日記×エッセイ...みち

 

 

ACIM自習 - 2017年11月14日(火)

前回の宿題。
「その人が愛の表現をしているのか、愛を求めている呼びかけをしているのか、聖霊にそれがわかるように助けてもらう。聖霊に聞く。」

1週間目は先日記述した通り。

2週間目はどうなったかというと、自分に対して
「それは愛の表現なのかい?」
「それとも愛を求めている呼びかけ?」
そういったしこたま聞かれ続けるような感覚は1週目よりも弱まったものの、やっぱり「他者を見る」という感覚にはなりませんでした。

でも明らかに「愛」と感じさせてくださった方はどちらの週もひとりずつ表れてくれました。

どちらの方もほんの少しの時間、2、3分とか、そのくらいのやり取りしかなかったのですけど。


数年前、友人が「理由がないのに触るとか、理解ができなくて混乱する」「理由がないのに親しげにして来たりとかわけがわからない」と言っていたことがあって、わたしはそのときそれを聞いて「え!」と思いました。

でも、それとわたしも同じじゃーんと現在思っているところです。
理由がないと、条件がないと受け取ってはいけないものだったみたいです。
2週目で愛を感じたものに関しては特に、「どうして今のやり取りから愛を感じられたか」の理由がはっきりわからなくてそわそわしたので、ああ、わたしもだな、わたしも理由がないと受け取れないとしてるのだわ、と思ったのでした。
(そのあと、その感覚に対してフォーカシングを促されて行ったら、そこに“悲しみ”のようなものがあることに気づきました)

宿題の2週目には、そもそも愛ってなんだっけ?どういうものが愛なんですかね?みたいな状態になっていました。
そしてその宿題期間は先週で終えました。

今日は、ある感覚とともに起きました。甘やかな感覚。
言語化しておこうと思っていたのですが、はっきり目が覚めている今はもう忘れてしまっています。
残念ですけれどそれほど残念感がないのは、朝目覚めてこうした感覚が現れるということがこれからもまたあるという信頼がどこかあるからです。たとえそれが同じものではなくても。

先週、ひたすらしていた問いかけ。
「そもそも愛ってなんだっけ?」
「どういうものが愛なんですかね?」

それに対する今のわたしにとっての「答え」がそれです。



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