東京にいた頃、よく読んでいたのが『少年チャンピオン』だった。 東京に出る前に、友人から「チャンピオンに面白いマンガが載っとるぞ」と聞いて読み始めたのだった。 『少年チャンピオン』といえば、『少年キング』と並び、それまでぼくが読んだことのない雑誌のひとつだった。 それまでに、そこに連載しているマンガで、読んだことがあるものといえば、永井豪の『あばしり一家』ぐらいだった。 その当時話題になっていた『がきデカ』と『ドカベン』は知ってはいたが、読んだことはなかった。
友人から面白いマンガの存在を知らされたぼくは、さっそく読んでみることにした。 しかし、別段これと言って面白いものではなかった。 「これのどこが面白いん?」 「面白いやろうも。ちゃんと読んでみてん」 何度か続けて読んでみたが、ぼくにはその面白さがわからなかった。 そして、「全然面白くない!」と言って、ぼくはそのマンガを読むのをやめた。
そのことがあって、何日かしてからのこと。 巷ではけっこうこのマンガが話題になっていた。 他の友人も、このマンガを絶賛していた。 「あまり面白くないのに、何でこうも受けるんだろう?」 そう思ったぼくは、もう一度そのマンガを読んでみることにした。 しばらく読んでいくうちに、突然このマンガのギャグが見えてきた。 「面白い!」 それまでは、理屈で読んでいたのだった。 理屈ぬきでこのマンガを読んでみて、初めてその面白さがわかったのだ。 さらに、このマンガはスピード感のあるマンガだったから、そのスピードに慣れるまでに時間がかかったともいえる。 『天才バカボン』以来、ギャグマンガから遠ざかっていたので、きっとギャグマンがを受け入れるセンスを失っていたのだろう。 ぼくは何度もそのギャグに耽ってしまった。 そして、はまってしまった。 そのマンガとは、後にギャグマンガの名作と謳われた、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』である。 このマンガは、ぼくの東京生活になくてはならないものとなった。 約2年間、毎週ぼくは少年チャンピオンを買い続けた。
さて、一度ギャグマンガの受け入れ態勢ができると、当然のように他のマンガも読んでいくようになる。 しかし、あまりに『マカロニほうれん荘』が強烈だったために、なかなか面白いマンガに出会うことはできなかった。 『マカロニほうれん荘』を読み始めてから1年半が過ぎた時、ついにそのマンガに出会うことになる。
その頃、ぼくは毎日代々木のピザ屋に通っていた。 価格が安かったのと、いろいろなマンガを置いてあったので、気に入っていたのだ。 そこで、何気なく少年マガジンを読んでいると、新人の読み切りマンガが載っていた。 初めてそのマンガを読んだ時、何か小学生の頃に読んだマンガを思い出して、懐かしさを感じたものだった。 画はそれほどうまくなかったが、内容がすばらしくよかった。 その後そのマンガは、連載されることになった。 小林まことの『1・2の三四郎』である。
この『1・2の三四郎』だが、一度ぼくの周りで「お前、三四郎のモデルじゃないんか」と話題になったことがある。 理由は、柔道部に参加していたこと。 試合表にうちの高校の名前が出ていたこと。 桜五郎の嫁さんのコーキーさんの博多弁は、実は北九州弁であること。 そして、何よりもそれらしかったのが、『黒崎高校の柳』である。 ぼくが柔道部にいた頃、一時廃部の話が出たことがある。 上級生がやめ、部員が極端に減ったのだった。 ぼくは慌てて部員集めに精を出した。 そして、7名の部員と16名の会員を確保した。 その16名の会員の中に、柳という男がいた。 がり勉タイプで、線が細く、まったくスポーツとは縁のない男だった。 何度か部室に訪れたが、結局長続きせず、「肺に穴が開いた」とか言って辞めていった。 実はその柳が、黒崎中学の出身だったのだ。 『黒崎高校の柳』と『黒崎中学の柳』、絶対そこには何かある、となったわけである。 真偽のほどは知らないが、もしかしたら本当に何かあったのかもしれない。 しかし、ぼくは三四郎みたいに強くなかったし、また精神力で背を伸ばすような甲斐性のある男ではない。
その後、作者の小林まことが新潟の出身とわかり、「黒崎とは新潟の黒崎のことやろう」ということになり、疑いは晴れた。 しかし、今になってみると、ちょっと惜しい気もする。
この日記の特徴は、クモ膜下出血のことを書いた翌日にマンガのことを書く、という支離滅裂なことを平気でやることにある。 ということで、今日はマンガのことを書く。
今ぼくは、四つのマンガを読んでいる。 一つ目は、毎度おなじみ西岸良平の『鎌倉ものがたり』、二つ目は、どおくまんの『熱笑!花沢高校』、三つ目は、藤子A不二男の『魔太郎がくる』、四つ目が、昨日人から借りた『魁!!クロマティ高校』である。 一つ目は、もう説明しない。 二つ目は、本家の秋田書店では廃刊になっていたものが、別の出版社からコンビニ本として復活したものである。 東京にいた頃に読み始め、訪問販売の時にマンガ喫茶で続きを読み、今また読み直している本である。 三つ目の『魔太郎がくる』も、マンガ喫茶でよく読んだ本である。 四つ目の『魁!!クロマティ高校』は、現在『少年マガジン』に連載しているマンガである。 画は劇画調であるが、中身はギャグで、そのギャップが非常に面白い。 今、第4巻を読んでいるのだが、掲示板荒らしのことなどが書いていて、大変 興味深く読んでいる。
さて、それらの本をぼくはいつ、どこで読んでいるのか。 気が向いた時に、ある時は風呂の中、ある時はトイレの中、またある時は職場で読んでいる。 これは昔から変わらない。 当時はバスや電車の中で読んでいた。 授業中でも、マンガのことを思い出すたびに読む。 また就寝中でも、ちょっと目が覚めた時に、パラパラとページをめくったりしていた。
授業中に一度失敗したこともある。 一年生の時だった。 リーダーの時間急に、学校に持ってきていた『夕焼け番長』が読みたくなった。 ぼくはこういう時、自制心が効かない。 机の下で本を広げて読んでいると、突然「こら、前から4番目。今何しよったか」、とリーダーの先生が怒鳴った。 ぼくは知らん顔をしていた。 すると先生は「机の下のもの出してみ」と言った。 ぼくは、『うるさいのう』と思い、ほかのものを出そうとした。 が、あいにくその時机の中に入っていたものは、『夕焼け番長』とトランプだけだった。 一瞬、どちらを出そうかと迷ったが、マンガのほうが罪がないと思い、『夕焼け番長』のほうを出した。 「これは、お前の本か?」 「貸本です」 「誰の本か?」 「だから、貸本です」 「誰の本か、言えんのか!」 「貸本と言いよるでしょうが。貸本屋の」 「・・・そうか。これは没収させてもらう。欲しければ、後で職員室に取りに来い」
ぼくはこの教師が好きではなかった。 自分ひとりで授業するし、ギャグも面白くなかった。 それに、いつもぼくを目の敵にしていたようなところがあった。 そんな人と、話す気は毛頭なかった。 当然のごとく、ぼくは職員室には行かなかった。 しかし、困ったことがになった。 その日、貸本屋に返すことになっていた本だったのだ。 かばんの中には、その本の前の巻が何冊か入っていた。 その巻だけ、抜けているのもおかしいが、とりあえず持っているだけ返した。 とうとう本は戻ってこなかった。
それから間もなくして、クラスで風邪が流行ったことがあった。 その時期にぼくは、風邪も引いてないのにマスクをしていったことがある。 予防のためではなかった。 ただのシャレである。 ちょうどその日に、リーダーの授業があった。 高校の頃、先生は教科書を読ませたり、質問をする時には、必ずと言っていいほど、日付の数字と同じ出席番号の人を当てていた。 下一桁がいっしょの場合も、当たったものだった。 その日は、ぼくの出席番号の日だった。 「今日は11日か。出席番号11番、読んで訳せ」 「・・・」 「11番は休みか?」 ぼくは手を上げた。 「おるやないか。早く読め」 ぼくは風邪で声が出ないふりをした。 「お前、何でマスクなんかしとるんか。そのマスクは外せんとか?」 ぼくは首を振って、後は知らん顔をした。 隣の席の者が「しんた君、風邪で声がでないんです」 「本当か?」 最後まで、彼は疑っていた。
さて、この日記もマンガを読みながら書いているので、とりとめのないものになってきた。 実は、あるマンガの主人公のモデルがぼくじゃないか、という話になったことがある。 それを書き出すときりがないので、その話は明日書くことにする。
寝不足後遺症というか、何というか、どうも頭の中に膜が張っているようで、なんとなくすっきりしない。 まあ、そういう状態は高校時代から続いているので、別に珍しいことではないが。 しかし、ここ数日、頭に関することには、変に神経質になっている。 言うまでもなく、伊藤俊人さんのことがあってからのことだ。 その死因である『クモ膜下出血』が、対岸の火事ではない年頃だから、とくにそう感じるのかもしれない。
クモ膜下出血、3年ほど前にうちの会社の男性がこの病気で亡くなっている。 ぼくより、10歳ほど年上の方だった。 以前ぼくがいた部署は、彼の部署の隣だったのだが、彼には大変お世話になった。 よく、倉庫整理を手伝ってくれたり、フォークリフトの動かし方を教えてくれたりした。 亡くなったのは、ぼくが今の職場に転勤した年だった。 ある日、彼が病院に運ばれた、という情報が入った。 その日の午後、ほかの人が食事から戻ってくると、彼は「頭が痛い」と言ってしゃがみこんでいた。 程なく、救急車が到着した。 自分で救急車を呼んだという。 そして、彼は気丈にも「大丈夫」と言って、笑顔で救急車に乗り込んだ。 病院に到着する頃には、もはや彼の意識はなかったそうだ。 それから約1ヶ月、彼は意識が戻らないままあの世に行ってしまった。 彼もダイエーホークスの大ファンだったのだが、結局ホークスの優勝を見ないままだった。
それから何ヶ月かして、取引先の人が、クモ膜下出血で入院したとの連絡が入った。 彼は、まだ20代だった。 うちの担当からは外れていたものの、ぼくは彼とかなり親しくしていた。 しかし、彼の場合は病気でなったものではなかった。 前の日に、飲んでけんかをしたらしい。 それが元でのクモ膜下出血だった。 もはや、ぼくの頭の中には「クモ膜下=死」という図式が出来上がっていたのだが、その人は一ヶ月ほどで退院したということだった。 後日、会社に復帰した時に、「ご心配かけました」と彼が挨拶に来たことがある。 「今はどう?」 「いや、やはり物忘れがひどくなったようです」 と言っていた。 新たに、ぼくの頭の中に「クモ膜下=物忘れひどい」という図式がインプットされた。 図式を結びつけると、「クモ膜下=物忘れひどい=死」という図式になる。 ということで、ぼくは物忘れというものを非常に恐れるようになった。
それから、1年位経った時に、ある同業者の話を聞いた。 朝、店を開けようとシャッターを上げた瞬間に、「ブチッ」という音がした。 本人は「切れた!」と言って、店の中に入っていった。 その後、意識不明になり、その日の午後に亡くなったという。 ぼくの中に、また図式ができた。 「シャッター=クモ膜下=物忘れひどい=死」
それから、伊藤さんの死である。 以前フジ系で『こんな私に誰がした』というドラマがあったが、これが彼を見た最初である。 その後、たびたび画面でお目にかかることになる。 今でも忘れないのが、『ショムニ』で寺崎部長に食ってかかるシーンだった。 普段は寺崎部長の腰ぎんちゃくである伊藤扮する野々村課長が、ある日ショムニのミスで癌の診断を受けた。 それを真に受けた野々村が、やけになって寺崎に「お前も小さい男だなあ」と悪態をつくのだ。 あの時の、寺崎部長とのやり取りは本当に面白かった。
まだ、40歳か。 惜しい人材を亡くしたものである。 謹んで、ご冥福をお祈りします。
なんとか、ハードディスクの交換は終わった。 別に「やったー!」なんて思わない。 容量さえ考えなかったら、何も変わってない。 ただ、昼寝もせずにやったから、結局は睡眠時間が1時間半だった、というだけのことだ。 眠たい。
昼から銀行に行った。 そういえば、銀行は午前中に済まそう、という計画だった。 それも、寝不足から来る無気力から、もろくも崩れてしまった。
ジーンズがほころんでいる。 「これでいいや」と思って外に出たが、歩いているうちに、さらにひどくなった。 ほころびが太ももの周りを半周している。 一周するのは時間の問題だ。 それは今日かもしれない。 引き返して、履き替えた。
行きはJRを使った。 帰りは歩いて帰った。 天気はよかったようだ。 しかし、空は黄色く見えた。 これもまた寝不足のせいだろう。 そういえば、ジョンレノンの詩だったと思う。 「空が黄色く見えた」というのがあった。 あれは何という歌だったろうか。 たしか「レット・イット・ビー」の中の歌だったと思うが。
歩いて帰る途中、手に何滴かの水がかかった。。 エアコンの水かなと思って周りを見ると、それらしきものもない。 雨かなと思って空を見ると、晴れている。 雲は出ているのだが、青空が透けて見えるほど薄い雲だ。 そのうち、パラパラと降り出した。 しかし、空はさっきと変わらない。 「そうか、狐の嫁入りか。 それで、空が黄色かったのか」 寝不足は、魔物をも信じさせる力がある。
今日のダイエー・西武戦。 北九州市民球場であった。 4回途中から雨が降り出した。 雨脚は見る見る強くなった。 そのうち雷も鳴り出した。 激しい音、鋭い閃光! 窓の外と、テレビの画面が同時に光る。 初めて見る光景だ。 これも魔物の仕業か。
寝不足はさらに祟る。 風呂の中で寝てしまった。 ちょっと目を閉じると眠ってしまう。 ハッと気づいて目を開ける。 時間にしてどのくらいだろうか。 その間いちいち夢を見る。 けっこう長編ものだ。
ここまで書いて限界を知る。 「起きていても、何の役にも立たない男です」 ということで、寝た。 午後11時50分だった。
あー、イライラする。 今日家に帰ってからずっと、以前から計画していたハードディスクの交換を行っている。 実は、手持ちのCDをコンピュータにコピーしていたのだが、いよいよ容量が足りなくなってきた。 まだCDのコピーは半分も終わってないのに、これでは全部収めることができない。 ということで、ハードディスクを換えることにした。 「わざわざ面倒くさい交換とかせんで、増設すればいいのに」、と言う人もいたが、いかんせん使用している機種が省スペース型なので、増設することはできない。 外付けも考えたが、置く場所もない。 そこで、どうせ内蔵型に換えるのなら、いっそ大容量に換えてしまえ、と調子に乗って120GBのハードディスクを買い込んだ。 しかし、容量が大きなせいか、時間がかかる。 フォーマットだけならそこまでかからないのだろうが、このパソコンはWindowsXPにアップグレードしているため、いったんWindows98を入れてから、XPにアップしてやらなければならない。 また、新しいハードディスクの付属のソフトは、XP対応になっていないため、直接ファイルをコピーすることもできない。 データを、CD−Rに保存してからの作業になってしまった。
現在午前8時16分だが、まだ終わってない。 とりあえず、昨日の日記だけは書いておかないとと思い、いったん作業を中断した。 それにしても眠たい。 それもそのはず、1時間半ほどしか寝ていない。 頭は回らないし、指はてきぱきと動かない。 集中力もなくなっている。 目に付くものや、心に浮かんだものに、関心がいってしまう。 「そうだった、コンビニで『天才バカボン』買ったんだ」 そんなことを考えだすと、もはや日記そっちのけで、『天才バカボン』を読んでしまう。 おかげで、たかだか3行ほどを打ち込むのに、かなりの時間を要している。 さて、いったいこの日記は何時になったら終わるんだろう。
そういえば、今日は銀行に行く日だった。 前回の休みが土曜日だったため、今日にずれ込んだんだった。 予定としては、午前中に済ますつもりだが、それもこの日記が終わらないと、始まらない。 銀行から帰ってきたら、今度はアプリケーションのインストールが待っている。 それにしても、かなりの量のアプリケーションがある。 あ、ちゃんとパスワードは保存しておいただろうか。 それよりも、ちゃんと復元できるのだろうか。 何か、不安だ。 困ったなあ。 紙に書いとけばよかった。 今日は本当にやることがたくさんある。 そう思うと、また日記がはかどらなくなる。 とにかく今は、日記のことだけ考えよう。
あ、そういえば・・・。
| 2002年05月26日(日) |
日記のテーマが決まらない |
この日記を書き出して、今日で1年と4ヶ月になる。 熱しやすく熱しやすく冷めやすいぼくとしては、異常な持続力である。 いつか反動がくるだろう。 ぼくは一度休んだりすると、もう二度としたくなくなる性格である。 その日が来ないことを、自ら望んでいる。 しかし、毎日書いていると、たまに何を書いていいのかわからない時があるものだ。 今日がその日である。 夕方5時頃から、何を書こうか悩んでいるのだが、結局この時間まで、今日の日記のテーマは決まらないでいる。
困ったものだ。 思考も肉体と同じで、力むと何も出てこない。 そういう時は、去年の日記を読むというのも一つの打開策である。 と、去年の5月26日の日記を開いてみると、やはりその日はロクなことを書いていない。 『一日中寝て、いらんことを考えていました』だと。 アホか! ちゃんと、翌年の日記の役に立つようなことを書いておけ。
ところで、この頃の日記は「ですます調」になっている。 今はえらそうに書いているが、この頃はまだウブだったのだ。 まるで小学生の作文である。 ニワトリやアヒルの話なんか、誰も読みたくなかっただろうに。 でも、この頃はまだ身内にしかこの日記を教えてなかったから、こういうのでもよかったのかもしれない。
そういえば、ぼくは学生時代を通じて、作文は得意なほうではなかった。 どうも文章に自信を持てなかったのだ。 というより、文章に興味がなかった、と言ったほうが正しいだろう。 ぼくが文章に興味を持ち出すのは、高校を卒業してから、そう、詩を本格的に書き出した頃からだった。 それと同時に読書癖も始まった。 小説、論文、思想書、哲学書、エッセイなど、ありとあらゆる本を読みまくった。 おそらく、そういう文章から刺激を受けたのだろう。 それから、自分なりに文章を工夫するようになってくる。 たしかに、その頃の日記は、排他的で独りよがりな文章である。 こういうところで、お見せするのも恥ずかしい。 しかし、高校時代の作文と比べると、かなり成長の後がうかがえる。 言葉の使い方が、確実に大人になっているのだ。 そうなると、自分の文章に酔ってくる。 だんだん自信のようなもの出てきて、いろんな人に手紙を出すようになった。 内容はくだらないものばかりで、もらった方も迷惑だっただろうが、しかたない、こちらは酔っていたのだ。
その後、酔いを醒まされる文章に出会う。 23歳の頃に、毎日新聞で『ひと』欄を担当していた、内藤国男という方の本を読んだ時だ。 わかりやすさといい、説得力といい、全然違った。 最初は文章の模倣をしていたのだが、その文章力の差は埋めることは出来なかった。 正直言って、ぼくは文章を書くのが嫌になった。 それから、ぼくは詩のほうに力を入れるようにした。 しかし、これもものにならず。 もはや、この時には詩を書く興味が薄れていた。 それから、ホームページを始めるまで、たまに詩を書いていたぐらいで、文章からは遠ざかっていたのである。 だから、この日記を始めて4ヶ月の文章というのは、あの程度でしょう。 ま、今もあまり進歩はないけどね。 今のぼくにあるのは、その日にふと思いついたネタだけです。
さて、作文といえば、ぼくが小学5年か6年の時、こういう作文を見たことがある。 「わたしかたかすかすき。でもさしんかもてない・・・」 実にユニークな文章である。 ぼくがどれだけ努力しようとも、こういう文章は書くことが出来ないだろう。 わかりますか? ぼくのクラスの男子は全員で、この解読に取り組んだ。 解読できるまで、2〜3日要したと思う。 答は、「私はタイガースが好き。でも、写真(ブロマイドだろう)を持ってない。・・・」だった。 実に暇なクラスだった。
それはそうと、今日のテーマがまだ決まらないでいる。 さて、何を書こうか?
| 2002年05月25日(土) |
自慢話(ビデオデッキ編) その2 |
あるお客さんから、「ビデオが欲しいんだけど、どのメーカーのにするか迷ってるんです。仕事中なので、そちらに行けそうもない。出来たら説明しに来てくれませんか」と電話をもらったことがある。 さっそくぼくは資料を持って、そのお客さんが勤める会社に行った。 そこでいろいろ話をするうちに、そのお客さんが「ソニーファン」であることがわかった。 つまり、そのお客さんは、ぼくを呼んで、ソニーの良さを確かめたかっただけなのである。 しかし、ぼくは最後まで諦めなかった。 VHSとベータとの違いを説明し、今後はおそらくVHSの時代になるだろうという持論を展開した。 その上で、その当時発売されたばかりの、ビクターの機種(後に名器と謳われた)を薦めた。 1時間近く説得したが、その時は結論が出なかった。 結局、後日店に行って決めるということになった。 何日か後にそのお客さんはやってきた。 そして、「あの後検討したけど、やっぱりソニーにする。いろいろ教えてくれて、ありがとう。勉強になりました」と言って、ソニーを買って帰った。
もちろんそのお客さんも、VHS勝利の時には何も言ってこなかった。 しかし、このお客さんとは何かの縁があったのだろう。 それから何年かして、こんなことがあった。 その頃は、ぼくはビデオ業界から離れ、楽器業界にどっぷり浸かっていた。 楽器というと、主なお客は学生である。 彼らは一様にミュージシャンを目指している。 その中に一人、ぼくが目をかけていた男がいた。 彼はいい感性の持ち主だった。 彼のオリジナル曲を何曲か聴かせてもらったが、荒削りながらそこに彼の才能が垣間見れた。 彼はよく店に遊びに来た。 ある日のこと、「しんたさん、おれ彼女が出来ました」と一人の女の子を連れてきた。 ちょっと気の強そうな顔をしていたが、かわいい子だった。 ところが、彼女はぼくを見るなり、「あのう、しんたさんですか。父からよくうわさを聞いてます」と言った。 「え、お父さんから?」 「はい」 「名前は何と言うんかねえ?」 「○○です」 「○○・・・? うーん、覚えがないねえ」 「以前、しんたさんビデオのコーナーにいたでしょ」 「うん」 「その時、お父さんの会社にビデオを売りに行ったでしょ?」 忘れていた記憶が蘇ってきた。 「ああ、あの時の」 「はい、あの時はお世話になりました。父は、しんたさんが一生懸命説明してくれたと言って、喜んでましたよ」 商売人冥利につきる話である。 嫌なことも多いけど、こういうことがあるから客商売はやめられない。 結局、その後ぼくが会社を辞めたため、そのお父さんとは再会を果たせなかったが、今でも強く印象に残る想い出である。
さて、VHSであるが、その後ぼくの予想通り圧勝した。 過去一度だけテレビであった映画『LET IT BE』、これをベータで録画した人、今は持ち腐れだろうなあ。
ところで、後の『レーザーディスクvsVHD』の時も、ぼくはレーザーの圧勝を読んでいた。 その当時、スナックに行くとVHDのカラオケをよく見かけた。 それを見るたびに、レーザーに替えたほうがいいよ、と助言していた。 その助言を聞き入れて、レーザーに替えた店もある。 あいかわらずVHDにこだわった店もある。 しかし、結果はご存知のとおり、レーザーの圧勝であった。 VHD店は、「あんたの言うとおり、あの時レーザーに替えとけばよかった」と言っていたが、後の祭りである。
さて、最近の『DVD』であるが、『RAM』になるのか、『−RW』になるのか、『+RW』になるのか、まだまだわからないところである。 メディアを扱っているメーカーさんも、どうなるのかまったく読めないという。 逆に「しんたさんはどう思われますか?」と聞いてくる始末である。 その時、ぼくは笑いながらこう答えている。 「さあ、難しいですねえ。どうなるんでしょうか」
| 2002年05月24日(金) |
自慢話(ビデオデッキ編) その1 |
昨日の日記で、ぼくは前の会社に入社した当初、ビデオ部門の担当だったと言ったが、その頃のビデオ業界は、VHSとベータの覇権争いの真っ最中だった。 当時、VHS陣営にはビクター、松下、日立、シャープなど、ベータ陣営にはソニー、東芝、三洋などが、それぞれ参加していた。 こういう、家電業界の争いは、後の『レーザーディスクvsVHD』や『8ミリvsVHS-C』、最近の『DVD-RAMvsDVD−RWvsDVD+RW』という形で継承されていく。
その当時、ぼくはVHSの時代が来る、と読んでいた。 たしかにベータは映りは良かったが、VHSに比べると独りよがりな面が多く、ユーザーのニーズに応えていないように思われた。。
第一に、ベータの操作面は一見して難しく感じられた。 ベータはどちらかというと、男性向きだったようだ。 というより、一般に機会音痴と言われる女性のことを考えてない、としか思えないフェイスをしていた。 それでもいいじゃないか、と思われるかもしれないが、これは「大衆は女性である」という商品開発の基本を無視しているのだ。
第二に、録画時間がわかりにくかった。 VHSのテープには「T120」などと書いてある。 この「120」は標準モードで録画できる分数である。 この理を知っていれば、何分録画できるテープなのかは容易にわかる。 しかし、ベータはそうではなかった。 「L500」「L750」、知らない人がこれを見て、何分録画できるテープかわかるだろうか? たしかに時間表示は書かれていたが、文字は小さかった。 さらにΒ�機▽↓供▽↓靴硲骸鑪爐盪�間が書いている。 これでは、お客は迷うだろう。
第三に録画時間である。 VHSの120分テープの場合、3倍モードで6時間の録画が出来るが、ベータの場合、当時最長の「L750」のテープを使っても、4時間半の録画しか出来なかった。 また、この4時間半というのが不可解な時間であった。 普通のテレビ番組は1時間ものが多いが、この4時間半というのは、どういう番組を意識して決めた時間なのだろうか。 映りの良し悪しを重視する少数のマニアは、時間のことまでは気にしないだろうが、大半の人は番組を重視している。 VHSだと1時間の番組が6本録れるが、ベータだと4本しか録れない上に、30分余ってしまう。 この差は大きかった。
他にもいろいろな要素があったが、お客さんの意見というのはだいたい上に書いているようなものが多かった。 そういう生の声というのは、今後の展開を占う上での大きな判断材料になる。 そのため、ぼくは「これはVHSの勝利になる」と、読んだのである。 専門誌などを読むと、「どうなるVHSvsベータ」などとやっている。 その当時の専門誌の予想は、どちらかというとベータ勝利の意見が多かった。 そういう専門家の人たちが、何を判断基準にしていたのかというと、機能面や映りの良さであった。 つまり彼らはカタログ人間だったのである。 ユーザーの声などはまったく無視の状態だった。
そこで、ぼくはお客さんになるべくVHSを薦めることにした。 しかし、いるんですよ、このカタログ人間が。 「いったい、VHSとベータと、どちらが生き残るんですかねえ。専門家の目から見てどう思いますか?」と聞くので、上記の説明をした上で、「ぼくはVHSの時代になると思います」と言うと、「君は若いなあ。勉強してるのかね。専門誌にはちゃんとベータ勝利と書いているよ」とか「ソニーが負けるはずがないじゃないか!」などと言う。 自分がそう思うのなら、いちいち人の意見なんか聞かないでほしいものである。 しかし、その頃はぼくも若かった。 そこで妥協しないのである。 「そう思うのは勝手ですが、そのうちベータで録画したものは見れなくなりますよ」とやり返していた。 おそらく今なら、そういう読みがあっても、「さあ、難しいですねえ。どうなるんでしょうか」と笑ってごまかすだろう。
大概のお客さんは、「そこまで言うのなら、君を信用してVHSを買うことにしよう」と言ってくれた。 後にVHS勝利が決定的になると、「いや、あの時君の意見に従っといてよかったよ」と言って感謝されたこともある。
中には「君が何と言おうとも、ぼくはソニーを信じる」と言い張り、ソニーのビデオを買う人もいた。 俗に言う「ソニーファン」「ソニー信者」である。 最近はあまり見かけなくなったが、その当時は「ソニーファン」がけっこういた。 何でもソニーなのである。 「じゃあ、冷蔵庫も洗濯機も、すべてソニーにすればいいやん」と思ったものだった。 そんな人は、後で後悔しただろう。 ま、その件については、何も言ってこなかったので、定かではないが。
ぼくは前の会社に11年いたが、そのほとんどを楽器やレコードの販売に費やした。 入社当初はビデオ部門を担当していた。 約半年そこにいたが、楽器部門に欠員が出て、ぼくに白羽の矢が立った。 理由は、ギターが弾けるから、という安易なものだった。 その後、楽器業界にどっぷりと浸かってしまい、結局会社を辞めるまでこの部門にいた。
さて、その間一度も異動がなかったわけではなかった。 都合1年間、ぼくは楽器部門を離れている。 その間何をやっていたのかと言うと、訪問販売である。 最初の訪問販売は、昭和62年2月から3月にかけての2ヶ月間だった。 この時は精鋭部隊として、訪問販売に借り出された。 販売する商品は、当時の花形であったテレビとビデオである。 自分の売り場のことは一切考えなくてもいいから、とにかくテレビとビデオを売ってこい、というものだった。 その頃の店長は、「売り上げさえ上げてくれれば、あとは喫茶店にこもっていようが、パチンコをやろうが、何をやってもかまわない」という思想の持ち主で、そのことをよく朝礼で言っていた。 お言葉に甘えて、ぼくたちはいつも、朝礼が終わると同時にある喫茶店に向かっていた。 その喫茶店は、マンガ喫茶とまでは行かないが、かなりの量のコミックを置いていた。 そこで午前中を過ごし、その後行く宛てのある人はそこに向かい、行く宛てのない人はそこに留まった。 居残り組は、あいかわらずマンガを読んでいる。 一方のお出かけ組はというと、こちらも早々と用を済ませて、この喫茶店に戻って来る。 そしてまたマンガの続きを読んでいる。 この喫茶店は、まさにわが会社の出張所であった。
もちろん、店に来るのはぼくたちだけではなかった。 時折、商売敵も現れた。 そして彼らは、実に卑怯なことをした。 ぼくたちの会社に電話して、「お宅の社員が、毎日喫茶店でサボっていますよ」とチクったのだ。 当然そのことは店長の耳にも入った。 しかし、店長はそのことを咎めなかった。 他の人に、「喫茶店、けっこうじゃないか。息抜きなしに訪販なんかやっとれるか。売り上げも上がってるんだから、いいじゃないか」と言っていたらしい。
しかし、そのことがあってから、午前中はそれまでの喫茶店に集合するのだが、モーニングを食べ終わってからは、場所をかえるようにした。 制服を着ているため、集団だとまずいので、ばらばらに散らばった。 ぼくがよく行ったのは、その喫茶店から10キロほど離れた場所にある、本格的なマンガ喫茶だった。 コミックの数は、前の喫茶店と比べものにならないほど多く、これらの本を全部読むのは、2ヶ月という限られた時間では無理だった。 そこで、ぼくが読んだのは、昔読んだことはあるが、最終回まで読まなかった本だった。 これなら所々のストーリーは知っているので、読むペースが速くなる。 おまけに、そのマンガを通して、それを読んだ時代の想い出も蘇る。 この喫茶店で読んだ大量のマンガにより、想い出が整理できたということは、実に大きなことだった。 そのおかげで、こうして毎日の日記のネタになるのだから。 もし、その喫茶店でマンガを読む時間がなかったとしたら、つまりそういう有効な無駄な時間がなかったとしたら、おそらくこのホームページはなかっただろう。 想い出も、記憶の底に眠ってしまい、一生日の目を見ることがなかっただろう。
さて、その訪販期間中、ぼくはかなりの売り上げを上げた。 しかし、それはお客さんのところに足を運んで、売ったのではなかった。 なぜなら、ぼくはずっとマンガを読んでいたのだから。 では、どうやって売ったのか? それは、いろんな所にアンテナを張り巡らしていたのである。 訪販組に抜擢された時に、ぼくは友人知人や顧客に電話をかけまくった。 そして、「誰か買う人がおったら紹介して」と言っておいた。 さすがに、買う人はすぐには見つからなかった。 しかし、1ヶ月が過ぎた頃から、だんだん当たりが出てきた。 マンガ喫茶にいる時も、ポケベルは鳴りっぱなしだった。 終わってみると、ぼくは売り上げ2位になっていた。
後日、成功談を聞かせろ、と言ってきた。 「どういう時が、一番きつかったですか?」 マンガばかり読んでいたので、こういう質問にはお答え出来ない。 しかたないので、こう答えておいた。 「はい。午後が一番きつかったです」 「え?それは、どうしてでしょうか?」 「首が痛くなったからです」
幼い頃、ぼくは便秘症だった。 これは決して体質的なものではなくて、ウンチをするのが面倒臭くて、便秘の習慣がついたものだと思う。 便秘になると、ぼくはいつも『サラリン錠』という便秘薬を服用していた。 この薬を飲んでいた理由は、糖衣錠なので飲みやすかったからである。 さて、ある日のこと、いつものように便秘になり、いつものように『サラリン錠』を飲んでいる時のこと、ぼくは何を思ったか、『サラリン錠』を噛み砕いてしまった。 そのとたん、口の中一杯に広がる苦味、この世のものではなかった。 気分が悪くなり、吐いたほどだった。 しかし、それが良かったのか悪かったのか、それ以来ぼくはどんな薬を飲んでも、「苦い!」とは感じなくなった。
ぼくが小学3年の時の話。 夏休みに家族で、宗像の神湊(こうのみなと)という所に、泊りがけで遊びに行ったことがある。 ここは玄界灘に面したところで、海水浴が出来、玄界灘の新鮮な魚を食べられることで有名な場所である。 神湊は、うちから車で30分ほどで行ける近場だが、その当時はうちに車がなかったので、バスや汽車を乗り継いで行かなければならなかった。 しかし、乗り継ぎとなると、連絡の関係もあり、片道2時間以上かかるため、日帰りだとちょっときつい。 ということで、泊りがけということになったのだ。 宿は親の勤めの関係で、八幡製鉄の保養所を利用した。 かつてぼくのうちは、旅行とはまったく縁がないうちだった。 ぼくが小学生の頃に行った旅行は、この小旅行と、同じ3年生の頃に名古屋の叔父の結婚式に行ったくらいしかない。 したがって、あまり旅行慣れしてなかった。 旅行用のタオル、旅行用の石鹸、旅行用の歯磨きセット、すべて真新しいものばかりだ。 この真新しさが悲劇を呼んだ。 夜が明けた頃だった。 母親が、突然「あー!」と大声を出した。 どうしたんだろうと、起きてみると、洗面所のところで立ちすくんでいる。 「どうしたんね?」 「歯磨きと間違えて、ムヒで歯を磨いた」 「ええっ!?」 かなり苦かったようだ。 母は歯を磨こうとして、無意識に使い慣れた容器に手を伸ばしたということだった。 真新しい歯磨き粉は、見慣れない容器に入っているため、潜在意識が判断できなかったのだろう。 その朝、新鮮な魚を使った朝食が出たのだが、味などなかったに違いない。 魚とムヒの混ざった味、想像しただけでも気持ち悪い。
ぼくが19歳の春のことだった。 その頃、ぼくは大学受験が終わり、なんとなくボーっとしていた。 そういう時に、名古屋の叔父がやってきた。 叔父は、当時長距離トラックの運転手をやっており、熊本に荷物を届ける途中に寄ったということだった。 母が「一人で行くと?」と聞いた。 叔父は「そうだけど。あ、しんたも連れて行ってやろうか?」と言った。 受験勉強疲れもあったし、気分転換の意味で、熊本に連れて行ってもらうことにした。 夜中に家を出て、翌朝熊本に着いた。 荷物はドラム缶だった。 トラック一杯に積み込んだドラム缶をそこに降ろし、次に向かったところは大牟田だった。 今度は集荷があるというのだ。 大牟田で積み込んだのは、カーボンだった。 これをトラック一杯に積み込む作業は辛かった。 カーボンはセメント袋のようなものに入っていたが、持ってみると、これが実に持ちにくい。 おまけに雨も降り出したので、手がすべる。 また、カーボンは粉なので、ちょっとした刺激で空中に飛び散る。 そのたびに、黒いカーボンを鼻から吸い込むことになる。 積み込みが終わって鏡を見ると、顔は真っ黒だった。 さらに口の中を見ると、舌も真っ黒になっていた。 工場の人が、風呂に入っていったらいい、と言うので、お言葉に甘えて風呂に入らせてもらうことにした。 顔や手に付いたカーボンは、比較的楽に落ちた。 問題は、舌に付いたカーボンである。 うがいしても、指でこすっても、容易には落ちない。 もちろん、歯磨きなどは持ってきてない。 そこで、石鹸で洗うことにした。 鏡の前で、舌をダラーっと伸ばし、石鹸をつけた。 最初は何も感じなかったが、だんだん苦味が広がってきた。 『サラリン錠』の比ではない。 おまけに、その石鹸は匂いつきの石鹸だったため、その臭いまでが口の中に広がる。 慌てて、口をゆすいだ。 しかし、苦味と石鹸臭は口の中に残ったままだった。 家に帰ってから、歯磨き粉で口の中を洗ったが、容易には取れなかった。 口を閉じると苦味が走り、息をすると石鹸の匂いが漂う。 2,3日この状態が続いた。 今でもその石鹸の匂いがすると、吐き気がする。
ご当地ソングというものがある。 ある一つのストーリーの中に、無理やり地名や縁のものを入れている歌である。 こちら福岡県にもいろいろなご当地ソングがあるが、北九州に限定すると、『無法松の一生』と『花と龍』が有名である。 よく、旅行や出張に行った時、そこの人から「せっかく北九州からお出でになったんだから、『無法松の一生』やって下さいよ」と言われる。 中には「できたら『度胸千両』入りでお願いします」、と注文をつける人もいる。
ぼくは『無法松の一生』を歌って歌えないことはない。 もちろん『度胸千両』抜きでなら、の話であるが。 しかし、せっかく知らない土地に来て、いい気分で酒を飲んでいるのだから、こういう時だけは、北九州から離れたいものである。 そのへんを察して欲しいのだが、「北九州は『無法松』じゃないといかん」、と思っている人がけっこういる。 もしかしたら、こういう人は、北九州の人はみな、『無法松』を毎日歌っていると勘違いしているのではないだろうか? もしくは、『無法松』を学校で習っていると思っているのではないだろうか? 決してそんなことはない。 ぼくの周りには、『無法松』を知らない人がけっこういるのである。
北九州の人間は『無法松』を歌わないといかん、という人に聞きたいことがある。 もし、それが佐賀の人だったらどうするのだろう。 「佐賀、佐賀・・・。はて、佐賀に有名な歌があっただろうか」 考えても思いつかないから、「じゃあ、長崎の隣だから、『長崎は今日も雨だった』を歌え」、とでも言うのだろうか? もしくは、福岡の隣だから『炭坑節』を歌え、と言うのだろうか? それでは佐賀の人に失礼である。 願わくば、佐賀の人と飲む時は、ご当地ソングを無理やり歌わせないようにして欲しいものである。
さて、ご当地ソングといえば、その最たるものは、何と言っても校歌だろう。 その地域に住む住民しか知らない地名や、山や川のオンパレードだ。 例えば、ぼくの行った小学校の校歌に、「鵜ノ巣の池」というのが出てくるが、おそらくその池の存在を知っているのは、その校区に住んでいる人くらいしか知らないだろう。 ぼくはこの池に行ったこともない。 また、「江川」という川の名前が出てくるが、これは川というよりどぶだ。 このどぶが、さわやかに流れるというから、お笑いであった。 全然生活に密着していない。
その校歌に必ず出てくるのが、その市や町のシンボルである。 ぼくの行った小中高の校歌には、八幡のシンボルである帆柱(皿倉)山が必ず入っていた。 小学校は「描いて清い帆柱や」、中学では「皿倉の峰にも届け」、高校は「帆柱山を背において」だった。 しかし、この歌詞だけを見てもらってもわかるだろうが、ここは別に「帆柱山」でなくともいいわけだ。 例えば、「描いて清いすすきの」でも、「吉原の街にも届け」でも、「中洲の街を背において」でも、別にかまわない。 山は、あくまでもこじつけに過ぎないのだから。
また、中学では「玄界灘」、高校では「洞海湾」なども登場した。 高校の校歌は、今考えるとひどいものであった。 問題の箇所は、「新潮かおる、洞(くき)の海。希望の光、君見ずや」という歌詞にあった。 「洞の海」とは「洞海湾」のことである。 当時、洞海湾は工業排水で汚染されまくり、「魚の住まない、死の海」と、しばしば全国版のニュースでも紹介されている。 その「死の海」の新潮が香るのである。 これは大変なことである。 阿蘇山の火山ガスが発生するようなものである。 付近の住民は鼻を押さえて、直ちに避難しなければならない。 当然、こんな海に希望を見つけることは出来ないだろう。
なぜこんなことになるのか? それは、ただ意味もなく地名を並べたからである。 おそらく作詞者は、「ほう、そこには『洞の海』というものがあるのか。じゃあ、これも使ちゃえ」と、現地の視察もせずに、安易に詞を書いたのだろう。 その歌詞に、「今は『死の海』と呼ばれている洞海湾だが、みんなの力でそれを希望の光が輝く、美しい海に変えていこう」という前向きなものが見えればまだいいのだが、ただ海の名前を添えているだけだから、そういう希望はまったく見えない。 そこにあるのは、現実との大きなギャップだけであった。
ご当地ソングが悪いとは言わない。 地名、山、川、大いに結構。 しかし、その歌がどんな地名を入れても成り立つ歌なら、そんな歌は作らないほうが賢明だと思う。 どうしても作るのなら、その土地の現実や生活が充分に考慮されなければならないだろう。
ところで、話は元に戻るが、これだけは言っておきたいことがある。 ぼくは、『無法松の一生』は絶対に歌わん!
| 2002年05月20日(月) |
バンド『TPY-�僑臓� |
『TPY-�僑臓戮砲弔い鴇�し記しておく。 『TPY-�僑臓戮箸いΔ里蓮∈鯑�も少し書いたが、ぼくが高校時代にやっていたバンドの名前である。 ELPやCSNYのように、名前の頭文字を取ったものであるが、彼らと根本的に違うのは、その名前というのが、メンバーの名前ではなかった点にある。 では、誰の名前から取ったものかというと、それは当時バンドのメンバーが好きだったアーティストの名前だった。 Tは拓郎、Pはポール・マッカートニー、Yは陽水、�僑造魯咫璽肇襯困肇椒�・ディランである。 �僑造箸いι週�は、言うまでもなく、数学�僑造�らの引用である。
バンドは4人で、ボーカル、ギター、ベース、ドラムスというシンプルな構成だった。 バンドとしての構想は、高校2年の時からあったのだが、実際にやったのは、高校3年の夏休みだけだった。 ぼくたちが目指していたのは文化祭だった。 その文化祭のオーディションが2学期の初めにあるため、夏休みに練習することにしたのだ。 1学期の終業式の日に、オーディションの申し込みを行い、練習は始まった。
困ったことが起きた。 やる曲が決まらなかったのだ。 練習期間は夏休みだけ、という制約がある。 その短い期間に、人の歌のコピーなどしても間に合わうはずがない。 しかたなく、ぼくのオリジナル曲をやることにした。 そこには、誰も知らない曲なので、失敗してもわからないだろう、という計算があった。 当時、ぼくの高校の音楽レベルは、かなり高いものがあった。 その中で、人の曲をやるとなると、少しミスしただけでも目立ってしまう。 プライドの高いぼくたちに、それは許されるものではなかった。
まず、ぼくが何曲かのオリジナル曲を聴かせ、その中から選んだ。 とりあえず、『ゲームは終わった』と『アリ』という歌を演奏することにした。 後は、おいおい選ぶ、ということで、まずこの2曲を練習した。 どちらも、ぼくが高校2年の時に作った歌である。 この2つの歌を選んだのには理由がある。 ぼくが歌詞を見ないで歌えること、コード進行が簡単なこと、どちらも8ビートの曲なのでリズムがとりやすいこと、だった。 つまり、単調な曲なので簡単に出来る、ということである。
ぼくたちは、友人の家に機材を持ち込み、一生懸命練習した。 その中で、新しい曲も生まれた。 『ケッチョク』という曲である。 『ケッチョク』とは、高校の先生のあだ名で、「結局」というのを「けっちょく」と言うことから付いたあだ名である。 曲のほうは斬新であった。 ただ、演奏に乗せて、「ケッチョク」と繰り返し言うだけだった。
その『ゲームは終わった』『アリ』『ケッチョク』が出来るようになったのは、練習を開始して3週間ほど経ってからである。 その頃から、メンバーが集まらなくなった。 いつも誰かが欠けている状態だった。 だんだんぼくも、情熱が冷めていった。 お盆を過ぎた頃には、もう誰も練習には行かなかった。
夏休みが終わり、オーディションの日が来た。 オーディション会場では、「TPY−�僑臓廚諒�ー」と呼んでいたが、メンバーは誰もそこには行ってなかった。 当然、棄権と見なされて落選した。
さて、文化祭当日。 久しぶりにメンバーが集まり、せっかく練習したんやけ、どこかでやろう、ということになった。 場所は柔道場にした。 実に斬新なライブになった。 バンドが100畳ある柔道場の四隅を陣取り、客をその中に座らせることにした。 やった曲はもちろん、『ゲームは終わった』『アリ』『ケッチョク』である。 『ケッチョク』が終わった後、「凄い!」という歓声とともに、観客から拍手が巻き起こった。 その時、観客は二人であった。
昨日の日記と関連するが、ぼくは寄せ書きが嫌いである。 というより、気の利いた言葉がかけないのだ。 二十代の頃、よくぼくは人の結婚式に呼ばれていた。 披露宴もたけなわになってくると、必ずぼくの元に回ってくるものがあった。 寄せ書きである。 ぼくのところに回ってくる頃には、かなり多くの人が書き込んでいる。 ひとつひとつ読んでみると、よくまあ、こんな気の利いたことが書けるものだ、と感心したものだ。 そこで、ぼくも何か気の利いたことをと思うのだが、それが出来ない。 かなり酔いも回っている、ということは言い訳にならない。 書ける人には書けるのだ。 現にそこに書いている内容は、どれも素晴らしいものばかりだ。 二人の門出を祝っているものもあれば、心強い人生訓などもある。 よしぼくも一つ、と気ばかりが焦ってくる。 いろいろ考えていると、周りから「おい、まだか?」と声がかかる。 「ちょっと待って。今考えよるんやけ」 しかし答えは出てこない。 「しかたない、もうこれにしておこう」と書いたのが、『次はおれの番だ!』だった。 そのあとに、「お前はいつも書くことが同じやのう。実際いつになったら結婚するんか?」とよく言われていた。
さかのぼって、高校の卒業時の寄せ書き。 これは卒業アルバムにも掲載されているのだが、ぼくが寄せ書きに書いた言葉は、『TPY−�僑臓戮世辰拭� これは、ぼくが高校時代に作っていたバンドの名前である。 バンドといっても、別に活動していたわけではなく、ただ仲間が集まって、バンドの真似事をやっていただけのことである。 ぼくたちバンドメンバーはその名前を知っているのだが、当然それ以外は、何を書いているのかわからない。 しかも、『TPY−�僑臓戮硫�にはぼくのその当時のハンドルネームを書いている。 これまた誰にも教えてなかったので、いよいよこの寄せ書きは意味不明のものとなってしまった。 もちろん、そのほかの人は、ぼくみたいにわけのわからないことを書いている人は一人もいない。 みな、3年間楽しかった、将来はこうありたい、などと書いている。 ふざけて書いている人でも、最低限自分を印象付けるようなことを書いている。
中学や小学校の時も、寄せ書きがあったような記憶がある。 しかし、その時どんなことを書いたのかは忘れてしまっている。 おそらく、『希望』とか『友情』とか『努力』とか『根性』といった、修学旅行のお土産みたいなことを書いたのだろう。
そういえば、中学の卒業前に、サイン帳みたいなものを持ってきて、そこに寄せ書き的なことを書き込んでもらうのが流行っていた。 そのほとんどが女子だった。 ぼくはその頃から寄せ書きが嫌いだったので、なるべく書かないようにしていた。 それでもしつこく迫ってくる人もいた。 しつこい人「しんた君、何か書いて」 しんた君「いや」 しつこい人「いいやん、何か書いて」 しんた君「いーやっ」 周りも見かねて、「しんた君、何か書いちゃり。かわいそうやん」と言い出した。 しんた君「そういうのを書かされる、おれのほうがかわいそうやろ」 周りの人「名前だけでもいいやん」 しんた君「名前だけ?」 しつこい人「うん」 「なーんか、サインが欲しかったんか。最初から言えばよかったのに」と、ぼくはサインだけした。 それからぼくは、サインだけでいいのなら、とサインだけはするようにした。 そのために、サインの練習などもした。
そのサインが、ようやくさまになったのは、中学卒業後だった。 このままだとサインの練習が無駄になる、と思ったぼくは、高校に入ってから、頼まれもしないのにサインをして回った。 その時も、中学の時と同じことを言っていた。 「なーんか、サインが欲しかったんか。最初から言えばよかったのに」 今でもぼくは、寄せ書きは嫌いである。 しかし、サインするのは好きである。
| 2002年05月18日(土) |
ぼくは文章を書くのが苦手である |
ぼくは、人から「書け」と言われて書くのが苦手である。 こういう自主的な日記は、何とか文章もまとまっていると思うのだが、会社から強要されて書くレポートなどは読めたものではない。 いつも、「お前の文章には具体性がない」とつき返され、書き直しを命じられる。 書き直しても同じことで、いよいよ袋小路にはまってしまい、何を書いているのかわからなくなる。
このサイトは、多くの検索エンジンやリンク集に登録しているが、そういうものに登録する時に必ず求められるのが、紹介文である。 しかも、文字数制限までついている。 当初は「こんなの書けるわけないやん」、と登録を諦めていた。 しかし、諦めてばかりいても埒が明かないので、とりあえず紹介文なるものを、ぼくなりに書くことにした。 しかし、それがさまにならない。 そのさまにならない紹介文を読んだせいで、ここに来ない人もいるかもしれない。
ぼくは以前、日記だけのサイトをやっていたことがある。 余談だが、『頑張る40代!』というのは、その時代のある日の日記のタイトルから採ったのである。 その時代に、大変お世話になったサイトがあった。 名前は伏せるが、「○○ネット」というリンク集のサイトだった。 そこの管理人さんはフリーライターをやっていて、わりと文章にはうるさい方だった。 そのリンク集も、自分の気に入ったサイトしか掲載しない。 逆に気に入ったサイトには、「ぜひ、うちのリンク集に登録して欲しい」とメールをしてくるのだ。 そういうサイトと知っていたので、ぼくの日記がそこに選ばれた時は、感動したものだった。 その後、その日記だけのサイトをたたみ、新たに総合サイトとして出発した。 『しろげしんた』というハンドルネームは、新しいサイトを作った時に付けたものだった。
昨年、アクセスアップに凝った時期があった。 その時、また「○○ネット」にお世話になろうと、そのサイトを訪れてみた。 ぼくが以前登録していた頃より、かなり登録者が増えている。 新たに、自薦コーナーというのもあった。 そこには、「登録希望の方は、ここに書き込んで下さい。後ほどスタッフが訪れます。・・・登録する場合は、改めてこちらから連絡します」と書いてあった。 さっそくぼくは、そこに登録してみることにした。 もちろん、以前のハンドルネームは使わずに、『しろげしんた』名を使った。 ところが、そこにも紹介文というものがあった。 「困った。何を書こうか」と思ったあげく、8月11日に書いた日記を全文書き込むことにした。
登録内容を全部書き込むと、最後に「まず貴サイトを見てから、1週間以内に登録するか否かを返事します」との表示があった。 が、1週間経っても何の返事も来なかった。 やはり紹介文で落とされたのだろう。 なぜなら、そのサイトのスタッフが、うちのサイトを訪れた形跡がなかったからだ。 おそらくその紹介文を読んで、不愉快になったのだろう。
『この指とまれ!』というサイトがある。 ぼくは、ここの高校のところに去年登録したのだが、その登録の時に困ったことが起きた。 そこにもメッセージを書く欄があったのだ。 他の人は、近況をわかりやすく書いているのだが、ぼくは近況をわかりやすく書く技術を持ってない。 仕事のことを書くべきか、ホームページのことを書くべきか、はたまた生活のことを書くべきか。 考えていくうちに、いよいよ何を書いていいのかわからなくなった。 そこで、その日は登録せずに、いい文章を考えついてから、登録することにした。 丸二日間かかった。 考えに考えたあげく、ようやく近況をわかりやすく説明する文章を見つけた。 今でもそのメッセージは、ぼくの名前の横に燦然と輝いている。
<1976年卒 しろげしんた 「頭真っ白です。」(update:2001.06.05) >
沖縄に行った時、バスガイドが「この国際通りは、文字通り国際的な通りで、世界各国の人がここに訪れます。特にアメリカ人、台湾人、韓国人、それとフィリピン人などが多いですね」と言った。 ぼくたちはそれを何気なく聞いていたのだが、「フィリピン人」と言った時に、ドッと笑いが起きた。 バスガイドは怪訝な顔をして、「あのう、フィリピン人がおかしいですか?」と言った。 後輩君のフィリピーナ事件は、まだ後のことである。
では、ぼくたちは何を笑ったのか? ぼくがその頃働いていた会社(店)には、数多くの外国人が来ていた。 小倉が、停泊地の門司港や洞海湾に近いせいもあって、船が着くと、彼らは小倉の街に遊びに来ていた。 その中にフィリピン人の集団もいた。 彼らは店に来ると、各売場で「ディスカウント」を連発していた。 いくら英語が出来ない日本人でも、「ディスカウント」という言葉だけは通じることを、彼らはよく知っていたのだ。 「ディス・ワン、ディスカウント、ディスカウント、ディスカウント・・・」の嵐である。 ぼくたちは、この応対にいつも手を焼いていた。 それが、沖縄での「笑い」につながったわけだ。 事情を知らないバスガイドは、「ヤマトンチュは人種差別する」と、きっと思ったに違いない。
さて、フィリピン人だが、彼らの中には韓国からやってくる一団もいた。 門司港組と決定的に違うのは、彼らはお土産を買いに来たのではなく、商品を仕入れに来ていた、ということだった。 彼らは、こちらでターゲットの商品を安く叩いて買い、韓国で法外な値段で売りさばくのだ。 例えば、ぼくが担当していた部門の商品でいうと、ヤマハのキーボードがあった。 当時、売り値が12万円ほどしていた機種に人気が集まっていた。 これを叩きやがる! 「ディス・ワン、エイティ・サウザンド、ダイジョーブ?」 「ノー、ダイジョーブ」 「オー。ナインティ・サウザンド、ダイジョーブ?」 「ノー、ダイジョーブ」 「オー。ワンハンドレッド・サウザンド、ダイジョーブ?」 「ノー、ダイジョーブ」 ・・・・・ この繰り返しである。 だいたい妥当な線まで、こちらは吊り上げて、最終の価格を提示する。 彼らは一応それで納得するのだがのだが、そこはプロである。 今度は、その価格を基準にして、「○台買うからまけろ」という交渉をしてくる。 うちの店は小売業であって、卸業ではない。 しかし、こちらの事情を説明しようにも、言葉が通じない。 これには困った。 「買わんでいいけ、帰ってくれ」と言っても通じない。 結局、そこから何パーセントかの値引きをして、それで手を打って帰ってもらうことになる。 おかげで、売り上げは上がるのだが、利益率がかなり減ってしまった。 一方、彼らは安く叩いた商品を、韓国で40万円(現地で400万ウォン)で、売りさばいたという。 さすがプロというか、しかし腹立たしかった。
ところで、ぼくにはその頃、ジュンちゃんというフィリピン人の友だちがいた。 奥さんが日本人で、その影響を受けていたのだろう、感性も日本人らしかった。 彼は、あるバンドのボーカルをやっていたのだが、歌唱力はかなり凄いものがあった。 ぼくは、そのバンドの絡みでジュンちゃんと知り合った。 それ以来、ジュンちゃんは店によく遊びに来るようになった。 よく買い物もしてくれた。 ある日、そのジュンちゃんが「ぼく、今度テレビに出るね」と言ってきた。 話を聞くと、あるテレビ局主催の外国人カラオケ大会に出場するとのことだった。 そのためのオーディションを受けることになった、という話だった。 「でも、オーディションは受かるね。大したことなさそうやけ」 「うん、ジュンちゃんは歌がうまいもんね。うまくいけばプロデビューやん」 ジュンちゃんは「へへへ」と笑っていた。 ちょうどその時、ミエコもそばにいたのだが、「よ、大スタージュンちゃん」などとからかっていた。
ところがその後、ジュンちゃんは店に来なくなった。 ミエコはジュンちゃんの話が出るたびに、「ジュンちゃん、どうしたんかねえ。もしかしたら、落ちたけ来にくいんかねえ」と言って、意地の悪い笑みを浮かべていた。 「お前がいらんこと言うけよ」 「私何も言うてないやん」 「『大スター』とか言うたやないか。ジュンちゃん、その気になっとたけの」 「だって、面白かったやん」
その後ある人から、ジュンちゃんがオーディションに落ちたというのを聞いた。 やはり落ち込んでいたのだろう。 ぼくがその会社を辞めてからも、しばらく店に顔を見せなかったという。 そのへんが、また日本人らしい感性、とも言える。 ジュンちゃんが店に来なくなってから、ぼくは10年以上、ジュンちゃんとは会ってない。 現在、ジュンちゃんは博多で、歌手をやっているらしい。 機会があれば、あのすごい歌唱力を聞きたいものである。
どうも、胸に引っかかるものがある。 一昨日書いた、ストリップ小屋に勇んで行った後輩のことである。 彼について、これだけは書くまいと思っていたことがある。 しかし、このまま流してしまうと胸のつかえが取れない。 ということで、やはり書いておくことにする。
沖縄に行った時、その後輩は、まだ20歳を過ぎたばかりの小僧だった。 彼が沖縄に行ってまでストリップ小屋に固持したのには、理由がある。 それは、彼がまだ童貞だったということだ。 彼は背が低く、幼い顔をしていた。 一般的にこういうタイプは、年上の女性に可愛がられると思うのだが、彼の場合は縁がなかったのだろう。 彼は口を開くと、いつも「女、女」と言っていた。 そんな女性への憧れから、彼はストリップ小屋に行きたかったのだと思う。
その当時から、彼は地元のストリップ小屋に入り浸りだったと聞く。 別にそんな所に行って発散しなくてもよさそうなものなのに、と思ったのだが、彼なりの考えがあったのだろう。
しかし、寂しい男である。 彼は高校を卒業して、すぐにうちの会社(当時の)に入社した。 普通は同僚や先輩女性に目が行くのだが、彼は違った。 彼の目はいつも外に向いていたのだ。 彼は最初から、飲み屋のホステス、ストリップのダンサーといった、いわゆる玄人が好きだった。 当然、金を持ってない彼は相手にされなかった。 しかし、彼はくじけなかった。 何度も何度も、そういう場所に足を運んだのだった。 会社には独身の女子社員が多数いたのに、なぜ彼はそちらのほうに目を向けなかったのだろうか? もしかしたら、自分は女性にもてないと思っていたのかもしれないが、それでも最初から諦めるのではなく、少しは努力も必要だったのではないのだろうか? とにかく、かなり長い間、彼には彼女がいなかった。
そういう彼にも、ついに春がやってきた。 ぼくが会社を辞める少し前の話である。 「あいつ、とうとう女が出来たらしいぞ」、という噂が社内を駆け巡った。 ぼくはさっそく、彼のいる部門の人間に真偽を確かめたが、彼女が出来たのはどうやら事実らしかった。 「相手はかなりきれいらしいよ」 「へー、あいつもやるねえ。でも、よかったやん。長いこと待った甲斐があったねえ」 「でもねえ、相手は日本人やないんよ」 「えっ!?」 相手はフィリピーナだった。 彼は彼女に、かなり入れ込んでいたようだ。 おそらく貢いだりもしていたのだろう。 ま、しかし、彼女には違いない。 その時は素直に喜ぶことにした。
ところが後日、意外な事実が発覚したのだ。 本来なら、それは笑うべきことである。 しかし、それを聞いたときは、ぼくは笑いを通り超えて、彼に哀れみを感じた。 その事実とは、 彼が本気に好きになり、彼が真剣に入れ込んできた、きれいなフィリピーナ、というのは、実は女性ではなかった、ということである。 彼女はニューハーフだったのだ。 そのことを知った後輩は、かなり悩んでいたらしい。 彼女(?)も本気だったらしい。 しかし、結局はわかれたという。
その後の彼を、ぼくは知らない。 もう30歳は越えていると思うが、果たして無事に童貞は捨てられたのだろうか?
よし書いたぞ。 これで、すっとした。
| 2002年05月15日(水) |
人生無駄なことは一つもない |
こういう日記を書き出してから、ぼくは一つ確信したことがある。 それは、「人生無駄なことは一つもない」ということである。 言葉は何度も聞いたことがある。 しかし、それは頭の中だけの理解でしかなかった。 実際、無駄だなあと思うような経験は、何度もしている。
昨日書いた『沖縄』でいえば、パブでの経験はさすがに印象深く、後々いろいろな意味で役に立っていることであるが、ストリップの件は実に無駄なことである。 このことに関しては、昨日これを書くまで、すっかり忘れていた。 そう、ぼくにとっては、どうでもいいことだったのである。 しかも、この経験が、ぼくの後の人生で何か役に立っているのかといえば、何も役に立っていないと答えるしかないだろう。 それほど、小さなことである。 しかし、ただ一つ、知識として得たものはある。 昨日書かなかったが、例の「まな板ショー」で、黒人が飛び入りで参加した。 おそらく、米兵だろう。 ステージに上がった黒人兵は、何の抵抗もなく下半身をあらわにした。 それを見て、ぼくはどういう知識を得たか? それは、黒人にもいろいろある、ということだった。
例えば、『ミエコ』にしてもそうである。 別にミエコのパンツのゴムが切れようと、ぼくの人生には何の意味も持たないことだ。 このことも、これを書くまで忘れていたことで、その証拠にそれがいつのことだったのかというのは、完全に忘れてしまっている。 また、これは後に書くだろうが、ミエコはモリタ君をライバル視していた。 そういうことも、当事者にしては大きな意味を持つのだろうが、ぼくには一切関係のないことである。
無駄といえば、今お茶を飲んでいることだって、タバコをふかしていることだって、昨日変な夢を見たことだって、すべて無駄なことである。
では、ぼくはそんな無駄の中に、どういう無駄じゃないことを見つけたのだろうか? それは、そういう無駄が、すべて日記のネタになるということである。 これを気づいた意味は大きい。 こういう見方をすれば、無駄なことは一つもなくなる。 毎日を楽しんで暮らすことが出来る。 すべての事柄を、『笑い』として捉えることが出来る。 そのネタ作りのために、あらゆることに一生懸命になれる。 どんな小さなことでも見落とさない、観察眼を養うことが出来る。 もっと面白い人生を送ることが出来る。
仏教で言うところの、『生老病死の苦』、これらは決して『苦』ではない。 そう、すべてネタなのである。 『生きる』ことと向かい合うことによって、ネタは生まれる。 『老い』を『笑い』と受け止めることによって、ネタは広がる。 『病』という得がたい経験は、すべてネタになる。 『死』は一生に一度しかない、貴重なネタ元である。 これらを無駄にしてはならない。 これらを客観的に見ることによって、人生に余裕が出来るだろう。 またそのことが、ネタにつながる。 『生老病死』に悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。
まあ、そういうことで、無駄のない人生を発見したことは、ぼくの人生を確実に意義あるものにしてくれるだろう。
部屋に入ると、ホステスが口を開いた。 「あの店、こういうシステムになってるの。ごめんね。それで、3万円なんだけど」 「そんな金ない」 「今日じゃなくていいよ。何なら明日、泊まってるホテルに取りに行ってもいいから」 「ホテルに帰っても、そんな金はない」 「じゃあ、2万円でいいからさあ」 「しつこいねえ。ないもんはないんたい!!」 ぼくがかなり頭に来ていると気づいて、ホステスは困った顔をした。 ちょうどその時電話がかかった。 「ちょ、ちょっと待ってね」とホステスは電話に出た。 どうやら仲間からの電話のようだった。 方言、つまりウチナーグチでしゃべっているので、こちらはなんと言っているかわからなかった。 おそらく、「こいつ、金持ってないみたい」とでも言っていたのだろう。 しばらく電話でやりとりしていたが、突然「お友だちよ」と言って、受話器をぼくに渡した。
受話器の向こうはGさんだった。 「しんちゃーん、どうしょうか。おれ金ないよー」 「おれもないけど。もし金があってもせんよ」 「出ると?」 「当たり前やん」 ぼくは受話器を置いた。 「お友だち、何だって?」 「あんたに関係ないやろ」 「ね、どうする?」 「帰る!」 ぼくはそう言うと、ホテル代を置いて外に出た。
「さて、どうしようか」と思っていると、Gさんが出てきた。 続いてKさんも出てきた。 二人とも口々に「冗談じゃない。小倉のソープだって、1万5千円も出せば充分のに。ボリすぎやのう」などと言っている。 二人はどうもしたかったようだ。 「だけ、松山に行こうっち言うたやろ」とぼくが言うと、二人は黙っていた。 その時、突然雨が降り出した。 沖縄特有のスコールである。 もちろんぼくたちは傘を持ってない。 しかし、そこにいるのも変だから、歩いて宿舎に帰ることにした。 暗くてよくわからなかったが、ぼくたちが歩いている所は、どうやらソープ街らしかった。 歩いている途中に、何度か声をかけられた。 「3人さん、いい子いますよー」 怒りの収まらないぼくは、大声で怒鳴った。 「しゃーしい(せわしい)、黙っとけ。お前に用はないんたい!!」 びしょ濡れだったし、かなりすごい形相だったのだろう。 それまで威勢のよかった呼び込みのヤンキー風兄ちゃんは、急に声を落とし「すいません」と言った。
ホテルに帰ってから、ぼくたちはそのことをみんなに話した。 「この辺のタクシーはグルみたいやけ、気をつけとったほうがいいよ」 そんな話をしているところに、Sという男が帰ってきた。 ぼくが「そういえば、お前もあの店におったのう。あれからどうしたんか」、と言うと、Sはニヤニヤ笑うだけで、何も答えなかった。 「ふーん、そうなんか。やっちゃいましたか。お前はバカか」 その後、ぼくはSを見るたびに、「お前、病気もらってない?」と言うようになった。 Sはその話をすると、いつもニヤニヤしていた。 よほどいい思いをしたのだろう。
この旅行の帰り、那覇空港に行くバスの中で、またその店の話が出た。 「その店どこにあるんね?」 「知らん。タクシーが勝手に連れて行ったけ」 そんな話をしていると、バスがある店の前で止まった。 「お土産買う人はここで買って下さい」とガイドさんが言った。 お土産屋の前に、見覚えのある店が見えた。 その店の名前を見ると、『フェニッ○ス』と書いている。 「あの店の名前『フェニッ○ス』やなかったか?」 「そういえば」 ぼくは、大きな声でみんなに言った。 「おい、あの店、あの店。あれが例の店」 場所は那覇港の近くだった。 ということは、初日に泊まったホテルのすぐ近くじゃないか。 「タクシーの奴、こちらが知らんと思って、遠回りしたんか」 そう思うと、また頭にきた。
しかしそのことで、ぼくは沖縄を嫌いにはならなかった。 あの晩のことを除いては、いい思い出ばかりだったからだ。 最初に言ったとおり、風土も匂いもぼくに合っている。 「今度来る時は、民謡酒場のある場所をちゃんとチェックしておこう。 そこ以外には、絶対行かない」 そのことを肝に銘じた。
さて翌年、前年と同じく社員旅行は沖縄だった。 「今度こそ民謡酒場に行くぞ」、と意気込んで那覇の街に出た。 その時は5人で行動した。 那覇港にあるステーキを食べに行って、いよいよ松山の民謡酒場に行くことになった。 しかし、場所がはっきりしない。 1時間ほど探したが、それらしき店は見当たらない。 誰かが「もう時間がないけ、他のところに行こうや」と言った。 ぼくも民謡酒場に未練は残ったが、こうやっていても埒が明かないので、その意見に従った。 「じゃあ、どこに行こうか?」 すると、一人の後輩が「さっき、いい所がありましたよ」と言った。 じゃあ、そこに行こう、ということになった。
後輩はさっさと先頭を歩き、ある店の前で止まった。 「ここです」 唖然とした。 ぼくらは後輩に文句を言った。 「お前、沖縄に来てまで、こんな所に来んでもいいやろ。小倉で見ときゃいいやないか」 「いいじゃないですか。時間もないことだし。付き合ってくださいよ」 後輩の言うとおり、時間がない。 しかたないので、後輩に付き合うことにした。 その店の看板には、『本番、まな板ショー』と書いてあった。 そこは、どこにでもあるストリップ小屋だった。
翌年の社員旅行も沖縄だった。 夜になり、何人かの人が「しんちゃん、遊びに行こうやと誘いに来た。 しかし、2年連続で後味の悪い思いをしているぼくは、夜の沖縄には行く気がしなかった。 「行かん」と言って、すべて断った。 夜は寝るためにあるものである。 それを沖縄は教えてくれた。
その店に入ってまず気づいたことは、全然賑やかさがないということだった。 お客もそこそこ入っているし、それ以上にホステスもいるのだが、談笑している様子もなく、ひっそりとしている。 BGMも鳴っていることは鳴っているが、全体的に音が小さい。 「変な店だなあ」と思いながらも、ぼくらは席に着いた。
ほどなく、三人のホステスがやってきた。 「いらっしゃーい」 その声には明るさがなかった。 「私、○○でーす。よろしくお願いしまーす」と、各自自己紹介を始めた。 若作りはしているものの、ぼくたちよりは歳が行っている。 しばらく談笑していたが、何か盛り上がらない。 いっしょに行っていたメンバーの一人であるGさんが、「よーし、おれが景気付けに歌ってくる」と席を立ち、ステージに上がった。 Gさんは調子に乗って3曲ばかり歌った。 しかし、拍手の一つもない。 こちらのパブなら、いくら下手でも拍手ぐらいはある。 Gさんは首をかしげながら戻ってきた。 そしてぼくに「しんちゃん、この店変やねえ」と耳打ちした。 ぼくは「うん」と言ったきり黙っていた。
あまり静かになったので、ホステスの一人が、「大人しいですねえ。いつもこうなんですか?」と言った。 もう一人のメンバーKさんが、「いや、初めてだから緊張してるんですよ」と答えた。 すると、他のホステスが、「まあ、緊張してるなんてかわいい。抱かれてみたいわー」などと言い出した。 その時、ぼくの隣にいたホステスが、ぼくの腕を触った。 「へえ、腕太いねえ。何かやってるの?」 「むかしちょっとね」と言って、ぼくは力こぶを出して見せた。 「わあ、たくましい。抱かれてみたーい」 いよいよ変だ。
もう一人のホステスが、「ねえねえ、ここを出てどこか行かない?」と言い出した。 どういうわけか、KさんとGさんは乗り気である。 しかし、ぼくは気が進まなかった。 そこで、「あまり気が進まん」と言った。 どうしても民謡酒場に行きたかったのだ。 「しん、いいやないか。ちょっと付き合え」と、二人が声をそろえて言うので、ぼくはしぶしぶ付き合うことにした。
「じゃあ、OKね」、とホステスは従業員を呼んで「精算してきて」と言った。 従業員が持ってきた勘定票を見て驚いた。 一人1万円になっている。 「これ、おかしいんやない?」 「ああ、これね。チャージが5千円で、連出し料が5千円なの。ごめんね」 それほど飲んでないのに1万円の出費である。
店を出ると、そこに2台のタクシーが停まっていた。 どうやらぼくたちを待っていた様子だった。 タクシーに分かれて乗り込むと、ホステスの一人が「例の所に行って」と言った。 3分ほど走って、タクシーは止まった。 タクシー代も、こちら持ちである。 ホステスたちはタクシーを降りると、ぼくたちの腕を掴み、建物の中に連れ込んだ。 慌てて入ったので、そこがどこかわからなかったが、中の雰囲気からすると、どうやらそこはホテルのようだった。 ホステスは「ここから分かれるのよ」と言って、ぼくたちをそれぞれの部屋に連れて行った。
・・・つづく
新しいことを始めた。 日記ならぬ、時記である。 ゴールデンウィークが終わってから、お客が減り、暇な時間が多くなった。 「やることがない」ということは、つまらないものである。 ということで、今日から、その暇な時間を利用して、時記『ライブ!』を書くことにした。 携帯からの更新になるので、あまり多くは書けないが、素顔のしろげしんたをお伝えできたら、と思っている。
さて、今月の15日で、沖縄は本土復帰30周年を迎えるという。 もうあれから30年経つのか。 その当時、ぼくは中学3年だった。 あの日は月曜日だったと思うが、なぜか半ドンだった。 家に帰ってからすることもないので、折尾の親戚の家に遊びに行った。 親戚の家に着くと、テレビで沖縄返還の特集をやっていた。 その頃、ぼくが沖縄について知っていたことは、沖縄戦と屋良主席と琉球飴のことだけだった。 琉球飴は、ぼくが小学生の頃テレビでよくCMが流れていた。 「琉球飴は夢の味♪」というCMソングとともに、男の子と女の子の画が出てくるのだが、その画は戦前の雑誌に載っている「お坊ちゃん、お譲ちゃん」のような古臭い画だったのを覚えている。
沖縄返還特集で、「これからは、パスポートなしで沖縄に行けるようになりますね」と言っていた。 それを聞いて、「沖縄に行きたい」と、その時ぼくは思った。 それが現実になるのは、それから16年経ってからである。
初めて沖縄に行ったのは、昭和最後の年だった。 社員旅行で行ったのだった。 この時を含めて社員旅行は、3年続けて沖縄だった。 ぼくは、初めて那覇空港に降りた時から、沖縄に魅せられてしまった。 沖縄特有の匂い(ハイビスカスの香りか?)と風土が気に入ったのである。 そこに、なんとなく懐かしさを感じたものだった。 しかし、初っ端から、沖縄の嫌な面を見てしまった。 ある事件に遭ったのだ。
その事件というのは、沖縄最初の日、那覇市内で起こった。 その日、空港から観光バスに乗り、首里城跡(当時)に行った。 首里城跡を見学し、その後、ひめゆりの塔、真武仁の丘、玉泉洞、ハブ博物公園などを回ってから、宿泊地の那覇東洋ホテルに着いた。 小休止して、夕方からお決まりの宴会が始まったのだが、宴会が終わったら、ぼくは那覇一番の歓楽街である松山に行こうと思っていた。 そこにある民謡酒場に行きたかったのだ。 そこには「もしかしたら、喜納昌吉に会えるかもしれない」、という密かな期待があった。
宴会が終わってから、昼間いっしょに行動した人(二人)に声をかけ、外に出た。 さて、そうは言ったものの、松山がどこにあるのかわからない。 とりあえず、タクシーに乗り込み、「松山に行って下さい」と言った。 「お客さん、沖縄は初めてですか?」 「はい」 「じゃあ言っとくけど、松山は高いよ」 「そうなんですか?」 「ぼくが、安いところを知ってるから、よかったら案内するよ」 「でも、松山で行きたい所があるんやけど」 すると、誘った二人が「しん、せっかく案内してくれるんやけ、最初にそこに行こうや。松山は後で行けばいいやん」と言った。 結局、他の二人に押し切られて、行き先は運転手に任せることにした。 「そこは、安いよ。5000円ぽっきりよ」 ぼくはふてくされていたので、それに答えなかったが、他の二人は「本当ですか!よろしくお願いします」などと、運転手に相槌を打っている。
5分ほど走って、車は止まった。 運転手が、そこにいた呼び込みの兄ちゃんに、「兄ちゃん、ここは5000円よねえ」と聞いた。 兄ちゃんは「はい、5000円です! それ以上はいただきません」と答えた。 ぼくたちはタクシーを降り、店の中に入った。 ただのパブである。 事件はそこで起こった。
うちのパートさんが、「最近流行っている曲を編集しました」、と一枚のCDを持ってきた。 聴かせてもらったら、そこに島谷ひとみの『亜麻色の髪の乙女』が入っていた。 最近CMでよく流れているので、リバイバルしていることは知っていたが、通しで聴くのは初めてだった。 何気なく口すさんでいると、そのパートさんが、「えっ、この歌古い歌なんですか?」と聞いてきた。 ぼくは最近の歌にはまったく興味がないので、ぼくが知っている歌はすべて古い歌と思われているようだ。 おっしゃるとおり、古い歌である。 この歌は、ぼくが小学4年から5年にかけて流行った歌で、当時はヴィレッジ・シンガーズが歌っていた。
4年生の春休みに、子供会で福岡市の香椎花園に行ったのだが、その時にこの歌がかかっていた。 この歌を聴くと、真っ先にその時のことを思い出す。 が、別に大したことがあったわけではない。 ただ、「春にぴったりの歌だなあ」と思っただけである。
ぼくは、この頃からこの歌が好きだった。 今でも、しろげしんたが選ぶ”GSベスト3”の中に入る歌である。 他に、ゴールデン・カップスの『愛する君に』とズー・ニー・ブーの『白いサンゴ礁』がその中に入っている。
20年ほど前に、友人の結婚披露宴に呼ばれたのだが、会場で突然「歌ってくれ」と言ってきた。 その時、この『亜麻色の髪の乙女』を選曲した。 MCが「ずいぶん懐かしい歌ですね」と言っていた。 今、そういう場でこの歌を歌うと、おそらく「歳のわりに、新しい歌をご存知なんですね」と言われるだろう。
そういえば以前、スナックで井上陽水の『東へ西へ』を歌った時のこと、カウンターに座っていた若い客が、「へえ、最近の歌も歌えるんですね」と言っていた。 ちょうど、本木雅弘の『東へ西へ』が流行っていた頃である。 ぼくは「この歌はねえ・・・」、と『東へ西へ』の歴史を教えてあげた。 「あ、そうなんですか。陽水の歌だったんですか」 無理もない。 ユーミンの『卒業写真』を、音楽の教科書で知った世代なんだから。
ちょっと前にテレビで言っていたが、最近リバイバルブームだそうだ。 この『亜麻色の髪の乙女』もそうだし、原由子や中森明菜もそういうアルバムを出している。 また、ちょっと前には、井上陽水が『花の首飾り』や『コーヒールンバ』などを歌っている。 しかし、古い歌評論家のぼくとしては、ちょっと物足りない。 橋幸夫の『雨の中の二人』(歌詞が実に意味深)、倍賞千恵子の『さよならはダンスの後に』、園まりの『逢いたくて 逢いたくて』、タイガースの『落葉の物語』『銀河のロマンス』、由紀さおりの『初恋の丘』などをリバイバルして欲しいと思っている。 やはり時代を越えても、いい歌はいい。
しかし、これだけはリバイバルしないでほしい、という歌もある。 橋幸夫の『恋のインターチェンジ』『あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)』『チェッチェッチェッ(涙にさよならを)』(タイトルからしてダサい)、舟木一夫『ただいま授業中』(「AB学校、えー学校♪」というフレーズが嫌いだ)、トニー谷の『チャンバラ・マンボ』、『ガード下の靴磨き』(セリフが臭い)『西銀座駅前』(この歌をカラオケで歌っていた人が気持ち悪かった)、などなど。 それにしても、ぼくはいったい何歳なんだろう?
| 2002年05月10日(金) |
『ミエコ』と『鎌倉ものがたり』 |
今日は休みだった。 ということは、ミエコ(やんぽう通信)の更新日である。 外は雨だったので、今日は外出することもなく、この間買った『鎌倉ものがたり』を読みながら、その合間にミエコを書き進めた。
今日『ミエコ』を書いていて思ったことだが、ぼくは、いやぼくたちは、かなりミエコをいじめていたようだ。 知らない人が読めば、これは確実に『ミエコいじめ覚書』である。 しかし、ぼくたちにはそういった意図はまったくなかった。 ミエコはいじめの対象という存在ではなく、ペット的な存在だったからである。 いうなれば、猫かわいがりである。
そういえば、ミエコは猫みたいな顔をしていた。 本人も、「近所の子から、『猫姉ちゃん』と呼ばれている」と言っていた。 よく猫のまねをしていたものだ。 そのせいではないかもしれないが、ミエコはわりとドライな面があった。 実にマイペースであった。 興味のないことには、我関せず、といった態度を取っていた。 バカがばれるので、首を突っ込まなかっただけなのかも知れないが。
さて、一方の『鎌倉ものがたり』である。 そこに懐かしい地名を見つけた。 久里浜である。 ぼくが初めて東京に行ったのは、高校1年の夏休みである。 親戚の叔父から招待されて行ったのだが、その時叔父が住んでいたのが、横須賀市久里浜だった。 そこを拠点に東京、横浜、鎌倉、江ノ島などに連れて行ってもらった。 今はどうなっているか知らないが、あの当時はこざっぱりした街だった。 こちらに、折尾という街があるが、街の形は違うが、なんとなく雰囲気が似ていて、親しみを感じたものである。
そういえば、その頃、叔父の家には風呂がなかったので、銭湯に行っていたのだが、その時人生初の経験をした。 銭湯から帰る途中、小さな女の子とすれ違った。 その女の子は、すれ違いざまにぼくの顔を覗き込み、大変ショックな言葉を言い放ったのだ。 「おーじちゃん」だった。 当時ぼくは誕生日が来てなかったので、まだ15歳だった。 15歳の青春真っ只中の人間を捉まえて、「おじちゃん」とは何事だ! けっこう、その言葉が尾を引きましたね。 しばらく、「老け顔なんやろか」と悩んだものだった。
『鎌倉ものがたり』にはそういった懐かしい地名が、次々と出てくる。 こちらに帰ってからは、まず聞くことが出来ない地名である。 逗子、油壺、観音崎、大船など、こういうところにも行ったなあ。 中でも逗子は、それから十数年後、叔父が亡くなった時に、荼毘に付した場所でもある。 そういえば、その日、帰る途中に意外なものを見つけた。 「釣りのポイント&ペグ」である。 こういう場所で、この店を見つけるとは思ってなかった。 この店は、北九州市八幡に本社がある。 その当時は、全国チェーンになっているとは思ってなかった。 だから意外だったのである。 どこにでもある街の風景だったので、一瞬こちらに帰って来ているような気がしたものだった。
その日は逗子から久里浜まで戻り、そこから京急で羽田まで行った。 途中久里浜駅周辺をウロウロしたのだが、駅舎は変わり、街の雰囲気もあの当時とは少し変わっていたように思う。
さて、これを更新してから、『ミエコ』を更新することにします。
「姿勢を正して、」 「黙想!」 「・・・」 「止め!」 「礼」 「ありがとうございました」
高校の頃、これを柔道の練習終了時にやっていた。 練習もろくすっぽやらない落ちこぼれクラブだったが、これだけは毎日欠かさなかった。 体を動かすことは嫌いだったが、大声を出すことは好きだった。 ただそれだけの理由からである。
柔道は、「礼に始まり、礼に終わる」とよく言われる。 礼は、神への帰依とともに、相手を尊ぶという意味がある。 他の格技もだいたいそのようである。 ぼくは柔道以外に、居合道をやっていた。 居合道というとなじみが薄いかもしれないが、いわゆる居合抜きである。 これは日本刀を抜く技術や、型の美しさが要求される武道である。 この居合道も、神前、師範、刀に対して、いちいち礼をしなければならない。 これを、練習や試技の前後にするのだ。 計6度も頭を下げるのである。 これだけで疲れたものである。
話を柔道に戻すと、始まりの礼は、 「縁あって、貴殿と合い対することとなり申した。元より、貴殿に対する恨み辛みは毛頭ござらん。拙者も技の限りを尽くして戦うゆえ、貴殿も技の限りを尽くされい。これが貴殿のためになることならば、これ幸い」 という礼である。 また終わりの礼は、 「お互い力の限りを尽くし、いい試合でござった。感謝たてまつる」 という礼である。 柔道だけではなく、ほとんどのスポーツはこの精神でやっているのではないだろうか。
さて、では礼と礼の間、つまり試合はどうなのか? そこに礼の精神などはない、と言ってもよい。 例えば、『エースをねらえ』の岡ひろみのように、「あなたのためになりますように」などと思ってプレイをしている人間は、まずいないだろう。 試合というのは、是が非でも勝とうとする人、参加することに意義を持っている人、嫌々出ている人たちの絡み合いである。
是が非でも勝とうとする人は、「礼を重んじる、などと悠長なことを言っていると勝てない」と思っている。 いつも相手の意表をつくことばかりする。 せこくポイント稼ぎをする。 反則すれすれの汚い手も、時としてを使う。 つまりこういう人は、卑怯と言われようとも、要は勝てばいいと思っているのである。 礼の精神に反しているのは言うまでもない。
参加することに意義を持っている人。 「勝ち負けは関係ありません。試合を楽しんでいます」 うそをつけ! いいところを見せようと、格好ばかりつけているじゃないか。 試合がパフォーマンスの場と化しているじゃないか。。 投げられるとカッコ悪いと、逃げてばかりいるのがありありとわかる。 そういう不埒な精神に、礼の精神を見ることは出来ない。
嫌々試合に出ている人。 例えば、ぼくのいた落ちこぼれクラブにそういう人が多い。 「わざわざ日曜日に、こんなことせんでもいいやろ。あの番組が見れんやんか」 「早く負けて、さっさと帰ろ」 などと思っている。 ここにも礼の精神は見えない。
試合とは、そういう人間たちの絡み合いである。 ドロドロした人間ドラマそのものなのである。 しかし、そのドラマも、試合が終了すると、礼のおかげで、美しくさわやかなものに変わってくるから不思議である。
ドロドロとした人間ドラマといえば、この日記の世界とて同じこと。 この『礼』を利用して、何かやれないかと思っている。 いつも礼で始まり、礼で終わるようにして、中身のほうは悪態の限りを尽くして書くのだ。 非難・中傷・アダルト、何でもありで、実名をじゃんじゃん出していく、というのはどうだろうか。 最後は礼で終わるから、読後感は美しくさわやかなものになるだろう。
今日みたいにネタのない日は、とりあえず『礼』だけにしておくか。 礼!
昨日は、本屋から帰ってすぐに寝てしまった。 目が覚めたのは、午後10時前だった。 それから日記を書き始めたのだが、午前3時までかかって、まだ出来ないでいた。 結局、今日が仕事だったので、一度寝ることにした。 7時に起き、日記が完成したのは8時を過ぎていた。 その後、メールチェックなどをして、9時に仕事に出かけた。
運転中、何か引っかかるものがあった。 何かを忘れている。 しかし、それが何か思い出せない。 2,3分経っても思い出せなかったので、もうこのことは考えまい、と他のことを考えていた。
以前は、徹底的にこの「何か」を追求していた。 他の活動を一切止めて、この「何か」に向き合っていたものである。 しかし、こういう努力は無駄であった。 いくら考えても、思い出せないものは思い出せない。 そういう場合、思い出そうとしているのは、いつも歌のタイトルであったり、女優の名前であったりすることが多い。 仮にそういうことを思い出したとして、果たしてそれがどういう役に立つというのだろうか?
ということで、最近は数分考えても思い出せない時は、そのことを思い出そうとする努力をしないことにしている。 顕在意識で考えても、思い出すことはまずない。 そのことでストレスが溜まるのも嫌である。 そんな無駄なことを考えるよりは、今日の日記のことでも考えたほうがいい。 そうしていると、忘れていたことも自ずと思い出せるだろう。 忘れたことは潜在意識に任せるのが一番である。
案の定、「さて、今日は何を書こうか」と考えている時に、そのことを思い出した。 潜在意識が探し出してくれたのだ。 そういう時、潜在意識は、「あっ!」というひらめきの形をとって思い出させてくれる。 以前この「あっ!」は、作詞や作曲する時、つまり創作に使われる高尚なものだったのだが、今やそれは、『物忘れ』という一種の病気のために使われるようになってしまった。 寂しいものである。
何を忘れていたのか、というと、『ミエコ』を書くのを忘れていたのだ。 そこで、慌てて手帳に『ミエコ』の下書きをし、家に帰ってから、すぐに編集にとりかかった。 しかし、下書きがあっても、更新するまでには1時間半も時間を要している。 下書きすることのない日記に、時間がかかるのは当然である。 今日も日記は、かなり遅れての更新になってしまった。
そんなわけで、今日『ミエコ』(やんぽう通信)を更新しました。
先日の日記(4月28日分)で、西岸良平の『鎌倉ものがたり』というコミックを買った旨をお伝えしたが、それにハマってしまった。 あの日は3巻まで買っていたのだが、このコミックは、現在18巻まで発売している。 「そういえば、本屋には全部揃っていたなあ」 そう思うと、体が勝手に動き出した。 普段は駐車代の関係もあって、黒崎に行く時はJRを使っているのだが、「欲しい!」物がある時には、必ず車のキーを握っている。
今日は渋滞もなく、5分ほどで黒崎に着いた。 さっそく銀行でお金を下ろし、本屋に走った。 行ってみると、『鎌倉ものがたり』は17巻まではあった。 途中何巻か抜けていたが、ぼくは躊躇せず、十何冊かあるコミックをレジに運んだ。 清算をすました後で、ぼくは、「すいません。足りない分を注文したいのですが」と言った。 「お取り寄せですね。はい、わかりました。他の店に聞いてみますので、少々お持ち下さい」
5分ほど待たされた。 その間、ぼくはすることもなく、カウンターの前でボーっとしていた。 ふと、カウンターの下に目を落とすと、そこにミニモニのポスターが貼っている。 ぼくは、何の気なしにそのポスターを見ていた。 別にミニモニが好きなわけではない。 どちらが辻で、どちらが加護なのかも知らない。 矢口は知っているが、もう一人を知らない。 そんな具合である。
おそらく店員は、ミニモニのポスターを見ているぼくを見て、「この人いい歳して、ミニモニが好きなんやろか」とか「ロリコンおじさん」などと思っただろう。 たしかに、白髪頭の中年男が、ミニモニのポスターをじっと見ている姿というのは、異様なものがある。 しかしその時、白髪頭の中年男は、「矢口は性悪な顔しとるのう」、「どっちが辻で、どっちが加護か知らんけど、間抜けな顔やのう」、「誰か、一人だけ浮いとる、このケバイ姉ちゃんは!?」、などと思っていたのである。
モー娘系の人で、ぼくが知っているのは矢口だけである。 なぜぼくが矢口だけを知っているのか? それは、矢口がこの「頑張る40代!」を訪れたことがあるからだ。 昨年の春、ぼくは『ある人』から、矢口真理なる人のプライベートサイトを教えてもらった。 「矢口ッちゃ誰か?」 「モー娘の矢口」 いかに芸能界音痴のぼくでも、モー娘という名前くらいは知っていた。 が、モー娘が何人構成で、どういう人がいるのかなどは、まったく知らなかった。 この時、初めて矢口という人がモー娘にいると知ったのである。 それからぼくは、矢口に関心を抱くようになった。 何度かそのサイトを訪れてみた。 素性を伏せてはいたが、矢口はそのサイトに、それらしきハンドルネームをつけて、それらしきことを書いていた。 ぼくは、ちょっとしたいたずら心で、『頑張る・・』のURLを入れ、掲示板に「頑張って下さい」と書き込んだ。 すると、数日後、矢口がぼくのサイトにやってきた。 ぼくの掲示板に、『それらしきハンドルネーム』で書き込んでくれたのだ。 ここでもぼくは、「お仕事頑張って下さいね」と書いた。
そんなことを思い出していると、先ほどの係の人がやってきた。 「お待たせしました。この本は久留米店にありました。そこから取り寄せいたしますので、1週間ほどお時間がかかりますが、よろしいでしょうか?」 「ああ、かまいませんよ」 「では、入荷いたしましたら、ご連絡差し上げます」 「よろしくお願いします」
そこから離れる時、ぼくはもう一度ミニモニのポスターを見た。 やはり矢口に目が行く。 「あの時書いときゃよかった」と、帰る道々考えていた。 ぼくは矢口から書き込みがある前から、あることに気がついていた。 しかし、ぼくが書き込みをした時や、矢口の書き込みに返信する時、それを書くのは失礼だと思って止めておいた。 今になって考えると、それを書かなかったことを後悔する。
ということで、改めてレスします。 「お仕事頑張って下さいね。ニセ矢口さん」
昼間、仕事がちょっと暇になったので、売場のテレビで「ダイエーVS近鉄」を見ていた。 テレビで野球や競馬をやっていると、必ずどこからともなくギャラリーが集まってくるものである。 例によって、今日もギャラリーが集まってきた。 「お、ダイエーがありよる」 「今日は勝っとるやん」 「今日は勝たんとねえ」 「5連敗は避けんとなあ」 「寺原を援護してやれんかったしなあ」 こんな声が飛び交っている。 ぼくは『もっと静かに見れんとか?』などと思っている。
と、突然、スポーツ新聞を持ったおっさんが、ぼくに話しかけてきた。 おっさん「これ、中継ですか?」 しんた「はい、今やってますよ」 お「勝ってますか?」 し「ええ」 お「昨日は寺原で落としたんですよ」 し「そうですね」 お「今日は誰ですか?」 し「星野です」 お「調子はどうですか?」 し「いいみたいですよ」 お「今度、北九州でやるでしょう?」 し「ええ」 お「チケット持ってるんですよ」 し「そうですか。いいですねえ」 お「この間、行った時は、オリックスにやられたけねえ」 し「そうやったですね」 お「あの時は、ペドラザがよくなかった」 し「ええ」 お「まあ、今度は勝ってくれるやろう」 し「そうですね」 お「頑張って応援してきますわ」 し「はい、頑張って下さい」
結局このおっさんは、今やっている試合なんかはどうでもよく、北九州市民球場に応援に行くことを自慢しているだけである。
ぼくは一応相槌を打っておいたが、本音のところは、 お「これ、中継ですか?」 し「新聞見たらわかるやろ!」 お「勝ってますか?」 し「テレビ見たらわかるやん」 お「昨日は寺原で落としたんですよ」 し「そのくらい知っとるわい」 お「今日は誰ですか?」 し「それも新聞に書いとる」 お「調子はどうですか?」 し「ここまで0点に抑えとろうが」 お「今度、北九州でやるでしょう?」 し「明日やないか」 お「いや、チケット持ってるんですよ」 し「チケット持っとるくらいなら、ちゃんと日にちぐらい調べとけ」 お「この間、行った時は、オリックスにやられたけねえ」 し「あんたが行ったけでしょうが」 お「あの時は、ペドラザがよくなかった」 し「あの時だけ悪いんじゃないわい」 お「まあ、今度は勝ってくれるやろう」 し「だから、今度は明日ッちゃ」 お「頑張って応援してきますわ」 し「明日は雨!」 である。
こちらは真剣に見ているのに、邪魔をしないでほしいものである。 どうせ市民球場に行っても、酒を飲んで野次を飛ばし、ジェット風船にタバコの煙を入れて飛ばし、紙ふぶきをばら撒いて、試合が終わったらグラウンドになだれ込むだけでしょうが。 だから、北九州はガラが悪いと言われるんだ。 野球を見るなら、大人しく見なさい!
いつも日記に、お酒が好きだと書いているので、意外だと思われるだろうが、実はぼくは甘党である。 ショートケーキをビールのつまみにしたこともある。 洋酒を飲む時は、チョコレートやレーズンバターを離せない。 日本酒は基本的に甘口である。 カルピス酎ハイ、大好きである。 杏露酒、大歓迎である。
こんな甘党のぼくにも、かつて苦手なお菓子があった。 それは、プリンである。 小学生の頃、プリンが全然だめだった。 ハウスのプリンが発売された当初、親戚のおばちゃんに作ってもらったことがあるが、クセのある嫌な味だった。 そのせいでぼくはプリンが嫌いになり、給食に出たプリンは、いつも人にあげていた。 もちろん、デパートに行った時も、プリンのついている「お子様ランチ」などは注文しなかった。
ようやく、プリンを口にするようになったのは、30歳を越えてからだった。 その間、何度かプリンを食べる機会はあったが、いつも小学生の頃の思い出にさえぎられて、食べることはなかった。 30歳を越えた時に食べたプリンは、グリコの『プッチンプリン』だった。 腹が減ったので、冷蔵庫を開けてみたら入っていたのだ。 ただ、その時はプリンと思って食べたのではなかった。 あまりに腹が減っていたので、冷静さを失っていたのだろう。 固形のヨーグルトと思って食べたのである。 容器に「グリコ/プッチンプリン」と書いているし、色も違うじゃないか、と思う人もいるだろうが、その時は本当にヨーグルトだと思っていたのだ。 その時は、ちょっと色が変だなあ、と思った程度である。
当時はプッチンプリンの食べ方も知らなかったので、そのまま容器に付属のスプーンを突っ込んで食べた。 一口目に、「あれ?」 二口目に、「ヨーグルトじゃない」 三口目に、「何だ、これ?」 と、三口食べた後で、ようやく容器の文字に気がついた。 「げ、プリンやん」 と思ったが、それほど悪い味ではない。 かえって、おいしさを感じる。 「まあ、食べてみるか」と、ぼくは一気にこれを口の中に入れた。
それから、プッチンプリンが病みつきになった。 こうなると、レストランのプリンも食べてみたくなる。 レストランに行く機会があると、いつもデザートにプリンを頼んでいた。 その後、プリンを食べるのにも飽きて、またいつものミルクティを頼むようになった。
しばらくプリンのことを忘れていたが、ある時、「さかえ屋の○プリンはおいしい」とパートさんたちが話しているのを聞いた。 「さかえ屋の、何プリン?」 「石田プリン」 「おいしいと?」 「おいしいよ」 「じゃあ、買ってきて」 「そのプリンね、毎日売る個数が決まっとって、朝早く並んで買わないけんとよ」 「そうなんね。じゃあ食えんねえ・・・」 プッチンプリンの洗礼を受けてから、ぼくはいっぱしのプリン通のつもりでいたので、どうしてもその『石田プリン』なるものを食べてみたかった。
ようやく、その『石田プリン』を口にすることが出来たのは、その話を聞いてから半年後のことだった。 ある人が差し入れしてくれたのだ。 プッチンプリンと同じように、プラスチックの容器に入っている。 容器にはちゃんと『石田プリン』と書いてある。 まず、一口食べてみた。 ぼくが知っているプリンの味と全然違う。 玉子の味が若干強く、といって嫌味がない。 カラメルソースとうまく調和している。 あまり甘すぎもせず、上品な味のする一品だ。 もし、これをプリンと呼ぶのなら、ハウスプリンやプッチンプリンはプリンとは呼べないだろう。
さかえ屋は福岡県内にある、お菓子のチェーン店である。 石田プリンは、元社員の石田さんという方が作ったプリンだから、そう呼ぶらしい。 実に安易なネーミングであるが、それだけに重みを感じる。 このプリンを知っている人は、その名前を聞いただけで、あの味が蘇るだろう。 残念ながらぼくは、この石田プリンを2度しか食べたことがない。 それだけ、手に入りにくいプリンであるといえよう。 まあ、休みの日に早く起きて、わざわざさかえ屋に行くのが億劫なだけであるが。
「ひよ子」というお菓子がある。 何かの本で読んだのだが、東京のお土産No.1だということだ。 九州の人なら誰でも知っていることであるが、「ひよ子」は福岡の銘菓であり、決して東京の銘菓ではない。 「ひよ子」を製造している吉野堂の発祥の地は、福岡県飯塚市である。 東京の人は、卵型の箱に入った「ひよ子」を知っているだろうか? 昔は「ひよ子」のCMには、決まって「ひよ子」の歌がかかっていた。 「ひっよ子、ひーよ子、ぴーよぴーよ、ひよ子・・・♪」 果たして、東京でこの歌が流れていただろうか? 「あっぱーれ、あっぱれ、あっぱれひよ子の博多もち、もっちー、ウー、ウー♪」(このCMは好かん!) 「ヤマアラシのサブレは何か痛そうだ。スッポンのサブレは噛み付きそうだ。・・・。やっぱりひよ子のサブレにしよう。ぴよぴよ♪」 今これらの歌が、東京で流れているだろうか?
ぼくが東京にいた時、新宿駅で「ひよ子」が売られているのを見て、不思議に思ったものだった。 こちらの友人が下宿に遊びに来た時、下宿のおばさんに「ひよ子」をお土産に買ってきたのだが、おそらくおばさんは、新宿駅で買ったと思ったことだろう。 こちらのひよ子と東京のひよ子は味が違うらしいが、その違いがわかっただろうか?
ぼくがまだ幼い頃、この「ひよ子」は駄菓子屋でバラ売りしていた。 当時、一個20円だったと思う。 普通のアイスクリームが5円の時代に、20円は高価であった。 ちなみに、当時グリコは10円、ラムネは15円だった。 「ひよ子」は今と同じように、薄い和紙に包まれていて、それがガラスケースの中に、無造作に置かれていた。 飴玉やガムを買う時、いつもガラスケースの中の「ひよ子」に目が行っていた。 欲しかったのだ。 しかし、さすがに20円はきつかった。 小さい頃は、1年に一二度くらいしか「ひよ子」を食べられなかった。 うちに遊びに来るお客さんが、たまに手土産に持ってきたのを食べた程度である。
ということで、「ひよ子」はいつもぼくの憧れのお菓子なのである。 小学校の給食で、一度だけ「ひよ子」が出たことがある。 あれは、感動だった。 学校で食べずに、家に持って帰って食べたものだった。 理由は、脱脂粉乳なんかで食べたくなかったからである。 ぼくは昔から、「ひよ子」を食べる時は牛乳を飲みながら、と決めているのだ。 福岡には、もう一つ、「千鳥饅頭」という有名なお菓子があるが、これを食べる時も牛乳である。 この習慣は今でも変わっていない。 たまに差し入れで、「ひよ子」をもらうことがある。 ぼくは、急いで隣のスーパーに牛乳を買いに行く。
話を最初に戻すが、この日記を読んでいる方だけでも、東京土産と言われている「ひよ子」は、実は福岡の銘菓ということを覚えておいて下さい。 もし、福岡の「ひよ子」を食べてみたい、という方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。 福岡までの、行き方をお教えいたします。
そうか、そうか。 今日は、荒らし君が来てくれたか。 書き込み、どうもありがとう。 しかし、ちゃんとした文章が書けるじゃないか。 感心しましたよ。 『もうここのHPには来てやんないからな!』と書いているくせに、午後3時頃訪れているのはどうしてかな? もしかして、ここが気に入ってくれた? まあ、仲良くやりましょうよ。 たちの悪いおじさんだけど、これからもよろしくね。
ああ、それと、この『頑張る荒らし君!』は、「中年梁山泊」というサイトにも掲載しているので、これからも書き込みお願いしますね。 参加している人たちが、期待していますよ。 君がぼくの子分になってくれると、ありがたいんだけどね。
さて、今日また血が騒ぐような事件が起きた。 それは、雨漏りである。 午後1時半過ぎ、突如外が真っ暗になり、大雨が降り出した。 しばらくして、隣の売場のパートさんが、血相を変えてぼくのところにやってきた。 「しんたさん、大変です。雨漏りしてます」 「雨漏り?」 急いで現場に駆けつけてみると、天井から滝のように水が流れている。 さっそくぼくは、バケツとモップを取りに行った。 心が踊って、 「どうしてこの店は、こんな面白いことばかり起こるんか」 などと思っていた。 現場に戻ると、相変わらず水は流れている。 その場所を通行止めにし、男子従業員全員で、水浸しになった床を拭いた。 店長代理が2階の駐車場に行ってみると、ゴミが集水穴を塞いで、水はけが悪くなっていたとのことだった。 そのゴミを取り除くと、だんだん雨漏りは収まっていった。 その後、雨は小降りになり、楽しいイベントは終わった。
ぼくは、大雨・台風の時には、何故か心が躍る。 台風の日に、わざわざフェリーに乗りに行ったこともある。 小倉・下関間と距離は短かったが、甲板に出て雨風をもろに受けた。 友人といっしょに乗ったのだが、友人は恐がって、船の中から出てこなかった。 「しんちゃん、危ないけ中に入ったほうがいいよ」 「何言いよるんね。こんな体験はめったに出来んやろ」 そう、こんな経験は、めったに出来るものではない。 一生に一度あったらいいほうだろう。 びしょ濡れになって、あとで困ったが、その日は充分に台風を満喫できた。
前に会社にいた時、台風で、屋根がめくりあがり、大変なことになったことがある。 「パタッ!」という音がしたので、「どうしたんだろう?」と見てみると、天井のボードが落ちている。 「何か、これ?」と見上げると、そこには空があった。 まもなく、大雨が降り出し、多くの商品が水浸しになった。 シンセサイザーなどは、中に水が溜まり、「タッポンタッポン」言っている。 斜めにすると、大量の水が出てきた。 「こんな体験は、めったに出来んやろう」 とぼくは心の中で喜んでいた。 めったに上がることもない、会社の屋根にも上ってみた。 表の風景とはまったく違う世界が、そこにはあった。 屋根のとたんが、完全にめくりあがって、下を覗くと売場が見える。 ミエコが下にいた。 「コラッ!」と呼んでみると、ミエコは「バーカ」と言っていた。
さあ、まもなく梅雨に入る。 その後は台風シーズンの到来だ。 この時期は、ぼくの血が騒ぐ時期でもある。 今年は、どんな面白いことが待っているのか、楽しみである。
| 2002年05月02日(木) |
ミエコによる新たな発見 |
やんぽう通信(ミエコ)を更新した。 人の話となると、難しいものである。 特に20年近くも前の話であるから、記憶をたどっていくのも大変だ。 話を進めていく時、まず「あのエピソードはいつ頃の話だっただろうか?」という思いが先にたつ。 時期が確定できたら、その前後に何があったのかを思い出さなければならない。 実に手間のかかる作業である。
また、本人の実像をよりわかりやすく表現しようとするから、変に説明口調になったりもする。 あとで読み直してみると、これがまた面白くない。 そこで書き直すことになるのだが、ああじゃない、こうじゃないとやっていくうちに、何を書いているのさえわからなくなる。 袋小路に迷い込んでしまうのである。 こうなったら、もう何をどんなふうにしてもだめで、また一からやり直しとなる。 まあ、そんなこんなで頑張っている次第でございます。
さて、ぼくはこのミエコちゃんのおかげで、ひとつ開眼したものがある。 それは姓名判断である。 それまでぼくは、姓名判断をただの占いだと思っていた。 しかし、ミエコちゃん研究をしていくうちに、その認識が誤りであることに気づいた。 それは、ぼくの姓名判断に対する今の認識である、「姓名判断とは性格判断だ」という新たな発見でもあった。
ミエコちゃんは、内画(姓の一番下の字と名の一番上の字の画数を足したもの。主にその人の性格を見る)が12画であった。 この字画は、一般的に言って凶数である。 性格が凶だというのは、どういう意味だろう、とぼくは昔から疑問に思っていた。 性格が凶なら、ミエコちゃんは嫌われていたのか、というとそうではなく、逆にその素直な性格は人から愛されていた。 ぼくが知っている性格が悪い人は、一般に吉数を内画に持っている人が、圧倒的に多い。 では、その内画数12画に、ぼくは何を見たのかと言うと、「変わり者」である。 ミエコちゃんといっしょに仕事をしていて、「こいつ変わっとるな」と思ったことが何度もあった。 まあ、そのことはやんぽう通信のほうに、追って書いていくことになるだろうが、別に奇を衒うのではなく、その言動が人とは違うのである。
ミエコちゃんが12画でこんなふうなら、他の12画の人はどうなのか? 調べましたねえ。 まず、身内から。 うちの伯母、結婚して12画になったのだけど、実にユニークな人です。 次に、その頃勤めていた会社の同僚。 いました。 前に、「どこに出しても恥ずかしくない変人が4人いた」と書いたけど、その中の一人、『ジッチャン』というお方である。 この方の変わり方は、異常なものがあった。 まあ、この方のことも、おいおい書いていこうと思っている。 他に芸能人では、『中村玉緒な』どがいた。 そういえば、『篠原ともえ』も、内画数が12画である。
この方法で調べていくと、画数にはいろいろな性格があることがわかった。 大きく分けて10通りある。 その10通りの画数を、他の箇所(例えば、姓の画数、名の画数など7箇所ある)の表す意味を考え、それぞれその場所に性格を当てはめていく(例えば名は行動を表すから、ここに12画を持っていると、「行動が変」ということになる)と、人には10の7乗の性格がある。 仮に日本人の人口が1億人だとすると、自分と同じ性格の人が、日本には他に9人いることになる。 もしかしたら、ぼくと同じ性格の他の9人も、ぼくと同じようにホームページを立ち上げて、『荒らし君』と遊んでいるのかもしれないなあ。
まあ、ミエコちゃんは、仕事や酒の席で楽しませてくれたし、こういう発見もさせてくれたし、いろいろとお世話になった一人である。 言い換えればぼくの恩人である。 ということは、『ミエコ』で彼女の魅力を充分に表現してやらないと、失礼に当たる。 ということで、誠心誠意『ミエコ』を書き上げていきます。 次回更新予定日は、5月7日です。
残念ながら、今日は『荒らし君』は登場しなかったようだ。 30日の午後10時台以降は、訪れてもいないようだし。 もしかしたら、現れては消え、現れては消え、というのが『荒らし君』のマニュアルにあるのかもしれない。 とういうことは、また登場することもあるだろう。 気長に待ってますから、お立ち寄りの際はちゃんと足跡を残していって下さいね。 せっかく発言の場を設けてあげたのだから。 しかし、『本当で閉鎖しろ』には笑ってしまった。 今日、会社でギャグとして使わせてもらった。 本人は、きっと「本気(マジ)で閉鎖しろ」と書こうとしていたのだろう。
昨日の『荒らし君』登場で、思い出したことがある。 前の会社で、ぼくはCDやLDといったソフト類を扱っていた。 そこでメンバーズカードを発行していたのだが、それはメンバーズカードに買った日付と金額を書き入れて、何ポイントか貯まると、その5パーセント分のCDがもらえる、というお手軽なものだった。
一度だけだったが、このカードを悪用しようとした人間がいた。 店の近くにある私立中学の生徒だった。 この中学校は進学校なのだが、自分が頭がいいというのを鼻にかけた生徒がわりと多かった。 そのせいか、やることがずる賢い。 彼はこのポイントを、巧みに修正してCDに換えようとした。 ただ間抜けなことに、彼は常識がわからなかったのだ。 CDの価格は、だいたい3千円くらいのものである。 いくらまとめて買っても、3万円が限度だろう。 このメンバーズカードは、3千円購入の場合は「3000」と書くのだが、この生徒は、「3000」の前に「10」を書き加えた。 つまり「103000」である。 その作業を、何度か繰り返し、彼は何と「680000」ポイントを稼いだのだ。
680000ポイントだと、3万4千円分のCDがもらえる。 彼は、それをビートルズのアルバムに換えてくれと言った。 全部で10枚だった。 パートさんが応対していたのだが、金額が金額だけに、すぐにぼくに言ってきた。 「主任、これ、おかしいんですけど」 「え、680000ポイント!?」 「ええ、おかしいでしょ」 ぼくは、その中学生のところに行き、「これ、あんたが買ったと?」と訊いた。 すると彼は、「お父さんのカードですから、ぼくは知りません」と言った。 明らかにおかしい。 「今ビートルズのアルバム切らしとるけ、取り寄せるまで待っとって。入ったら連絡するけ」 そう言って、ぼくは相手の電話番号を聞きだした。
彼が帰ってから、メンバーズカードに書かれている日付の、レジの記録用紙を全部調べた。 しかし、そこに書かれている金額を、一人で買った人はいなかった。 「やっぱり、偽造か。どうしようか」 とぼくはスタッフと話し合った。 はっきりと本人に言っても、「お父さんのだから、ぼくは知りません」と言うだろうし、その中学の生徒なら逆恨みして、また何をしでかすかわからない。 ここは相手を戦意喪失させる方法をとろう、ということになった。 まずとった手は、こちらから相手には連絡しないで、相手から連絡があるのを待つ、ということだった。
2日後、彼から連絡があった。 「もしもし、ビートルズはまだですか?」 「悪いねえ。まだ届いてないんよ。届いたら連絡するけね」 まだ、次の一手をとらない。 じらさないと相手は応えない。 それから2日後。 「もしもし、ビートルズはまだですか?」 「もう少し待ってね」 次の日。 「ビートルズはまだですか?」 「ごめんね。まだなんよ」 翌日。 「ビ−トルズはまだですか?」 「メーカーが切らしとるみたいなんよ」 「本当に注文したんですか?」 「注文はしたんやけど。ごめんね」
そして、メンバーズカードを受け取ってから1週間が経った。 「もうビートルズは届いたでしょうね?」 「今日で8枚揃ったんやけど、2枚がまだなんよ」 「じゃあ、8枚取りに行きます」 「いや、このカードの場合、全部揃わんと渡せんのよね」 「換える気がないんやろが!」 「いや、あるよ。ああ、それと言い忘れとったけど、このカードお父さんのやったねえ」 「そうやけど」 「じゃあ、揃ったら、お父さんに連絡するね」 「・・・、わかりました」
それから、30分後、事務所に電話が入った。 「あのう、そちらのレコードのコーナーで、ビートルズのCD頼んでたんですけど、キャンセルします」 その後、彼から二度と電話は入らなかった。 いや、二度と店には来なかった。 彼は「店から電話がかかったらどうしよう」、そればかり考えて、ヒヤヒヤしていただろう。 まあ、こちらから電話することはなかったが、メンバーズカードだけはずっと取っておいた。
ああ、また今日も『荒らし君』のおかげで日記ができた。 彼には重ねて感謝しなくては。
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