頑張る40代!plus

2002年03月31日(日) 教育

今日、5千円札を見ていて思ったことがある。
このお札には、新渡戸稲造の肖像が載っている。
しかしこの新渡戸稲造、福沢諭吉や夏目漱石と比べると、かなりなじみが薄い。
ぼくも、『武士道』を書いた人だ、程度の知識しか持っていない。

『新渡戸稲造』、実に書きづらく読みにくい名前である。
初めてこの名前に触れた人は、きっと何と読んでいいのかわからなかったはずだ。
ぼくも初めてこの名前を見た時は、何と読んでいいのかわからなかった。

ところで、子供から「この人、何をした人?」と訊かれて、明確に答えることのできる人が、全国民の何パーセントいるのだろうか?
「世界に日本の文化を紹介した人」と言っても、子供たちにはピンとこないだろう。
仮に「日本の文化を紹介したら、お札に肖像画を載せてもらえる」と理解されたら、ちょっと困ったことになる。
「ということは、次は海外で活躍している電撃ネットワークの番か」と真剣に思う子も出てきて、彼らに続けとばかりに、南部虎弾のような頭をしたり、マジックインキを飲んだり、尻に花火をつっこんだりするかもしれない。

そこでぼくは考えてみた。
子供に新渡戸稲造のことを教えようと思っても、無駄なことである。
まず、名前が読みにくいというのが致命的である。
次に、「天は人の上に・・・」や「知に働けば角が立つ・・・」といった名文句を残していない。
さらに他の二人に比べると、試験に出る率が低い。
こういう人のことは、学者先生や歴史家に任せておけばよいのだ。

では、5千円はどうやって説明しようか。
さらにぼくは追及してみた。

子供「5千円札に載っている人は誰ですか?」
しんた「新渡戸稲造です」
子供「知らないなあ」
しんた「でもね、あの画は違う人なんだよ」
子供「え、誰ですか?」
しんた「君もよく知っている人です」
子供「え?」
しんた「5千円に載っている人、それは、」
子供「それは?」
しんた「マギー司郎です」
子供「え、マギー司郎なんですか?」
しんた「そうです。よく見てごらん」
子供「あ、ホントだ!!どうしてマギー司朗が載ってるんですか」
しんた「肖像画をすり替えるマジックやったの」

「子供にそんな嘘を教えてはいかん」
と、お叱りを受けるかもしれない。
しかし、5千円札の人が新渡戸稲造と知ってなんの役に立つんだろう?
先にも言ったが、試験に出るわけでもないし。
せいぜい「笑っていいとも」の、クイズの問題にされるくらいのものである。
それよりも、マギー司郎が載っていると思ったほうが、楽しくていいじゃないか。
マジックで画をすり替えたと思ったほうが、想像力が育つじゃないか。
楽しいということは、人生が豊かになるということだ。
想像力は、人間の生きる糧だ。
教育とは、人生の豊かさを教え、想像力を育てることである。



2002年03月30日(土) 春休み

そうか、全然気にもとめてなかったけど、学生は今春休みなんだ。
それで、店内をガキどもが走り回っているわけか。
今の子供たちは、外で遊ぶようなことをしないのかなあ。

ぼくが小学生の頃は、春休みといえば『ダンチン(ビー玉)』だった。
人が集まれば、『ダンチン』をやっていた。
主に家の前の広場でやっていたのだが、時には隣の町内へ遠征に行ったりもしていた。
ポケットにダンチンを詰め込んで、ジャラジャラやって歩いていたものである。
ポケットがより膨らんでいる奴が、強い奴ということになる。
「穴入れ」「三角打」「インキョ」といったゲームをやっていた。
要は賭け事である。
数を賭けて、そういったゲームをやるのである。
最終的に相手のダンチンに当てたら勝ち、という単純なものだった。
だいたい卑怯な奴が勝つゲームだった。

ぼくの住む地域では、野球もこの時期から始まった。
やはり、高校野球やプロ野球開幕の影響があったのだろう。
誰かがバットとボールを持ってくると、自然に人が集まってくる。
そこで適当にチーム分けし、試合が始まる。
広場が狭かったため、いつも三角ベースでやっていた。
広場が内野で、道路が外野、ホームランは人の家であった。
ただ、ホームランになるのは、ボールが飛び込んでも叱られない向かって左側、つまりレフト側の家だった。
反対側、つまりライト側の家は、ドラえもんに出てくる『神成さん』のような親父が住んでいた。
ボールがそこに飛び込むと、いつもその親父が怒鳴りながら出てきて「ここで遊ぶな!」と言っていた。
したがって、この家にボールが飛び込むとチェンジになる。
さらに、ボールは打った人が取りに行かなければならない。
このルールは、左打ちのぼくには厳しいものだった。
満塁でぼくに打席が回ってくると、相手はわざと打ちやすい球を投げてきたものだ。
注文どおり、ぼくはライナーで『神成さん』宅にぶち込んでしまう。
これでチェンジだ。
もちろん、叱られるのはいつもぼくだった。
しかし、何が幸いするかわからないものである。
そのおかげで、ぼくは流し打ちを覚え、クラス対抗や子供会の野球大会、さらには社会に出てからの早朝野球では重宝がられたものだった。

春休みの楽しみがもう一つあった。
そう、ちょうど今頃の新聞に載る、公務員の人事異動である。
別に、お役所関係の異動はどうでもよかった。
ぼくが関心を持っていたのは、教職員の異動である。
毎年新聞を広げては、目を凝らして人事異動の欄を見ていた。
転任してくる先生は、自分の小学校の欄を見ればすぐにわかるのだが、転任して行く先生を探すのは大変だった。
当時八幡区には30以上の小学校があった。
それを一校一校、隈なく探していくのである。
時には他の区や郡部に転任して行く先生もいるのだから、その欄もおろそかにできない。
根気のいる作業だったが、やりだすとこれが楽しい。
その中に、過去に担任だった先生の名前や、一度でも叱られたことのある先生の名前が入っていると、「ザマーミロ、おれを叱るけたい」と思ったものである。
しかし考えてみると、逆に「やったー、もう『バカしんた』の顔を見なくてすむ」と思い、喜んで転任していった先生もいたのかも知れない。
どっちもどっちである。
直接ぼくと接触のない先生でも、一般に恐いと言われている先生には転任してもらいたいというのがあった。
もし、そういう先生が担任にでもなったら一大事だからだ。
2年間は同じ先生だから、いつもソワソワしていたぼくにとって、これは地獄である。
とにかく、そういう可能性もないとは言えないので、一応心の準備をしておくためにも、そういう先生が転任するかどうかを確かめておかなければならない。
その意味でも、教職員の人事異動の記事は役に立った。

春休みには宿題がなかったということもあり、一年で一番のんびりしていた時期である。
しかし、すぐ終わるのがたまにきずだった。



2002年03月29日(金) 雨

今日は終日雨であった。
雨がやんだら、本屋にでも行こうと思っていたのだが、いっこうにやむ気配がなかった。
ということで、今日は一日家の中にいた。

「春に三日の晴れ間なし」という言葉があるそうである。
そういえば、ここ何週間か休みの日には必ず雨が降る。
それも、晴れ間のひとかけらもないのである。
休みの前後の日は必ず晴れているのだ。
これはどうしたことだろう?
ぼくは決して『雨男』ではない。
要所要所では必ず晴れているから、どちらかと言うと『晴れ男』に近いと思っている。
まあ、これも巡り合わせの問題なのだろうと思い、諦めている。

しかし、休みの日に晴れ間を拝めないと、何か損をした気がするものだ。
先日、あるアンケートで「一日のうちで、どの時間帯が好きですか?」という質問があった。
ぼくは躊躇せず「夕方」と答えたのだが、これも「晴れていれば」という条件付きでのことだ。
曇天や雨天の夕方は大嫌いである。
ぼくの部屋の窓から見える工場街の灯りが、何かしら寂しく感じるものだ。
ぼくの嫌いな冬の情景を、そこに重ねてしまうからだろう。

雨が降ると、何をする気も起こらない。
ここまで雨に見舞われると、家の中で運動することも嫌になる。
次の休みがどうなるかはわからないが、もし雨だと、また家にくすぶってしまい、また『妖怪ハラマワリ』を巨大化させることになってしまう。
この悪循環を断ち切るためにも、来期は休みのローテーションを変えてみようかなあ。

ぼくが勝手に「雨が似合う街」と思っている場所がある。
東京の銀座、京都市内、島根の津和野、福岡でいえば太宰府と秋月、大分の日田、那覇の国際通りなどである。
那覇の国際通り以外は、傘を差して歩くのが絵になるのである。
最初にそれを感じたのは銀座だった。
雨に濡れる三越のライオンを見て、ふとそう思ったのである。
その時から、銀座は風情があっていいな、と思うようになった。
古都や小京都と呼ばれるところは、だいたいおわかりいただけると思う。
では、那覇はどうしてか?
答は、スコールが好きだからである。
那覇には何度か行ったことがあるが、そのたびにスコールに見舞われていた。
突然の土砂降りというのは、気持ちがいいものである。
腹の底から「今生きている」というものが、湧き出てくるような気がするのである。
そういうことは、北九州にいても夕立などで味わえるのだが、那覇に比べると、その頻度は低い。
やはり、那覇が本場という気がするのである。
しかし、いくら雨が似合う場所といっても、雨が降るとどこに行く気も起きないのだから、なかなかそういう場所に行く機会がない、というのが現状である。

昨日の原体験ではないが、ぼくが小さな頃、雨が降るとよく前の川が氾濫していた。
橋を隔てた向こう側は、かつて「死の海」と謳われた洞海湾である。
したがって家の前の川も、昔は腐ったような臭いがしていたものだった。
そういう川が氾濫するということは、毒をばら撒かれているのに等しいことだ。
「汚いけ外に出るな」と言われていたが、子供たちがそういうことを聞くはずがなく、皆外に出て冠水した道路におもちゃの船などを浮かべて遊んでいた。
しかしよく考えると、その船は、またお風呂に浮かべるのである。
こんなに汚い話はない。
きれいに洗えば問題ないのだろうが、洗ったような記憶がない。
そういえば、よく溝の中で浮かべていた潜水艦のプラモデルも、洗わずに風呂に浮かべていたような記憶がある。
ああ、ぼくはなんと罪深いことをしてきたのだろう。
もしかしたらこの白髪は、その時の後遺症なのかもしれない。

もうそろそろ寝ようと思うが、外は・・・、
えっ、晴れとるやん。
月がこうこうと夜の街を照らしている。
くそー、休みを返せー!!



2002年03月28日(木) 原体験

ぼくは昭和32年11月に福岡県八幡市(現北九州市八幡西区)折尾で生を受けた。
折尾という街は、かつては石炭産業で栄えた所である。
鹿児島本線と筑豊本線が交差する交通の要所で、2年前までは西鉄北九州線の起点でもあった。
また多くの高校や大学がここに集まっており、石炭産業の廃れた今は、学生の街として栄えている。
ぼくは、その折尾にある田中産婦人科というところで生まれた。
今でもこの病院はあるが、この田中産婦人科という名を聞くと、何かホッとするような思いがする。
ちなみに、この産婦人科は、あの雅子妃の不妊治療をしたと噂される、有名な『セントマザー病院』の院長の実家である。

生まれた頃に住んでいたのは、遠賀町という父の母方の実家の近くであった。
しかし、その頃の思い出はまったくない。
そこには、あまり長くは住まなかったのである。

ぼくが生まれた翌年に、『しろげ一家』は黒崎に移り住んだ。
街のど真ん中に家を借りた。
その家は、今の飲み屋街辺りだったということである。
引っ越した理由は知らない。
ただ、父が八幡製鉄所に勤めていたので、「職場に近いので、通勤に便利」というのが理由だったのかもしれない。
なぜなら、黒崎からだと八幡製鉄所までは、当時走っていたチンチン電車で10分とかからないのだから。
もう一つ考えられるのが、その家が映画館の隣にあったということである。
テレビのなかった当時は、映画が情報源であった。
父は案外、映画っ子だったのかもしれない。
黒崎に住んでいたのは1年ちょとだった。
したがって、2歳のぼくにはその頃の思い出もない。
ただ、今でもそのへんを歩くと、なぜか懐かしい思いがするものである。

2歳の頃、今住んでいる場所に移った。
ここは、黒崎と折尾のちょうど中間に位置する。
もちろん、移り住んでからしばらくの記憶はない。
覚えているのは、家の近くに馬が多くいたことだ。
かと言って、近くに田んぼや畑があったわけではない。
じゃあ、なぜ馬がいたかというと、以前ここに競馬場があったからである。
もちろん、小倉のような中央競馬ではなく、地方競馬だったようだが。
ぼくが保育園に通う頃には、すでにこの競馬場は潰れていたので、馬がいたというのはそれ以前の記憶だろう。
しかし、初めてにおう馬の臭いは強烈だった。
ぼくが競馬をしないのは、きっとこの臭いからきているのだろう。

この競馬場のように、越してきた頃はあったのだが、ぼくが幼い頃に潰れてしまったものに、映画館がある。
うちから歩いて1,2分の場所に映画館があった。
黒崎にあった、東映・東宝・日活・松竹といったメジャーな映画館ではなく、その当時ならどこにでもある、テレビ代わりの小さな映画館だった。
そこでは、古い時代劇やB級の洋画を上映していたような覚えがある。
立地が悪く、雨が降るといつも水浸しになった。
いすは破れ、時折ネズミが走り回るような、最悪の映画館だった。
この記憶が、後のぼくの映画館嫌いを決定付けたのだと思う。
ぼくは、好んで映画に行く人間ではない。
今までは、招待券をもらった時ぐらいしか行ったことがない。
それもこれも、映画館が嫌いだからだ。
ビデオが普及してからは、招待券をもらっても行かないようになった。

区画整理とともに消えていったものもある。
銭湯である。
ぼくの家には風呂があったので、めったに銭湯を利用することはなかった。銭湯に行ったのは、風呂が壊れた時と、親戚のうちに泊まりに行った時くらいなものである。
そのせいか、銭湯にはいつも憧れを持っていた。
東京にいた時に一番うれしかったのは、銭湯通いが出来たことである。
時間に制約がなければ、ずっと入っていたかった。
銭湯で特に好きなのが、風呂場から脱衣場に出たときのにおいである。
あれは何のにおいなんだろうか?
足拭きの、あのタワシのようなもののにおいなんだろうか?
なんと形容していいのかわからない、独特なにおいである。
ぼくは温泉やスーパー銭湯に行くのが好きだが、あのにおいがないことにいつも不満を感じている。
温泉はともかく、スーパー銭湯に言いたいことがある。
いくら温泉もどきとはいえ、温泉のあの屁みたいなにおいまで真似なくてもいいじゃないか。
それよりも、銭湯独自の、あのタワシのようなにおいを出してもらいたいものである。

それにしても、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。
ここまで羅列したどうでもいいようなことが、すべて幼児期の体験や記憶から来ているのである。
こういうことを探っていくと、「どうして日記を書くのが遅いのか?」という疑問も解けるかもしれない。
現在、時刻は午前9時14分である。



2002年03月27日(水) 棚卸

今日は棚卸だった。
年に2度行われるのだが、その時期になるといつも苦痛を感じる。
販売業界に入って20年以上経つが、棚卸という作業はいまだに慣れない、嫌なものである。
「こんな嫌な棚卸なんかなくなればいいのに」と、いつも思うのだが、そうもいかない。
そこで「せめて、嫌な棚卸の中にも楽しみを見つけよう」と、いつも思うことにしている。

棚卸で真っ先に思い出すのは、長崎屋にいた時のことである。
その日は店を閉じての棚卸であった。
前日、ぼくたちはいつものように飲みに行っていた。
3軒ほどハシゴして、気がついたらもう午前5時を過ぎていた。
その時のメンバーの一人に、例の「海綿体パパ」=Kさんがいた。
ぼくが時計を見て気がつき、「あ、Kさんもう5時過ぎですよ。9時半からやけど大丈夫ですか?」と言うと、Kさんは例のごとく泥酔していて、「あ、しんちゃん、ぼくはねえ、フニャフニャフニャ・・・」とわけのわからんことを言っていた。
とにかく帰って寝ようということになり、そこでお開きになった。
タクシーで家に戻り、3時間ほど寝てから会社に出かけた。

朝礼が始まったが、まだKさんは来てない。
フロアー長が「Kさんどうしたの?」と聞いたので、ぼくは「昨日飲みに行ったんですけど、もしかしたら寝坊してるのかもしれません」と言った。
みんなはクスクスと笑った。
すると、突然フロアー長が「こんな大事な日に、飲みに行ったなどと言うな!不謹慎な」と怒り出した。
その怒りの最中にKさんはやって来た。
まだ眠っている。
フラフラしながら朝礼の列に加わり、ぼくの横に立った。
ぼくが小声で「Kさん大丈夫ですか」と聞くと、Kさんは口元だけに笑みを浮かべ、「お、しんちゃん。大丈夫、大丈夫」と言った。
しかし、大丈夫じゃない。
目を閉じている。
そして体が揺れている。
フロアー長は、苦虫を噛みつぶしたような顔でこちらを見ている。

フロアー長が棚卸の説明を始めた。
相変わらずKさんは目を閉じたままである。
時折倒れそうになる。
それを見てフロアー長が、「Kさん、起きてますか?」と言った。
Kさんが目を閉じたまま何も言わないので、ぼくがひじでつつくとKさんは目を開けた。
そして周りを見回し、「ん?・・・ああ、大丈夫です」と答えた。
それから、また目を閉じる。
フロアー長が「今までの説明、わかりましたか?」と訊くと、また目を開け「ん?・・・ああ、大丈夫です」と言う。
他の人はこのやり取りを見て笑っていたが、ぼくは笑おうに笑えなかった。

その後、棚卸が始まった。
Kさんは、まだフラフラしていた。
Kさんのパートナーは、「Kさん、ぼく一人でやりますから、寝とって下さい」と言っていた。
Kさんは例の調子で、また「ん?・・・。ああ、大丈夫」とやっている。
結局、そのままKさんは棚卸を続けた。

その期の棚卸は、かなりの違算を出してしまった。
結局、後日再棚卸ということになった。
しかしそれは他に原因があったからで、決してKさんのせいではなかった。


さて、今日のことである。
ぼくはいつものように、棚卸の中に楽しみを探していた。
売場をチェックしていると、ふと体重計を見つけた。
「そういえば、ここのところ体重を量ってなかったな」と思い、ちょっとこれに乗ってみることにした。
「何か日記のネタになるんじゃないか?」と期待して目盛りを見ると、たしかに日記ネタにできることになっていた。
昨年74キロだった体重が80キロを超えていた。
服を着ていたとはいえ、80キロを超えるのは生まれて初めてのことである。
「やったー、これはネタになる!」と思った。
が、喜ぶことではない。
元の体重に戻すには、大変な努力が必要である。
今日ぼくは、棚卸の中にひとつの苦しみを見つけた。



2002年03月26日(火) シャミン党一座 さくら公演

昨日、
タカコ「キヨミはどこ行ったの、キヨミは!?」
ミズホ「先ほどから探しているんですけど、足取りがつかめません」
タ「こんな大事な時に、どこをウソウソしてるんだろうね」

それから、
ミ「党首、キヨミさんが見つかりました」
タ「そう。で、どこにいるの?」
ミ「それが・・・」
タ「どこにいるか言いなさい」
ミ「は、はい。テレビの中です」
タ「えっ・・。もぉ、あの子は勝手なことばかりしやがって。
党より、私より、筑紫さんの方が大切なのかっ!」
タ「党首、落ち着いて。眉間にしわが」

その後、
キヨミ『20日の記者会見の内容に誤りがあったことで、報道関係の方々にお詫びします』
タ「何だ、この言い方は!
国民にお詫びなしか!
そんなにマスコミが大切か!
こんな子を置いてたら党のイメージが悪くなる。
ミズホちゃん、もう辞職させるしかないねっ!」
ミ「しかたないでしょう」

今日、
タ「ねえ、キヨミちゃんは?」
ミ「さあ?」
タ「また行方不明か」
ヒショ「さっきテレビで『入院した』と言ってましたよ」
タ「入院?」
ヒ「ええ」
タ「また雲隠れか。
ったく、ジミン党みたいなことしやがって」

党本部で、
タ「キヨミちゃん、やめてちょうだい」
キ「やめたくないです」
タ「でも、このままじゃシメシがつかんだろう」
キ「党首、もう一度発言の場を下さい。
国会中継に出させてください
どうしてもムネオとカトウを道連れにしたいんです」
タ「あなた個人の問題でしょ?」
キ「でも党首、私あってのシャミン党じゃないですか!」
タ「違うわよ。党あってのキヨミなの」
キ「でも、ここ数ヶ月は、党首より私のほうがテレビの出演回数が多いじゃないですか!」
タ「何を勘違いしてるの?」
キ「だってそうじゃないですか」
タ「だめなものはだめ」
キ「ね、党首」
タ「だーめっ!」
キ「党首、党首、党首」
タ「だめだめ、その手はもう古い!」

記者会見前、
タ「もうすぐ記者会見よ」
キ「あ、出演の時間か」
タ「そうじゃないでしょ。
記者会見よ、記者会見!」
キ「だって、テレビ局も来てるんでしょ?」
タ「・・・」
キ「党首、では出演してきまーす」
タ「ちょっと待って、キヨミちゃん」
キ「はい、何でしょう?
もう一度考え直せ、ですか?」
タ「違うわよ。
イヤリング外して行きなさい」
キ「えーっ!?
だって、テレビに出るんですよ」
タ「いいから、外して行きなさい!」
キ「・・・、はーい」
タ「あ、それと議員バッチもね」
キ「えっ?」
タ「もう、議員辞職願を出したんだから、ちゃんと『ケジメ』をつけなさい」
キ「・・・、わかりました。
でも、これはテレビカメラの前で外します」
タ「ったく!」

記者会見で、
キ『もっと国会で質問がしたかった』
タ「何を考えてるんだろう、この子は。
質問することが政治とでも思っとるんかね」
キ『(政策秘書の)紹介を受けた方を含め話があった。名前は差し控えたい』
タ「この期に及んで、またよけいなことを」
キ『党には残ります』
タ「いらんわい!」

再び党本部、
タ「キヨミのやつ、よけいなことばかり言いやがって」
ミ「困りましたね」
タ「キヨミが『党に残る』と発表した手前、今すぐ離党させるわけにもいかんし。何か仕事を与えなければ。何かいい仕事はないかなあ?」
ミ「うってつけの仕事があります」
タ「そうか」
ミ「キヨミさんも今回のことで、議員のことが少しはわかったと思います」
タ「そりゃそうだ。これでわからなければ馬鹿だ」
ミ「そこで考えたんですが、」
タ「うん」
ミ「今回の教訓を生かしてですねぇ、」
タ「うんうん」
ミ「誰かのですねぇ、」
タ「うんうんうん」
ミ「政策秘書にしたらどうでしょうか?」
タ「おお、さすがは弁護士。
よし、5万円で雇うことにしよう!」
ミ「党首・・・」

 −幕−



2002年03月25日(月) 疲れるわい

◆ びっくり姉ちゃん

びっくり姉ちゃんは今日もテレビに出ていた。
この人はいつもカメラ目線である。
そりゃ体裁悪いよなあ。
つい2週間ほど前は、疑惑追及の急先鋒だったんだから。
自分が吼える姿をビデオで見て悦に入っていたのが、今となっては空しい。
何をそんなに恐れているんだろう。
世間の風当たりか?
議員をくびになることか?
はたまた、テレビに出られなくなることか?

ムネオ「あなたは、疑惑もネコババした」



◆ 事故

今日、会社の行きがけに事故を見た。
「えらく渋滞してるなあ」と思っていたら、対向車線に人が倒れているのが見えた。
横にはバイクが転がっている。
その後ろにはワゴン車が一台。
まだ事故が起きたばかりだったのだろう。
警察も救急車も来ていなかった。
血は流れてないようだったから、打撲で動けなかったのか。
しかし、場所は片道2車線の見通しのいい直線の上り坂。
おそらくバイクが無理な追い越しをしようとして、ワゴン車に接触したのだろう。
こういう時、泣きを見るのはいつも車のほうである。
今日の場合だと、警察は「ワゴン車を運転していた○○さんの前方不注意」と報告するだろう。
朝の交通量の多い時間帯はみな惰性で走っているのだから、前方不注意も何もあったもんじゃない。
前方不注意と受け取られるような、割り込み方をバイクがしたとしか考えられない。
ワゴン車としてはいい迷惑である。
勝手に飛び込んできて、悪者にされて、点数引かれて、慰謝料取られて。
踏んだり蹴ったりである。



◆ わけわからん

ぼくの家から車で黒崎に出るためには、三菱化学横の陸橋を越えなければならない。
この陸橋がいつも渋滞するのである。
家からこの陸橋入口まで約2分で着く。
そこから黒崎駅までは、直線だと車で1分足らずの距離である。
しかし、黒崎駅に行くにはこの陸橋を越えなければならない。
この陸橋を越えるのに要する時間は、ぼくが体験した範囲で言えば、最低1分、最高30分である。
平均すると、だいたい10分である。

この陸橋は「Y字」になっている。
ぼくの家の方向から見ると、陸橋の入口は「Y」の下の部分である。
3つの線の交わる位置に信号機があり、黒崎に行くにはそこから右に曲がる。
右上の出口が、福岡県のドライバーならおそらく知っているであろう、悪名高い「筒井交差点」である。
ラジオの交通情報で必ずと言っていいほど登場する、慢性渋滞地点である。
この「Y」を左にまっすぐ行くと、一方通行のため進入禁止になる。
進入禁止の手前で左に行くと、三菱化学の正門に出る。
そこからは、一般車両は入れない。
ということで、左に行く車はすべて三菱化学に用があるのである。
この「Y」を右と左に行く割合は9対1で、圧倒的に筒井交差点に向かう車が多い。

最近、この陸橋の車線が変わった。
この陸橋は片道2車線ある。
陸橋の入口から信号までは、今まで、右車線は右折車専用、左車線は右左折兼用だった。
ところが今回の変更で、右は今までどおり右折専用だが、左が左折専用になったのである。
これは問題である。
9割の車が、右の一車線に閉じ込められるわけだ。
市は何を考えているんだろうか。
これでは渋滞が助長されるだけである。



2002年03月24日(日) 冠二郎おばちゃん

店に来るお客さんにもいろいろな人がいる。
変に理屈っぽい人。
きつい香水をつけてくる人。
酔っ払って他のお客さんに迷惑をかける人。
わざわざおならをしていく人。
道の達人。
・・・などなど、あげるときりがない。

ぼくの売場の人間が『冠二郎おばちゃん』と呼んでいる人がいる。
以前は、店に来ると必ずカラオケテープのコーナーを覗き、ぼくたちを捕まえては「冠二郎の新曲は出てないね?」と訊いていた。
出ていた時は、「そうね!出たね!」と目を輝かせ、うれしそうな顔をして買っていく。
しかし、それから1週間もせずにやってきて、また「冠二郎の新曲は出てないね?」と同じことを訊く。
いくら冠二郎がプロの歌手とはいえ、毎週新曲が出るはずがない。
そのことをいつも『冠二郎おばちゃん』に説明するのだが、次に来た時にはやはり同じように「冠二郎の新曲は出てないね?」と訊いてくる。
「おばちゃん、この間新曲出したばかりやないね。冠二郎も忙しいんやけ、そうそう新曲は出せんのよ」
おばちゃんは、「そうよねえ」と言って帰っていく。
しかし、またやってきては同じことを訊いてくる。
ぼくたちはその熱心さに敬意を表して、そのおばちゃんを『冠二郎おばちゃん』と呼ぶことにした。

『冠二郎おばちゃん』、おばちゃんとは言うものの、もう70歳を早く過ぎたおばあちゃんである。
いつもカートを歩行器代わりにしてやってくる。
「わたしはねえ、遠くから歩いて来よるんよ」、といつも言っている。
「おばちゃん元気いいね。どこに住んどうと?」
しかし、その問には答えてくれない。
とにかく、『遠くから』と『歩いて』というのがキーワードのようだ。
それがこのおばちゃんの元気の源なのであろう。

一時期、このおばちゃんが顔を見せなくなったことがある。
昨年秋から今年の初めにかけてである。
カラオケテープの整理をするたびに、うちの女の子は「最近『冠二郎おばちゃん』来んねえ」と言っていた。
「おそらく死んだんよ」とぼくが言うと、「そんなこと言ったら、かわいそうじゃないですか」とその女の子は言った。
「でも、けっこう歳やったし、死んでもおかしくないよ」
「それもそうですね」
ぼくの働いている店のある地区はお年寄りが多いため、以前よく来ていた人が長い間来ないというのは、だいたい入院しているか死んでいるかのどちらかを意味している。

ところがどっこい、『冠二郎おばちゃん』は健在であった。
2月のある日、ひょっこり顔を見せた。
おばちゃんはカラオケテープの前に立っていた。
「やばい」と思い、ぼくたちは隠れた。
捕まると大変なのである。
「冠二郎の新曲は出てないね?」だけならまだいい。
そのあと、冠二郎がいかに素晴らしいかを、とくとくと言って聞かせてくれる。
人のいいぼくたちは、無視することもできずに、話を聞いてやることになる。
捕まったが最後、短くて10分、長い時は30分は他の事ができない。
「うん、うん」とうなずくだけでも、かなりの労力を要する。

ある日売場に立っていると、『冠二郎おばちゃん』がぼくの横を素通りした。
何度かぼくの横を素通りした後で、「ここの人はおらんのかねえ」と言った。
「おばちゃん、ここにおるやん」と言うと、「ああ、気がつかんかった」とおっしゃる。
「何でしょう?」と訊くと、「ちょっと来て」と言う。
ぼくをよその売場に連れて行って、「これが欲しいんやけど」と言った。
そこに係がいたにもかかわらず、わざわざぼくを呼びに来たわけである。
その商品は収納ケースであった。
そして、「わたしは遠くから歩いてきた・・・」が始まった。
「あんたは知らんかもしれんけど、わたしはねえ、いつもここを利用しよるんよ。この間もクリーナー買ったし」
まるでぼくと初めて話すような言い方をする。
この間クリーナーを売ったのはぼくである。
「はい、いつもありがとうございます。冠二郎も買ってもらってますし」
とぼくが言うと、
「そうよ。冠二郎はねえ・・・」
いらんことを言ってしまった。
また延々と冠二郎話が始まった。
約10分、冠二郎は終わった。
レジに収納ケースを持って行くと、おばちゃんは「このケースを、カートに結び付けてくれ」と言う。
そしてまた、「わたしはねえ、遠くから歩いてきた」と言い出した。
ぼくはそれをさえぎるように、「はい、わかりました」と言い、ケースをカートに結び付けた。

それから『冠二郎おばちゃん』は、店に来るたびにぼくを探すようになった。
収納ケースを買うためである。
二つばかり買っては、「カートに結び付けてくれ」と言う。
ぼくはそのつどケースを結び付けてあげた。

今日の話である。
また『冠二郎おばちゃん』がやってきた。
いつものように収納ケースを買うためである。
ぼくを見つけると、「ああ、あんた探しよったんよ」と言う。
そこでぼくは「お待ちしてました」と言った。
「今日もねえ、ケースが欲しいんやけど」
「今日はいくつですか?」
「二つちょうだい」
ぼくはいつものようにケースをレジに持って行き、カートに結び付けた。
『冠二郎おばちゃん』は「いつも悪いねえ。うちの者が『家に車があるんやけ、それで運んだらいいやないか』と言うてくれるんやけど、いつも『あの店に行ったら、ケースをカートに結び付けてくれる人がいてねえ』と言って断るんよ」とのたまう。
『冠二郎おばちゃん』はどうやらぼくのことを、『ケースをカートに結び付けてくれる係の人』と思っているようである。



2002年03月23日(土) マンガ遍歴 「少年サンデー編」

ぼくが初めて読んだマンガは、『鉄腕アトム』だった。
それが5歳の時だから、ぼくがマンガを読み始めてからもうすぐ40年になる。
思えば40年間、いろいろなマンガを読んできたものである。
印象に残っているマンガもあったし、どうでもいいマンガもあった。

ぼくが初めて定期購読した雑誌は「少年サンデー」である。
当時出ていた少年マンガの週刊誌は、「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」の3誌だった。
少年ジャンプや少年チャンピオンの創刊はもう少し後のことだ。
小学2年の頃、『オバケのQ太郎』が読みたくてサンデーを買った。
それから、ぼくはサンデー派になった。
毎週近くの本屋のおじさんが届けてくれていた。
当時連載していたマンガは、『オバケのQ太郎』のほか、『おそ松くん』『伊賀の影丸』『ミラクルA』『サブマリン707』などだった。
そういえば、その頃のサンデーには連載小説も載っていた。
詳しい内容は覚えてないが、SF小説だったというのは覚えている。
原作者の姓が小松だったから、もしかしたら小松左京だったのかもしれない。
当時『スーパージェッター』というテレビマンガがあったが、その脚本家の中に筒井康隆や半村良などの名前があるくらいだから、この頃小松左京がサンデーに連載していても何の不思議もない。

さて、オバQ目当てで読み出したサンデーだったが、気がついてみたら『おそ松くん』のほうが好きになっていた。
ぼくのいたずら好きはこの頃から始まった。
もちろん『おそ松くん』の影響である。
「〜じゃん」という関東のほうの方言があるが、それを知ったのは『おそ松くん』を読んでからである。
その当時はマンガの中での言い回しと思っており、まさか方言だとは思わなかった。
横須賀のおばちゃんが、この「〜じゃん」をよく使っていた。
最初に聴いた時、ぼくは「この人も『おそ松くん』を読んでいたんだろうか?」と思った。
他の人も使っていたので、たまげてしまった。
それが方言と知ったのは、東京に出てからのことだった。

『おそ松くん』のギャグは、小学生のぼくにとって衝撃だった。
「こんな世界があるのか」と思ったものだった。
ぼくのお笑い好きも、この『おそ松くん』を読んだことに始まる。
『おそ松くん』は、当時の漫才や落語のネタの宝庫だった。
その影響で、ぼくはお笑い番組を見るようになったのである。

『おそ松くん』を読んで覚えたものに、浪曲がある。
まあ、覚えたと言っても、「たびゆけばー」というさわりだけであるが。
『おそ松くん』にはよく銭湯の場面が出てきたが、いつも湯船につかったおっさんが「たびゆけばー」とやっていた。
その影響からか、ぼくも風呂に入るたびにいつも「たびゆけばー」とやっていた。
そのせいで母親から叱られたことがある。
「そんなくだらんもん歌ってないで早く出なさい。宿題は終わったんね?」

さて、ぼくがサンデーを取っていたのは」、5年生くらいまでだった。
その頃には、もう『おそ松くん』も毎週連載しなくなったし、他に好きだった『パーマン』や『バンパイヤ』も終わってしまっていた。
おまけに、本屋も潰れてしまったので、「このへんでやめよう」と思ったわけである。
その後は、サンデー連載のマンガにあまり興味を持てなくなった。
『まことちゃん』や『うる星やつら』が話題になっても、読もうとは思わなかった。
ぼくにとっては、いつまでも『少年サンデー』=『おそ松くん』なのである。



2002年03月22日(金) 気分の乗らない一日

毎月、20日過ぎの最初の休みの日を、ぼくは銀行の日と決めている。
何度も言っているが、この日は黒崎に行って、いくつかの銀行に払い込みをする日なのである。
「こんなことなら、銀行を一本にまとめておけばよかった」といつも思っているのだが、今更どうすることもできない。

その休みの前日であった昨日は、久しぶりに完徹せずに早く寝た。
午後から雨脚が強くなると天気予報で言っていたので、今日はなるべく早い時間に銀行に行っておきたかったからだ。
朝も通常通りに目が覚め、外を見てみると、すでに雨脚は強くなっていた。
小降りになるまでパソコンでもやっていようかとも思ったが、日ごろ寝不足が続いているので、少し寝だめをしておこうと、もう一度布団の中に潜り込んだ。
が、眠れない。
少し眠っては、変な夢を見て目が覚めてしまうのだ。
「何なんだろう、あの夢は?」
何か妖怪のようなものに追いかけられている夢だった。

しかたなく、起き出してパソコンの前に座ったのはいいのだが、どうもやる気が起きない。
というよりも、やることがない。
そこで先日買った本を読むことにした。
しかし、すぐに飽きてしまう。
今日は何をやっても気分が乗らない。
テレビのスイッチを入れた。
相変わらず雨はやみそうにない。

そのまま無駄な時間が過ぎていった。
やっと雨が小降りになったのは、午後2時を過ぎた頃だった。
いったんは「さて準備しようか」という気になったが、「何をやっているんだろう?」と思いスカパーのスイッチを入れたのが間違いだった。
なんと『おれは男だ!』をやっていたのだ。
つい見入ってしまった。
ぼくはこういう古いドラマを見ると、すぐにその時代の情景を浮かべてしまう。
中学2年の時、ぼくはこのドラマに影響されて、一人で『女子としゃべらん同盟』を作り、「しゃべったら切腹します」と宣言していた。
結局しゃべらないわけもいかず、何度も切腹することになるのだ。
まあ、切腹といっても、腹にボールペンで線を引っ張るだけだったけど。

「あ、そんなこと考えている暇はない」と時計を見ると、もう3時を過ぎていた。
だんだん行きたくなくなってきた。
だいたい、雨の日の外出はあまり気乗りがしない。
傘をさして歩くことが性に合ってないのだ。
しかも午前中に行く計画をしていたので、ここまで時間がずれ込むと行きたくなくなるのも当然である。
「別に黒崎に行かんでも、ネットで振り込みできるやん」と考えた。
「じゃあ、もう一眠りするか」と布団にもぐってみた。
だけど落ち着かない。
「しかし、クエスト(3月6日にオープンした大型のブックセンター)には、まだ行ってないし・・・」
散々考えたあげく、やっぱり行くことにした。

車で行くことを考えたが、雨の日は渋滞に巻き込まれないとも限らない。
で、4時ちょうどのJRに乗りこみ、黒崎に向かった。
1分半後黒崎に着き、すぐさま銀行に行った。
銀行を4軒ハシゴしてから、お目当ての「クエスト」に行った。
たしかに、九州で3番目に大きな本屋というだけあって広かった。
本の数も多く、通路もかなり広くとってある。
これなら『道の達人』に邪魔されることはない。

今日買った本は5冊。
そのうち3冊はコミックであった。
ここ数年コミックの売り場を覗いてなかったので、今日ちょっと覗いてみることにした。
「おお、出てる、出てる」
文庫版の『ブラックジャック』15巻・16巻が出ていたのだ。
おまけに『西岸良平名作集』の4巻も出ている。
さっそくこの3冊を購入した。
西岸さんのは、すでに5巻も出ているようだったが、今日は切れていた。
「次の機会に買うことにしよう」と思い、他の階に行った。
あとの2冊はお決まりの歴史本である。

しかし、本屋はしょせん本屋である。
置いている本もだいたい決まっている。
特に何をやっているわけでもない。
時間も5時を過ぎたし、いつ雨が降り出すやも知れぬ。
買うだけ買って、ぼくは長居せず、その店をあとにした。
もっと時間があれば、新しい発見があったのかもしれない。
その発見探しは、次回に譲ることにしよう。

とにかく、今日は気分の乗らない一日であった。
今、この時間もその状態が続いている。



2002年03月21日(木) 道の達人

ぼくが『道の達人』と呼んでいる人たちがいる。
例えば歩道で、例えば店の通路で、その人たちは活躍している。
何の達人か?
彼らは、後ろを歩いている人から抜かされない達人なのだ。
別に早歩きをしているわけではない。
どちらといえば、ゆっくりと歩いている。
達人を抜くスペースは十分にある。
だけど、後ろの人は抜けないでいる。

達人は、後ろの人が急いでいる時に、その技を披露する。
こちらが右に行こうと思った時は微妙に右に寄り、左に行こうと思った時は微妙に左に寄る。
曲がるかと思ったら立ち止まり、立ち止まるかと思えば歩き出す。
その動きは変幻自在で、実に絶妙なタイミングで後続を翻弄する。
最終的にはこちらが大回りして抜くことになるのだが、その間のこちらの精神的疲労は、かなり大きなものがある。
つまり、試合に勝つことは勝ったが、勝負に負けたと言うことである。

さて、一方の達人のほうは、そういうことをまったく意識してないのか、抜かれても平然としている。
第一、こちらが達人の後ろを歩いていることさえ気づいてないようである。
しかし騙されてはいけない。
彼らの研ぎ澄まされた感覚は、こちらの動きを完全に把握している。
しかも、心の中まで見透かしているのである。

ところで、『道の達人』とは、どんな人たちなんだろうか?
仙人のような人たちなんだろうか?
それとも修行者のような人たちなんだろうか?
はたまた武術家のような人たちなんだろうか?
違うのだ。
『道の達人』は普通の人なのだ。
ちょっと見ただけではわからない。
普通のじいさん・ばあさんであり、普通の主婦であり、普通の子供であるのだ。
「え、子供までも?」と思うかもしれないが、人間は元々この能力を持っているのである。
しかし、成長するにつれて、この能力は失われていく。

では、普通のじいさん・ばあさんや普通の主婦たちは、どこでこの修行を積んだのであろうか?
また、その修行法とはどんなものだったのであろうか?
まず、この修行はどこででもできるものである。
特に人通りの多い商店街やデパートやスーパーの中など、なるべく人の多く集まるところがよい。
バーゲンなどで鍛えていくのである。
次に修行法だが、特別な修行法があるのではない。
自我というものを助長すればよいのである。
つまり、我ままであれと言うことだ。
世間に対して、唯我独尊を貫くことである。

それにしても、『道の達人』は言い過ぎたなあ。
そんな立派なものではない。
『歩道の達人』とか『通路の達人』にしておこう。
しかし、どうでもいいけど、人の多く集まる場所ではさっさと歩いてくれよ。



2002年03月20日(水) 三温四暑

「もう初夏やん」と思えるほど、今日は暑かった。
職場は熱気でムンムンしている。
ぼくは、ユニホームであるジャンバーの袖をまくりあげ、下にはTシャツ1枚という夏の装いをしていたが、全身汗ばみ、頭は痒くなる。
タバコを吸いに外に出ると、日差しが強く、店内とはまた違った暑さがあった。
いつも腰をかけているパレットは焼け付き、まるでオンドルの上に座っているようだった。
なんでも、今日の福岡の最高気温は24度、これは5月中旬の陽気だそうである。
気温がもう1度上がっていれば夏日である。
テレビの天気予報では、水着を着た子供が浜辺で遊んでいる姿を映し出していた。
桜も例年より早く咲いている。
桜が咲けば、当然花見をする。
が、ちょっと待てよ、まだお彼岸じゃないか。
本来なら花見ではなく、墓参りに行く時期なのである。
花見や海もいいけれど、明日は春分の日、ちゃんと墓参りに行ってください。
かく言うぼくは、昨日墓参りに行ってきた。
前にも言ったが、墓とはいってもお寺の納骨堂なので掃除はいつも行き届いている。
ぼくたちがやることといえば、「お寺に行き、お供え物をし、拝み、本尊にお賽銭を上げ、帰る」という、簡単なものである。
しかしこんな簡単な墓参りでも、行くと行かないとでは大きな違いがある。
行くと、なぜか安心するものだ。
別に墓参りに行くのに、目を輝かせて、
「今日は墓参りだから気合を入れて行こう」
などとは思っていない。
なんとなくお墓に行って、なんとなく帰るだけである。
拝むといっても、念仏やお経を唱えるわけではない。
ましてや、「ああしてくれ、こうしてくれ」と願い事を言うわけでもない。
ただ軽く手を合わせるのみである。
逆に行かないと、何か落ち着かない。
この落ち着かない気持ちが、次のお参りまで続く。
何か事件が起きるたびに、
「そういえば、墓参りに行かなかったからなあ・・・」
といつも後悔してしまう。
別に「墓参りに来なかった」と言って先祖に恨まれているわけではないだろう。
「墓参りに行ってない」という後ろめたさが、そう思わせているだけのことである。
要は気持ちの問題、ということか。

そういえば、ぼくは墓参りには行くけれど、家の仏壇にはめったに手を合わさない。
よく金縛りにあうと言っているが、もしかしたらそれは、先祖が「手を合わせろ」と言いに来ているのかもしれない。
そういえば以前母が、
「仏壇に水をやり忘れると、決まって金縛りにあう」
と言っていた。
霊ののどが渇くとは思えない。
まあ、それも気持ちの問題なんだろう。

再び天気の話に戻るが、明日は雨が降るらしい。
この雨を境に冷え込むらしい。
冷え込むと言っても、平年の気温に戻るということだろうが。
今年の気象は異常である。
しかし、この異常も何年か続けば、平年扱いにされるだろう。
そうなるとこの時期は、「三温四暑」と呼ばれるようになるのだろうか。



2002年03月19日(火) ぼくは嫌な奴である

趣味が悪いと言われればそれまでだが、ぼくは人を観察する癖がある。
こうして日記を書くからそうなのかと思われるかもしれないが、実は日記をつけていなかった小学生の頃からそうなのである。
小学生の頃は、人を観察してはよく笑いのネタにしていた。
また、ぼくは減らず口人間だったから、そのネタを口げんかの武器に使ったりもした。
学生時代を振り返ると、ずっとこんなふうだったように思う。

社会に出てからもその姿勢は変わらない。
いろいろなところで、人の観察ばかりしている。
日記をつけ始めたのは昨年の1月だが、それ以前は何のために観察していたのかというと、やはり笑いのネタのためである。
学生時代と社会人になってからと、生活面で何が一番変わるかというと、それは飲み会の回数が増えるということだろう。
長崎屋にいた頃は、2〜3日に一度の割りで飲みに行っていた。
ぼくは仕事中はけっこうふざけるほうだったが、飲むと決まって大人しくなった。
というよりも、おとなしく振舞っていたのだ。
いつも「しんちゃん、大人しいね」と言われるので、「ぼくは酒を味わって飲むほうですから」と返していた。
しかし、ぼくは別に酒を味わっているわけではなかった。
そう、一緒に行った人が酔っ払う姿を観察していたのだ。
何のために?
それは、次に飲みに行く時に、その人を肴にするためである。
大人しく振舞いながらも、ところどころでネタを出す。
その反応をまた観察して楽しむ。
こういう酒が一番おいしい。
「ちびまる子」に野口さんという、人を観察することが好きな、お笑い好きの暗い女の子が出てくるが、ぼくの性格は明るい野口さんと思っていただければいいだろう。

人を観察していると、どんな些細なことでも面白おかしく映り、且つそういうタイミングを逃さなくなる。
普段は話し上手で冷静に物事を判断する人が、酒を飲むと突然口がまめらなくなる、というのはよくあることである。
ぼくの知り合いもにそういう人がいる。
その人は、口がまめらなくなった時何を思ったか、「おれは、海綿体パパだー」と、前後の会話と全然関係ないことを口走った。
みんなあ然としていたが、ぼくは「だから人間観察はやめられん」とひとりほくそえんでいた。
その海綿体パパ氏には、こういうエピソードがある。
10人ほどで飲みに行った時のこと。
宴もたけなわになった頃、海綿体パパ氏が「ちょっとトイレに行ってくる」と席を立った。
ところが、何をやっているのか、彼はいつまでたっても帰ってこない。
「どうしたんだろう?」と心配になってトイレに行ってみると、個室のドアが全開になっている。
覗いてみると、彼はパンツを脱いだ状態で、便座に座ったまま眠っていた。
おそらく、用を達している最中に眠ってしまったのだろう。
この間抜けな格好を見たでも十分に笑えるのに、さらに彼は笑わせてくれた。
どういうわけか、彼はグラスを持ってトイレに入っていた。
もちろん酒が入っている。
ぼくが彼を見つけた時、そのグラスを持った手が動いていた。
グラスの中の酒がゆったりと波打っている。
「この人は眠ったまま、何をやっているんだろう?」と思って観察していると、その手がある法則にしたがって動いているのに気がついた。
「おお、この手の動きは!!」
・・・なぜか三拍子であった。

もう20年以上も前の話である。
今でもたまに海綿体パパ氏と飲む機会があるのだが、ぼくはこの時のことを相変わらず口にする。
そのつど反応が変わるのを観察するためである。
ぼくは、嫌な奴である。



2002年03月18日(月) 二匹の妖怪

ぼくは今、2匹の妖怪に取り憑かれて困っている。
それは、『妖怪ねぶそく』と『妖怪はらまわり』である。
この妖怪がいなければ、ぼくはどんなに健康的な生活を送っていることだろう。
最近日記の更新が遅いのも、おなかの脂肪が気になるのも、実はこれらの妖怪の仕業なのである。
さて、いったいその妖怪とはどんなものだろうか?

『妖怪ねぶそく』
寝不足というと本人の不摂生に起因するものと思われがちだが、実はこれは妖怪の仕業なのである。
パソコンやゲーム機には、必ずこの妖怪が潜んでいる。
この妖怪に取り憑かれると、時間が経つのを忘れさせられてしまう。
午前1時を過ぎても、2時を過ぎても、「まだまだ」という気分にさせられるのだ。
特に日記を書いている人がこの妖怪に取り憑かれると、「集中力がなくなる」「アイデアが出なくなる」「雑になる」「やたらタバコが吸いたくなる」などといった症状が出てくる。
また彼は、パソコンをフリーズさせたり、誤動作させたり、といったいたずらを繰り返す。
そのためにますます寝不足に陥ってしまい、翌日、「無気力になる」「居眠りをする」「体調を崩す」といった弊害を生ずることになる。
この妖怪に対する防衛策はただ一つ、パソコンやゲームの電源を入れないことである。
これですべてが解決するわけだが、この妖怪に一度取り憑かれるとなかなか離れてはくれない。
こちらの意思にかかわらず、パソコンやゲームの電源を入れさせてしまう。
しつこい妖怪である。

『妖怪はらまわり』
おもに文明国に生息する妖怪である。
取り憑かれると、おなかの周りが膨れていくのですぐにわかる。
彼は実体を持たないが、甘い物などを見つけると、取り憑いた人間の心に働きかけ、誘惑に勝てないようにしてしまう。
よく「お菓子は別腹」などと言うが、実はこれ、『妖怪はらまわり』が言わせているのである。
「脳の疲れを取るんために、チョコレートを食べるんだ」とか「タバコの量を減らすために、キャンディをなめるんだ」などと、自分に対して苦しい言い訳をするようになるのも、この妖怪の仕業なのである。
この妖怪は怠け者の人間が特に好きなので、「食っちゃ寝」生活をしている人は要注意である。
この妖怪が取り憑き、繁殖してくると、糖尿病や高血圧といった厄介な病気を引き起こす。
この妖怪に取り憑かれないようにしたいのなら、食べないことである。
しかし、そうするわけはいかない。
餓死王がやってくるからである。
では、どうしたらいいのだろうか?
彼らが極端に嫌うのは、「運動」とか「ダイエット」とかいう言葉の実践である。
しかし、彼らも一度取り憑いたら離れないしつこい妖怪なので、一度取り払っても、油断するとまた繁殖してしまう。
実は、この妖怪に対して非常に有効な呪文があるのだ。
門外不出ではあるが、この日記を読んでいる方だけに、特別にお教えすることにしよう。
その呪文とは、
「おんぶるぶるあぶとろにっくそわか」
である。

あなたも、これらの妖怪に取り憑かれてはいないだろうか?



2002年03月17日(日) ただいま格闘中

3日連続して朝の更新になってしまった。
どうも考えがまとまらないのだ。
というより、他の事に気をとられて日記が進まない、と言ったほうがいいのかもしれない。
昨日は「サスケ」をビデオで見ていたのだが、前の二日はブラウザやエディタと格闘していたのだ。

実は以前、日記を書き込んでいる途中で、IEが固まってしまい勝手に閉じてしまったり、「最小化」を押すつもりが誤って「閉じる」を押してしまったりして、最初からやり直ししなければならなくなったことが何度かある。
それも、ほとんど日記が出来上がった時に起きていた。
他にも、書き込み中に突然ブレーカーが落ちたということもあった。
せっかく書き上げていたものを再び書くという作業は、かなり疲れる。

そこで考えたのが、ブラウザとテキストエディタの導入だった。
ブラウザのほうは、軽くて誤動作しにくいものを選ぶことにして、VECTORや窓の杜から15種類ほどダウンロードしてみた。
自分にあったものを見極めようという腹からだ。
その中から、ようやく3つに絞ったところである。
「Netscape」の最新版や、今話題の「Opera」も導入してみた。
しかし、どうもぼくのサイトはそれらのブラウザに嫌われているようで、レイアウトが崩れ、おかしなものになってしまう。
ゆくゆくは、それらのブラウザにも対応できるようなサイト作りをしていくつもりではいるが、今は日記で手一杯なのでそういう余裕もない。
しばらくは「IE」のほうでお付き合いください。

さて、最後まで選考に残った3つのブラウザとは『MDIBrowser』『BugWeb』『BugWeb』それと『DonutP』である。
使い勝手では『MDIBrowser』、遊べるのは残りの二つといったところか。
ブラウザを使ってどんなことをして遊んでいるかというと・・・
アホらしいから言えないなあ。
ヒントは『月明り掲示板』の書き込みの中にあります。

もう一つのソフト、テキストエディタのほうだが、これは超有名なソフトを躊躇せず入れた。
何度か書き直しを余儀なくされた経験から、バックアップを取ることを心がけるようにしたのだが、日記に直接書き込むと、バックを取るのにいちいちコピーをとらなければならない。
それからメモ帳を開けて貼り付けるわけだが、その一連の作業がかなり面倒である。
そこで、まずメモ帳に書き込むようにした。
しかし、メモ帳だといろいろ不便な面があるし、今ひとつ日記を書いているという気がしない。
そこで、以前から関心のあったソフトを入れてみたわけである。

今、そういう新しいソフトたちと格闘している。
「もっと便利な使い方はないか?」
そんなことばかり考えているので、日記に集中できないのである。
ヘルプだけが頼りだから、使いこなすまでにはかなりの時間を要すると思うが、しばらくこれにハマってみようと思っている。
まあ、すべては日記を書いて満足する、自分のためにやっていることです。



2002年03月16日(土) 日の丸

ぼくは朝起きると必ず外を見る。
いつも空を見上げ、正面にそびえる皿倉山を見、それから家の前にある幼稚園を見下ろす。
今日は朝から天気が良かった。
山には雲ひとつかかってなかった。
目を下におろし、幼稚園を見た。
「あれ?」
ぼくは慌てて携帯電話で日にちを確認した。
紛れもなく本日は3月16日である。
「さて、今日は何の日だったろうか?」
いつもと違う風景が目の前にあった。

いつもと違う風景、それは幼稚園の掲揚台に日の丸がはためいていたのだ。
「祭日だったかなあ?しかし、春分の日はまだ先だし」
ぼくはもう一度日にちを確認した。
『2002年3月16日土曜日』
新聞にもそう書いてある。
「3月16日、3月16日、・・・」と口の中で何度も繰り返した。
「・・・そうか!」
ぼくははたと気がついた。
「そうか、今日は『きみにあえてうれしい』の日か」
そう、今日は卒園式なのである。
その幼稚園は、卒園式の後のお別れの時に、いつもこの『きみにあえてうれしい』をかけている。
「それで日の丸か」と一人で納得していた。

実はぼくは日の丸を見ると、身が引き締まる思いがするのだ。
中学の頃、東郷平八郎に憧れていた時期があった。
部屋に東郷の肖像画を飾り、その横に日の丸を掲げていた。
そして、朝と晩にいつも敬礼をしていたのだ。
おそらくそういうものが、今でもぼくの中に残っているのだろう。

こういうふうに書くと、何か右翼的な愛国少年のように思われるかもしれないが、その頃のぼくの愛読書は「毛沢東語録」で、行動とは逆に口ではいつも左翼的なことを言っていた。
その後もその傾向が見られ、高校の頃は「お前は赤か」と先生に言われたこともある。
しかしあの時代の風潮として、若者は多かれ少なかれ左翼的なことに憧れていたような気がする。
体制を批判することが、何かいいことのような気がしていたものである。
革新という言葉に魅力を感じていたし、社会党や共産党が天下を取ればいいとさえ思っていた。
また、当時『革新県』と言われていた福岡県に誇りを感じていたものである。
たまたまぼくは歴史が好きだったので、『革新』のうそや矛盾を知ってしまい、わりと早い時期にその熱から醒めていった。

先日、北九州市の教育委員会に、「卒業式などで、『日の丸・君が代』を強制しないでほしい」という文書を突きつけた市民団体がいたそうである。
まだやっている。
この人たちは、『日の丸・君が代』に、何か心の傷でも持っているのだろうか?
それを戦争に結びつけるのなら、それこそ認識不足である。
戦争はあくまでも政治の問題であって、『日の丸・君が代』の問題ではない。
彼らは、『日の丸・君が代』が悪いことをしたと勝手に思っているだけである。
それでも『日の丸・君が代』の問題と言い張るのなら、彼らの祖先が『日の丸・君が代』を使って、何か悪いことをやっていたと思わざるをえない。
おそらく、戦争中に『日の丸掲げて強盗する会』や『君が代歌って強姦する会』という市民団体でも組織していたのではないだろうか?

この問題は『革新』の人たちが、憲法の盲点を突いて言い出した、いわゆる体制への外交カードなのだ。
つまり『日の丸・君が代』はただ利用されているだけのもので、それ自体が問題なのではないのだ。
本当の意図はもっと他の場所にあるのである。
突き詰めて考えると、後に軍部の暴走を招いた、昭和初期の『統帥権干犯問題』と同じ発想である。
こんな人たちの言いなりになっていると、また戦争に走ってしまう。

その木を見て森を見ない団体の人たちは、「左翼的なことがいいこと」と思われていた時代の微熱から、きっとまだ醒めないでいるのだろう。
それこそ『生涯青春』を地で行く、おめでたい人たちである。



2002年03月15日(金) 方言

最近、いろいろな方言が店の中で飛び交っている。
またこういう季節がやって来た。
店の近くには、大学が二つ、短大が二つ、専門学校が一つある。
また、多くの企業がある。
そういったところの新入生や新入社員や転勤族が、店に買い物に来ているのだ。
学生や新入社員は九州や中国地方の人間が多いのだが、中には関西訛りの人がいたりする。
また、転勤族は日本各地からやってくる。
この間は東北訛りの人がいた。
いよいよ春本番になってきたようである。

ぼくは24年前に東京に出たのだが、当初「どこの高校の出身?」とよく聞かれていた。
ぼくが「北九州の高校なんか言うたって知らんやろ」と言うと、「えっ、こっちの人じゃないの?」と驚いた様子だった。
ぼくは東京にいる時も北九州弁で話していたので、「言葉を聴いたらわかるやろ」と言うと、「それって方言なの?しゃべり方に癖があるのかと思ってた」という答であった。
なぜこういうことを言われるのか、いつも不思議に思っていた。
そのうちいろいろな地方の出身者と知り合いになり、そういう人たちと話すことによってその疑問は解けていった。
そのわけは、北九州弁のアクセントは標準語に近いということにあった。

福岡県には福岡市と北九州市という二つの政令指定都市がある。
この二つの都市は約50キロほど離れている。
この50キロの差が、発音をまったく違ったものにしているのだ。
田村亮子がテレビに出た時にでも聞いてもらったらわかるだろうが、彼女には独特のアクセントがある。
あれは福岡市東部の発音である。
福岡に住むぼくの友人も、そういう発音をしている。
しかし、北九州の人間は「ヤワラちゃん発音」をしないのだ。
これには理由がある。
それは八幡製鉄所があるからだ。
製鉄所が出来るまでは、この地区は寂しい寒村であった。
人口もかなり少なかったらしい。
それが八幡製鉄所が出来たとたん、急激に人口が増えた。
それ以前の何十倍もの人が、全国各地からこの地に集まったのだ。
そこで言葉が変わっていった。
おそらく創業当初は、いろいろな言葉で話すものだから、コミュニケーションもとりづらかっただろう。
しかし、時間の経過とともにその言葉がだんだんまとまっていき、今の方言になっていったものと思われる。

ちなみに、ぼくの父は北九州の人間であるが、祖父は下関出身、祖母は地元出身である。
また母は名古屋生まれの大阪育ちで、祖父は徳島、祖母は岐阜の人である。
ぼくの周りにはこれと似た組み合わせの人間が多くいる。
そういう人の中には、親が話す言葉と、外で話す言葉が違って戸惑った人もいるのではないだろうか。
ぼくが小学生の頃、ある単語が大阪訛りになっていて、「発音おかしいよ」と友達に指摘されたことがある。
まあ、2,3の単語の発音だけだったから大したことはなかったのだが、中には本人は北九州の生まれなのに、親の出身地である鹿児島のアクセントでしゃべるやつがいた。
わざとそうしゃべっているわけではなかった。
おそらく親の影響が強かったのだろう。
また、普段は訛ってないのだが、本の朗読の時に変に訛るやつもいた。
ぼくたちはそいつが本を読むのを楽しみにしていたものだった。
そいつが本を読むときは、皆一様に顔がにやけていたのを覚えている。

さて、今日は方言について話してきたが、最後に一つ、強烈な北九州の方言を掲げておくことにする。

「やめちゃりい」

世相を切り裂くような、実に奥の深い言葉である。



2002年03月14日(木) 夜逃げ屋

最初は「またこの手の事件か」と思っていた。
しかし日を追っていくうちに、実に興味深い展開になってきている。
小倉で起きた「少女監禁事件」である。
この事件の舞台になったマンションは前に勤めていた会社の近くにあり、男児4人が見つかったマンションは今勤めている店の近くにある。
もしかしたら、犯人とされている男女二人は、うちの店に生活用品を買いに来ているかもしれない。
もしそうであれば、クレジットで買って欲しかった。
名前などはどうでもいいのだが、職業欄に何と書くか見たかったからである。
いくら彼らがそうだったとしても、まさか「夜逃げ屋(自営)」とは書かないだろう。

ところで彼らは、仕事に行った時、映画のように「お待たせしました。夜逃げ屋本舗です」などと言って登場するのだろうか?
あの逮捕時の映像から察するに、無表情に現れ、無表情に去っていくタイプだと思う。
冗談にもそういうことは言わないだろう。
ああいう組織は、そういう軽口を叩くことをタブーにしているはずである。
軽口ばかり叩く人間が夜逃げ屋であったら、大変なことになる。
「こんばんは。夜逃げ屋で〜す。今日は頑張って、よう逃げや! なーんちゃって」
これでは夜逃げするほうは安心できないだろう。

そういえば彼らが捕まった時、近所の人は、彼らは「普通の人」に見えたといっていた。
何を基準にした普通の人かは知らないが、こういう稼業は一見して普通じゃない人には勤まらないだろう。
スキンヘッドで眉毛がない人に、夜逃げという重大事を任せようとは決して思わないはずである。
そういう目立つ人が夜逃げ屋なら、取り立て屋も安心だ。
「スキンヘッドが行くところ夜逃げあり」で、スキンヘッド氏をマークしていれば大丈夫だからである。
車幅の広い外車に乗っているから、居場所もすぐにわかる。
しかも、声が大きく口調も荒く興奮しやすいので、夜逃げもうまくいかない。

さて、今回の事件は別として、ぼくは「夜逃げ屋」なるものに大変興味を持っている。
野暮ったいネーミングの中に、「裏街道まっしぐら」的な響きがある。
これが実にいい。
また名前を変え、住所を転々とし、自分を隠すことに全力を挙げて生きていく姿に、なぜか憧れを覚える。
こういう人が近くに住んでいたと思うと、何かワクワクしてくる。
夜逃げ屋の業務広告には、「離別代行」「生まれ変わり工作」などといった言葉が並んでいるということである。
普通の感覚なら、こういう野暮ったい言葉には見向きもしないはずである。
しかし、人間追い詰められると、こういう言葉が美しく思えるのだろう。
「『離別代行』、なんとすばらしい言葉なんだ」
「『生まれ変わり工作』か、しみるねえ」
・・・悲しい性である。
考えてみると、夜逃げ屋というのは、映画で見たようなかっこいいものではなくて、野暮ったさで成り立っているようにも思えてくる。
この野暮ったさにぼくは惹かれるのである。
「闇稼業」「仕置き屋」「仕事人」「よろず請負人」という野暮ったい名の稼業にも、そういった響きがある。

そろそろぼくも、今までとは違った稼業で生きてみようかなと思っている。
いつリストラされるかもわからないし、もしかしたら会社が倒産しないとも限らない。
そのためには下準備をしておかなくては。
クレジットの職業欄に堂々と野暮ったい稼業名が書けるようにしておこう。
しかし、ぼくは上に書いたような、命を張った稼業をやる性根は持ち合わせてはいない。
そういう理由から、「よろず日記屋」「闇詩人」「歌のおじさん」といった安易な稼業を目指している。



2002年03月13日(水) 彼岸前になると思い出す話

もうすぐ彼岸である。
おそらく来週の火曜日の休みは、墓参りで潰れるだろう。
まあ、墓参りといっても、うちにはお墓がないので寺の納骨堂に行くわけである。
場所は市外で、車で20分ほどいった所にある。
以前は市内の繁華街にあるお寺に納骨していたのだが、ある事情があって寺替えをしたのだ。

その事情とは、寄付である。
先々代の頃はまだよかった。
先代の時代にそういう兆しが出始め、現住職になって寄付ばかり言ってくるようになった。
現住職は、先代が悪業の報いで急死したために、急遽長男が後を受けついたのである。
寄付といっても桁が違う。
やれ西本願寺の修復だ、やれ蓮如上人の生誕何百年祭だ、などと言っては何十万円単位の額を要求してくる。
挙句の果てには、「納骨壇が古くなったので、新しいものに替えませんか?」と言ってくる始末だ。
その納骨壇にも、特上・上・並のランクがあり、特上になると百万円を超えているものもあった。
いくら立地がいいといっても、百万円も出すくらいなら新しい墓を建てたほうがましである。
ということで、「当分今までので我慢します」との返事をしておいた。
おそらく他の檀家も反対したのだと思う。
いつの間にか納骨壇についての話は出なくなった。
しかし小額の寄付の嵐は続いた。

それからしばらくして、事件が起こった。
寺の隣の家が火事になったのだ。
その寺は密集地にあったために、納骨堂に飛び火してしまい、内部までは火は回らなかったが、屋根や壁を焼いてしまった。
当然こういう場合は、火災保険で賄うはずである。
しかし、住職はそれでは足りないと思ったのか、納骨堂修復の寄付を募った。しかも、たち切れになっていた納骨壇の話が、再び浮上してきたのだ。
家事騒ぎからしばらくして、寺から郵送物が届いた。
その中には、火事についての詫び状と、納骨堂修復の寄付のお願いを書いた書類、納骨壇のパンフレットが同封されていた。
納骨壇のパンフレットには、「分割払いOK!」の文字が見えた。
住職は火事にかこつけて、ついに商売を始めたのである。
さらに追伸書が入っていて、「今回特上の納骨壇をご注文された方には、優先的に納骨壇を阿弥陀様の並びに配置させてもらいます」と書いてあった。
元々うちの納骨壇は阿弥陀様の並びにあった。
その権利は、その寺に入った時に買ったものだった。
そういう契約も、この住職は簡単に反故にするのだ。
では、今のままの納骨壇で充分という人はどうなるのか?
それに対しては、「古い納骨壇のかたは、末席にておまつりさせてもらいます」と書いてあった。
つまり、貧乏人は相手にしないと言うことである。
その追伸書は、さらに続く。
「今回納骨堂の一部だけを修復しようと思いましたが、さらに収容数を増やすべく、今までの1,5倍ほどのものに改築したいと思います。つきましては、その工事の間、遺骨のほうは各ご家庭にて丁重に保管して置いて下さい」
寄付と納骨壇の費用を合わせると、最低でも80万円はかかる。
もはやこれまでだ。
「こういう寺に遺骨を預けておいたら、いくら金があっても足りない」という結論に達した。

そういう理由から現在の寺に移したのである。
同じ西本願寺派の寺なのに、寄付はほとんど言ってこない。
一度「駐車場を整備しますから」という理由で寄付を言ってきたことがあるが、その時の額は4万円ほどだった。
年間の管理費も4千円程度である。

さて、以前の寺のことだが、十数年前に先代が悪業の報いで早死にしたため、長男の現住職が後を継いだのである。
当時彼は大学生だった。
そこで檀家が集まって、寄付金で大学に通わせようということになったのである。
そういういきさつも忘れて、檀家から金を巻き上げようとするとは。
恩知らずもいいところである。
そういう資質を見抜いて、阿弥陀様は火をつけたのかもしれない。
なぜあの時、火事を仏罰と受け止めなかったのだろうか?
なぜそれを商売のネタと考えたのだろうか。
郵送物送った後に、その寺は急激に檀家が減ったそうである。



2002年03月12日(火) 暇な一日

3月12日火曜日、休み。
暇な一日だった。
することもないので、前の日記を読み返していた。
前にも書いたが、この日記も以前は短かった。
無理せずに書いていこうと思っていたのだが、やっているうちに言いたいことを書かないと気がすまなくなってきた。
しかしここ最近、休みの日の日記は悲惨である。
何も変化がないので、書いている内容も精彩を欠いたものになっている。
ところどころに、苦悩さえ見える有様である。
そういえば、アクセス数が10000件を超えた時に、『火曜日恒例やすみな祭』を企画しようかと思ったことがある。
しかし、「一度休むと休み癖がついて、最後には何もしなくなる」という自分の性格を知っているだけに、それもできないでいる。

話は変わるが、今日久しぶりにうなぎを食べた。
昨年の夏に食べて以来である。
夏以外でうなぎを食べたのは、今日が初めてじゃなかっただろうか。
いや、待てよ。
そういえば、前に二度ほど食べたことがある。
一度目は4,5年前に島根県の津和野に行った時だった。
たしか、秋か冬だったと思う。
その時は別にうなぎを食おうと思って行ったわけではなく、たまたま飛び込んだ食堂にうな重があったので食べたのである。
二度目はちょうど今時期である。
そうそう、3年前だった。
それも本場で食べたのだった。
本場といえば、もちろん柳川である。
その時は『せいろ蒸』を食べた。
けっこう高かったけど、美味しかったのを覚えている。

柳川に行ったのはその時が初めてで、『川下り』もその時初めて体験した。
かねてから行ってみたいと思っていた、北原白秋の生家にも行った。
テニスや野球で有名な柳川高校も、その時初めて見た。
その日柳川にはけっこう長い時間滞在したのだが、帰りにはそこから100キロ近く離れた熊本の黒川温泉まで足を伸ばし、温泉に入って帰ったのを覚えている。
もちろん家に帰り着いたのは、午前1時を回っていた。

そういえば、最近は遠出をしなくなった。
日記を見ておわかりのとおり、休みの日の内容は、いつも「一日中寝ていた」とか「床屋に行った」とか「銀行に行った」とか「本屋に行った」とか、身近な生活のことが多い。
この日記を始めた当初は、月に一度は遠出をして各地の情報を書いていこうと思っていたのだが、それもかなわないでいる。
以前は鹿児島や宮崎にも日帰りで行ったものであるが、ここ一年は福岡ドームに行くのがやっとである。
今後は九州各地に足を運んで、桜の情報や祭りの情報をお伝えできたらいいなとも思っているのだが、以前と違って、疲れがそうたやすく取れないしなあ。
悩むところではある。



2002年03月11日(月) 天才児現る

昨日日記で「誰かぼくを笑わせるやつ・・・」と書いたが、さっそく反応があった。
うちのパートさんが面白い話をしてくれたのだ。
中学に行っている娘さんの同級生の話である。

英語のテストで、
「次の文を過去形にしなさい。
I go to Tokyo.」
という問題が出た。
何のことはない問題である。
英語の苦手なぼくでもわかる。
しかし、そこは勉強したての中学生。
知らなかったのか、とっさに答が出なかったのか、問題を読み違えたのかは知らないが、その子の頭は実に粋な答を導き出した。
おそらく十年に一度の傑作であろう。
英語の先生は、その答に二重丸をあげたかったそうである。
しかし、教育上そういうわけもいかず、結局バツをつけたという。
その子の頭が導き出した、その答とは、
「I go to Edo.」

これこそぼくが求めていた、思い出し笑いのできるネタである。
が、ぼくはこれを聞いて笑わなかった。
笑いを通り越して感心していたのだ。
もしこの子に会ったら、肩を叩いて「よくやった!」と言うであろう。
まあ本人は、笑わせようとしてこの答を書いたのではないだろう。
おそらくその子なりに、一生懸命考えたのだろう。
しかし、そう考えることは、その答に至るまでの過程を想像させる面白さをも与えてくれる。

「『was』を使うんだったかなあ?それとも『went』だったかなあ?
過去形、過去形・・・。
うーん、困ったなあ
過去形、過去形・・・。
過去か・・・。
そういえば、『ドラえもん』は未来や過去を往ったり来たりしてるなあ。
ドラえもんか・・・
おお!!
そうか!
この『I』は『ドラえもん』のことなんだ!
『ドラえもん』が、タイムマシンを使って過去の東京に行くということか。
それなら簡単だ。
東京の過去は江戸だ。
そっかそっか、簡単だ〜♪
アイ・ゴー・トゥ・エド、と。
おそらく、この問題がドラえもんのことと気がついた奴はいないだろう。
へへ、先生にほめられるなあ。
『○○君よくやった』
照れるなあ。
おれって天才だぜ!」

笑顔が見えるようである。
しかしこの子は、将来運転免許をとる時に、筆記試験で落ちるかもしれないなあ。
裏の裏を読む性格が、きっと災いするだろうから。
それにしても、
「次の文を未来形にしなさい」
という問題が出た時に、この子はどう答えるんだろうか?
それを考えるのも楽しくなる。
久しぶりに天才児現るである。



2002年03月10日(日) お笑い履歴

ぼくがお笑いを好きになったのは、『おそ松君』の影響が多分にある。
小学生の頃読んだ少年サンデーの『おそ松君』は、当時のお笑いのギャグのオンパレードだった。
「やんな!」「びっくりしたなあ、もう」「親亀の背中に・・・」「いやーん、いやーん」などは、すべて『おそ松君』で知った。
それからぼくはお笑い番組を見るようになった。
特に日曜日になると『大正テレビ寄席』を始めとして、いくつかのお笑い番組があった。
ぼくが当時好きだったのは、「獅子てんや瀬戸わんや」「てんぷくトリオ」「林家三平」「三遊亭歌奴」「Wけんじ」、それと「ドリフターズ」だった。

「てんやわんや」はわんやさんの、クールかつ過激なつっ込みといじめが好きだった。
たまに昔の漫才をやっているが、当時のてんやわんやは今見ても笑える。
おそらく漫才では、「やすきよ」や全盛期の「ツービート」「B&B」でもかなわないだろう。

「てんぷくトリオ」はなんといっても、伊東四朗だった。
彼の飄々としたボケぶりが好きだった。
解散後、三波伸介が人気を博した時期があった。
ちょうど三波が『笑点』の司会をやっていた頃だが、その頃三波を見るたびに「伊東四朗はどうしてるんだろう」と思っていた。
小学6年でぼくのお笑い番組好きは一応幕を閉じるが、それから「見ごろ食べごろ笑いごろ」を見るまで、ぼくは伊東四朗にはお目にかからなかった。
ベンジャミン伊東を見たときは、正直うれしかった。
ぼくはこの「見ごろ食べごろ・・・」は毎週欠かさず見ていた。
キャンディーズが出ているというのもあったが、一番の理由は伊東四朗に会えるからだった。
後に「ヤクルトタフマン」のCMに彼が出ているのを見た時は、『これぞ伊東四朗だ』と思ったものである。

「林家三平」は以前ここでも書いたが、ぼくは後ろでアコーディオンを弾いている人が好きだった。
あの無表情さが特によかった。
「三遊亭歌奴(今の圓歌師匠)」を知ったのは、例の「山のアナアナ」が一世を風靡した時期だった。
しかしぼくにとって「山のアナ」はどうでもいいことだった。
三平をけなすのを見るのが好きだったのだ。
新宿末広亭の中継の時だったと思うが、歌奴がいつものように三平をけなしていると、突然三平が乱入してきたことがある。
おそらく打ち合わせしていたのだと思うが、あれは面白かった。

「Wけんじ」は宮城けんじ。
この人の、無表情に淡々と話すのがおもしろかった。
「やんな」というギャグがあったが、ぼくは使ったことがない。

そして「ドリフターズ」。
ぼくは「全員集合」よりも、「大正テレビ寄席」に出ていた頃のドリフのほうが好きだった。
全員集合のほうは、いつもネタに追われているようで、ギャグに余裕がなかったように感じた。
テレビ寄席の頃はネタを充分に練っていたので、安定した面白さがあった。
もちろん加藤茶がメインであったが、他のメンバーも面白かった。
ちなみに、ぼくは荒井注のファンだった。

かつて『お笑い』を見ていた頃は、腹の底から笑っていたものだった。
しかしそういう笑いも、「コント55号」を最後に終わってしまった。
中学生になってからは、そういう番組を見ても、ぼくはあまり笑わなくなったのだ。
おそらく小学生の頃に、一流のお笑いを見てしまったせいであろう。
その後、80年のマンザイブームまで『お笑い』に対する笑いを忘れていた。
笑いを思い起こさせてくれたのは「B&B」であった。
あのスピード押してくるマンザイは、驚きでもあった。
しかし、彼らも時代の波とともに消えていった。

最近は「爆笑問題」や「大木ひびき・こだま」が好きである。
しかし、「爆笑問題」はトークが中心になってしまって、なかなか芸を見る機会がない。
「ひびき・こだま」はワンパターンになりつつある。
誰か、ぼくを笑わすやつが出てこんかなあ。



2002年03月09日(土) FAQ

1、しろげしんたについて
問「“しろげしんた”というのは本名ですか?」
答「いいえ違います。名は体を現すと言いますが、ぼくの場合、体は名を現すで、“白毛一族のしんた”だからそう名付けたわけです」
問「よくわかりません」
答「“頭が真っ白のしんた”ということです」
問「じゃあ、しんたが本名ですか?」
答「近いけど違います」
問「なんというんですか?」
答「お答えできません」
問「“白毛一族”って何ですか?」
答「白毛の一族です」
問「どういう一族ですか?」
答「白髪頭の一族です」
問「じゃあ、うちのお父さんもそうなんですか?」
答「ぼくは、あなたのお父さんのことはよく知りません」
問「最近白髪が増えたみたいで・・・。苦労してるんでしょうね」
答「そういう人は“白毛一族”ではありません」
問「だって、白髪頭はそうだって言ったじゃないですか」
答「苦労して白髪になった人を“白毛一族”とは呼びません」
問「あなたは苦労しないで白髪になったんですか?」
答「はい」
問「・・・? あなたいったい何者ですか?」
答「しろげしんたです」

2、頑張る40代!
問「あのう、日記を読んだんですけど、あの日記のどこが“頑張る40代!”なんですか? タイトルと内容がかけ離れているような気がするんですけど・・・」
答「ぼくは内容でタイトルを付けたわけではないのですが・・」
問「だって普通はそうするでしょ?」
答「そういう人もいますけど、ぼくの場合は違うんです」
問「でもあのタイトルだと、40代の生活とか、生き方とか、考え方とか、薀蓄とかを想像するじゃないですか」
答「一応そういうことも書いていますよ。生活で言えば『今日床屋に行った』とか」
問「じゃあ、生き方は?」
答「書いてます。『最後は真っ白な灰になって散っていく』」
問「考え方は?」
答「はい、『人生とは日常だ』」
問「薀蓄は書いてますか?」
答「書いてますよ。『我慢したおならは血液と混じる』」
問「だけど、そういうことは40代じゃなくても書けるんじゃないですか?」
答「書けるでしょうね。感性がいっしょなら」
問「いったいどこが“頑張る40代!”なんですか?」
答「40代の男が、頑張って毎日日記を書いている、ということです」

3、詩集吹く風
問「MIDIがうるさいので何とかなりませんか?」
答「音を出さないようにしたらいいじゃないですか」
問「詩のサイトを見るとほとんど横書きです。しんたさんはどうして横書きで書かないんですか?」
答「たまには縦書きの詩サイトがあってもいいじゃないですか」
問「どうして“抹茶・柑橘系・微香性”なんですか?」
答「お茶とみかんと微香性の消臭剤が好きなんです」
問「“恋”という詩が好きなんですけど、いつ頃あんな恋をしたんですか?」
答「いつもあんな恋をしています」
問「“吹く風”ってなんですか?」
答「読んで字のごとくです」

4、その他
問「ゲームのサイトですか?」
答「ある意味ゲームでもあります」
問「どうやってダウンロードしたらいいんですか?」
答「・・・」

問「日記のサイトということで来てみました」
答「それはありがとうございます」
問「ところで、ここはタグは使えますか?」
答「・・・」

問「お、掲示板じゃん」
答「何でも書いてね」
掲示板「きゃはは/テストで〜す/なかなかいいね、これ/a/sssssss/どうやって使うのかな?/アイウエオ/キャッキャッ/もう1回テストで〜す/うにゅ/♠ 」
答「・・・」 



2002年03月08日(金) 床屋談義

昨日は調子に乗って二日分の長さの日記を書いてしまった。
普段より長いなあ、と気がついたのは午前3時を過ぎた頃だった。
「二日に分けるか」とこすいことを考えてもみたが、何せタイトルが『今日は何の日?』である。
二日に分けてしまうと、締めくくりが『昨日は何の日?』になってしまう。
仕方がないので、5時過ぎまでかかって一気に書き上げたしだいである。
その後、何やかややっていて、寝たのは7時過ぎであった。
今日はかねてから床屋に行こうと思っていたので、8時に起きるつもりだったのに、これで計画がすべて狂ってしまった。
起きたのが12時前、それから食事をとった。
それから一眠りしようかと思ったのだが、今週からこちらで始まった『キッズウォー3』の再放送を録画していたので、それを見ていた。
その後、パソコンを開きメールのチェックなどをやっていた。

結局、床屋に行ったのは午後3時を過ぎていた。
ここでまた躓いた。
お客が多いのである。
ぼくの行きつけの床屋は、70歳前後のおばちゃん先生と50歳前の姉さん(?)の二人でやっている。
しかし、最近店は姉さんにまかせっきりで、おばちゃん先生は家のことばかりやっていて、ほとんど店には出てこない。
実質一人で床屋をやっているようなものだ。
そこに、お客が二人も溜まっていると、帰るのがかなり遅くなる。
しかし、今日を逃すと次来れるのは来週になってしまう。
しかたなく、床屋に置いてある『少年マガジン』を読んで時間を潰した。
前回と前々回に床屋に来た時はすぐにやってもらったので、マガジンを読む暇がなかった。
52号から読んでいなかったが、今日は最新の12号まで全部読めた。
10号以上あるのでかなり読んだと思われるだろうが、ぼくは『魁!!クロマティ高校』と『勝負師伝説 哲也』しか読まないので、実質コミック2冊程度しか読んでない。
コミック2冊程度というのは、あっという間だ。
ゆっくり読んでも30分もかからない。
そこでまた暇をもてあました。
しかたないので、あまり気が進まなかったが、一緒に置いてあった『女性セブン』を手にとった。
が、真紀子や宗男のことばかりで面白くない。
他の内容も大した事はなかったので、またマガジンを読み直した。

待つこと2時間、ようやくぼくの番がきた。
姉さんは「先にひげを剃りますから」といすを倒した。
寝不足と待ち疲れで、ぼくはそのまま眠ってしまった。
途中いすを立てたのは覚えているが、また眠ってしまう。
眠ると前かがみになるので、目が覚めるたびに体を起こしていた。
うつらうつらと体が揺れているわけだから、さぞやりにくかったろう。
しかし、そこはプロである。
姉ちゃんは、それでも何も言わずにぼくの髪を切り続ける。
30分ほどして髪を切り終え、ぼくの肩を叩き「どうぞ」と言った。
頭を洗った。
ぼくは普段、無添加の石鹸で頭を洗っているので、シャンプーやリンスの臭いが鼻につく。
目が覚めてしまった。
その後も、トニックや油の嫌な臭いが続く。
床屋はリラックスできるけど、最後のこの臭いが嫌なんです。
ドライヤーの熱さも嫌だ。
ようやく終わった。
お金を払い、床屋を出た時は、もうすでに6時を過ぎていた。

せっかく床屋に行くので、今日は朝から日記に『床屋談義』を書こうと思っていた。
しかし、今日床屋にいた3時間、ぼくが口を開いたのは一度きりだった。
ということで、今日の日記『床屋談義』は、ぼくと姉さんの一度きりの会話で締めくくることにする。

しんた「あまり短かくせんで下さい」
姉さん「そうやね。髪が立つけね」



2002年03月07日(木) 今日は何の日?

小学生の頃、ぼくは社会科の成績だけがダントツに良く、それ以外の科目はおおむね並であった。
これは当時のぼくの趣味が社会科だったことによるのだが、その他の科目はまったく興味が持てなかった。
授業態度も悪く、宿題もやったりやらなかったりだったので、当然成績もあまり良くなかったわけだ。
いつも通知表に書かれていたのは、「落ち着きがない」「授業を受ける姿勢がなってない」「授業中によく人を笑わせている(つまり、人の邪魔をしているということ)」などであった。
まあ、算数や国語に関しては、たまに良い点も取っていたし、勉強すれば何とかなると思っていた。
しかし、理科だけは違った。
まったくわからない。
しかし、それでも成績が並だったのは、小学校の理科のテストが読解力でカバーできる部分があったからだ。

中学に進むとそうも行かなくなった。
日増しに理科は難しくなっていく。
蛙や鮒を解剖したり、薬品を使った実験をやったりするたびに、『こんな科目が何の役に立つんだろう』と思っていた。
「実験レポートを書け」と言われても、真面目に授業を受けないから、そんなものが書けるはずがなかった。
おまけに、授業態度の悪いぼくを先生は目の敵にしていたので、いつも叩かれたり正座させられたりしていた。
そのせいもあって、さらに理科が嫌いになっていった。
ちなみに、その当時の理科の先生は、ちょうど今のぼくと同じような頭をしていた。
つまり、髪が荒く白髪だったのだ。
ぼくたちはその先生のことを、『針頭鉄男(はりあたまてつお)』と呼んでいた。
もしかして、ぼくの知らないところで、誰かがぼくのことをそう呼んでいるのかもしれない。

ところで、ぼくは勉強しないと点数が取れない中間テストや期末テストは苦手だったが、クイズを解いていくような軽いノリの実力テストは得意であった。
実力テストは、問の中に答が隠されているような問題が多かった。
だいたい答探し問題が8割、勉強しないとわからない問題が2割で構成されていた。
苦手な英語でさえも、このテストならスラスラ解けた。
しかし、理科はまったくわからなかった。
他の教科では8割がた点数は取れるのであるが、理科だけはいつも4割程度しか取れない。
ひどい時は2割しか取れなかった。
おそらく高校入試でも理科の点は悪かったものと思われる。
それでも、何とか高校に受かったのだから、他の教科が良かったのだろう。

さて、高校に入って、いよいよぼくの理科嫌いは極まった。
高校で習う理科系科目は、『生物』『化学』『物理』『地学』であった。
『地学』は1、2年の時の女子の科目で、男子は受けなくてよかったのだが、代わりに『化学』と『物理』を受けなければならなかった。
つまり、3年間を通して男子が習う理科系の科目は『生物』『化学』『物理』の3科目であった。
その3科目のうち『生物』と『化学』を、なんと1年生の時に習ったのだ。
もちろん地獄である。
生物は『ミトコンドリア』とか『デオキシリボ核酸』などというチンプンカンプンな言葉が出てくるし、化学のほうは化学式がまったく理解できない。
これは致命的である。
そんなふうだったので、試験の点はいつも欠点前後をさまよっていた。

夏休みに、生物で植物採集の宿題が出たことがある。
植物採集はこの高校の伝統で、みなクラブの先輩などから譲り受けたものを提出していた。
ぼくもクラブの先輩が「譲ってやる」と言っていたが、そこまでして提出するのを好まなかった。
ということで、夏休みの宿題は不提出のままだった。
しかし、このことが後に大きな意味を持ってくる。

1年の3学期の期末テストが終わって、自宅学習期間に入っていた。
ぼくにとってはもはや春休みで、のんびりギターなど弾いて遊んでいた。
そんなある日、家に一本の電話がかかった。
「しんた君かね」
「はあ」
「Fですが」
「えっ?」
「生物のFですが」
何だろうかと話を聞くと、F教師は「君には追試を受けてもらう」と言った。
生物の年間の平均点が30点に満たない、つまり欠点だったからという理由であった。
「夏休みの宿題を提出してたら、考えたんだけどねえ。まあ、頑張ってくれたまえ」
「試験はいつですか?」
「1週間後だよ」
「範囲はどこですか?」
「範囲?1年間やったところだよ」
「全部ですか?」
「そうだ」
目の前が真っ暗になった。
ただでさえわからない生物なのに、1年間分を1週間で勉強しなければならないとは。
電話を切り、さっそくぼくは担任に連絡した。
「しんたですが・・・」
「おう、今電話しようと思っとったところやった。聞いたか?」
「はい。今電話がありました」
「しかたないのう。まあ、頑張ってくれ」

『生物�機戮判颪�れた分厚い教科書を開いた。
「はあー。こんなのわかるわけないやん」
ぼくは泣きたい気持ちになった。
しかし、このまま進級できないとなると、こんなにカッコ悪いことはない。
今まで一緒に遊んでいた奴が上級生になるなんて耐え切れなかった。
とにかく1週間目いっぱいやろうと思い、ほとんど寝ずに勉強した。
テレビは一切見なかった。
休憩中は、教科書を見ながらギターを弾いていた。
風呂に入る時も、トイレに入る時も、ぼくは『生物�機戮龍飢塀颪鮗衒�さなかった。
これほど勉強したのは後にも先にもこの時が初めてだった。

1週間後、学校に行った。
まだ充分ではなかったが、やることはやった。
『ミトコンドリア』や『デオキシリボ核酸』も言葉だけは覚えた。
試験は70パーセントほど解けた。
あとで答合わせをしたけど、間違ってはなかった。
試験が終わり、学校にいてもすることがないので、家に帰ることにした。
ちょうど家に着いた時だった。
電話がかかった。
「しんたか」
「はい」
担任からだった。
「帰ったところを悪いが、ちょっと来てくれんか」
「今からですか?」
「おう」
またもや目の前が真っ暗になった。
『だめやったか・・・』『留年か・・・』『嫌やのう・・・』『あいつとあいつが笑うやろうのう・・・』『あの子も上級生になるんか・・・』
学校に行く途中、いろいろなことが頭をよぎる。

学校に着いた。
職員室前で待っていると担任がやって来た。
真面目な顔をしている。
『やっぱりだめか・・・』
担任は一息つくと急に笑顔になり、「よかったのう。大丈夫やったぞ」と言った。
ぼくは肩の力が抜けた。
『大丈夫やったら、電話で済むやん』と思ってもみたが、とりあえず素直に喜んだ。
これに懲りて、その後は追試を受けるようなドジは踏まなかった。
1年の時の担任との交流はその後も続いて、学年末テストが終わるたびに「おう、今年は追試なしやのう。よう頑張った」と言って電話してきた。
卒業の日に一番喜んでくれたのもこの先生だった。

さて、本題の「今日は何の日?」に入る。
今日3月7日は、ぼくが28年前に追試を宣告された日である。
以上。



2002年03月06日(水) 今年も啓蟄がやってきた

今日は啓蟄である。
昨年も似たようなことを書いたが、今日からまた半年以上の日々をさまざまな昆虫たちと過ごさなければならない。
今年ぼくが目標としているのは、「アリの撲滅」である。
春から夏にかけて、いつも台所はアリに占領されてしまう。
大きいアリや小さいアリが、我が物顔に歩いている。
砂糖ケースは、さながらアリの集会所である。
団地の3階のどこに巣を作っているのかは知らないが、彼らは毎年確実にやってくる。
今年こそどうにかしないとならないが、まだ具体的な作戦は立てていない。

3年ほど前だったか、あるテレビ番組で、砂糖の周りにチョークで線を引き、その中にアリが入るかどうかの実験をしていた。
チョークを引く前はたくさんのアリが砂糖にたかっていたのだが、チョークを引いたとたん、一匹のアリも砂糖に行こうとしなかった。
チョークの中に入らないのだ。
これはいいものを見たと思ったぼくは、さっそくチョークを買ってきて、玄関やベランダの出入口、窓などにチョークを引きまくった。
「よし、これでもう大丈夫」
それから3日間は平和な日々だった。
おそらくチョークの効果があったのだろう。
そう思って、また家中にチョークを引きまくった。

4日目のことである。
今でもそうだが、ぼくは朝起きるとオロナミンCを1本飲むようにしている。
飲んだ後はふたをしてゴミ箱に捨てているのだが、その日はふたを開けたまま畳の上に放置しておいた。
仕事を終えて帰ってみると、ぼくの部屋のベランダの出入口から一筋の糸のようなものが見えた。
その糸は、朝飲んだオロナミンCの空きびんまでつながっている。
「なんかこれ!!」とぼくは叫んだ。
よく見ると、その黒い糸はアリの行列であった。
空きびんはアリで真っ黒になっていた。
ぼくは慌ててそのびんを掴み、洗面所まで持って行った。
水道の蛇口を開け、びんを洗い流した。
大量のアリが流されて行く。
中にはぼくの指から腕に伝って逃れようとしているアリもいる。
ぼくは容赦なくそのアリも水に流した。
部屋に戻ると、目標物を失ってさまよっているアリの大群がいる。
そこに殺虫剤をかければいいのであるが、ぼくは殺虫剤の臭いが嫌いである。
手で潰すのも気が進まない。
蟻酸の臭いも嫌いである。
ということで、ここでも水作戦を取った。
水浸しにした雑巾で、アリの行列をなぞっていったのである。
雑巾を洗うと、バケツの中にはたくさんのアリが浮かんでいる。
ぼくはしつこくこの作業を繰り返し、アリを一掃した。
チョーク作戦は失敗に終わった。

昨年一昨年は『アリの巣コロリ』に頼っていた。
アリの通り道に仕掛けておいたのだが、どのアリもよけて通る。
きっと匂いが足りないのだと思ったぼくは、『アリの巣コロリ』の中に砂糖をまぶしてみた。
ようやくアリは『アリの巣コロリ』の仕掛けの中に入るようになったが、肝心のえさを持っていかない。
どうも砂糖だけを食べているように見えた。
砂糖がなくなったのか、しばらくするとアリは再びそこをよけて通るようになった。
「この野郎!」と思い、今度は『アリの巣コロリ』にオロナミンCをかけてみたが、結果は同じで、アリは寄りつきもしなかった。

さて今年はどうしたものか。
チョークや『アリの巣コロリ』はきかないし、かといって家中水浸しにしておくわけにもいかない。
困ったものである。
しかし、このままにしておくわけにはいかない。
何か有効な手段を考えて、きっとアリたちを「ギャフン」と言わせてやる。



2002年03月05日(火) ぼくは過去2回入院したことがある  その4

集中治療室は2階のナースステーションの横にあった。
集中治療室といっても、ベッドがひとつ置いてあるだけの殺風景な部屋だった。
十年前と同じように、点滴の針を刺されたまま寝ることになった。
ぼくは「またか」と思った。
このまま寝ると腕が凝ってしまう。
身動きが取れないから、腰も痛くなってくる。
拒否すると病院を追い出されてしまうから、『まあ、今回はのどが渇いてないだけいいや』と思い、我慢して点滴を受けることにした。
何はともあれ、横になることが出来た。

その日の出来事を思い起こしながら、いよいよ眠ろうとした時だった。
どこかの部屋から、ヒソヒソ声が聞こえてきた。
『何て言ってるんだろう?』と耳を澄まして聞いていると、その声はだんだん大きくなり、「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と吼えだした。
『何かここは!?』
ぼくは不気味さを感じながら、その声を聞いていた。
すると声はだんだん小さくなった。
『何だったんだろう?』と思いながらうつらうつらしていると、またヒソヒソ声が聞こえてきた。
さっきと同じようにだんだん声は大きくなり、「ナンマンダ!」と吼えて終わる。
これが何度も何度も続くのだ。
『ナースステーションには宿直がいるのに、何で注意しないんだろう?他の患者の迷惑になるじゃないか』
そう思いながら、ぼくはもうひとつのことを考えていた。
『もしかして、あの声が聞こえるのは、おれだけじゃないだろうか』
しかしこの考えを展開していくと怖ろしくなるので、なるべく考えないようにしていたが、考えまいとすればするほど、よけいにそのことを考えてしまう。
ぼくのほうが「ナンマンダ」と唱えたい気分だった。

夜が明けて、ぼくは寝不足状態で先生の診察を受けた。
先生は「もう大丈夫みたいですね。帰っていいですよ」と言った。
ぼくは『ナンマンダ』のことを聞いてみようかと思ったが、やめておいた。
もし「ああ、聞こえましたか。やっぱり・・・」などと言われたら、それこそ気分が悪くなる。
ぼくは支払いを済ませて、病院を出た。
もちろん朝食はもらえなかった。

外は雨が降っていた。
当然傘は持ってない。
とにかく駅に行けば何とかなる、とぼくは日田駅を探した。
日田にはそれまで車で何度か行ったことはあるのだが、歩くのはこれで2回目だった。
しかも、最初に歩いたのは駅前だけだったので、駅を離れた場所を歩くのは初めてだった。
標識と勘だけが頼りである。
行ったり来たりしながら、ようやく駅に着いた。
病院を出てから1時間以上が過ぎている。
もう全身びしょ濡れだった。
駅に着くと、ぼくはすぐさま昨日一緒だった友人に電話をした。
「今から帰るけ」と言うと、友人は「迎えに行こうか?」と言った。
しかし、迎えに来るのを待っていると何時間かかるかわからない。
ぼくは一刻も早く日田から抜け出したかったので「せっかくだけど」と言って断った。
それから30分ほどして列車が着いた。
ぼくはその列車に乗り、北九州まで戻った。

・・・と4日前、ぼくはトイレの中でいろいろなことを思い出していた。
『そうか、2回も入院したか。これは勲章やの』
しかし、書くのに4日間もかかることを、座った状態で考えていたのか。
そのせいか今は、尻が痛い!!



2002年03月04日(月) ぼくは過去2回入院したことがある  その3

今の車を買った頃のこと。
昨年2度目の車検だったから、もう5年位前の話である。
ぼくの車を使い、ぼくと友人と親族一同の7人で日帰りドライブに出かけた。
阿蘇〜黒川温泉〜日田という、かなりハードなドライブだった。
昼前に家を出て、昼間は阿蘇で遊び、やまなみハイウエイ経由で黒川温泉に向かった。
着いたのは夕方だった。
ここまでは順調だった。

黒川で温泉に入ったあと、ぼくはのどが渇いたのでジュースを買おうと自販機を探した。
その途中に温泉水を飲ませてくれるところがあった。
「胃腸に良い」と書いてある。
ぼくはその言葉につられて、ジュースの代わりに温泉水を飲むことにした。
ちょっとしょっぱくて変な味がしたが、「胃腸に良い」ということなので我慢して飲んだ。
その後車に戻り、みかんなどを食べてから出発した。

黒川から日田までの道はかなり曲がりくねっている。
そのせいか、後ろの座席に座っていた人が「気分が悪い」と言い出した。
ぼくは車を停め、休憩することにした。
ほどなく、その人が楽になったと言ったので、出発することにした。
相変わらず道は曲がりくねっている。
そして、あと少しで日田市内に入るところまで来た時、今度はぼくの気分が悪くなった。
しきりにゲップが出る。
黒川で飲んだ温泉水とみかんが混じった臭いがした。
その臭いがぼくの気分をさらに悪くさせた。
しかし、あと少しで日田市内に入るので、ぼくは我慢して運転を続けた。

日田市内で夕食をとることになっていたので、適当なレストランを見つけ、そこに車をつけた。
車から降りると、ぼくは慌ててレストランのトイレに駆け込んだ。
胃の中のものをすべて吐き出してしまおうと、指を突っ込んで出すだけ出した。
おかげで気分は楽になった。
テーブルに戻り、頼んでいたスパゲティがテーブルの上に運ばれた。
あまり食欲はなかったが、何か腹に入れておかないと後が持たないと思い、フォークを手に取り、スパゲティを口に入れようとした瞬間、また吐き気が襲ってきた。
ぼくは再びトイレに駆け込んだ。
悪の元凶みかんが出てきた。
「この野郎!」と思っていると、下腹に痛みが走った。
十年前の再現である。
一度経験しているから、体勢の入れ替えはわりと楽に出来た。
またもや、上と下で垂れ流しである。
「もう動けん!」とぼくは座り込んでいた。
しばらくして友人が呼びに来た。
ぼくはトイレから這い出し、レストランの外に出た。
そして友人に「病院ないかのう?」と聞いた。
すると友人は「目の前にあるよ」と言った。
よく見ると道路を挟んだ向かいに、わりと大きな病院があった。
道路を渡り、その病院の中に入った。

前回と同じように診察台の上に横たわり、点滴が始まった。
しばらくすると気分が良くなってきたが、前のことあるので無理はしないようにした。
そして先生に「入院させて下さい」と言った。
「えっ、入院?」
「はあ、このままじゃ帰れません」
「どこから来たんかねえ?」
「北九州です」
「北九州なら高速で1時間で着くじゃない」
「いいえ、1時間半はかかります」
「1時間半くらい我慢できるでしょう」
「出来ません」
「でも血行は良くなってきたじゃないですか」
「いえ、まだ気分が悪いです」
「おかしいなあ。じゃあ、立って歩いてみて下さい」
『このまま帰らされたら死んでしまう』と思ったぼくは、わざときつそうに立ち上がり、フラフラと歩いて見せた。
フラフラだけでは足りないと思い、歩いている途中で、「おぉ」などと言いよろけて見せた。
その演技に騙された先生は、「どうもまだ悪いようですね。しかたない、泊まっていきなさい」と言った。
ぼくが『やったー』と思っていると、先生は「でも、ベッドは空いてませんよ」と言った。
連れて行かれた所は、集中治療室だった。



2002年03月03日(日) ぼくは過去2回入院したことがある  その2

小児科で紹介してもらった病院は、そこから車で5分ほど離れた場所にあった。
病院に入ると、ぼくはボーっとしたまま診察台に横たわった。
そして、生まれて初めての点滴を受けた。
なぜかその時の点滴は気持ちよく、体がだんだん温まってくるような気がして、そのまま眠ってしまった。
30分ほどして目が覚めた。
気分はすっかり良くなっていた。
ぼくは先生に「良くなったみたいです。もう大丈夫です。帰ります」と言い、立ち上がり診察室を出た。
そのとたん目の前が真っ暗になった。
そして再び吐き気を催した。
すぐさまトイレに駆け込んだ。
すでに胃の中は空っぽになっていたから、出てくるのは胃液ばかりだった。
次から次に出てくる。
その最中のことである。
急にすごい痛みが下腹に走った。
「下痢だ!!」と思うと同時に、「どうしよう」という思いがよぎった。
胃液嘔吐はなかなか止まろうとしないが、この態勢のままでいると漏らしてしまう。
気を緩めたらアウトだ。
ぼくは、とりあえずズボンのベルトを緩め、神経を下腹に集中して胃液が収まるのを待った。
ようやく胃液が収まりかけた。
そのチャンスを逃さず、すかさず回れ右をして便座に座った。
成功だった。
電光石火とはこのことだ。
この間1秒もかかってないだろう。
しかし、こんな小さなことに感動している暇はなかった。
下している時に、また胃液が出てきた。
上と下で垂れ流しである。

トイレから出た時には、もうフラフラだった。
「このまま帰ると死んでしまう」
そう思ったぼくは、診察室に戻り、先生に「入院させて下さい」と言った。
「入院?」、と先生は困惑した顔をして言った。
「はい、今日はもうだめです」と言い、ぼくは先の状態を説明した。
「入院と言われてもねえ。ベッドも空いてないし」
「診察室が空いてるやないですか」とぼくは粘った。
「・・・。しかたない。今日一日泊まっていきなさい」
先生はしぶしぶOKした。
ということで、ぼくにとって人生初の入院が決まった。
そして、最後まで付き合ってくれた仲間に「入院が決まったけ」と告げ、丁重に礼を言って、引き取ってもらった。

さて、入院が決まったぼくは再び点滴を受けた。
もう午後11時を過ぎている。
先生は「もう帰りますけど、今日は決して水を飲んではいけませんよ」と言った。
「ええーっ!!のどカラカラですよぉ」
「飲むのならお茶か白湯にしなさい。でも飲みすぎたらいけませんよ」
「ジュースはだめですか?」
「うーん、まあジュースならいいでしょう」
そう言って先生は診察室を出ていった。

残ったのは宿直の看護婦だけだった。
ぼくが「のど渇いた」と言うと、看護婦は麦茶を持って来てくれた。
ぼくは一気にその麦茶を飲み干した。
これほど麦茶がおいしいと感じたのは初めてだった。
ぼくは調子に乗って「もう一杯下さい」と頼んだ。
「もうありません」と言われた。
しかし脱水状態の身、一杯ぐらいじゃ渇きは癒えない。
そこでぼくは、「ねえ、ジュース買ってきて。奢っちゃるけ」と言った。
看護婦は呆れた顔をしていたが、病院の廊下にある自動販売機でヨーグルトを買ってきてくれた。
「これ飲んだら寝て下さいね」と言って、看護婦は診察室を出て行った。

買ってきてくれたヨーグルトは逆効果だった。
無茶苦茶甘かった。
飲み終わってすぐにのどが渇いてしまった。
「どうしよう」と思ったが、もう看護婦はいない。
困った。
このあと朝まで、ぼくは『地獄の渇き』と闘う破目になった。
のた打ち回りたくても、点滴で身動きが取れない。
この時、点滴を受けている時にも動いていいというのを知らなかったのだ。
そのことを知っていたらと、今でも悔やんでいる。

翌朝、先生が来て「どうですか?」と言った。
ぼくが「もう大丈夫みたいです」と言うと、先生は「そうですか。じゃあ、もう一度点滴をして終わりにしましょう」と言った。
他の入院患者のように朝飯も与えてもらえず、通院患者が来る前にぼくは追い出された。
渇きと空腹とでフラフラしながら、ぼくは家に帰った。
「こんな入院はごめんだ」と、ぼくはその時思った。
しかし、似たようなことが約十年後に起こった。



2002年03月02日(土) ぼくは過去2回入院したことがある  その1

どうもいかん。
汚い話だが、下痢気味なのである。
今日は仕事中に3度トイレに駆け込んだ。
今は少し落ち着いているが、治ったのかどうかはわからない。
別に悪いものを食べた覚えはないのだが、どうしてだろう?
あ、そういえば、一昨日本社からバイヤーが来ていたが、体調が悪いのか真っ青な顔をしていた。
どうしたんだろうと思い尋ねてみると、「数日前から調子が悪くて、上と下で垂れ流し状態だ」ということであった。
子供さんが幼稚園で風邪をもらって来たらしく、どうやらそれが感染したのだろうということだった。
もしかしたら、ぼくにもそれが感染したのだろうか?
もしそうだとすると、明日あたり地獄である。
こんなに呑気に日記を書いているどころではなくなる。
おそらく、仕事場でのた打ち回り、家に帰るなり寝込んでしまい、トイレと部屋を往復する羽目に合う。
困ったなあ。

ところで、ぼくは過去に二度入院したことがある。
どちらも原因は、嘔吐と下痢であった。
一度目は十数年前の夏、福岡の「海ノ中道海浜公園」に遊びに行った日に起きた。
その日は、その年もっとも暑い日だった。
会社の仲のいい連中と弁当持参で行ったのだが、その弁当があだとなった。
その車に6人乗っていたのであるが、困ったのは荷物の置き場だった。
当然その荷物には弁当が含まれている。
どうしようかと迷った挙句、結局荷物はトランクの中に入れて行くことになった。
先にも言ったが、その日は暑い日だった。
太陽は車に照りつける。
冷房の入ってないトランクの中は、当然煮えたぎっていたはずだ。

そして昼食。
弁当に異常はなかった。
しかし、異常のない弁当が体の中に入ってから、異常がでてきた。
帰りの車の中で、気分が悪くなってきた。
「悪い。ちょっと車停めて」
ぼくは慌てて車を降り、近くにあった川まで駆けて行った。
吐けるだけ吐くと、気分が楽になった。
「ごめんごめん。どうも車に酔ったらしい。もう大丈夫やけ」
車は出発した。
5分ほどして、また気分が悪くなってきた。
「ごめん。また停めて」
今度は草むらに吐いた。
しかし、今度は気分は良くならず、かえって悪くなっていく。
その後、何度か「車〜草むら」を繰り返しているうちに、とうとうぼくは動けなくなった。

ダウンした場所は、古賀の釣具店の入り口の前だった。
「もう動けんぞ!!」と、ぼくは大声で怒鳴り、大の字になって寝転んだ。
店の人が「困ります」と言ったが、「あんたが困っても、動けんもんは動けん!」とぼくは言い放った。
慌てて車の中から仲間が降りてきて、「すいません」と謝った。
そしてぼくを抱えて車の中に連れて行った。
彼らは「しんたさん、病院に連れて行くけ、もう少し我慢しとって」と言い、病院を探してくれた。
ぼくは車の中で寝入ってしまったが、しばらくすると「しかたない。ここにするか」という声で目が覚めた。
そして、みんなに抱えられて病院に入った。
そこで応急処置をしてもらった。
そのあと先生は「他の病院を紹介しますから、そこに行って下さい」と言った。
ぼくは「先生、ここでいいですよ。治りそうだから、もう少しいさせてください」と頼み込んだ。
「そう言われてもねえ・・・」と先生は言った。
「君ィ、ここは小児科だよ」
「えっ!?」
ぼくは返す言葉がなかった。
しかたなく、病院を移動することにした。



2002年03月01日(金) 春が来ました

昨日書きそびれたが、ラジオの天気予報でおかしなことを言っていた。
「明日の気温は午後からどんどん上がり、3月上旬並みの暖かさになるでしょう」
おいおい、明日から3月上旬じゃないか。
しかし、そう言う気持ちもわかる気がする。
たしかに2月は早く過ぎて行く。
たった2,3日短いだけなのに、不思議なものである。

さて、昨日は日記が珍しく早く書き終わったので、比較的早く寝ることが出来た。
朝は平常どおり8時に目が覚めた。
窓の外を見てみると、すごく霧が立ち込めている。
「嫌やのう、こんな霧の中仕事に行くのは」と一瞬思ったが、よく考えてみると今日は金曜日である。
「あ、そうか。今日は休みだった。ああ、よかった」と思い、また布団の中に潜り込んだ。
結局起きたのは11時前だった。

午後から近くの本屋に行った。
その本屋に行くのは、今年に入って初めてだ。
最近は大型店の井筒屋ブックセンターばかり利用しているので、郊外店に行くことが少なくなっている。
こういう郊外店は、すべてのジャンルが1フロアに収まっているところがいい。
在庫数が限定されるためか、売れ線ばかりに始終しているが、時に「おっ!」という本に出くわすこともある。
もちろん大型店にもその程度の本ならあるのだろうが、そういう本が興味のないジャンルの所に置かれていると、当然見逃すことになる。

実は今日、その「おっ!」を見つけたのである。
その本は「平成14年2月5日 初版第1刷」となっているから、発売して約一ヶ月が過ぎている。
その間、井筒屋には一度行っているので、先に書いたとおり、きっと興味のないジャンルの所に置かれていたのだろう。

さて、ぼくが何の本を見て「おっ!」と思ったのかというと、・・・。
彩図社という出版社から出ている、― 笑わんで下さいね ―『僕は、はまじ』という本である。
『はまじ』といえば、そう『ちびまる子ちゃん』に登場する『はまじ』のことである。
さくらももこの新作かと思いきや、なんと著者のところに『浜崎憲孝』と書いてある。
『はまじ』本人である。
さくらももこのエッセイで、「はまじは実在人物だ」と書いていたのを読んだことがあるが、まさかその本人が本を出すとは思わなかった。
『はまじ』のキャラには興味があったので、その本を買うことにした。

家に帰ってから、本をパラパラとめくってみると、なんとそこには、さくらももこも書いていなかった意外な事実が書かれてあったのだ。
その意外な事実とは、あの「花輪君」のモデルは、実は女性だったのだ!
何も「!」を付けるほどのことではないが、ぼくの中ではちょっとした事件である。
その女性も『花輪君』のように大金持ちであったらしい。
しかし、あんな気障なしゃべり方をしていたわけではないだろう。
それにしても、その花輪女が『ちびまる子ちゃん』の『花輪君』のキャラを見た時、どういう気分がしただろうか?
ぼくがその立場なら、おそらく憤慨するだろう。
『しんた君』が『しんこちゃん』で登場していたら、やはり嫌なものである。
だけど、そこはお嬢様『花輪女』、笑みを浮かべて「わたしは女だぜ、ベイビー」と軽く流しているのだろう。


 < 過去  INDEX  未来 >


しろげしんた [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加