思考過多の記録
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2003年02月10日(月) 芸術作品の値札

 絵画のオークションで、最初は1万そこそこの値で競り落とされると見られていたある絵画が実はゴッホの作品だったと分かった途端に300万円から競りを開始することが決まり、結局6600万円で落とされたという。
 してみると、その絵の価値はもともと1万円の価値しかなかったのではないかと思える。もしもその絵自体に落札価格に見合う価値があったなら、最初からその値がついた筈なのだから。



 つまり、人はその絵画自体の美的価値にではなく、‘ゴッホ’という名前に6599万円の価値を認めたということである。所謂「ブランド」、ネームバリューというやつだ。言い換えれば、その絵が「ゴッホ作」だということにこそ価値があるのであり、その絵自体に価値があるのではないということになる。すなわち、絵はどんなものでもいいというわけだ。バブル時代に同じゴッホの「ひまわり」という絵に法外な値がつき、その値をつけた企業が絵を公開したことがある。人々は絵に押し寄せた。けれど、その時人々が見たかったのは「ひまわり」という絵そのものではなく、「法外な値がついた絵」だったのである。煎じ詰めれば、人々は「法外な値」を見に行ったことになるのだ。
 そして、ゴッホとは「法外な値のつく画家」だと人々は理解したことだろう。そして、法外な値がつくからこそ、芸術的な価値が高いのだと納得して、家路についたに違いない。



 まだ僕が学生の頃、ある放送作家の人からこんなことを言われた。
「もしもあなたが倉本想と全く同じ完成度の作品を書いたとしても、放送局が採用するのは倉本想の脚本だ。理由は、『倉本想脚本』の方が視聴率がとれるからだ。」
 勿論、僕如きが倉本想と同じ脚本など書ける筈もないけれど、人々は往々にして「名前」というオーラに幻惑されるのは事実だろう。「おいしい生活」というキャッチコピーだって、糸井重里が作ったから何かしら意味があるように感じていただけなのかもしれない。ここでも問題は内容ではなく、その作品を作ったのが誰なのかということなのである。
 勿論、そう人々に思わせるだけの物を作ることができた人間だけが、名前で値段をつけさせることができるというのもまた事実だ。それだけの地位を確立したということだけでも尊敬に値する。そう思わせられるからなおのこと、人々はその人に競って高い値札をつけたがる。



 土台芸術作品に値をつけようということ自体が無理なのだろう。しかし、芸術家だって霞を食って生きるわけにはいかない。そして、芸術作品に値札をつけることを生業とする人達もいる。そして、僕達の多くは、値札を見て初めて芸術家の存在を知り、その芸術性の高さを理解する。
 値札をつけなければ芸術は流通しない。ただ、その値札の中身は往々にして作品の価値と関係がない。
 値札を隠しても芸術とつながれるようになるにはどうすればいいのか。ゴッホ自身は、その答えのヒントくらいは知っていたのだろうか。


hajime |MAILHomePage

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