Diary?
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2005年02月20日(日) アレルゲンをアレル源だと思っている人がものすごく多いことに気がついてびっくり。

 この間父と電話でしゃべっていて、花粉症の話になった。父は何年か前に発症したので、「そろそろ対策とらないと今年は辛いらしいよ」などと言っていたら、「お前はどうなのだ、ひどいアレルギーだろう」と聞かれて、「え、私は大人になってから春先のアレルギー無くなったよ」と答え、ああそうかこういう話はずっと母としていたから父は知らなかったのかと思った。

 普通の母と娘、まあ普通ってのもよくわからないんだけど、よっぽど特殊な確執があったり気が合わなかったりでない限りは、母娘は一生喋り倒す場合が多いと思う。周りの人たちを思い起こしても大体そんな気がする。うちの場合は父もよく喋る方なので、父との会話も平均よりは多いかもしれないが、母との比ではない。とにかく男の人が想像する以上に、母娘は喋りまくっているのだ。母が亡くなった後、家のことで父と喋っていて「ママはそんなことまでお前に喋っていたのか」と驚かれたことがある。そうよ、家の事情から若い時の二人のデートのこと、子供の頃のことから近所の噂まで、もう清濁併せ呑む喋りっぷりなのよ。特に大人になってからはね。

 それで改めて父に説明したのだけれど、子供の頃からの私のアレルギーはスギ花粉ではなかったようで、大人になったらけろりと治ってしまったのだ。毎年春になると涙とくしゃみが止まらなくなって、ひどい年には顔にも炎症が出てぱんぱんに腫れて丸顔になったりした。私が子供の頃はまだ花粉症という概念は一般的ではなく、アレルゲンのテストもされなかったので今となっては何だったのかわからない。耳鼻科でアレルギー性鼻炎と診断されて薬をもらい、眼科でアレルギー性結膜炎と診断されて液体の目薬じゃなく軟膏を眼にぐりぐり入れられたり、皮膚科では紫外線アレルギーかもしれないから外に出るななどと無理なことを言われたりと、とにかく対症療法のみだった。

 3月、4月は色んな転機がやってくるけれど、ほとんどの場合その思い出は涙と鼻水の記憶とともにある。大学に入学する年の3月頃、大阪にアパート探しに行った。羽曳野の古市という町で探してみることにして、母と二人で近鉄の駅を出て最初にしたことは、不動産屋を探すことではなく薬局を探すことであった。大阪までの車中で発症して、とにかく目薬と鼻炎の薬を買わないことには、部屋探しどころではなかったのだ。薬を買ってその辺の喫茶店に飛び込んで飲み、やっと落ち着いてアパート探しに取りかかった。だから私は古市に住む前から、古市の薬局と喫茶店の場所だけは知っていたのだった。ああ、自慢にもなりゃしない。


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