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何度か書いているような気がするのだけれど、 私は時々、書店や図書館で本に囲まれていると、途轍もなく絶望的な気分になることがある。 でも、それは同時に、途轍もなく幸福な時間でもあるわけで。 つまり、千年ニ千年の昔から、人間はどうにかして何かを伝えようとしてきたと云うこと、 そして、私はそれを一体どれだけ受けとめることができるのだろうか?と云うこと。 書物は、そういったことを一番端的に語りかけてくるからなんだなぁ、きっと。
…ということを今夜またリピートした僕の生きる道・最終話を見終わった時に考えたのでした。
でも、伝えたい何かを書物のような形ある物に残せる人は一握りの幸運な人だし、 例えばDNAという形で残すことだって叶わない人もいる。
だけれど、ひっそりと生きて、ひっそりと去って往く人生でも、形ある物を残すことができない人生でも、 ひっそりと何かを残していくこともできるのだ、ということ。 それは、決して天から運命的に与えられた機会ではなく、誰の中にもある可能性なのだということ。 それって、当たり前だけど、スゴイことなんじゃないだろうか?
透明で硬質だけれど、いつまでも芯に小さく火が燃えている鉱石のようなドラマでした。 私はクサナギツヨシを贔屓にして幾年月、この人がどんどん変わって行くことへの嬉しさと淋しさと、 反対に変わらずにいることへの安堵の気持ちを繰り返し味わってきたけれど、 この最終話を見た後では、そんなことはどうでもよくなってしまった気がします。 だって、あれは中村秀雄先生だから。
忘れないでください。でも、縛られないでください。 秀雄先生からみどり先生へのメッセージは、 同時に、秀雄先生から私たちへの、秀雄先生からクサナギさんへのメッセージなのでしょうか。
とりあえず、私はみどり先生にはなれないのです。 何故なら、砂肝が苦手だからなんだよーっ! (とにかく橋部さんの脚本は素晴らしい。ノベライズは買いですかね、やっぱり)
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