日記×エッセイ...みち

 

 

DVD「カンフーパンダ」を見たよ - 2011年09月01日(木)

5回くらい見ました! すんごい気にいっちゃって!(^o^)

普通にアクションアニメとしてもとーってもおもしろいんだけど、自分の気持ちに正直にあるということとか、努力なしということとか、自信とか、親子の葛藤だったりとか、自分にも身に覚えのあるそういうものがふんだんにあって・・・おもしろいったらない!
マスター語録もだーいすき!

ということで気にいって何度も見ていました。

ちょっと話は変わるのだけど。
昨日、仕事でミスしまして。
それ自体はわたしはやるだけはやった、確かめてそれでも何かが気にかかるから確かめて、そうしてミスが確認できて、そういったプロセスになんの後悔もないという感じ。

以前だったら罪悪感とか出てしんどくなってたよな〜成長したな〜なんて思っていた。

なのだけど、上司に報告するという時に、あれよあれよと右腕や背中に痛みが現れてきた。

最近、背中のこりをほぐすことを意識しているため、ああこういうことでわたしの背中にある緊張は成り立っているんだなあ、なんて感じたりして。
でも、まだなんだかよくわかっていないんだけど。

おもしろいのは、報告した方は何人かいるのだけど、報告する際にわたしに痛みが走った人と全くなにも起こらない人とがいたということ。

だから、なにが違うんだろうなあ〜とぼんやりと思った。
背中の中央辺りが痛くなった(固くなった)ので、自信に関係するのかなあ〜なんてぼんやり思った。

なにが違うのかな〜と見てて出てきたのは、痛みが走った方のひとは、わたしは苦手としているところがある方だったということ。

うーん???
わたしは嫌いな人に承認されたいの? 苦手な人に承認されると自信になるの? なんじゃそら?

と、またぼんやりと思っていた。

そうしたら、思いだした。

高校の先生で嫌いな先生がいたのだけど。
どうして嫌いかって、わたしのことを信じてくれなかったから。
なにもわからないのに、信じてくれなかったから。
はじめから、わたしにはできないって、決めつけられたから。

その先生に対する感覚と似ていたのですね。背中に痛みが走った相手の方への感覚が。

高校生の時、その先生が信じてくれなかったことを、結局のところわたしはやりとげた。

やりとげた、証明した、その時の感情を今でも覚えている。

まっすぐじゃない、うれしさ。
他の先生たちが祝福してくれる中で、その輪の中に入らせない!という感覚。
見返した!ざまあみろ!というもの。
それを通してわたしは自信を感じることができた。

もう、それを使うことはないなあと思った。
自信を感じるために、他者からの承認を得ること。
自信を感じるために、こういう感情を通すこと。

そして、「ざまあみろ!」って思っていた奥には、先生に認めてほしかったわたしがいたのだなあ、と気づいて、ちょっと泣きたくなった。

先生に認めてほしかった。
そのままの自分でいて大丈夫だって言ってほしかった。

そうかー、と味わった。

そうしたら、それが「カンフーパンダ」のタイ・ランと重なった。
タイ・ランもマスター・シーフーに認めてもらいたかったとずっと思っていた者だったから。

と、思ったら。
あれ?わたしがこれまで嫌い!苦手!と思いやすかった方って、みんなマスター・シーフーっぽいよね?と気づいた(^_^;)
アニメ見てる時に全然いやだとかも思わなかったのですが?

まあ気づいたので、その状態でもう1回見ようかとしているw
マスター・シーフー嫌いじゃない。そう、嫌いじゃないんだよ。嫌いって感じていたのは、やっぱり相手がどう、じゃないんだよねえ。

映画も見に行きたーい。
でも市内でやってなくて見に行くとしたら1時間ちょっと車を走らせないとだし、やりたいことは他にもあるしで、別に無理せずDVD化まで待つかなー?と様子見ているところ。
誰か連れてってくれるなら行きたい(^o^)


...




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