2003年05月14日(水)
本当の意味を知る時


昨日の日記を読んでくれた、とある女性からメールが来た。
日記の内容が内容だったので、差出人の「名前」はHNであろうと伏せさせて頂く。


何故ならば、この彼女は、このHNでの存在ですら自分の価値を見出せなくなっている感じだったからだ。


あたくしが、自分の本名が嫌いな理由は色々とあった。
命名の理由がすごく安直だったこと。
同じ名前の人が沢山いる中、自分に付けられた漢字に意味を見出せなかったこと。
友達があたくしのことをこの名前で滅多にとばなかったこと。
・・・・まぁ、色々ある。


メールをくれた彼女も、あんまりファーストネームで呼ばれなかったらしい。
それに比べるとあたくしは、親くらいはきちんと呼んでもらえてたかな・・・・
と、遠い記憶を探ると、明確な事実は挙がってくる。
あと、奇妙に仲良くなってしまった先生とか。
無論、あたくしも「姉」という立場上、「ねえちゃん」と呼ばれることもあったが、
親や奇妙な関係の先生とサシで話をする時は、
ちゃんとファーストネームで呼んでもらっていたような気がする。
なので、命名に関しては、両親には両親なりの気持ちとか意味があったことを知る。
それを責めてはならない。


この彼女はとある人の御陰で、自分の名前が嫌じゃなくなったと言っていた。
実際に手紙とか小包とかで何度もやりとりをしている間柄なので、
HNと本名が重なっても、あたくしにとっては別段違和感もなかったのだけど、
やっぱり本人にしてみれば、「自分の名前が嫌い」というのは結構、重い現実だったりするのだ。
あたくしから見れば、彼女の本名はすごく可愛らしくて、小説とかにも出てくる感じで、
これは、お世辞とか社交辞令とかじゃなくて、率直に「いいなぁ〜♪」と思っていたのだけど・・・・。
あたくしの本名は、本当にどこにでもあるような名前で、
女性100人をランダムに集めて、この名前を呼べば必ず3人以上は振り向くだろう、
くらいに、汎用性の高い平凡な名前だ。


だからこそ、自分の存在に意味を見出そうとした時に、手こずるのだ。


彼女もちょっと手こずっているようだった。


あたくしが、自分の名前をどうしても好きになれなかった理由のひとつに、
弟の名前が挙げられる。
弟の名前は何だかすごく考えられているような気がして、
呼んだときのニュアンスは、まぁ普通としても、漢字で表記した時に
姉のあたくしとは格段に「差」があるような気がしてならなかったのだ。
それは画数の問題とか、字が持つ本来の意味であるとか、そういうのはおいといて、
きっと、すごく考えて付けられた名前なんだろうな・・・・と幼いながらに感じてしまったのだ。
で、自分の名前と比較する。
気に入らない。
すると、あたくしという存在がわからなくなってくる。


名前に関しては、この日記にも色々と触れてきたけれど、
あたくしはこの日記の中で、一切本名を明かしてはいない。
大体読んでいれば、「夕雅」が本名でないことや、汎用率が低いことくらい一目瞭然だし。
あたくしは、通称や呼び名を後天的に変えることで、自分を変えてみたかった。
しかし、そういう努力にいつもついてまわるのは、何故か本名だった。


大人になるにつれ、自分の名前(本名)もだんだん嫌いじゃなくなってきていた。
某大女優と同姓同名であることが功を奏して、初対面の人にも一発で顔と名前を覚えてもらえるという
オプショナル効果は、自由業をやっていくにあたってとても便利だったし、
某大女優が何にせよ、美人だったので、それと同じ名前だというので羨ましがられたりするのも
悪い気はしなかった。
ただ・・・・。
某大女優と同じ仕事を同じ名前で獲っていこうというのには、この名前こそがすごく邪魔になったりした。
だから今は「日野夕雅」であるしかない。
今後この名前も変わっていくかもしれない。名前なんて、ひとつの記号に過ぎないから。
別の名前を持ってみて、初めて気づいたのはそれだった。


HNや源氏名で、本名を隠して動かなければならない時、
本名ほど、効力を発揮するものはないんだなと痛烈に感じたこともある。
あたくしは「朝美」であったり「真冬」であったりするけれど、
それを超える何かを、「本名」が全て抱えているという現実は、
どれだけ目を逸らしても視界に入ってきてしまう、大きな大きな真実だったのである。


親は、どれだけあたくしが質問を重ねても、命名に関することは、
常に冗談のような理由で躱し続けている。
今だってそうだ。
だから、もう聞かないことにした。聞いても自分が落ち込むことしか浮かんでこないから。


自分で漢和辞典で、自分の名前の文字の意味を調べてみたりしたこともあった。
そこには、結構いいことも書いてあったのだけど、「この世の終わり」なんていう、
命名には相応しくないんじゃないかと思われることも書いてあったりして、
恐ろしくなって辞書を閉じた。
「この世の終わり」という名を持つあたくしは、数年前の世紀末も上手い事生き抜いて、健在するが、
世紀末といわれた2000年・・・・あたくしにとっては最悪の年だった。

病気の悪化、それに伴う都落ち、仕事は来ないし、稼ぎもない・・・・
正に「この世の終わり」だった気がする。死ななかっただけマシか・・・・。




自分の名前と向き合ってみると、色々と発見もあるというのも事実だが、
いい発見ばかりではない。
無論、いい発見も皆無ではないが、恐ろしいことに、これからの展望を考えると、
あたくしの本名の持つ強運は、20歳以前に、ほとんど全てを使い切っているらしいのだ。
思い起こせば・・・・思い当たるフシだらけ( ̄∇ ̄;)
確かに何でも思い通りに事が運び、自分でも恐ろしくなるほどに悪運も強かった。
これがあたくしに与えられた宿命ならば、残された人生・・・・どうやって生きるのかを
試されている気もしてくる。

↑手軽さに身を委ねてはならぬということか・・・・。



メールをくれた彼女も、自分の存在を考えていた。
「許し」を乞うような悲しげな文面だった。
あたくしは考えた。
彼女の本名もHNも、彼女そのもので、誰も彼女を責めてはいないということを。
そして、それは自分にも当てはまるのではないのかということ。


更に・・・・。
あたくしの中には、名前のない人格がひとりいる。
一平だ、真冬だ、朝美だ、と、形で持って自己主張をしないのだけれど、
「納得」を手に入れるために手段を厭わない。
暴れる。
名乗らない。
多分、コイツには「名前」などという記号は必要なくて、
そういう記号に縛られない、奔放さや自由さが一番気に入っているのかもしれない。
誰からも呼ばれることもない。
故に、名前も必要ではない。
そういうことなんだろう。
あたくしとしては、せめてこの人格が名乗ってくれたら、
「納得」が手に入る気がするのだけれど、
そういう「枠」を嫌がる人格なのだろう。
未だ、あたくしに対しては勿論、ぷよ2オーアエにも名乗っていない。


そういえば、最近姿を見せなくなったが、何か、あいつの中で「納得」のいくものが
手に入ったのだろうか・・・・?
暴れなくてもいい条件が揃ったのだろうか・・・・?


昨夜。久々に発作が起きた。
ODをしてみたい気分になったが、必死でそれを拭い去ろうとした。
月曜日。
あたくしは、オーディション希望の葉書を投函している。
だから何があってもODだけは不味いのだ。
なのに、頭の中に巡る。
アイツの仕業か・・・・。
だとしたら、今回はどんなメッセージを送っているというのだろう?
名前のない、アイツ。
名前をつけたら、消えてしまいそうな・・・・アイツ。
だけど、どんな名前をつけてやればいいのか、わからない。
アイツが名前を欲しがっていないのを証明するかのように、何一つ、浮かばない。
あたくしの身体と脳みそが、ただひとつだというのを証明している現実だったりもする。

一平も、真冬も、朝美も、所詮はあたくしの身体を上手く利用したペルソナだもの。

あさみ


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