Diary?
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二胡の先生が何度も「鏡を見て練習してみなさい」とおっしゃるのだがあいにくと家には大きな鏡が無く、手鏡以外の鏡といえば台所にある細長い棚の扉が鏡になっているくらいで、台所で弾くのも寒いし狭いしどうしたもんかと躊躇っていた、けれども考えてみれば部屋と台所の間の戸を開け放して棚の扉を部屋の方に向けて開けておけば部屋に居ながらにして鏡を見て弾けるのだと、少々寒いのは我慢して足下にストーブを置けば良いのだと気がついてその体勢で練習してみたのがもう三日前になるのだった。
「なんてこったい」鏡に映ったその姿は自分で思い描いていた姿勢とは大きくかけ離れていて、私が水平に動かしていると思っていた弓は右の方で大きく上下しておりそもそもまっすぐ座っているつもりが妙な傾きを見せていてまったくもってけしからん、二胡も二胡だが自分の身体感覚についての信頼ががらがらと音を立てて崩れてゆくのは止めようもなく、これは初めて録音された自分の声を聞いた時以来の衝撃だなどと弓を持つ手を矯正しながら忸怩たる思いに苛まれていた。私がまっすぐすたすた歩いているつもりのこの歩き方は果たしてまっすぐすたすた歩いているように見えているのか、気持ちを素直に表現しているつもりの顔の表情はほんとうに私の気持ちを表しているのかなどと自信の崩壊による疑問が次々と湧き起こり、ついでに「ねえ私ちゃんと笑えてるかな」って気持ちの悪い台詞を思い起こし、この台詞の元ネタは一体何なのかああほんとうに気持ちが悪いと少々不機嫌になる。
何故このような文体で書いているのかといえば先週レーモン・クノーの「文体練習」を読み、今週は宮沢章夫の「不在」を読んでいるからであり、「不在」は北関東の小さな町を舞台にそこで起こった事件をハムレットになぞらえて書かれているのだけれど、その文体は一文が非常に長く硬質でたいへん読みにくい。読みにくいのだが読んでいるうちにその悪魔的な魅力に引き込まれるのも事実であって、ではこういう文体は書いてみるとどのような気分なのかと、こんな文体で書いたことなど一度も無いのだがやってみるとこれが非常に気持ちが良い、意外なことに。あんまり気持ち良く書けるので時々これで書いてやろうと思ったりもするのだった。
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