思考過多の記録
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2003年03月03日(月) 「理想の相手」

 メールによる恋人募集系サイトでメール交換を申し込んできた女性と、1週間ばかりメールをやり取りした。彼女は僕が脚本家を志しながらもまだそれを果たしていないと知って、とにかくそのためにやるだけのことをやり、悔いを残さないようにするべきだと言った。そして、そのためにはパートナーとしては、同じ世界に身を置き、才能を引き出してくれる相手こそが理想的であり、そういう相手を捜すべきであるとの文章の後に、別れの言葉が書かれていた。



 それまでのメールの文面から、彼女が何事に対しても妥協を許さず、真摯な態度で臨んできたことが伺えた。そして、おそらくその性格のために、これまで人間関係をうまく結べなかったのではないかと推測される。
 彼女はこれまでも何人かの男性とメール交換をしていたらしいが、好きな音楽のジャンルや読書の傾向などが殆ど自分と一致しなかったという。例えば、相手がジャスが好きと答えると「もうお手上げでした」と彼女は書く。そして、「理想の相手に出会うことは本当に難しいことなんだなあ…」と嘆息するのである。



 しかし、趣味が何から何までぴったりと一致することが「理想の相手」の条件なのだろうか。確かに、相手をよりよく理解でき、ストレートに関係を結べるのは、考え方や興味の方向性が一緒である場合が多いだろう。けれど、それは「関係性」という観点から見れば、初歩の初歩である。コミュニケーションには様々な段階があって、肉親や仲間内の「内的言語」によるコミュニケーションから始まり、最も高度なものは異文化コミュニケーションであろう。その二つの間にある実に多様なレベル・形態の関係性の中には、一見相容れない立場の二人の間に成り立つコミュニケーションもある。



 音楽の趣味が違うのなら、何故相手がそのジャンルに興味を持っているのかを聞き、自分の好きなジャンルとの相違点を語り、その底に流れる「音楽」というものについて意見を交流する。そのことで、自分にも相手にも考え方の広がりや感じ方の変化が生まれる。それこそがコミュニケーションというものの醍醐味ではないだろうか。常に翻訳抜きで話が通じる相手とだけ関係を結んでいたのでは、自分自身と会話しているのと変わらない。それでは他人との対話のせっかくのチャンスを生かせないと僕は思う。



 この1週間、僕は彼女とほぼ毎日のようにメールのやりとりをした。彼女とは確かに思想・信条に180度の違いがあり、興味・関心も完全に重なっているとは言えない。けれど、見知らぬ他人である僕と彼女が、主に僕の「夢」を巡ってメールを交わし続けることができたということに、僕は意味を見出している。
 僕にとって彼女は、また彼女にとって僕は「理想の相手」ではなかったかも知れない。けれど、少なくとも僕達は、相手をコミュニケーションの相手とする関係性を結べていたのだと思う。しかし、さらにコミュニケーションを続け、接点を探りながらお互いを理解し合うことでこの関係性を深化させることを、彼女は望まなかった。



 彼女が、他人とコミュニケートする=関係性を結ぶことについて、もう少し柔軟に、間口を広く考えさえすれば、彼女を巡る人間関係はもっと広がる筈だ。彼女が「理想の相手」と出会えるのは、おそらくその時である。


hajime |MAILHomePage

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