日記×エッセイ...みち

 

 

ACIM自習とACIM勉強会 - 2017年11月19日(日)

ACIM勉強会での先週の宿題は、テキストの第十四章の終わり頃に出てくる祈りを用いたものでした。

「私には、これを含むあらゆることが、何を意味しているのか分からない。そして、それに対してどう応答すべきかもわからない。だから私は、自分の過去の学びを、今、自分を導く光として用いることはしない。」
I do not know what anything,including this,means.
And so I do not know how to respond to it.
And I will not use my own past learning as the light to guide me now.

という祈り。

そして、そうしたときにどうなっていくかを見ていくという宿題でした。
過去に依拠していないのだ、という認識をもって今にいる、という宿題。

わたしたちは思考を使って「わかっている」ということをよくします。
自分が「わかっている」と思うことで妨げをしてしまうということもよくあることです。あるあるー

ということで、一週間その宿題をして過ごしました。
(ちなみにわたしは宿題は超やるタイプです)

で、一週間どうだったかなといいますと。

「わからないぞ」
そう思うと、わたしは判断をしなくていいのでそれがとても楽でした。
物事の初めから判断を放棄しているというのは、わたしにとってとても楽でした。

「判断(良い悪いのジャッジ)をしないようにしよう」
これまではそう思うことが多かったのですけど、今回宿題をして感じたのは「しないように」というよりは、「判断してると疲れるから、わからないって場所から見るほうがいいわあ」というシンプルな感覚でした。
「しないようにしよう」と思うってことは「すること」に価値があるわけだなあと。
だから、わたしが価値を感じてる部分が少し変わったのかな?という感じもあります。
(変えようとしたわけではないですが)

この期間中にウィーンに旅行した方から景色の画像を送っていただいたのですが、それはわたしが普段目にするものではないからとても新鮮なもので、わたしは旅行などをあまりしないものですからもう馴染みがあまりないもので。
だからかもしれませんけどその画像から得られた感覚に、「今、わたしはこの感覚を感じている」と認識がとてもしやすくて。
「これは、今だ」って認識をしやすくて。
ありがたいなあと思いました。画像自体もとても好みだったのもあります。(秋色が好きなので)

頼みごとをされて、咄嗟に嫌だなあ、面倒だなあ、行きたくないなあ、と反応が出たときにも、その反応に気づいて今回の宿題をしました。
「この判断は過去の学びだなあ。今、この依頼されたことを新たに見るとしたらどんなかな?」
そう思ってみると、それまで出てきていた「嫌だなあ」という気持ち、その気持ちの底にある恐れの感覚は出てきませんでした。というか、どうなんだろう〜とむしろ楽しみなことになりました。

胃がなんだか通常しないような動きをして、それは特に痛みがあるとかではないのだけど通常しないような、馴染みのない動きをして。
それで恐れがやってくる、みたいなこともこの一週間の中にありました。
その時も、今回の宿題をしました。
そうしたら、やっぱりこの恐れは過去の学びから来ているものでしかなくて、今確かに馴染みのない動きを胃ではしているけど、頭で響いているこの考えは今の胃の動きのことに本当に関わってる情報ではないよなあ、と感じられたので、改めて今の情報、「わたしは今、胃の部分でどのようなことを体で感覚しているか」ということに意識を向けました。
意識を向けて感覚していると、それまでしていた馴染みのない動きは変化してなくなっていって、「体を通して今を感覚した」という名残りだけが残りました。

週末、わたしは職場の建物の4階に置いてある機械の清掃をする当番でした。清掃をし終えて戻るときに、何気なく4階にある窓から外の景色が見えました。
遠くの山や建物、それからよく晴れた青い空や、風がそよいで木々が穏やかに揺れている感じが目に入りました。
そんな何気ない、いつでも見ようと思えば見られる風景、自分の近くにいつでもある風景で、わたしはその時に「これが今だ」と感じました。

自然の中にいる、というのか。
大きな生命の中にいる、というのか。
人の思考する考えるマインドの中ではなく、もっと大きな範囲の中にいる自分というのを感じました。
自然の中にいるときに感じられるあの感覚は「今にいる」「今を思い出してる」感覚なんだ、と日常の、職場の建物の中にいるときにそう感じました。
そうして、幸せだ!と無性に感じました。
その日の夕方、職場に夕日が窓から差してきたときにも同じようなことを感じて、本当に「幸せだ!」と感じました。

その感覚を感じた後に、仕事をしながら自分の体の感覚に意識を向けてみて、血液がどくどくと体内を動いている感じとか、ざわざわと何かが動いている感じ、呼吸をしてその影響が体にある感じを見ていると、そこでも「わたしは生命の中にいる」と感じられました。
ああ、ここにもある、と感じました。

それらの感覚はわたしにとってとてもいい感覚で、この感覚は忘れないだろうと思っていました。そのあとで仕事帰りに鍼灸に行って、こちらの治療院の先生はこういう話を聞いてくれそうだからこのときの話を話そう!と思ったのですけど、ところがどっこい、あまりに自分から言葉が出てこなくて驚きました(笑)

「すごくよかったです」とか、、、。

自分が感覚して素敵だと感じて、職場だから泣かないようにするくらいの感覚に対して、それを表現しようとしたわたしの言葉との差に、ひ、ひどい・・・と思いました。(^_^;)

また、景色などから感じたその「今」の感覚がよかったので、次の日になってもその感覚を思い出したりしてて、思いっきり過去に依拠したくなってる自分を見たりして苦笑しました。しゅくだいは過去に依拠しない今にいるってにんしきだよー。

まあ、それらの経験をACIM勉強会でシェアしました。
勉強会では言語化できるというのはすごいなと思いました。
わたしがシェアをしてそれに対しての応答で、
「そう、わたしはそういう言葉を言いたかった」
「そういうことをわたしも感じていた」
同じものかどうかはわからないけど、自分の感覚したものとその返していただいた言葉はとても重なっていて、そう感じる言葉を返していただいたことで、自分が向かいたいところが見える感じもありました。

自分の経験から言葉にする、自分の経験にしっくりする言葉が自分から出てくる、ということにわたしはもっと慣れていきたいですね。

ちなみに、シェアして返していただいた言葉はこんな感じのものでした。↓
「生命を包容(抱擁?)し大事にして、そして今度は自分は空っぽになって永遠の生命に入っていく」

満たして、空っぽになって。
その繰り返し、、、繰り返しと言っても同じことを繰り返してるのではないけど、そういった動き、脈動、流れの中に「わたしはいる」。
そういう感覚。
そう、それだった、と感じました。

こうして今それらを振り返って書いていたら、ひとつ思ったこと。
今、深く感覚することで言葉にするということが初めてできるのかもな、ということ。
鍼灸師さんに伝えようとしたときにわたしの言葉がへぼへぼでした。
そのときわたしは、「リアルタイムだったらもっと言葉にできたのに、その時言語化しておかなかったからだ」と思いました。
でも、他者に伝えようとしたときにもリアルタイムで感じたその感覚を深く感じていたならば。
リアルタイムと変わらずわたしから言葉が出てきたのかも、と思いました。



最後に、今回の勉強会で聞いたことで「なるほどねーほんとだー」と思ったことをメモ。

「知っている」ということはコントロールに使われる。

自分が「知っている」ということを使うときって、まさにコントロールしようとしてる感覚があるので、それにすごく納得したし自分がそうなるときに意識してそれをみてみようと思いました。



...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

MAIL