前に、学校で個人面談があって、担任のKさんが、 「言葉っていうのは意外と力がなくて、ヴィジュアルの方が力のあることの方が多い。 例えば、雑誌で原爆ドームの写真が全面に載っているページがあって、その上に活字があるとするじゃない?そうすると、まず見た人は、原爆のイメージで読み始めるよね。で、その文の内容が『今日、蕎麦を食べた……』で始まっていても、そのうち原爆に繋がるだろう、と思っている。 内容がどんなものであろうと、写真や、フォントの方が力を持つことの方が多いんだ」 ということを言っていた。 そう言われると、そうだ。 映画や写真は、私はあまりよく知らないし、デザインも、あまりわからない方だ。ヴィジュアルについて疎い。 私は言語表現というものがすきで、言葉はすごくこだわっていた。 限られたところで、情緒を出したり言葉遊びが出来るのが、面白いと思ってるのだと思う。 で、なんとなく思うのは、言葉というのは単体で存在することがないので、ヴィジュアルの力を無視して進むことが出来ない、ということ。 映画などでなくても、本でも普段の生活に置いても、もっとヴィジュアルの力について考えていた方がいい、ということ。 ヴィジュアルのパワーの方が、他人に対して効力があるし、コミュニケーションも、ヴィジュアルでとっていることが多い。 そういうことを考えた私はすこし、自分の見た目も気にすることにした。 今まで、ヴィジュアルに無頓着だった気がする。 ファッション、ということだけでなく、姿勢や表情やなんか、人にどう受け取られているか、もう少し考えてもいいな、と。 今まで言葉のことばかり考え過ぎていたな、と。 例えば、人と話すとき、 私は自分が話すときは、自分の喋る言葉ばかりを気にしているけれど、 相手が話すときは、喋ってくれている内容を気にするのは二の次だったり、してる。 相手のしぐさや表情を、目のふせかたを、横の向きかたを、見てる。 聖書の始めには、 「はじめに言葉ありき」 と書いてあるけれど、きっと始めにあるのは言葉なんかじゃない。 あるのは、「もやもや」だわよ。 言葉があるから、モノがあるわけじゃない。 言葉がなくても、 もやもやがあるのよ。 そしてそのもやもやは、言葉には互換不可能なのよ。 言葉って、信用出来ない、と思った。 伝えたいことがあったら、泣けばいいと、正直、思ってた。 でもきっと、それも違うのだろう。 この世界には信用できる言葉は、なにもない。 伝えるツールって実はないのかもしれない。 あるのは、もやもやだけ。 だけど、楽観視してる。 人と話すのがこんなに楽しいのはきっと、何かあるからなんだと思う。 住みよい、いい世界だと思う。そうでしょ?
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