思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2015年11月23日(月) 「日記」の消滅

 実家の机の引き出しから、とても懐かしいものを発見した。僕が20代の後半に書いた、自分の脚本の「解説文」のようなものである。当時はパソコンは一般的ではなく、僕もワープロを使って書いていた。だから、データはもう残ってはいない。
 その文章は、僕が当時出入りしていた出身高校の演劇部員に向けて書いていた「エッセイ」のようなものだ。部員が回していた部誌に挟み、読んでもらっていた。というよりは、半ば強制的に読ませていたといった方がいいかも知れない。一応楽しみにしてくれていた部員もいたようなのでよしとしよう。
 あらためて読んでみると、その時点で僕が考えていたことを結構素直に書いている感じではある、しかし、それは誰かに読まれることを前提にした文章である。だから、多少の(あるいは、かなりの?)誇張や虚勢を張っている部分がないとはいえない。



 小・中・高と、僕は日記を書いていた。勿論、ノートや日記帳に手書きであった。当時ネットはない。ワープロ通信も、多分ない。自分の文章を他人に読んでもらうというのは、かなり特殊なシチュエーションだった。小学校時代でいえば、作文がうまく書けたということで、先生に選ばれてクラス全員の前で読まれたくらいだろうか。当然、日記の文章は、他人ではなく自分自身の目にだけ触れるものとして書いていた。だから、赤裸々に自分の思いを綴ることができた。他人には聞かせられないようなこと、知られたくないようなことも書いた。
 いったい何のためだったのだろうか。
 それは、「自分との対話」のためなのではなかったろうか。
 文章を書くとき、人は一度自分と向き合う。それが他人の目に触れるものでなければ、自分の奥深くに眠るもの、またはわき出してくるものを捉え、それを躊躇なく言葉にすることができる。それが適切な表現かどうか、表現として優れているかどうか、そんなことは基本的に関係ない。自分にさえ分かれば、自分に正直でありさえすればそれでいい。中には、後から自分で読み返すであろうことを想定して書く人もいるかも知れないが、それでも、他人に読まれる心配がないとなれば、必要以上に真実や真意を曲げて書くことはしないだろう。
 日記とは、元来そういうものであった筈である。
 昔の偉人の日記が重要な資料たり得るのは、そういう条件があるからである。



 しかし、今や状況はまったく変わってしまった。
 僕がこの「思考過多の記録」を書いている「エンピツ」というサイトは、一時期流行った「日記サイト」といわれるものである。しかし、「日記」と銘打っていながら、実際にはネット上に公開されているのだ。つまり、実質的にはブログと変わらない。強いていえば、ブログの方が「見せる」「読ませる」という性格が強いかも知れない。実際、「エンピツ」では画像を公開できるのは有料版のみである。いずれにしても、ここに書かれているのは誰かに読まれることを前提にした「日記」なのである。
 これがFacebookやTwitterになると、どんなに日常の些事を書いても、それは人に読んでもらうのが大前提になる。限られた人にしか見られない設定にしていたとしても、自分が何をしたか、どう考えたかを、紛れもなく他人に向かって発信している。



 となると、そこで使われる言葉は、もはや自分のためのものではない。発信したものを他人に「評価」してもらうために書くことになる。Facebookの「いいね」の数や、Twitterのフォロワー数、リツイート数で自分の書いたものの価値が決まってくるかのような感覚になってくるのだ。そうなると、自分に正直すぎる言葉や、自分の弱い部分、ダメな部分をさらけ出すような言葉は書けない。承認欲求を満たすための言葉(そして画像)だけを選択するようになってくる。これは、もはや本来の意味での「日記」とはまったく別物だ。
 人に見せるものと、自分だけが見るものとでは、当然言葉の選択の仕方が違う。他人からの評価を得ようとして、僕達はどんどん言葉を飾り、偽りを本当だと思い込もうとする。
 そこで捨てられた、飲み込んだ言葉が、どんどん自分の中に澱のように沈んでいく。書けば書くほど、内側にたまっていく言葉が増える。そして、表から見える言葉達は上滑りになる。



 いつまで僕達はこんなことを繰り返すのだろうか。
 それとも、みんなSNSで見せる顔とはまったく違ったもうひとつの顔を、夜中に鏡に映し出してみては、吐き出せなかった言葉達を反芻してみたりしているのだろうか。
 それならばまだいい。これが高じると、自分の中に沈殿していく言葉そのものの存在を忘れたり、さらには何も沈殿しなくなってきたりするのではないだろうか。自分ときちんと向き合う時間も、機会も失われていく。表面上の言葉と同じように、自分自身が上滑りになっていく。そんなことが起きてくるのではないか。



 「思考過多の記録」は、僕の中では極めて「日記」に近い文章として書いている。原則、Twitterで紹介したりはしない。できるだけひっそりと続けていきたいと考えている。表のブログやSNSだけだと、時々自分を見失いそうになるからだ。これを読んで眉をひそめる人がいたとしても、できるだけ自分が他人に対して発信した言葉からこぼれ落ちたものを記録していくようにしたい。
 しかし、今さら手書きの日記帳には戻れない。この日記を「非公開」に設定することもできない。それは、自己承認欲求に押し潰されそうになりながら、それでも他人からの承認なしには生きていけない、僕という人間の性なのかも知れない。


hajime |MAILHomePage

My追加