体の不調と、体を感じること - 2017年02月15日(水) 最近、体の変調があったため、逆にその感覚を増大させるようなものに気づきやすくなって、あ、感覚が増えてきた、と感じたらその状況に対しての自分の思いを手放す、という感じになっています。 (持ってると体の反応がしんどいので、気づいたらすぐ手放す) 気づきやすくなったし、手放そうとする意欲が増した感じがあります。結果的に。 そんなわけでいいところもあるけど、戻ってほしくもある体調。(そりゃそうだ) 恐れと共に出てきていた体の感覚が今は恐れがない時にもあります。 ・・・うーん、ちょっと違うか。「今、目の前に恐れるものがない」とハッキリ見える状態で体の感覚が出ている、という感じか。恐れてはいるんだと思います。 なので、何かに関連付けないで、単に「今感じている体の感覚」と、それだけ見られる感じがしています。 これまでわたしがよくやってたのが、「この体の感覚は、今こういう感情が出たからなあ、、、こういう状況があったからなあ、、、」と体の感覚から導かれるものを見るということです。 それは自分の思考で理由を考え出しているわけではなくて、そういうことか、と導かれる、そこから理解することができることではありました。 盲点だったのは、わたしはなるほどと理解することに快感を感じるので、理解の快感を与えてくれたものに執着してたということ。 まずそこで意識がそれて単に体の感覚を感じる、ということがし難かった、ということ。 そして、こうして書いていて気づいたのですが、体の感覚から自分の思考(考え方)や感情につながったとして、それを手放さなかったんだな、ということ。「わかった!を与えてくれた良いもの」として執着してたんだなあって。 (同じ執着でも「自分の意見の正しさを与えてくれた良いもの」として執着してみたりとか、人によっていろいろありそうですね) なので、導かれたら次は手放すというわけか、と今わかります。 やってなかったということも、今わかります。 あと、しんどくなる時は大抵は次のどちらかだなということも。 ACIMで言うなら、自分が神に打ち勝とうとしてるみたいな態度の時か、あるいは神様に全部おまかせでわたしはなにもできませんみたいな態度の時。 エドガー・ケイシーさんは疲れただろうなーみたいなことも思って腑に落ちるの巻。 助けを求められるということと、自分にパワーを感じられるということが両立しているのが大事だなあ、とかも思いました。 行動する前に、自分の内側に変わらずに存在し続ける神聖な部分に問う、それから「わたしが」行動をする。 まだまだこれにも慣れてないなーというのもよく感じられます。 実際やってみると、これがいちばん楽なんですよね。 でもわたしはまだ、こんなんでいいのかなーとふうっと無意識に思ってしまうのです。 そう教育して(教育されて)きたから、これがいいぞとこれまで聞いてきたものをやらない、ということに不安が出てくるんだろうなあ。 これも執着する理由ですね。これを手放しちゃったらわたしはそれについて対処しないんじゃないかしら、って思うというか。 でも、まあ、慣れていないけど楽な方へ行こうとしています。 楽だけど楽じゃなさそうな方(笑) 明日は鍼治療の日〜。←楽しみな人 気が足りなくなってるっぽいので、気ってどうやって高めるんかなーとふと思ったら、ゲリーさんところで習ったものが思い出され、ああ久々にやってみるのもいいかもねーと。 で、あのワークを、体を感じることを意識しながらやってみたらどんなかね?と思っているところ。 ...
|
|