思考過多の記録
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2002年08月04日(日) 表現者と生活

 安室奈美恵の離婚騒動が報道されたのは先週のこと。今週もいくつかの女性週刊誌が‘真相’を取り上げていた。しかし、「日本中に衝撃が走りました」というお決まりのマスコミ用語とは裏腹に、僕の周辺では驚く程話題になっていない。数年前の「できちゃった結婚」の時の衝撃とは全く比べものにならないインパクトの弱さだ。この国における安室奈美恵という存在の質的な変化を象徴する出来事ではある。



 これまで通り子供の面倒を見ると言いながらも、我が子の親権さえも手放すという彼女の今回の決断に対しては、その理由を巡って実に様々な説が流され、また様々なことが語られている。概して巷の反応は冷たい。けれど、‘真相’とやらは本人とその周辺しか知り得ないものだろう。
 僕としては、彼女が中休み中に他のアーティスト(宇多田ヒカルや浜崎あゆみetc.)が台頭してきて、それに対して彼女が危機感とライバル意識を持っていたという説は、当たっているかどうかは別として、結構興味深いものがある。その説に従って考えれば、これは職業婦人の困難さという普遍的な問題とは全く別の次元の問題をはらんでいるということになる。
 すなわち、表現者でいることと家庭人でいることとは両立するのか否か、ということである。



 女性にとっては嫌な現実であるが、これは多くの場合、女性にとってのみ深刻かつ退っ引きならない問題として立ち現れてくる。「表現」というのは、言ってみれば日常生活とはかけ離れた部分で精神的・肉体的労力を消耗する。ましてや安室のように素材が自分自身だった場合、その労力は計り知れない。さて一方、家庭人として、すなわち母であり妻であることで家庭を維持していくためには、それはそれで大変な精神的・肉体的労力を消耗する。子供が小さくて、父親・母親とも働いていればなおのことだ。おまけに、家事労働の多くはどうしても女性が担うように仕向けられている。そして、この2つは全く違う次元の労力なのである。
 「日常」を維持するためのルーティーンワークは、毎日際限なく確実に行わなければならないものである。これが「表現」を行う上で足枷になる場合が往々にしてあるのだ。勿論、日常生活の中に「表現」の素材を見いだす人達もいるだろうが、そういう人達でさえ、作品の制作過程にあっては日常を離れるであろう。興が乗ってきているときに晩ご飯の買い物の時間が来たからといっていちいち作業を中断していたのでは、いい作品を生み出すことはできないだろう。そもそも、作品の制作に没頭しながら晩ご飯のおかずを考えることなど不可能である。



 僕は日常生活や家事労働が、「表現」活動に比べて価値が低いといっているわけではない。ただ、基本的に両者を完璧に両立させることは不可能だといいたいのだ。夫婦で「表現」活動をしているアーティストはどこのジャンルにも存在するし、子供がいる人だって勿論いる。けれど、大抵の場合、夫婦のどちらかが相手の仕事をバックアップしたり(ユーミンのケース等)、完全に主婦(または主夫)に徹していたりする場合が殆どだ。そうではなく、夫婦のどちらもが「表現」活動に打ち込んでいて、それぞれの活動がある程度軌道に乗っている場合は、所謂「仮面夫婦」の状態にならざるを得ない。俳優やミュージシャンの夫婦に離婚が多いのは周知の事実である。
 もしその人が、「表現」活動よりも日常生活や子育て等に価値を見出しているなら、「引退」を選択することになるだろう。また、もしそれまでにある程度以上の支持を獲得し、配偶者の協力が得られるのであれば、家庭生活を営みながらマイペースで長く活動を続けていく竹内まりあのような選択肢もあり得るが、それは希なケースである。



 安室の場合、一時的に「表現」活動をストップしている間に、ライバル達が次々と「表現」で成功していくのを目の当たりにして、やはり自己実現、すなわち「表現」活動の場にこそ自分の存在意義があるのだと再認識したのであろう。子育てや家事といった日常は、そんな彼女にとっては重荷にしか感じられなかったのかも知れない。
 ならば、例えば夫が家事を分担して彼女を支えればうまくいったのかというと、それも違う気がする。たとえ物理的に「表現」を行うことが可能な状況におかれても、精神的なコンディションという面において、家庭という「日常」はやはり彼女の足枷になっていたのではないか。特に彼女のようなタイプの表現者は、「生活感」が出てしまうことが大変なマイナスになる。
 うまくいえないのだが、「生活」には表現者が「表現」に向かう生気のようなものを奪い取ってしまう力があるようなのだ。それは、別次元へと飛翔しようとする者を地上に縛り付けようとする、非常に強い重力の地場のようである。 



 安室はその力を嫌った。ならば、何故子供を宿してしまったのだろうか。それは、彼女の認識不足としか言いようがない。彼女は、自分が作品という「子供」を産み落とすのと同じように、現実の子供を産み落とせばそれで済むと思っていたのかも知れない。しかし、言うまでもなく、現実の子供はその後に続く長い「生活」とともに生まれてくるのだ。そしてそれは、自分がその後も作品という「子供」を産み落とす作業を少なからず妨害することになる。おそらく彼女はそれに気付いていなかった。
 子育てはかなりの程度自分を殺さなければできないものだが、「自分」が素材である表現者の彼女にはそれができなかったのである。



 そして、彼女にとってのもうひとつの悲劇は、そうまでして戻ってきた世界で、表現者としての彼女のプレゼンスは以前とは比べものにならない程小さいものになっていたということだ。だからといって、ここまでの経緯が世に知れ渡ってしまった以上、家庭という「日常」に逆戻りすることはできない。
 僕は彼女のファンでも何でもないが、そんな彼女を見ていると痛々しさと、何とも表現できない不条理を感じる。
 彼女にとっては、これからが本当の正念場だ。
 表現者としても、そして、1人の人間としても。


hajime |MAILHomePage

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