つらつら - 2011年01月29日(土) 朝起きて、あれ?と思った。 自分が好きだと思っていた方、本当は嫌いなんじゃ…?とふと思った。 ということで、そのひとの嫌いなとこってなに?と自分に聞いてみた。 1、人を見下したり、もしくは人を崇めたりするように感じるところ 2、根拠なく自分を信じられるところ そのひとはトータルすると好きな人だし、人は人、とわたしは思っているしでちゃんと「嫌いなとこ」を見ていなかったなあ、ということで見てみることに。 Q、それが、どうして嫌い? A、1は、自分がそれをしたくないから嫌い。そして自分がそう扱われるのは嫌い。 2は、うらやましいと思う反面、わたしはそれをしたいと思わないから嫌い。 Q、ふむふむ。 1と2の共通点としてあるのは、「自分はそれをしたくないから」。 (しなければいいじゃん、と終わらせることもできるが、これまでがそうしてきたので今回はちょっと変えてみる) ということは、「自分もするかもしれない」という恐れがあるんかな。 なんで恐れているの? A、自分もしたら、わたしは「嫌いなもの」になってしまう。 Q、ふむふむ。 でもさ、「ならない」よ。 そういう状態があるだけだよ。 それは個性ではないよ。 逆にさ、自分の「したいこと」を見てみ? その「したくない」が教えてくれる「したいこと」はなに? A、相手がどんな人でも、わたしはわたしとしてわたしらしく、大きくなったり小さくなったりせずに対応すること。 他人に対して証明することはない。 他人に対しての「根拠」はいらない。 自分を信じられる、というのは、自分の中の根拠と繋がっているということ。 自分の根拠も証明することはない。ただわかっていること。気づいていること。自分の根拠と繋がっているか確認すること。 整理できた。 自分の感覚を信頼してはだめ、と感じたこと。 間違ってたと感じたけど、それはわたしの根拠には繋がっていた。 思い出すのは小学生の頃の先生とのやりとりなんだけど、そこでわたしは「証明しなければいけない」と思ったのだなあ、と。。。 わたしはその時、先生に信じてもらえなかった。 なにも間違ったことはしていないのに。話を聞いてほしいのに先生の怒る声に驚いて何も言えなくなった。 大人になったので、小3のわたしの代わりに言ってあげる。これは前にもやったことがある。 でも、残っていた。 だから今日は、小3のわたしの代わりに感じてあげることにした。 怖かったなあ。 言いたかったけど、怒っている人にどう言ったらいいか、伝わるのかどうか、なにを言えばいいか、わからなかったなあ。 真実を知っているひとに助けてほしかったなあ。 助けてくれなくて、悲しかったなあ。 ここで涙が出た。 わたしは怒ってた先生に対して何かあるのかと思ってたけど、そうじゃなかったのだなあ。 その様子が聞こえているのに、どういうことなのかわかっているのに助けてくれなかった先生に対して、ずうっと持っていたのだなあと気づいた。 助けてほしかったね。 そうか。 「助けてもらえないから、自分で周りにわかるように証明しなければいけない」と思ったのか。。。 そしてずっと気づかなかった、そこまで行かなかったのは、その先生のことを好きだったからだ、と気づいた。 好きだと気づきにくいな。先生を守りたかったんだな。認めたくなかったんだな。 好きなところに嫌いがあっても大丈夫、ということがわかった。 状態だというだけで、それ自身ではない。 わたしはスケールの大きい話とか、視野の広い話が好きだ。 そして、とっちらかるところもある。 とっちらかるのは、そのスケールの大きさにわあーっと楽しくなって、自分も大きくなっているから。 そっちも興味あるー、なんて今をどこかにやってしまうから。 「今」の自分がそのスケールの大きいものにどう繋がるか、なんだよなあ。 ちゃんと身体の中におさまって、原寸大でどう繋がるか。 実際の行動として直に関わりはしなくても、そのスケールの大きいものに感じたワクワクとの共通点を、今の自分で体現していこうと思う。 内田樹さんと大阪市長との教育対談がおもしろかったー。 追記。 突然思い出したこと。 欲しがっていたのは、ゆったりと食事のできる場所(環境)ではなくて、わたしがいくらひねくれたとしても「さあ食べなさい」と目の前に差し出されること、与えられること、構われることだった。 そうでないなら、お腹をすかせていても全然耐えるような子ども。 環境が整っていても、飛びつかない子ども。 欲しいものを自分に与えられる環境があっても、誰かに与えてもらうことが目的になっている子ども。 そういう時代をはっきりと思い出した。 与えてもらえるってことが愛情表現だと思っている。 うお。 感じとこう。 ...
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