思考過多の記録
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2015年09月11日(金) 人生の終わり

 友人の義理の兄が亡くなった。孤独死だったそうである。死体は腐乱していたようだ。死因は聞いていないが、独身で一人暮らしだったので、必然的にそうなったのだろう。
 これを聞いた時、僕は自分の未来を見たと思った。
 僕もこのままいくと、貧困老人、独居老人となることは確定的である。もし健康を害しても、まともに医者にかかれるとは限らないし、高いベッド代を払って入院することもできないだろう。自宅で一人でいる時に、心臓発作や脳卒中等で倒れても、119番してくれる人もいない。そのままそこで死ぬのを待つしかない。
 そして、僕の死体を発見してくれる人もいない。ポストに新聞が溜まっているのを誰かが不審に思うか、異臭に耐えられなくなった隣人が大家に苦情を言うまで、僕の身体は放っておかれるだろう。



 しかし、それでもいいような気もしている。苦しみが一瞬なのであれば、後遺症が残ってそれに苦しんだり、誰かの手を煩わせたりするよりも、そのままあの世にいった方がマシというものだ。死体を始末する時と、残った荷物の後片付けは誰かがしなければならないだろうが、それはもう仕方がない。骨などどこに埋められても、極端な話、どこかに捨てられても別に構わない。何しろ、こちらはもう死んでいるのだから。
 何の業績も上げられず、成果も残せず、自分の家族も作れなかった僕は、存在価値はなきに等しく、いなかったも同然である。いつ、どんな形で消えても誰も困らない。
 誰にも弔われなくても、多分関係ない。何しろ、こちらはもう死んでいるのだから。後は、この世に残った人間の問題である。
 そうやって、誰にも知られないまま、僕の一生は終わることになるだろう。それを悲しいと思っても、どうなるものでもない。これが、僕に相応しい終わり方であろう。



 死ぬ瞬間、僕はこの世に未練を感じるのだろうか。
 やり残したことはきっとたくさんあるのだろうが、生き永らえれば、それをやり遂げられるとは限らない。だとすれば、もういつこの命が終わっても特段問題はないことになる。
 極端な話、今、この瞬間でも構わない。
 長生きが必ずしも幸せではないことを表している事例は枚挙にいとまがない。
 それに、下手に何もできずに長生きするよりは、早めに逝った方が「道半ばで」ということになり、ありもしない可能性がさもあったかのように見てもらえるかも知れない。そうすると、何となく僕の人生に幾ばくかの価値があったように受け取られる可能性があるし、自分もそう思えるから、ある意味幸せなのだろう。



 こんなことを書いている僕も、もっと年をとれば、人並みに自分の命に対しての執着が出てくるのだろうか。
 いつ死んでも何の問題もない、むしろ早く片付いた方がいいような人間が、死にたくないと生にしがみつく。
 醜悪だ。



 できれば、自分の一生は何だったのだろうと考える間もなく、あの世に逝きたいものである。


hajime |MAILHomePage

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