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言葉よりも
2002年08月10日(土)

前に、学校で個人面談があって、担任のKさんが、
「言葉っていうのは意外と力がなくて、ヴィジュアルの方が力のあることの方が多い。
例えば、雑誌で原爆ドームの写真が全面に載っているページがあって、その上に活字があるとするじゃない?そうすると、まず見た人は、原爆のイメージで読み始めるよね。で、その文の内容が『今日、蕎麦を食べた……』で始まっていても、そのうち原爆に繋がるだろう、と思っている。
内容がどんなものであろうと、写真や、フォントの方が力を持つことの方が多いんだ」
ということを言っていた。

そう言われると、そうだ。

映画や写真は、私はあまりよく知らないし、デザインも、あまりわからない方だ。ヴィジュアルについて疎い。
私は言語表現というものがすきで、言葉はすごくこだわっていた。
限られたところで、情緒を出したり言葉遊びが出来るのが、面白いと思ってるのだと思う。
で、なんとなく思うのは、言葉というのは単体で存在することがないので、ヴィジュアルの力を無視して進むことが出来ない、ということ。
映画などでなくても、本でも普段の生活に置いても、もっとヴィジュアルの力について考えていた方がいい、ということ。
ヴィジュアルのパワーの方が、他人に対して効力があるし、コミュニケーションも、ヴィジュアルでとっていることが多い。

そういうことを考えた私はすこし、自分の見た目も気にすることにした。
今まで、ヴィジュアルに無頓着だった気がする。
ファッション、ということだけでなく、姿勢や表情やなんか、人にどう受け取られているか、もう少し考えてもいいな、と。
今まで言葉のことばかり考え過ぎていたな、と。

例えば、人と話すとき、
私は自分が話すときは、自分の喋る言葉ばかりを気にしているけれど、
相手が話すときは、喋ってくれている内容を気にするのは二の次だったり、してる。
相手のしぐさや表情を、目のふせかたを、横の向きかたを、見てる。

聖書の始めには、
「はじめに言葉ありき」
と書いてあるけれど、きっと始めにあるのは言葉なんかじゃない。
あるのは、「もやもや」だわよ。

言葉があるから、モノがあるわけじゃない。
言葉がなくても、
もやもやがあるのよ。
そしてそのもやもやは、言葉には互換不可能なのよ。

言葉って、信用出来ない、と思った。
伝えたいことがあったら、泣けばいいと、正直、思ってた。

でもきっと、それも違うのだろう。

この世界には信用できる言葉は、なにもない。
伝えるツールって実はないのかもしれない。
あるのは、もやもやだけ。

だけど、楽観視してる。
人と話すのがこんなに楽しいのはきっと、何かあるからなんだと思う。

住みよい、いい世界だと思う。そうでしょ?




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