姉の友人(女性)が遊びに来ていた時、じいちゃんがのっそりと、いつもの格好で応接間を歩いて行った。 従姉の友人はしばらく口が開かなかった。
そんなじいちゃんも歳には勝てなかった。 ある日、伯母がじいちゃんが口から血を吐いているのを見つけた。 伯母は慌てて救急車を呼び、病院嫌いのじいちゃんを無理やり入院させた。 入院した病院は、あの水原弘が亡くなった病院だった。 入院しても、じいちゃんは相変わらず好き勝手をやって、病院関係者をてこずらせていた。 大部屋に入れると大声を出して暴れるし、かといって個室に入れるには経済的に負担がかかる。 病院は「こちらでは、お預かりできかねますので、老人専門の病院に移したらどうでしょう。そちらのほうが入院費も安くて済みますので」と言った。
ということで、じいちゃんは小倉の山奥にある、その老人専門の病院に移った。 だがそこでもいっしょだった。 看護婦さんがちょっとでも体を触ろうものなら、痛いのへっぱったの大声を上げていた。 伯母はそれまで勤めていた会社を辞め、献身的に介護に努めた。 家から病院まではかなり距離があったが、ぼくも、何度か見舞いに行った。 ぼくが「じいちゃん、見舞いに来たよ」と言うと、じいちゃんは決まって「お前誰か!?」と言った。 ぼくが「しんたたい」と言うと、じいちゃんは「しんたぁ?」と言ってしばらく黙った。 そして「K(従姉)はどうしたか?」とぼくに聞いた。 この一件で、「やっぱり、ぼくとじいちゃんは合わんのやなあ」と思った。 じいちゃんは死ぬまで従姉のことを気にかけていたという。 まるで、じいちゃんには孫は従姉しかいないようだった。
じいちゃんが死んだのは、ぼくが19歳の時だった。 一浪した末、再び大学に落ち、気がめいっていた時だった。 夜中に伯母から電話が入り、じいちゃんの死を知った。 父親の死は、まだ小さかったので、あまりよく覚えていない。 そのため、じいちゃんの死が、記憶の中では身内の死として初めて経験するものとなった。 初めての経験に妙にワクワクした。 真言宗で行う葬儀を、好奇の目で見ていた。 途中、じいちゃんの名前が出るたびに、おかしくて噴出しそうになった。 涙はなかった。 元々仲はよくなかったし、別居してからかなり時間が経っていたので、その情も薄れてしまっていたのだろう。
じいちゃんが死んでからしばらくの間、ろくなことがなかった。 ぼくが面接で26回落ちたのも、ちょうどこの時期である。 落ちるたびにぼくは、「じいちゃんはおれに恨みでも持っとるんかなあ」と思っていた。 本当にじいちゃんの霊が取り憑いていたのかもしれない。 そのころのぼくの写真を見ると、何か変である。
写真といえば、伯母の家に行くと、壁にじいちゃんの遺影がかかっている。 笑顔もなく、何か苦虫を潰したような表情である。 この遺影を見るたびにいつも思うのだが、ふりちん痰つぼスタイルの時、じいちゃんはいつもこんな顔をしていた。 いったい、その時何を考えていたのだろう? これが今でも謎である。
| 2002年09月16日(月) |
敬老の日特集「じいちゃん」 その2 |
名古屋の叔父の話をしたが、この人も、じいちゃんの血を受け継いだのか、放浪癖のある人で、一時行方不明になっていたことがある。 その間、オートレースのレーサーをやっていたという話だ。 それが本当ならすごい話であるが、惜しむらくは、この人もじいちゃん同様ほら吹きなので、その真偽のほどはわからない。 ただ、バイク好きというのは確かで、名古屋に移ってからも、50ccのスーパーカブで九州まで帰ってきたりしていた。
その叔父がまだこちらに住んでいた時のこと。 バイクで走っている時、突然前の車が急停車した。 「信号は青なのに、なぜ停まるんか?」とその車の前を見てみると、背の高い男の人が、ステッキをひょいと上げ横断歩道を渡っているのだ。 「バカ野郎!赤やないか」と言おうと思った時、偶然その横断者の顔が見えた。 なんとその横断者は自分の親父、つまりじいちゃんだった。 さすがに気の荒い叔父も、口を開けなかったと言う。
これも目が悪いせい(極度の近眼。そのおかげで兵役を逃れたらしい)なのだが、そのくせ家で寝てない時は、しょっちゅう一人で遠くまで行っていたようだった。 食事の時などに「今日はどこどこまで行った」などと言っていた。 そのたびに伯母から小言を言われた。 「じいちゃん、目が悪いのに、あんまり遠くに行かんどって。心配するやろ」 伯母が小言を言う時は、じいちゃんはいつも聞こえないふりをしていた。 そういえば、ぼくが「じいちゃん、お小遣いちょうだい」と言っても聞こえないふりをしていたなあ。 ぼくが何か言うと、いつも「みみとうきょ」と言っていた。 「耳は東京に行って、お留守でございます」という意味だった。
じいちゃんとぼくは基本的にあまり仲がよくなかったが、じいちゃんらしいことをしてくれたこともある。 それは昔話を聞かせてくれることだった。 ぼくが日記で、よく昔話を書くのも、その影響からかもしれない。 じいちゃんは、気分が乗っている時には、いくつも話を聞かせてくれた。 しかし、気分が乗らない時には、ぼくが「じいちゃん、お話して」とせがむと、「歯のない人がおった」と言って、後は寝たふりをした。
ところで、じいちゃんはずっとぼくの家に住んでいたわけではない。 ぼくが小学4年の時、勝手に伯母の家に引っ越してしまった。 じいちゃんがいた部屋は、自ずとぼくの部屋になった。 しかし、じいちゃん臭さが残っていたため、その部屋を使い出したのは、中学になってからだった。 2年経っても、じいちゃん臭さはなくならなかったが、「まあ、じいちゃんがいた時よりはいいわい」と思い、その部屋を使うことにした。 ところが、それから4年後、ぼくが高校2年の時に、せっかく消えたはずのじいちゃん臭さがまた漂ってきた。 母は「おかしいねえ。しばらく臭いが消えとったのに」と言っていた。 ぼくはその理由を知っていた。 その頃から、ぼくはタバコを吸い始めたのだ。 つまり、じいちゃん臭さの根源はタバコだったわけである。
| 2002年09月15日(日) |
敬老の日特集「じいちゃん」 その1 |
ぼくのじいちゃん(母方)は徳島の生まれで、いいとこのボンボンだった。 一人息子だったので、当然跡取りになるはずだったのだが、生まれつきの自由人で、跡取りの権利を妹に譲り、さっさと家を出たという。 全国をくまなく旅して回り、ようやく落ち着いた所が大阪だった。 ここで軍関係の仕事をしながら、妻と4人の子供を養った。 戦時中、空襲が激しくなってきたため、一家はじいちゃんの里である徳島に疎開した。 そして戦後、大阪は焼け野原になっていると聞き、「じゃあ、九州に行こう。九州なら仕事がある」と、何の伝もない九州に一家は移り住んだ。 つまり、母たちが九州に来たのは、じいちゃんの気まぐれからであった。
ぼくが物心ついた頃、家族は6人だった、父が早死にしたため、男はぼくとじいちゃんだけだった。 世間は、じいちゃんがぼくの父親代わりをしてくれたと思っているようだ。 しかし、そうではなかった。 じいちゃんは若干目が悪かったものの、体格もよく、歩くのも速かったのだが、何をするでもなく、いつも家でゴロゴロと寝てばかりいた。 たまにはぼくと一つ上の従姉を、近くの公園に連れて行ってくれることもあったが、たいがい寝転んでいたように思う。 寝転んで何をしていたのかというと、聴きもしないラジオのボリュームを目一杯上げ、タバコをふかしていたのだ。 タバコを吸ってない時は寝ていた。 一度あまりラジオの音がうるさいので、ボリュームを下げたことがある。 すると寝ているはずのじいちゃんの口が、「聴きよる!」と言った。 若い頃軍関係の仕事をしていただけあって、さすがにスキがなかった。
ぼくが小学3年の時、名古屋の叔父が結婚することになったため、急きょ家族で名古屋に行くことになった。 新幹線がまだこちらまで来ていない頃で、新大阪までは急行寝台を使った。 黒崎駅に急行の発車30分前に着いた。 時間に余裕があったので、じいちゃんが「土産を買ってくる」と言って、駅前の商店街に行った。 ところが、じいちゃんは買い物に行ったっきり帰ってこない。 発車10分前になるのに、まだ帰って来なかった。 どうしたんだろうと、ぼくたちはじいちゃんを探しに行った。 程なくじいちゃんは見つかった。 駅の真前でタクシーを止めていたのだ。 「じいちゃん、何しよるんね」 「ああ、駅がわからんようになったけ、タクシーに乗っていこうと思って」 「駅は目の前やろ!」 こういう時じいちゃんはボケたふりをするのが得意だった。 「ほんと、世話がやけるんやけ。知らん土地にに行くんやけ、しっかりしてもらわんと困るやんね。迷子になったって知らんけね」と伯母は怒って言った。 が、じいちゃんは、どこ吹く風といった顔をしていた。
しかし、じいちゃんはこんなことでめげるような人ではなかった。 帰りも騒ぎを起こした。 今度は新大阪駅だった。 伯母と母が「トイレに行くけ、待っとって。絶対ここを動いたらいけんよ」と言って、トイレの中に入っていった。 念を押されたのにじいちゃんはじっとしていなかった。 「しんた、じいちゃんは買い物してくる」と言って、どこかに行こうとした。 「じいちゃん、伯母ちゃんが動いたらいけんち言うたやないね」 「迷子になんかならん」と言って、その場を離れた。 ぼくは心配なので付いて行った。 ところが、買い物を終えて、元の位置に戻ろうとしたが、その場所がわからない。 「あっちじゃない、こっちじゃない」とやっているうちに、30分近く経ってしまった。 ぼくが「交番に行こうか」とじいちゃんに言っていると、あちらから母が来るのが見えた。 「あんたたち、どこに行ってとったんね!」 母は真剣に怒っていた。 「あれだけ、動いたらいけんよっち言うたやろ」 「そう言うても、買い物があったんやけ」とじいちゃんは言った。 「私たちが帰ってきてからでも、よかったろうがね!」 じいちゃんはまたボケたふりをした。。 ぼくも後で「じいちゃんのせいで怒られたやんね」と文句を言ったが、無視された。
「八月葉月の虫の音は いとしゅうてならぬと鳴きまする」 佐藤公彦(ケメ)の名曲『通りゃんせ』の一節である。 ぼくは当初、八月葉月の虫を、セミのことだと思っていた。 しかし、これは旧暦のことだから、新暦では今時期ということになる、とわかったのはずっと後のことだった。 今日は旧暦の八月八日。 この歌のように、虫の音が夜を包んでいる。 まあ、「いとしゅうてならぬ」と鳴いているのかどうかは知らないが、虫が鳴くのはメスを誘うためだと言うから、的外れではないだろう。 それにしても、秋の虫は「キンキン」鳴きまするなあ。 疲れた頭によく響きまするわい。
さて、その虫のことでちょっと考えたことがある。 それはゴキブリのことである。 二日前に、店の中をうろうろしていたので、踏み殺した。 その前も、ぼくの部屋に侵入してきたので、叩き殺した。 彼らはいつも積極的に殺されてる。
どうしてこうゴキブリばかりが虐待されるのだろう? 彼らほど人類に忌み嫌われている虫もいない。 彼らとしては何も悪いことをしているわけではないのだ。 彼らはただゴキブリとして、まっとうに生きているだけである。
縄張りを侵害するから、人は彼らを死に追いやるのだろうか。 たしかにゴキブリは人の家に侵入してきて、そこで一家を構える。 ではコオロギはどうなんだ。 彼らも同じではないか。 しかし、彼らは人の縄張りを侵したからといって、積極的に殺されることはない。 それどころか、鈴虫と並んで、秋の虫の代表選手に祭り上げられている。 この差はなんだ?
人がゴキブリを忌み嫌うのは、その容姿がグロテスクだからだろうか? それならセミはどうなる。 セミのほうがよっぽどグロテスクな容姿をしている。 しかし、彼らは夏休みの宿題のために毒殺されることはあるが、叩き殺されるようなことはない。 部屋に紛れ込んできたら、殺さずに逃がしてやるではないか。 これがゴキブリならこうはいかない。 殺さないと気がすまないのだ。 この差はなんだ?
思うに、ゴキブリは鳴かないから、こういう扱いを受けるのではないだろうか。 鳴かないから愛想なしと思われるのだ。 愛想がないくせに、人の家に居候などしているから、叩かれたり、罠を仕掛けられたり、毒を盛られたりするのだ。 もし、ゴキブリが鈴虫のような声で鳴いたりする虫なら、こうまで虐待されないだろう。
以前テレビで白いゴキブリを見たことがある。 海外のゴキブリで、食用だと言っていたが、もし、人の家に生息しているゴキブリが白いものだったら、こうまでひどい扱いを受けなくてすむかもしれない。 しかもその白いゴキブリが鈴虫級の音色を奏でたとしたら、それはもう天使の虫と呼ばれ、重宝がられるに違いない。 そうなれば、ゴキブリの鳴く音に、そっと涙することもあるかもしれない。
昨日はここ数日の疲れからか早く寝てしまった。 そのせいで、昨日の日記は今朝早く起きて書くことになった。 早く起きたとはいえ、もう空はずいぶん明るくなっていた。 久しぶりに空は曇っていた。 ああじゃない、こうじゃない、と日記を書いている時、午前6時頃だったか、遠くからサイレンの音が聞こえた。 「火事かな」と思っていると、そのサイレンの音がだんだん近くなってきた。 さらに複数のサイレンの音も聞こえてきた。 外は急に騒がしくなっていった。 「どうしたんだろう」と窓の外を見てみると、消防車がぼくの住む団地の横に停まっている。 「もしかしてこの棟か」とぼくは慌てて外に出てみると、ぼくの住む棟の後ろの棟からモクモクと煙が昇っている。 煙の出ているほうに回ってみると、4階の一室の窓から火が噴出して、窓についている鉄柵を溶かしている。
今まで何度か火事を見たことがあるが、こんなに近くで起こったのは初めてだ。 消防車の数は6台、他に救急車が1台、パトカーが1台停まって、道を完全にふさいでいた。 朝早いとはいえ、かなりの人がそこに集まっている。 口ではみな「怖いねえ」などと口走っていたが、ぼくと同じく好奇心のほうが強いのだろう。 しばらくすると、火は止み、煙の出方も少なくなった。 消防署の人が「鎮火に向かっています」と言ったので、野次馬の数も減っていった。 ということで、ぼくも家に戻った。
後でわかったことだが、出火の原因は漏電だということだった。 ぼくの住む団地は一軒当たりのコンセントの数が少ないので、どこの家もタコ足配線をやっている。 それが災いしたのだろう。 もしくはトラッキングか。 最近、トラッキングによる火災が多くなっていると聞く。 何年か前に小倉の老舗大手スーパーが火事を出したことがあるが、その原因はコンセントと冷蔵庫のコンセントプラグの隙間に付着した綿ぼこりだったという。 その頃からトラッキング火災が話題になりだした。 配線を作っているメーカーも、トラッキング防止の商品を数多く出してきたのはその直後からだった。
ぼくはそういう商品を売っているのだが、個人的には持っていない。 パソコンのコンセントは常時挿しっぱなしになっているので、トラッキング防止の商品は必要アイテムなのだが、「まさか、おれが火事出すわけないやん」という思いが先にたち、どうも購入に踏み切れないでいる。 しかし、今回の火事も、漏電が直接の原因ではあるが、その背景には「まさか、おれが・・」というのがあるのは確かである。 そう考えると、一品200円の商品をいつまでもケチっているわけにはいかない。 「お客さん、いつこういう事態になるかもわかりません。買って損はない商品ですよ」 ぼくは自分に、そう言って販売している。 が、このお客は頑固である。
| 2002年09月12日(木) |
「戦争反対!」を叫ぶバカチンたち |
今日もテレビでは、昨年の同時多発テロ関連の映像を流していた。 大統領の演説、ニューヨークの風景、テロ反対の集会、イスラム教信者への偏見に対する抗議、などなど。 原爆記念日や終戦記念日などと同じように、いつもながら戦争悪の立場に立ち、「こういう番組を放送する我々はいい人だ」ふうな番組構成になっている。
さて、その戦争だが、いくら「戦争反対!」などと声高々に叫んでも、「戦争反対!」を信念として守り通したとしても、戦争というものはなくなるものではない。 なぜなら、人間は神でなく動物であるからだ。
動物の本能には、縄張り意識というものがある。 犬が吼えるというのも、自分の縄張りが荒らされるのを阻止するための威嚇行為である。 これは人間が仕込んだのだろうか。 いや、これは犬の持っている本能である。 猫や猿も縄張りを守るために争う。 当然これも人間が教えたものではない。
人間もこれと同じである。 ただ他の動物と違うのは、人間の縄張りというのは複雑だということだ。 他の動物の縄張りというのは、自分が活動するための場所を意味する。 ところが人間の場合の縄張りは、土地ももちろんだが、主義・主張・思想・宗教という精神的なものまで含まれる。
「この席はぼくが先に来て取ってたんです!」 「誰にことわりを得てこんな所で商売やってるんだ!?」 「誰だ、うちの塀に小便引っ掛けるやつは!」 「お宅の柿の木がうちの庭にはみ出してるんですけど」 よく見かける光景だが、こういうのは場所の縄張りである。 当然どちらかが折れないと喧嘩になってしまう。 しかし、こういう場合どちらも折れないことが多い。 それが、人間の縄張りを守る本能だからだ。 「戦争反対!」派の人でも、こういう場合は折れないだろう。 考えてみると、この場合、暴力に発展することはないにしろ、争いにはなっている。 これは戦争じゃないか。
「そんな考え方はやめろ!」 「それって人権蹂躙じゃないか」 「おれの意見に従え」 「そういう考えの人は辞めてもらって結構です」 「君は平和を望まないのか!?」 「くだらん思想にかぶれやがって」 ぼくはこういうことをよく言われてきた人間だが、こう言われるのは精神的な縄張りの侵害である。 当然ここでもトラブルが起こる。 縄張りを守るという本能から発するのだ。 売り言葉に買い言葉、言い返した時にはすでに争いになっている。 「暴力反対。話し合いで決着をつけましょう」とよく言うが、「話し合い」も立派な武力闘争である。 トラブルが起きた時、すでに戦争になっているのだ。
国もいっしょである。 国というのは巨大な本能の集まりである。 日本に縄張りを侵されるという妄想を抱いたアメリカは、その巨大な本能に任せ、日本に戦争を仕掛けてきた。 そして、日本が縄張りを侵す存在にならないようにと、完膚なまでに叩きのめした。 逆に日本は、おのれの本能に逆らってまでアメリカの本能の攻撃に耐えたものの、結局おのれの本能に逆らえず「真珠湾」に踏み切った。 一見近代的で複雑そうに見える国際社会も、本能に置き換えると実に単純な世界である。 要は、さまざまな縄張りを各国が死守しようとしているだけのことだ。 武力こそ使わないが、常時戦争をやっているのだ。
山で仕事をする人は、熊からの攻撃を避けるために、自分の居場所の周りに小便をばら撒くという。 こうしておくと、熊は「ここは他人の領域だ」と思い、小便をばら撒いたところから内側には入ってこないという。 熊としては、小便を人間の作為と思っているわけではない。 自然な本能の掟だからそうするわけだ。 熊の被害にあうのは、人間が熊の縄張りを荒らすからである。 そういう本能の掟を破るからである。
軍備もそういう意味では本能といえるだろう。 国境とは小便のことである。 小便内に侵入してきたものに、武力を用いるのである。 これは熊の場合と同じことだ。 こういう場合に、「武力を用いずに、話し合いで」という人がいる。 話し合いで決着をつけるのが、平和的で立派な行為とでも思っているのだろう。 繰り返し言うが、話し合いも戦争である。 武力、破壊、殺傷だけを、戦争だと思わないでほしいものだ。 人間とは、縄張りを守る、そのためには他と争う、という本能を生まれながらに持っている動物である。 軍備反対と目くじらを立てて言う人がいるが、そういう人たちは人間の本能を忘れ去った異常な人たちと呼ばざるを得ないだろう。
いずれにせよ、人間とは毎日戦争をやっている動物なのである。 「戦争反対!」なら、もう死ぬしかないだろう。
| 2002年09月11日(水) |
ドキュメント9.11 |
午後2時頃。 テレビは昨年の同時多発テロの画を流していた。 「ふーん、あれから1年か。今日は久しぶりに戦争ネタを書こうかな」と、ぼくはのんきなことを考えていた。 その時だった。 背後から「ド・ド・ド」という音が聴こえた。 「何だろう?」と振り返ってみると、「!」 そこにあるはずの空間を、見たことのない巨大な灰色の壁が覆っているではないか。 「な、何だ、これ!?」 よく見てみると、その灰色の壁はさらに下に向かって降りている。 「シャッターだ!」
とりあえず、ぼくは現場まで走っていった。 現場では従業員やお客さんが、唖然としてこの光景を見つめている。 シャッターは一列に4枚並んでいる。 1枚の幅は約10メートル。 売場部分は下まで降りてしまっていたが、幸い通路は床から1メートル2,30センチ位上のところで止まっていたため、通路を歩いていた人に怪我はいなかった。 どうも防火シャッターらしい。 ぼくたち男子従業員は、「とにかくシャッターを上に上げないと」とシャッターのスイッチを探し回った。 が、見つからない。 そうこうしていると、「しんたさーん」と隣の店の従業員がやってきた。 「うちの事務所の警報器が鳴りっぱなしなんです。 よく見ると、ここが火災発生ということになっているんです」 「え?!」 ぼくは慌てて隣の店に行った。 事務所に行ってみると、言ったとおり「ピー、ピー、ピー・・・」と警報器が鳴っている。 警報器の「防炎警報」のところにランプがついている。 なるほど、出火現場はうちの店になっている。 先ほどの従業員が「火事ですか?」と聞いた。 ぼくは「いや、煙も出てないし、火も出てないけど」と言った。 「この音、どうやって止めたらいいんですか」 「あんたたちが知らんのに、おれが知るわけないやないね」 ぼくはそう言い、警報器を調べた。 いろいろなスイッチがあるのでわかりづらい。 ふたを開けてみると、そこに「警報音停止」というスイッチがあった。 ぼくは「これかな」と思いながら、そのスイッチを押してみた。 音が止まった。
店に帰ってみると、相変わらずシャッターが降りたままになっている。 店長がいたので「わかりましたか?」と聞いてみた。 店長は「ここにはシャッターのスイッチはないらしい。今から設備の人間が来るらしいけ、しばらくこのままにしとこう」と言った。 その間、ぼくはすることもなかったので、レジの女の子たちの前で、途中で止まっているシャッターの下に人差し指をあて、「支えてますから、早くお通り下さい」などと言ってギャグをかましていた。
しばらくして、設備の人たちがやってきた。 彼はシャッターを見るなり、「ああ、これ全部巻き上げんないかんなあ」と言った。 詳しく聞いてみると、うちの店の防火シャッターは、降りるのは自動だが、上げるのは手動でやらなければならないということだった。 設備の人は、天井を開け、そこから鎖をおろした。 そして、ぼくたちに「これを引いてください」と言った。 鎖を引くと、その分シャッターが上がると言うのだ。 簡単に言えば、滑車にベルトを付け、回すようなものである。 そんなに力はいらなかったが、けっこう重労働だった。 鎖を10度引っ張っても、2センチほどしか上がらない。 天井の高さは5メートル近くあるのだ。 やっているうちにかなり息が上がってきた。 黙ってやっていると疲れるので、「ダイエットに最適な運動ですよ。誰かやってみませんか?」「二の腕の贅肉はこの運動が一番」などと、大声で言いながらやった。 1枚のシャッターを上げるのに15分ほどかかった。 しばらく休憩していると、「あと一枚あるぞ」という声がした。 そこにいた中では、ぼくが一番若かったので、しかたなく2枚目もやった。 食事前で空腹だったため、この運動で気分が悪くなってしまった。
さて、この事件の原因だが、結局わからずじまいだった。 センサーに何かが引っかかったのは確かだが、それは煙やガスの類のものではなかった。 そうでないとするなら、センサーに虫かなんかが触れたのではないか、ということだった。 もし、その原因が虫にあるとしたら、その虫はシャッター・テロを敢行したことになる。 虫の世界では英雄ということになるだろう。
| 2002年09月10日(火) |
フォーエバー・ヤング |
若さというのは本当にいいものである。 いろんな冒険が出来る。 いろんな無理が出来る。 何よりも羨ましいのは、失敗してもやり直しがきく、ということだ。 ぼくの歳になると、そうそう博打のようなことは出来ない。 会社が嫌だと言って、すぐに辞めるわけもいかない。 ミュージシャンになって一発当てようと思っても、そうそう門戸は開いてくれるものではない。 この歳で歌手デビューしてミリオンセラーを狙うというのは、宝くじを当てることよりも難しいだろう。 そういうことは若いからこそ持てる夢である。 家のローン、車の維持費、養育費、生命保険等々、こういうものに縛られている者にとって、それは夢のまた夢である。 ぼくは、これらすべてに縛られているわけではないが、それでもこの歳なりの不自由さを感じている。 つまり、夢を持ってはいるものの、そこに飛び込めない空しさを感じているのだ。 何よりも、まず生活を考えてしまう。 そうなると、自ずとこじんまりとした成功でいいと思うようになる。 仮にレコードデビューしても、あくまでも副業で、印税や何かで月に5万円くらいになればいいや、と思うのである。 これではものにならない。 そういう人間を、業界は求めやしないだろう。
高校の頃、ぼくは実にばかげた夢を持っていた。 1年の頃、ホームルームで「あなたの夢は何ですか」というのをやったことがある。 前に出て、一人一人夢を語っていくのである。 男子は「プロのスポーツ選手」とか「普通のサラリーマン」などが多く、女子は「好きな人のお嫁さんになる」というのが多かった 「しんた君、お願いします」 「みんな夢が小さいようですね。ぼくは革命を起こして、世界を統一します」とぼくは言った。 クラス中大笑いになり、「おまえはバカか」という罵声を浴びたものだった。 担任から「おまえは赤か」と言われたので、「夢は大きいほうがいいでしょ」と答えておいた。 しかし、こういうことも若かったから言えたことである。 もしこんなことをこの歳で言おうものなら、社会からは冷たい目で見られ、会社からは即刻クビを言い渡されるだろう。 歳をとると、そういうバカ一つも言えなくなるのが現実だ。 それだけ、社会的な責任を持っているとも言えるが。
ぼくもそろそろ40代の後半に入る。 とはいえ、このまま定年人生を送ろうとは思わない。 何かひとつバカをやりたいと思っている。 「そのためには若返らなくちゃねえ。とりあえず白髪を染めるなりして」という人がいる。 しかし、髪を染め、若々しい格好をすることを若さというのなら、ぼくは若くなろうとは思わない。 40代は、あくまでも40代なのだ。 ちゃんと40年以上生きてきた歴史や自負を持っているのだ。 今さら青二才の真似事などできるか! 「しかし、若くないとバカはできないじゃないか」 じゃあ、40代が若いと言われる世界に飛び込んだらいいじゃないか。 もしくは、自分だけの世界を展開すればいいじゃないか。 ぼくはそれを模索している。
日に何枚かずつCDをパソコンにコピーしている。 一枚あたり10分かからないのだから、速いものだ。 5年ほど前、CDをMDにダビングする時には、収録時間通りの時間がかかっていた。 それでもカセット時代に比べると、時間の計算をしなくていい分、楽になったと思ったものだった。 それ以前、レコードからCDに変わった頃は、針を落とす音やレコードの傷を気にしなくてもすむから、楽になったと思っていた。 もっと以前、ラジカセしか持っていなかった時代は大変だった。 録音するには内臓マイクを利用しなければならなかったため、録音中は物音を立てられなかった。 録音中にバイクの音などがすると、また最初からやり直さなければならなかった。 2枚組みのレコードは90分テープに録音していたのだが、一度、最後の曲のエンディングに差し掛かった時に、友人がバイクに乗って遊びに来たことがあるが、この時ばかりは泣きそうになった。 B面は最初からやり直しであった。 昔は、録音一つとっても、大変苦労していたものだった。
そういう時代を経てきた者としては、今の時代は本当に便利だと思う。 例えばMP3に変換してパソコンにストックしていた音楽を、好きな曲ばかり選んで、1枚のCD-Rに焼きつけるとする。 所要時間は20分もかからないのだ。 その間、いろんなサイトを見ていても、他の音楽を聴いていても、日記を書いていても、大丈夫なのである。 ちょっと前までは、CDを作ることさえも不可能だったということを考えると、これは凄い進歩だ。 これを当たり前と思っている今の若い人たちが、更なる便利を求めたとしたら、いったいどういうふうに時代は進んで行くのだろう。 それを考えるとワクワクしてくる。
何かの本で読んだのだが、現在日本のロボット産業が世界をリードしている要因は、日本人の器用さとか勤勉さというものあるが、何よりも「鉄腕アトム」のおかげによることが大きいということだった。 なるほど、そのとおりかもしれない。 ああいう、目標というか、指標というものがあったからこそ、この業界は道を外れずに進んでこれたのだろう。 それはちょうど自転車の運転に似ている。 例えば、自転車で道路の白線の上を走ったとする。 目先の白線に気をとられると、フラフラして、なかなかまっすぐに進めないものである。 ところが、目先の白線を気にせず、ずっと遠くの白線に目を置くと、白線にそれずまっすぐに走れるのだ。 ロボット産業も、おそらくこの理屈で進んできたものと思われる。 ずっと遠くの白線、それが「鉄腕アトム」である。
さて、では先ほどのオーディオの世界はどうだろう。 はっきりした指標はあるのだろうか? 残念ながら、今のところそれはない。 音の追求はあるものの、その媒体にこれと言った指標が見出せないのだ。 20年ほど前に、博多であったソニーの新製品発表会に行った時、進行役の人が一枚の銀色のディスクを見せ、「みなさん、これは何だと思いますか?」と言った。 「これは新しいレコードです。あの30センチのレコードが、この12センチのディスクに収まるのです。・・・。これは針で音を拾うものではありません。光で読み取るのです。そういう時代がすぐそこまでやってきています」 ぼくはこれを聴いて、「すごい時代が来るのう。光で音を読み取るんなら、埃がついても音は飛ばんですむバイ」と思ったものだった。 それからまもなくして、その時代はやってきた。 その技術はまずLDとなり、現在はDVDとなっている。 同じ技術の延長だから、もちろん互換性もある。 おそらく、CDの技術を開発していた頃には、すでに映像まで目が行っていたのだろう。
では、次はどういう時代が来るのか? いまだにぼくは、それを読めないでいる。 今の若い技術者に、何か指標があるのだろうか? 聴覚、視覚はとりあえず終わった。 残っているのは嗅覚、味覚、触覚であるが、そういうものをCDの延長に見据えているのだろうか? となれば、ちょっと嫌である。 例えば、においなら「Smell Disk(SD)」になる。 「しろげしんたのNEW SD『足の爪』ON Sale!」とか嫌でしょ? まさかそこを見据えてはないと思う。 やはり若い人ならゲーム絡みか。 もしそうなら、オーディオ世代ぼくとしては、ちょっと寂しい気がする。
気持ちが落ち着かない。 焦点が定まらない。 思考がおかしくなっている。 おそらく、今日ぼくは狂っているのだろう。
午前中のこと、一人のお客さんから電話があった。 ある処分商品についての質問だった。 あれこれ説明すると、「それがほしいんだけど、着払いで送ってもらえませんか?」と言う。 「よろしいですよ。場所は?」と聞くと、その人はかなり遠くに住んでいた。 「ああ、市外ですね。送料がかかりますけど、よろしいですか?」 「あのう、ぼくお金が○○円しか持ってないんだけど、まけてもらえませんか?」 「すいませんが、この商品はすでに安くなっているので、これ以上まけられないんですけど」 「そうですか」 そう言って、そのお客さんは電話を切った。 それから30分後、またそのお客さんから電話があった。 内容は同じだった。 結局まけることが出来ないので、前と同じようにお断りした。 すると、30分ほどしてまた電話が入った。 内容は、またしても同じだった。 同じように応対して、ぼくは電話を切った。
ようやく相手も懲りたのか、しばらく電話はかからなかった。 しかし、1時間後に、また電話が入った。 「あのう、父がそこの近くに住んでいるんですが、そこで全額払いますから、そこに送ってもらえますか?」 「それはいいですよ」 「じゃあ、お願いします。住所は・・・」 なるほど父親はすぐ近くに住んでいた。 明日の午前中に持って行くということで話は着いた。 ぼくは配達業者の人に連絡を取り、承諾を得たので配達の準備をした。
30分後、またしても同じ人から電話がかかった。 「すいません、先ほどのものですけど」 「どうしました?」 「あのう、先ほどの件ですけど」 「はい」 「集金を父親のところでして、それからこちらに持ってきてもらうというのは出来ますか?」 「別にかまいませんが、先ほども言ったように、市外になりますから送料が別にかかりますよ。それはいいんですか?」 「お父さんに聞いてみないとわからないけど・・・」 「じゃあ、お父さんに聞いてから、電話もらえますか」 「わかりました」
それから、またしばらく電話がなかったので、ぼくは食事に行った。 すると、ぼくの食事中に電話が入った。 ぼくが電話のある場所にいなかったため、その電話はパートさんが受けた。 電話の主は、先ほどのお客さんの父親からだった。 父親は怒った声で「息子は入院してるんだから、勝手に物を売らんでほしい」と言った。 息子が入院していることなど、こちらは何も知らないのだ。 普通のお客さんと思い、こちらも対応している。 こちらに文句を言ってくるなど筋違いである。 「じゃあ、キャンセルということでいいですね」とパートさんは言った。
嫌な思いはしたものの一件落着である。 これでもう電話はかからないだろうと思っているところに、また息子のほうから電話が入った。 今度はぼくが受けた。 ぼくが「先ほどお父さんから、かなり叱られたんですけど」と言うと、息子はえらく恐縮していたようだった。 「わかりました」 ということで、この件は終わった。 しかし、30分後、またこの人から別の件で電話を受けることになる。 今日一日、この人絡みの電話が10件以上、それ以外の電話はたった3件だった。 ところで、このお客さんがどこに入院していたかと言うと、案の定、精神科の病院だった。 ぼくはずっと精神障害の人と話していたのだ。 それを知ったとたん、ぼくは自分がまともじゃないような気がしてきた。
気持ちが落ち着かない。 焦点が定まらない。 思考がおかしくなっている。 おそらく、今日ぼくは狂っているのだろう。
| 2002年09月07日(土) |
久しぶりにレコード屋に行った |
ベスト20をやっていたために、本来の日記の書き方を忘れてしまったようだ。 どうも手が進まん。 とりあえず、この1週間を振り返ってみると・・・ うーん、別に大したことのない1週間だった。
そういえば、何年かぶりにレコード屋に行った。 ここ数年、1年に2,3枚ほどしかCDを買っていないのだが、最近はすべて本屋で買っている。 近くて便利だからだ。 駅前の商店街に行けばレコード屋はいくらでもあるのだが、車を使うため、どうしても駐車場に苦労する。 郊外の本屋のように無料で駐車できないのだ。 いちおう県内でも名だたる商店街だから、駐車料金も馬鹿にならない。 そこでぼくは、繁華街から少し離れた「コイン駐車場」を利用している。 ここだと、30分100円ですむのだ。 しかし安いところは、みんなが狙っているので、いつも空きがあるわけではない。 また、レコード屋などは所詮個人店だから、百貨店や量販店のように「2千円以上のお買い物で1時間駐車無料」となっているわけでもない。 仮になっていたとしても、どの駐車場がそれを利用できる駐車場なのかがはっきりしてない。 うろうろしているうちに、まったく関係のない駐車場に入っていた、というのはよくあることだ。 こういう不便さが、商店街離れの一因になっているのだろう。
ま、そんなことはさておき、ぼくは久しぶりに行ったレコード屋の在庫の量に圧倒された。 普段見慣れている本屋のCD在庫量の、軽く10倍はある。 この中からお目当てのCDを探すのかと思うと、いささかうんざりもしたが、こういうところだからこそあるお宝というのもある。 それに期待して、ぼくはCD探しを始めた。 いやー、新譜・旧譜から輸入盤・海賊盤まで実によく揃っている。 「これは期待できる」と思ってお目当てのアーティストのところを覗いてみると、肝心のCDが置いてない。 その日は3枚買おうと思っていたのだが、それらすべてがなかった。
次のレコード屋に行った。 しかし、そこにも肝心のCDはなかった。 何店かレコード屋を回ったのだが、お目当てのCDは見つからなかった。 なければしかたがないので、CDを買うのは諦め、「本でも買おう」と本屋に入った。 ところがである。 あれだけレコード屋を探してもなかったCDが、その本屋に3枚ともあったのだ。 皮肉なことである。 しかも、その3枚のCDをレジに持って行くと、そのレジの前には、前からちょっと気になっていた歌手のCDが山積みされていた。 ついでにというので、ぼくはそのCDも買うことにした。 このCDは先のレコード屋にもあったのかもしれない。 しかし、そのCDは目立ったところには展示してなかったのだ。
さて、その日買ったCDは、洋楽ベスト20に関連したものが主で、「カーペンターズ(ベスト盤を一枚持っていたのだが、どこに行ったかわからなくなったので、新たなベスト盤を買い求めた)」、「レオン・ラッセル(前々からほしいと思っていた一枚である)」、「ミッシェル・ポルナレフ(探してみるものである。出ていた)」だった。 それと最後に選んだレジ前のCDが、「元ちとせ」だった。 この人の歌い方は独特ですねえ。 無理に変わった歌い方をするその辺の歌手に比べると、民謡で長い間鍛え上げた節回しだから、全然嫌味を感じない。 何曲かいい歌も入っていたし、これは実にいい買い物だったと思っている。
ところで先のレコード屋である。 いかに在庫量を誇ろうとも、変にマニア物ばかり集めていると、一般のお客の足は遠のいてしまう。 若い経営者がやっているらしいが、その辺の呼吸がまだわからないのではないのだろうか。 10人の人がいて、その中の何人がマニアなのか考えたらわかりそうなものである。 まあ、ぼくも店作りにはいろいろ苦労させられている人間だから、あまりえらそうなことは言えないが。
| 2002年09月06日(金) |
しろげしんたが選ぶ洋楽ベスト20(2位〜1位) |
さあ、いよいよ残り2曲である。
第2位 『メイビー・アイム・アメイズド』ポール・マッカートニー&ウィングス この歌には、邦題が2つある。 『恋することのもどかしさ』と『ハートのささやき』である。 前者は、ポールのソロになって初めてのアルバム『マッカートニー』に収録された時の邦題であり、後者はUSAライブからシングルカットされた時の邦題なのだが、どっちかまとめろと言いたい。 浪人中に、タモリのオールナイト・ニッポンを聴いていた時、タモリが「次の曲は、ポール・マッカートニーの『ハートのささやき』」と言った。 「ふーん、ポールは新曲出したんか」と思って聴いていると、どうもどこかで聴いた曲なのだ。 当時持っていた「ビートルズ事典」なるものを取り出して調べてみたが、ビートルズ時代も含めて、そういう歌は見つからない。 「おかしいなあ、新曲かなあ」と思って、後日ポール好きの友人に聞いてみた。 「知らん」と言う答だった。 そこで、友人の家でレコードを聴かせてもらうことにした。 「違う、違う・・」とやっていくうちに、ようやくその曲が出てきた。 「なーんか、『恋することのもどかしさ』やんか」ということで、ようやく胸のつかえがが取れた感じがしたものだ。 ところで、この曲を語る時、どうしてぼくがこの曲が好きになったかという理由を言わないことにははじまらない。 確かに名曲である。 ぼくはこの曲を、ビートルズの作品の中、および、彼らが解散してからのそれぞれの作品の中でも最高の曲だと思っている。 メロディはしっかりしているし、サウンドの面でも申し分ない。 しかし、それ以上にぼくが気に入っている理由がある。 それは、ポールがこの曲の中で、ぼくが長い間好きだった人の名前を絶叫してくれているからだ。 もちろんポールは、その人の名前を呼んでいるわけではない。 別の言葉を叫んでいるのだが、ぼくにはどうしてもそう聴こえてくるのだ。 東京にいた頃、ぼくはこの歌を聴きながら、何度彼女に思いをはせたことだろう。 そういうことで、この曲が晴れて2位である。
第1位 『愛にさよならを』カーペンターズ 1972年発表の古い歌であるが、ぼくとしては最近好きになった歌である。 以前からカーペンターズを聴いていたのに、どうしてこんなにいい曲に気づかなかったのだろう。 おそらくぼくが、カーペンターズといえば『遥かなる影』、というイメージを持っていたために、この歌が影に隠れてしまっていたのだろう。
『遥かなる影』は、ぼくの好きな曲の一つである。 当然このベスト20にも入れようと思っていたのだが、ある理由があったため、このランキングには入れないでおいた。 その理由とは、歌詞である。 ぼくはこれまで、邦題が『遥かなる影』となっているので、よほどいい詩に違いないと思っていた。 ところが、歌詞カードを見て、幻滅してしまったのだ。 「・・・街中の女の子があなたの後を追いまわす、きっと私と同じね・・・」である。 ミーハーの歌じゃないか。 実際は深い意味があるのかもしれない。 また、和訳の過程でこんな詩になったのかも知れない。 そのへんは定かではないが、ぼくが「ミーハーの歌」と思っている以上、到底この曲をベスト20に入れることは出来ない。
さて、話を『愛にさよならを』に戻そう。 数年前、仲間とドライブに行った時にこの曲が鳴っていた。 黄昏時に聴いたこの曲は、ぼくの懐古の情を刺激するには充分すぎた。 メロディ、ボーカル、コーラス、演奏、どれをとっても素晴らしかった。 特にトニー・ペルーソのファズギターには、思わず涙したものである。 そこには、ぼくの70年代があった。 今回のランキングで、ぼくはいろいろな曲を聴きなおしたみたが、何度聴いても聴き飽きなかったのはこの曲だけだった。 イントロなしのボーカルで始まり、ギターソロのフェードアウトで終わるこの曲は、3分56秒と演奏時間は長くもなく短くもなく、ストレスのたまらない曲である。 70年代最高の曲である。 ぼくは、常々洋楽は70年代物がベストだと思っている。 その中で最高の曲なのだ。 当然この曲が1位である。
さて、どうだったでしょうか? 相変わらずしんたはへそ曲がりだ、と思われたことでしょう。 しかし、これが今のぼくの偽らざるベスト20です。 これ以上のものをぼくは選曲できない。
ところで、このサイトを始めた当初、ぼくにはやりたい企画が3つあった。 その一つが邦楽ベスト20だが、これは6月にやった。 もう一つが洋楽ベスト20で、これも今日終わった。 残るは、マンガベスト20だけになった。 しかし、これが終わったら目標を失うだろうなあ。 ま、当分先になるだろうけど。
| 2002年09月05日(木) |
しろげしんたが選ぶ洋楽ベスト20(4位〜3位) |
いよいよ、残り4曲である。 ここまで16曲発表したわけだが、「あのバンドの歌が一曲も入ってないじゃないか」と思われた方がいると思う。 「ベスト4位以内に彼らの曲が入っているだろう」と期待している方もいるかもしれない。 ここで断言しておきます。 ビートルズは入っておりません! それは、ぼくがビートルズのアルバムは好きだけど、シングルは好きではないという理由があるからだ。 じゃあ、ビートルズの中でどの曲が一番好きかと言うと、強いてあげれば『ディッグ・ア・ポニー』である。 これでは、ベスト50にも入らんでしょうなあ。
第4位 『ソー・マッチ・イン・ラブ』ザ・タイムス 今でも、ラジオなどでよく耳にする歌である。 ぼくが持っているデータには、'63年8月3日に全米1位に輝いている、と書いてある。 20年後にカバーされて、そこそこヒットしているから、それほど古く感じないのかもしれない。 一時、ぼくはこの歌と、ビリー・ジョエルの『ロンゲスト・タイム』がごっちゃになっていた時期がある。 アカペラの歌というのは、けっこう似ているものである。 必ず指パッチンが入っている。
第3位 『幸せの黄色いリボン』トニー・オーランド&ドーン この歌の思い出は、以前書いたことがある。 高校に入学した翌日に、中学時代の友人が自殺するというショッキングな事件があった。 それから約1ヶ月、精神的に重苦しい日々を送ることになる。 その状態から救ってくれたのが、当時大ヒットしていた、この『幸せの黄色いリボン』だった。 当時歌詞の内容なんかは知らなかったから、妙に明るい歌だなあと思っていた。 歌詞の内容を知ったのは、数年後、加山雄三がテレビで話していたのを聞いたときである。 それから2年後に、映画「幸せの黄色いハンカチ」が封切られた。 歌から映画が生まれるというの、時々あることだが、なかなか日本語の歌詞では難しいだろうと思う。 「今日、刑務所から出てきたぜ、ベイビー」と書けば、何とかなるかもしれないが。 この歌が流行った頃、ラジオでは「今週の1位は、ドーンの『幸せの黄色いリボン』」とやっていたので、後年CDを探す時に苦労することになる。 ずっと「ドーン」で探していたので、なかなか見つからない。 5年近く探したものだった。 「あれほどの名曲が、まだCDになってないというのはおかしい。 版権でもめているんだろうか」などと余計なことまで考えていた。 ところが、ひょんなことからそのCDは見つかった。 前の会社で、ぼくはずっと楽器の販売をやっていた。 ところが途中から、人員削減などで、レコード売場も兼任するようになった。 ぼくがレコードを担当するようになってから、楽器にあまり縁がないため、めったに店に現れることがなかった知人や友人が訪れるようになったのだ。 そういう人たちの中の一人が、突然「おい、しんた。このCDはおまえの好みで入れたんやろうが」と言った。 そのCDを見ると、『トニー・オーランド&ドーン』と書いてある。 もしかして、あのドーンかと思ったぼくは、そのCDに収録されている曲名を見てみた。 一番上に『幸せの黄色いリボン』と書いているではないか。 さっそくそのCDをぼくは買った。 73年にこの歌がヒットしてから十数年、やっとこの名曲を手元に入れたのである。 それにしても、ジャケットに写っているトニー・オーランドは、スケベそうなおっさんである。
さて、明日はいよいよベスト2位以内の発表である。 誰の何という歌が入るかお楽しみに。 何度も言うようですが、ビートルズの歌は入っておりません。
| 2002年09月04日(水) |
しろげしんたが選ぶ洋楽ベスト20(番外編 その2) |
まだまだ番外の名曲があるので、もう少し紹介していきたい。
『ソング・フォー・ユー』レオン・ラッセル 何年か前に、三菱かなんかの車のCMで流れていた。 魂を揺さぶられるような歌だ。 「一万人の前で歌ったこともあるけど、今は君一人のために歌う」 こんな歌を聴かされると、女性は参ってしまうんだろうなあ。 カーペンターズも歌っているけど、オリジナルが一番いい。
『雨にぬれても』B.J.トーマス この歌に関しては、前にも書いたことがある。 ピン・ポン・パンのお姉さんが、「雨だれ小僧ちゃん〜♪」と歌っていたのを聴いたのが最初で、高校の頃、同級生の女の子がピアノで弾いてたのを聴いて感動し、好きになった曲である。 しかし、オリジナルを聴いたのは、ずっと後のことである。 それまでは、エンディングがあることを知らなかった。 ところで、ドリカムの『晴れたらいいね』という曲は、この『雨にぬれても』を真似ていると思うのは、ぼくだけだろうか。
『セイリング』ロッド・スチュアート ぼくはこの歌を聴くと、高田馬場のBIGBOXを思い出す。 東京時代、友人とそこに遊びに行った時に、この歌がかかっていたのだ。 その帰りに、近くのビアガーデンに行ったのだが、ステージで早稲田の学生が同じR・スチュアートの『アイム・セクシー』をやっていた。 せっかくいい歌を聞いた帰りなのに、へたくそな演奏を聴いて興ざめした記憶がある。
『愛はきらめきの中に』ビー・ジーズ 映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』の中で効果的に使われていた曲である。 ぼくはあまり映画を見ないほうだが、この映画は招待券をもらったので見に行った。 招待券は2枚あった。 だいたいこういう場合、映画の内容からして、女性を誘うものだと思う。 しかし、無粋なぼくは、むさい男と見に行った。 映画を見た感想は・・・ あまり内容は覚えてないが、ジョン・トラボルタの腰の動きが気持ち悪かったのは、はっきりと覚えている。 しかし、ニューヨークの夕焼けが映った時に、この曲が流れていたのは印象的だった。
『サムデイ・ネバー・カムズ』CCR CCRというグループを初めて知ったのは、このラスト・シングルが発売された時だった。 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルという長ったらしい名前もその時覚えた。 とりあえずこのシングル・レコードをぼくは買った。 理由は、この歌の英語の歌詞が覚えやすそうだったからである。 この歌は、ぼくが中学3年生の頃に流行ったものだ。 春の遠足で、マイクが回ってきた時に、ろくな歌が歌えず、赤恥をかいたことがある。 その汚名挽回に、秋の遠足の時はカッコつけて英語の歌でも歌おうと決めていたのだ。 しかし、この歌を覚えきらなかったので、結局歌ったのは拓郎の『祭のあと』だった。 ちなみに、春の遠足で赤恥をかいた歌は、あがた森男の『赤色エレジー』だった。
『フロム・ミー・トゥ・ユー』ジャニス・イアン ビートルズのものではない。 ジャニス・イアンのオリジナルである。 ジャニスは、『恋は盲目』や『ウィル・ユー・ダンス』など知られた曲はけっこうあるが、この歌はあまり知られてない。 でも、ジャニスにしては力強くていい歌である。 ジプシー・キングスの『ボラーレ』同様、気がめいった時に聞くと、不思議と力が沸いてくる。 名曲の条件とは、曲やサウンドもさることながら、癒しと勇気というのも必要条件に入るのかもしれない。
| 2002年09月03日(火) |
しろげしんたが選ぶ洋楽ベスト20(番外編 その1) |
選曲後に、「あれもよかった。ああ、こういうのもあった」などと、一人で後悔している。 そこで、残り4曲を発表する前に、選に漏れた名曲たちを紹介することにする。 ぼくが選ぶベスト20より、こちらのほうがけっこう有名だったりして。
『ボラーレ』ジプシー・キング 麒麟の淡麗<生>のCMでおなじみの曲である。 気がめいっている時、このノリのいい歌を聴くと元気が出てくる。
『アイ・シャル・ビー・リリースト』ボブ・ディラン この歌はザ・バンドがいやらしく歌っている。 そちらのほうが一般的だが、ぼくはディランの素朴で荒削りな歌い方のほうに軍配を上げる。 日本ではディラン�兇�和訳して歌っていた。 10年ほど前に、ディランが小倉で2日間の公演をやったことがある。 ぼくはその初日のほうに行った。 この歌は歌わなかったものの、長いこと憧れていたディランの生を見て、けっこう満足しものだった。 ところが、その2日後2日目の公演にいった人から、「『アイ・シャル・ビー・リリースト』よかったなあ」と言われた。 「え、おれが行った日には歌わんかったよ」 「そうか、昨日は歌ったけど」 愕然とした。 ぼくはディランを見るのも楽しみにしていたが、この歌が聴けたら最高だと思っていたからだ。 その後も何度かディランは来日したが、ぼくはそれ以降は一度も行ってない。
『ノー・ワーズ』ポール・マッカートニー&ウィングス この歌は、知らない人のほうが多いと思う。 名盤『バンド・オン・ザ・ラン』のB面(今となっては死語ですなあ)の途中に入っている、2分足らずの小曲である。 何がいいかというと、そこには洗練されたビートルズがあるのだ。 演奏といい、コーラスといい、まるでビートルズである。 そのアルバムには『バンド・オン・ザ・ラン』や『ジェット』というメガヒット曲が収録されており、アルバムとしての完成度も高い。 そういう中で、まったく目立たない曲ではあるが、この歌はキラキラと輝いている。 ぼくがシングルを買わずに、アルバムばかり買うのは、時にこんな名曲の発見があるからだ。
『うわさの男』ニルソン 10年ほど前に、テレビ東京系で、西田ひかると加藤茶が競演したドラマの主題歌がこの曲だった。 当時ぼくは、何という歌で、誰が歌っているかということさえ知らなかった。 西部劇のファンだったらすぐにわかっただろうに。 結局この歌が何であるかがわかったのは、スカパーでMTVを見てからだった。 モリタ君に似た人が、この歌を歌っていた。 字幕にハリー・ニルソンと書いてあったので、さっそくCDデータを調べてみた。 しかし、ハリー・ニルソンという人は見当たらなかった。 洋楽の詳しい人に、「ハリー・ニルソン、知ってますか?」 「ハリー・ニルソン? 何を歌った人?」 「その曲名がわからんのですよ。こんな曲ですけど」と、ぼくは鼻歌で歌ってみた。 「ああ、ニルソンやね。その曲は“真夜中のカウボーイ”の主題歌の『うわさの男』やったと思うけど」 「え、あのニルソンですか」 「うん」 何と、歌っていたのは、あの『ウィズアウト・ユー』のニルソンだった。 MTVの画はまだ若く、痩せて髭を生やしてなかったからわからなかったのだ。 ぼくは、以前作曲の真似事をやっていたこともあり、自然にその歌のデータよりも、曲そのものに興味が走るようになってしまった。 そのため、この歌のように、曲は知っているけど、曲名や歌っている人がわからないことが多い。
| 2002年09月02日(月) |
しろげしんたが選ぶ洋楽ベスト20(7位〜5位) |
さて、明日は久々に丸一日の休暇が取れる。 今日は力を入れて書くぞ! と、気張ってはみたものの、まだベスト20の真っ最中だった。 この企画を終えなければ、次には進まない。
えーと、今日は・・・ ああ、7位からか。 ここからは、ほとんど70年代ですな。 中に一曲だけ古いのがあるけど、その曲が何位にくるのか、自分でも楽しみにしている。
第7位 『ハート・オブ・グラス』ブロンディ ぼくの東京時代の一番の思い出の歌である。 東京にいた頃に流行った洋楽といえば、R・スチュアートの『アイム・セクシー』、ビー・ジーズの映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』がらみの一連の曲、ビリー・ジョエルの『ストレンジャー』、ザ・ナックの『マイ・シャローナ』、ドナ・サマーの『ホット・スタッフ』、ABBAの『ギミー・ギミー・ギミー』などと、この曲があった。 この曲を初めて聴いた時には、かなりショックを受けた。 何といっても、あのリズムである。 4拍子から3拍子に変わったり、アップテンポからスローに変わったりする曲は以前にもあった。 しかし、この曲はリズムが飛ぶのである。 ぼくはしばらくの間、レコードの針が飛んだのだろうと思っていた。 意図的にやっているとわかったのは、ずいぶん後のことだった。 ぼくはドラムは専門外だが、すごい技術を要すると思う。 さて、ぼくが初めてこの歌を聴いたのは、レコードとかラジオではなく、有線放送だった。 当時ぼくは、パチンコに凝っていた。 夕方になると、毎日歌舞伎町のパチンコ屋に座っていた。 「今日は調子がいいな」などと思っていたところに、突然聴きなれない歌が聴こえてきた。 インパクトのある歌い出しに、思わずぼくは隣にいた友人に「これ、何という曲か?」と聞いた。 「ああ、これ『ハート・オブ・グラス』じゃん」 「流行っとるんか?」 「わりと流行ってるみたい」 「ふーん」 それ以来、この歌が鳴ると、玉が出るようになった。 それで好きになったのかも知れない。
第6位 『レイジー』ディープ・パープル 数あるハード・ロックの中で、これほどカッコいい曲をぼくは知らない。 同じディープ・パープルの曲でも、『ハイウェイ・スター』みたいに派手ではないし、『スモーク・オン・ザ・ウォーター』のように印象的なフレーズがあるわけでもない。 でも、ぼくにはこの曲が一番カッコよく思えるのだ。 7分22秒ある曲であるが、そのうち4分21秒をイントロが占める。 『ライブ・イン・ジャパン』ではイントロがさらに長かった。 R・ブラックモアのギターは、他の曲に比べると、全然いやみがなく、ごく自然にロックをやっている。 イントロだけでも充分に聞かせる曲である。 しかし、あの『青い影』のように、イントロだけで持っている曲ではない。 歌も充分に意味を持っている。 間奏のハーモニカも、実に効果的である。 余談だが、ぼくはこの曲を携帯電話の着信音にしていたことがある。 食堂で昼食をとっている時、突然ぼくの携帯電話から『レイジー』が鳴った。 たまたまそこにいた年上のパートさんが、「何、今の曲?」と聞いてきた。 「レイジーやけど、何で?」 「いや、いい曲やったけ」 さっそくぼくは、この曲をCDにコピーしてきて、そのパートさんにあげた。 その人にいたく感動されたのは言うまでもない、 わかる人にはわかる名曲である。
第5位 『素顔のままで』ビリー・ジョエル あのイントロは、フェンダー・ローズの音だろうか。 出だしから気持ちのいい曲である。 この曲も東京時代に流行ったのだが、当時は『ストレンジャー』ばかりに耳が行って、ぜんぜんこの曲に興味を示さなかった。 この曲に目覚めたのは、こちらに帰ってきてからである。 FMで『メローサウンド』の特集をやっている時に、たまたま聴いた曲が、この曲だった。 ビリー・ジョエルが歌っていることはわかっていたが、曲名がわからなかった。 そこで、レコード屋に行って、ビリー・ジョエルのレコードを何枚か試聴し、曲名探しをやったことがある。 ちょうどLP『イノセント・マン』が発売になった頃で、ビリー・ジョエルのLPは極端に少なくなっていた。 その少ないレコードを試聴したのである。 当然、レコード屋の店員はいい顔をしなかった。 ちょっと悪い気がしたので、さんざん聴いてから『イノセント・マン』を買った。 『ストレンジャー』と『ニューヨーク52番街』も買おうかなとおもったけど、店員の目つきが嫌いだったので、一枚だけにしたのだ。 そういえば、前の会社で楽器を売っていた時に、ローランドから派遣されたアルバイトがデモ演奏をやっていた。 一度だけ、ぼくは「これ弾いてくれん」とリクエストしたことがある。 それがこの曲だった。 しかし、その時のアルバイトはクラシック専門だったため、楽譜どおりには弾けるのだが、この曲を知らなかったのか、おかしな演奏になっていった。 演奏後、ぼくは「ありがとう」とお礼を言っておいたが、その後、派遣バイトにはクラシック以外の曲をリクエストしないことにした。 この曲も携帯の着信音にしていた時期がある。 ただ、イメージしていたとおりのアレンジではなかったので、すぐに消した。今度携帯を買い換えた時に、もう一度入れてみようかなあ。
| 2002年09月01日(日) |
しろげしんたが選ぶ洋楽ベスト20(11位〜8位) |
今日から11位以上を書くのだが、順位付けにかなり悩んでいる。 どの曲がどの順位でもおかしくないのである。 今日この順位でも、明日は変わっているかもしれない。 1位の曲がそうである。 最初1位に選んでいた歌が、今日は2位になっているのだ。 もしかしたら、1位を発表する時、全然違う歌になっているのかもしれない。 投票でなく、主観で選んでいるわけだから、それもしかたないか。
第11位 『マイ・スウィート・ロード』ジョージ・ハリスン 昨年亡くなったジョージ・ハリスンの名曲である。 盗作云々で騒ぎを起こしたが、そんなことはどうでもいい。 いい曲はいいのである。 この曲が流行ったのは、中学に入学した年だった。 この歌を聴いた時、そこから何か新しいことが始まるような気がしたのを覚えている。 しかし、何も始まらなかった。 ぼく一人だけが浮かれて、変人への道をたどったに過ぎなかった。
第10位 『愛の願い』ミッシェル・ポルナレフ 歌は知っているのだが、誰が歌っているのかは知らない。 歌は知っているのだが、曲名を知らない。 ぼくの場合、その典型がこの歌である。 長年、この歌を誰が歌っているのかを知らなかった。 ミッシェル・ポルナレフとわかったのは、会社の人に教えてもらったからだった。 ぼくは時々、この曲を無意識のうちに口ずさんでいることがある。 たまたま、ぼくが鼻歌で歌っていると、それを聴いた会社の人が「あ、ミッシェル・ポルナレフの歌やね」と言ったので、歌手名がわかったのだ。 また、ミッシェル・ポルナレフが歌っているとわかってからも、つい最近まで曲名を知らなかった。 『愛の願い』という曲名がわかったのは、ソニーのベガのCMでこの曲が流れていたからだ。 「何というタイトルだろう」と調べてみると、何かの本にその曲名が書いてあった。 ということで、さっそくこのCDを探してみたのだが、その時はまだこの歌はCD化されていなかったようだった。 最近はCD店に行くことも少なくなったので、その後発売されたかどうかは知らない。 ぜひコレクションに入れたい一曲である。
第9位 『すべてをあなたに』ホイットニー・ヒューストン このベスト20では、ぼくの好みということもあって、6,70年代の曲が中心になっている。 80年代の曲は、これだけである。 それだけこの曲をぼくが気に入っている、ということだ。 十数年前、友人と山口県の萩に遊びに行ったことがある。 その時、友人のカーステレオからこの曲が流れていた。 それからこの曲を頻繁に聴くようになった。 ラジオで、レコード屋で、時には飲み屋で。 小倉のパブで聴いた時は、とくに雰囲気があっていて、とても印象的だった。 この歌を聴いた時間帯は夕刻で、夕焼けがやけきれいだったのを覚えている。 しかし、この曲を聴くと夜をイメージするのは、そのせいからなのかもしれない。
第8位 『デイ・ドリーム・ビリーバー』モンキーズ 小学5年生の時、テレビで「ザ・モンキーズ」という番組をやっていた。 その時かかっていた曲が、『モンキーズのテーマ』『素敵なバレリー』とこの『デイ・ドリーム・ビリーバー』などだった。 その時から、この曲が好きだった。 この歌は、後に日清のカップヌードルのCMで、忌野清志郎が歌っていた。 ぼくはオリジナルのモンキーズのものと、カバーの忌野清志郎のものと両方のCDを持っている。 やはりいい歌は、誰が歌ってもいいものだ。 清志郎ちゃんの歌も味があって、実にいい。 カラオケでも時々歌うのだが、それは清志郎ちゃんバージョンのほうだ。 ただ、サビのところだけは、「ジェーラーシー、ビジーニー・・・」と聞き覚えの英語で歌っている。 もしオフ会でもやることになったら、歌っちゃるわい。
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