思考過多の記録
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| 2002年07月20日(土) |
今、ここにいる人の「実力」 |
「グローバルスタンダード」という名のアングロサクソン系資本主義の論理が席巻し始めたこの国では、ここ数年俄に「業績主義」がもてはやされ始めている。その人(または組織)の学歴や現在の地位などといったいわば「肩書き」よりも、何ができるのか、また実際に何をしたのかということで評価しようという考え方だ。「実力主義」と言い換えてもいいだろう。 様々なジャンルに見られるこの流れは、それ自体として悪いことばかりではない。社会の流動性が高まり、結果として社会全体が活性化するということもあるだろう。しかし、全く問題なしというわけではない。
ところで、僕は「趣味」で芝居などをやっているのだが、前にこの場所でも触れたような要因もあり、現在のところ、自前の創作集団(=劇団)を持つには至っていない。だが、自分の作品を上演するには、どんな形であれ自前の集団が必要だ。そこで、HP等を使って呼びかけてみた。 しかし、現在までのところ、反応は殆ど無い。
原因はいろいろあるだろう。まだまだ募集の告知も限られた範囲にとどまっているし、実際の上演時期も先である。勿論、僕達のこれまでの活動や方向性に賛同が得られていないというシビアな現実もあることは率直に認めなければならない。 けれど、それ以上に結構大きな要因だなと僕自身が考えているのは、これまでの僕の「集団」および声をかけた主体である僕自身に、演劇人としての「実績」がないことなのではないか、ということである。
先程「趣味」で、と書いたが、僕自身は所謂「趣味」のお楽しみサークルとして芝居をやるつもりはない。とすると、ターゲットは実際に「プロ」もしくは「プロ」を目指す人達ということになる。けれど、僕には悲しいかなこれまで「プロ」の現場で芝居を作った「実績」がない。具体的にいえば、どこどこの劇団で役者(もしくはスタッフ)をしていたとか、どこどこの劇団の養成所、もしくは研究所に何年間いましたとか、演出家の誰々さんについて何年間やっていましたとか、そういった経験である。 僕が1回だけ参加した劇団が、その後「プロ」に近いスタンスで活動を続けてはいるけれど、僕がいたのはそうなる前だし、おそらく誰もその劇団の名前を知るまい。また去年は劇作家の平田オリザ氏の講義形式のワークショップに参加して脚本の書き方を勉強したのだが、それをもって「プロ」に参加したとはおこがましくてとても言えない。
どんな形であれ「プロ」の現場を踏んだという「実績」があれば、人の募集はかなりやりやすくなる。何故なら、そのことがある程度その人(またはその組織)に「実力」があることを保証することになるからだ。かつて学歴がもてはやされたのも全く同じ理由による。そして、より高い学歴(または学校歴)を持つ人間の方が、そうでない人間よりもある種の能力において優れているということもまた事実である。 自分がその中に入って(またはその人に付いて)、少なくとも「プロ」並みに活動していきたいと思うときに、その手段ないしはその人自身に「プロ」としての実力がなければ話にならない、と考えるのはごく自然なことである。 もしそうでなかったとしても、劇団それ自体に勢いがあって、コンスタントに公演もうち、外部のフェスティバルに参加したり、役者が客演したりして、観客動員も一定以上の人数がコンスタントにあるという状況が望ましいだろう。自分の限られた時間と労力を注ぎ込むわけであるし、それでなくても不安定・不確実な世界である。自分のやることが少しでも無駄にならない場所を探すのは、こうした世界に生きる者にとっては基本的な処世術である。 そして、残念ながら、僕と僕の「集団」はこれまでそのどちらも持ち合わせてはいなかった。少なくとも、そう見られても仕方がない状況があったことは事実である。
「実績」のない者には「実力」もない。また、「実力」がないからこそ「実績」もない。 本当にそうだろうか。過去に何も積み上げられなかった、もしくは評価に値しないことしか積み上げられなかった者は、今現在も何もできない、能力のない人間なのだろうか。 事故の犠牲者の遺族に対する賠償金のように、過去から判断してその人の未来の価値を計算することしか方法はないのだろうか。 そしてそれは、今、ここにいるその人を、その人の持っている「実力」を正しく評価していることになるのだろうか。 いや、そうではない筈だ。 とはっきり否定できる確信(=「実績」)が、今の僕にはない。
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