Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2022年03月11日(金) 平井千絵(フォルテピアノ奏者)






メトロ動画広告でダミアンハースト国立新美術館、ドットで桜、かぶっている明るい黄色の帽子がステキ、黄色と青色でウクライナ国旗、




平井千絵(フォルテピアノ奏者)が、浜松市博物館所蔵の1935年設計のヤマハのピアノを弾いた動画、先週3/5のもの、

https://youtu.be/Fwfztu5f3Yk

未知の楽器、を、拓きつつすすむ、かんじ、これこそ生で、その場で、共有したい体験です、確かに音は録れている集音マイクを通じて、でもそれはチガウ音、ふたつの耳や体表でフォルテピアノ全体の響きをダイレクトに会場のエーテル空間に浸されながら聴くことは、集音マイク振動電波デジタル一点観測データをバイアス必然の再生機器によって鼓膜を震わせてみても、

ジャズもロックも録音物化した体験から脳を構築させてきたけれど、もちろん録音物でなければその世界は成立してないさ、クラシックとかインプロや能はライブに行かなきゃ我思う、

録音物残していないインプロ奏者にきいたら、だって録れてないんですもの、と言われたの、わかるなり、




あがた森魚昨日投稿テキスト

明日、午後4時頃、王子飛鳥山の夕陽を観にいきませんか?
トライアングルでも、カリンバでも、シェケレでも、マンドリンでも、ギターでも、
音のでるものを携えてくるのはすばらしいことです。
けれども、手ぶらでもかまいません。
王子岩垣界隈を一時間前後でもうろつき歩きませんか。
イワガキタルホの影法師を伸ばしてみる練習です。
これは、一昨年の6月のアジサイを眺めながら、
の「ギターを背負って歩く練習」の番外編です。
「11年目の3月11日」への、ささやかな黙唱。
いや、未来へ折り返す既視感の確認です。
     *   *   *
そのあと、北とぴあで、稲垣足穂「タッチとダッシュ」のオノマトペ(朗読らしき^^)
と「わんだぁるびぃ2021(ダイジェスト)」の上映など。7時くらいまで。」




元来日本人には理想なく 強きものに従ひ その日その日を気楽に送ることを第一になすなり。
永井荷風 断腸亭日乗」 1941年6月15日




「聴く」ことを媒介に、九〇年代の音響派はドローンへ横滑りする。 ジャズは純化した即興と形式の再考に二分し、USインディの試行と錯誤は音楽の土壌のゆたかさの象徴となる。このまま、 音楽の歴史は慣性の法則ですすみ、どこかのだれかの創発的な表現が歴史の弁証法を励起する ――この牧歌的かつ近代的な見取り図への信頼は、しかしシステムの逆襲にみまわれる。
前衛音楽入門 松村正人 2019



ミニマリズム以降、革新的な方法論を打ち出せなかった前衛音楽は六〇年代末にはベリオやシュニトケなど、引用と統合による総合化をはかるが、七〇年代以降、先行した方法論から調性や引用という簡易的な要素を抽出した新ロマン主義の揺り戻しに見舞われる。 カーデューやフレデ リック・ジェフスキーが共同体の持続音とみなした新しい調性(調性回帰)がそこでは骨抜きになったが、七〇年代末以降のポストモダニズムの時代には、アドルノがストラヴィンスキーとシェーンベルクを比較したのちもちだした 「真正さ」はもはや共有の理念でさえなく、真正さを捨てたところにはじまる前衛音楽にとっては、そもそも捨てるべきものさえ存在しない。この厄介な状況下で、シリアス・ミュージック側の前衛はラッヘンマンやファニホウらの音楽形式全体の 加算様式とでもいうべき「新しい複雑」 や、 フランスはIRCAMのミュライやグリゼーら、科学的音響派ともいえる「スペクトル楽派」などを生み出し、彼らはいまなおポスト前衛としてその歴史を営々と積みあげている。私たちはその一方で、七〇年代以降の前衛の歩みを大衆音楽にも枠を広げて考察したのは、前衛音楽の根幹にかかわるものがそこに転生していると考えたからである。ロックやジャズやエレクトロニック・ミュージックと共振し、その




三人の老婆がこれから眠りにつくと旅館のような木造建築物の中でぼくに話しかけてくる、ああそうですかどうぞどうぞ、このうち一人の老婆がキケンなのだ、夜明け前に起きて悪さをするのだ、その前に退散しなければならないのだ、老婆たちがそれぞれ消えるとふすまを開けて30代女子が三人入ってくる、和服姿の一人はわたしに跨ってきて早くしてと言う、いやもう逆立ちしても無理、唾液だけおくれ免疫の訓練するから、それではクリアできないわ、でも早くしないと老婆が起きてしまうんだ、わたしたちもそうよ、学生時代の麻雀仲間タニヤンがいやー混んでいた待たせたなと入ってくる、横にタツミがいる、ここで待ち合わせたのか、ただくんにクルマで送ってもらって朝まで飲もういい店知ってる?、そこにとしおパパが現れてマサノリこのついでにここを出た方がいいと言う、もちろん、交差点に出てゆくとわたしは裸で歩いており困った気持ちになる、向かいのベンチに子どもが二人座っていてわたしの子どもだと思う、守ってあげたいけどもうじき働けなくなるのでさっきの和服姿のお母さんのところへ行きなと話している、
夢の中でまで無責任やろーだな、ビミョーな夢だな、なにに気をつけろというのか、がう、




松岡 その通りだと思う。近代的な歴史から言 うと形而上学と形而下学の境目で演劇をしたアントナン・アルトーの挑戦に近いものを土方さんが体現したように思います。日本の説経節、 豊後節、人形振りとかを土方が今日的に見せてくれたというよりも、 世界の奥底に潜んでいた どこから何を始めていいのかわからないような 古代から続いている踊りがあって、それを集約したんだと思う。 トランス、憑依、コーリング を微細な領分に集約した。田中にもそれはあると思うんです。 彼は盆踊りの風景が忘れられ

ユリイカ二月号特集田中泯

コーリングとはなにか、おれがジョーマネリにやられた閃光トラックがコーリングというタイトル、
呼ぶ声が聞こえ、

コーリングとはなにか、深夜に寝付かれない朦朧に、人生で出会った人たちのわたしを呼ぶ声が、声、




















Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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