思考過多の記録
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2000年09月19日(火) 未来日記

 殆どの人間にとって、未来は基本的に予測不可能である。それ故、殆どの人間にとって、未来は基本的に不安なものである(ごく希に基本的に楽しみだったり、基本的に気にならなかったりする人もいることはいる)。そこで「予想」というものの出番である。やってくる未来をただ座して待つだけでは、不安は募るばかりだ。その未来がどうなるかを様々な手段で予想すると、それだけでもはや未来がやってきたような安心感に浸ることができる。もう少し真面目に考えれば、予想を立てることで、やってくる未来の事態に対処する方法を考えたり、実際に準備を始めたりできる。日々の気象予報、競馬の予想、試験の山掛け、各種の占い、役所やシンクタンクが発表する○○予測の類等々、かなりの確度を持ったものから殆ど気分任せに近いものまで枚挙に暇がない。本当に僕たちは予想が好きだ。というより、予想しないと生きていけないのではないかと思えるほどである。予想している間は、未来は僕達のものである。かなりの確率で予想通りの未来に生きられるような、無根拠な確信を持ってしまう。幸せな誤解である(勿論、ほぼ予想に近い未来が訪れる場合もあるにはあるが)。「ずっと心に描く未来予想図は ほら思った通りに叶えられてく」というわけである。
 不思議なことにといおうか、当然のことにといおうか、多くの予想は楽観的であり、また予想した時点での僕達の価値観や周りの状況などに大きく規定されている。科学が万能で、経済の成長や人類の進歩が自明だった時代、21世紀は薔薇色の未来であった。テレビ電話にロボット、完全自動運転の自動車等々、機械文明に囲まれて快適に暮らす人類のイメージである。今、その21世紀を目前にして、確かにテレビ電話は一部で実用化されているが、まだまだ酷いコマ落ちで、しかも通信費がかさむ。それにあの当時、人々がリサイクルや二酸化炭素の削減をめぐって右往左往するという未来予想図を描いた人は、まず皆無であっただろう。ことほど左様に未来とは予測不能なものであり、不確実なものである。「予想」が気休めの域を抜け出すのは、想像以上に難しい。
 そんな中、「未来日記」である。未来の自分の行動を自分ではない誰かに決めてもらって、敢えてその通りに行動しようというわけである。僕が思うにこの「未来日記」に人々が夢中になるのは、未来に対する閉塞感を忘れたいということがその根底にあるのではないか。そもそも未来は自分では決められない。「ずっと心に描く未来予想図は」たいてい思った通りにはならず、挫折感を味わうことの方が多いであろう。であるなら、自分で未来予想図を描くのははなから諦めて、他人の書いた未来の日記を自分から選んだ未来(というより、それ以外には選べない未来)と思いこんで、その通りに行動する方が、挫折感を味わわなくてすむ。たとえ愛する人と理不尽にも別れる結末になったとしても、それを選んだのは自分ではないのだと、心のどこかで言い訳ができるのである。けれどもそれは、日常の僕達の姿である。多くの場合、僕達は自分で選択していると思ってはいても、実は何かに選ばされているのだ。第一、僕達は親や家庭を選べないし、自分以外の誰かになることを選べない。望んで入ったわけではない会社も、自分で選んだことになっている。「未来日記」は、そうした僕達の「未来」に対する無力感を残酷なまでに正確にシュミレートしてくれる。僕達はこの不自由で出口のない日常にも実は隠れたシナリオライターがいて、僕達はその通りに動いているだけなのだと思いこみたがっているのかの知れない。そうして、人は日常を生き延びていく。
 そして今や、人類は歴史上最も確度の高い未来予想図を手に入れようとしている。「ヒトゲノム」である。この予想は、ほぼ確実に現実となる。予想図というより、未来の設計図である。より正確な設計図を描けるようにと、いくつもの国や企業がしのぎを削っている。程なくそれは現実になるだろう。だが、より正確な未来を手にすることは、果たして僕達にとって本当に幸せなことなのだろうか。勿論、それもまた未来の話である。当然のことながら、死の他に未来から逃れる術を僕達は持たない。


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