日記×エッセイ...みち

 

 

ドメイン・フォーカシングの練習そして明朝 - 2018年03月20日(火)

週一で練習があるのですけど、毎回おもしろく感じています。
昨日は練習日で、わたしは次のような感じで進みました。

肩こり・首こりがあったのでそこから入りました。

その感覚が体のどこにあるか感じていくと、左右の肩甲骨の間に木の根っこがいくつも張り巡らされているようにあって、質感もしっかりしてるけど鉄とかの硬さではなくて木の硬さって感じでした。

(ちなみに、体の感覚を感じて言葉にするということをあっさりできるようになっているんだな、とフォーカシングを学び始めて、初めて気づきました。感覚を感じるということがどれだけ助けになるのかということも。)

で、どのくらいの範囲にそれがあるのかな?って感じてみると、後頭部の真ん中辺から首の後ろ側、背骨に沿って降りてきて、腰まではいかない、胃の後ろの辺りまで伸びてるかな?という感じでした。

その感覚を保持したままで、関連する事柄が何か上がってくるか見てみました。
が、不発。

なので質問を変えて、「その感覚にやさしくなれるだろうか?」と自分に聞いてみました。
すると感覚に少し変化が起きて、頭の後ろや首の後ろ辺りの感覚は弱まり、逆に左右の肩甲骨の間の違和感が強まった、ぎゅっとした感覚が強まっていました。

そうしてわたしから「息苦しい」という言葉が出てきました。

それは体の感覚を表す言葉として言ったのですけど、自分が言ったその言葉が耳から入ってきて、数秒後に「わあ!」と思いました。自分の言った言葉を聞いて、ずっと精神的にそれを感じてたことに気づいたというかそれと符合したからです。
気づいた、というのだけでは正確ではない感じがあります。なぜかというと知ってはいたからです。だから、「符合した」がしっくりくる感じです。

精神的なそれ(息苦しさ)に気づいているだけだと、そのエネルギーは「文句、愚痴、不満を言う・思う」という感じになっていました。
一方で体から表現した言葉とそれが一致したとき、そこで初めて「そうか、わたしそう感じてたんだ!」って得られた感覚がありました。
わあ!知らなかった!みたいな。
知ってたはずなのに。

ドメイン・フォーカシングを新たに学びながらプレゼンシングソマティクスを復習する、みたいな感じによくわたしはなるのですが、今回もジャックさんの「体の痛みに文句は言えても、それがどのような痛みかを言う人はあまりいない」って言葉を思い出すことになりました。
わたし自身は「自分にある痛みがどんなものかを言葉にする」ということはもう慣れてきているわけですけど、なにかが今回わかったような感じがしています。これまではわからなかったもの。経験したことはあったけど、ちゃんと触れていなかったもの。
(そしてこれまた、言葉にして言えるほどはまだわかっていません)



話を戻しまして。
フォーカシングの続きとしては、そのぎゅっとしたところの真ん中に入ってみることにしました。
そうしたら、外から見るとぎゅっとしているのだけど真ん中には空間がある、中ではそんなにぎゅっとした感じを受けない、そういう感じでした。
木が籠みたいに編まれるように組み合わさって、外からは木漏れ日が入ってきてきれいだし、守られているし穏やかな空間、そんな印象。森の中、みたいな。

うーん。自分自身のフォーカシングだと流れや内容を覚えていられない感じがあるんですけど、この辺は記憶が抜けてます。

【思い出したので追記】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この穏やかな場所と、そこに至る大元になっている「息苦しさ」とが感覚としてつながらない感じがありました。その間にある「ぎゅっとした感じ」とは双方それぞれつながる感じがあるのだけど。

なので、その「穏やかな場所」から「息苦しさ」を見てみる、ということをしてみました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その穏やかな居心地のいい空間。わたしはそこにいること、選ぶことができる。だけど、それに抵抗する自分を感じました。その場所にい続けることを抵抗する、文句を言っていたい。文句を言うような状況は嫌なのに、文句を言っていたい。矛盾を見つけました。

で、講義でのデモを思い出してノートをカンニング。

どっちの質問がいいかなーと自分に試してみました。
「その感情に敬意を払って、感情を手放すことはできますか?」というものか、それとも「その感情に敬意を払って、そのまま保つことはできますか?」というもの。

手放すよりも保つというほうが今回はしっくり来たのでその質問をして様子を見てみました。

そして・・・練習内容の記憶がない笑

終わった直後のわたしのツイートを確認すると「おもしろい」しか書いていません。
もっと書いとけよー。ぶーぶー。とすっかり忘れているわたしは思うのでありました。

「これ、同じことができるな。できそうって感じがしてるというか、やってみたいな、試してみたいな、って感じ。自分自身にも、他者との関係性にもできる、これ。」
ともつぶやいてますね・・・。
「これ」ってなんだよー!

ちなみに今のわたしは記憶はなく、「感覚」だけあります。ま、いいか笑

【思い出したので追記】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

体にある「ぎゅっとした感じ」とか背中のこりとかは感じる、あるままなのだけど、文句、愚痴、不満を言いたがっているそういうもののフェルトセンスはなくなってしまいました。
というか、なくなったことで「文句、愚痴、不満を言いたがっているそういうもの」にフェルトセンスを感じてたんだ、ということに気づきました。
あ、なくなっちゃうんだ、みたいな感じ。

自分自身にも、他者との関係性にもできる、と書いているのは、その「文句、愚痴、不満を言いたがっているそういうもの」がないのであれば、何の問題もないなと感じて、です。
(ACIM的に言えば、もともと存在していないものについてのもので、あーほんとだー、なんも問題ないねーと、フォーカシング経由でも思うわたくしです。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんな感じで練習が終わりまして。



で、今朝です。
目が覚めた時に胸に違和感がありました。なので、手を当てて感覚してみました。

そうしたら上がってきたものは、「信じていない自分」でした。
情報を得ることはわたしは好きなことなのですけど、「信じていない自分」がたくさん情報を得るのは、胸が苦しくなるし、緊張するし、息苦しくなるよなあ、そうだよなあ、、、と思いました。

なので、「そりゃそうだなあー」ってその感覚、「信じていない自分」と一緒にいてみることにしました。
ドメイン・フォーカシングを学び始めてわたしが得たもののひとつは自己共感ですが、それをしてみました。

そして質問をしました。
「信じていない自分、信じられなくなってる自分に敬意を払って、その感情、それから肉体的にも感じているフェルトセンスのその感覚を、わたしは手放すことはできますか?」

今朝は、手放すという方向で自分に問いかけてみました。昨日の練習の時と違って、「あれ?この質問もいけるかも?」と感じたからです。

でも手放す感じにはなりませんでした。手放せるけど、でもねって感じ。

それなので、「何を必要としていますか?」と聞いてみました。別に「手放すために」という意味ではなくて、わたしは何を必要としているのか?という意味で。

そうしたらいろいろつながりました。

先々週、「シェイプ・オブ・ウォーター」を映画館に見に行きました。そして最悪オブ最悪のストリックランドが気になりました。
先週、ずっと見ていたドラマ「アンナチュラル」が最終回を迎えました。最悪オブ最悪の高瀬が気になりました。

最悪オブ最悪なのもあって、二人ともにかわいそうと思わないですが、二人ともに「自分の信じてるそれを超えて来いよ!」と思いました。「もっとおもしろい物語を見せてくれよ!」と思いました。

それとつながりました。

わたしは、「信じていない自分」「信じられなくなってる自分」とその二人を重ねたようです。だから気になっていたのかもしれません。
ストリックランドも高瀬もわたしだ、信じられていないわたしだ、そう感じました。
そして同時にわたしは「これまで信じられてなかった人が信じられるようになった、その瞬間を見たい」そういうところがあるなとも。

そりゃ手放す感じにならないよね。
結果として「手放す」という表現にはなるのかもしれないけど、ただなくすのではなくてその変化をわたしは見たいんだな、と気づきます。

でもこうしてやりとりしていくと、どんどん「信じていない自分」が離れていきます。
うれしいし見たいものだけど、どこか寂しいという。正直なところ。

ううむ。
愛を持ってエゴを解放する、ということを思います。
うれしいし、見たいし、どこか寂しい、それらをすべての中に包含していよう。


...




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