日記...マママ

 

 

父親の性向と家庭の雰囲気、大学芋がおいしい - 2010年11月24日(水)

とあるご家庭。お父さんの帰宅を待って夜からにしましょう、ということで、両親とわたしとの3人での面談を8時から約束していたのだが、来たのは父親だけだった。
お母さんとは先日ちょっと立ち入った話をしたところで、そのとき、わたしから言われた内容について、口では言わないけれども明らかに気分を害していて、もしかしたらそれで来なかったのかもしれない。
わたしの中では、父親に伝えるという形を取りながら実際に話をしたかった相手は母親だったので、非常に残念だった。
このお父さん、以前から気になってはいたのだが、今日じっくりと話をする中で単なる推測が少しだけ確信に近づいた。
たぶんこのお父さんは、仮に専門家の診察を受けたならアスペルガーと診断される人だ。
頭の回転が非常に速く、話が次から次へと紡ぎ出されてゆくのだけれど、脈絡がなく、相手の話を最後まで聞くことは難しい。
他者の言動を評価するときのこだわりや思い込みの強さも尋常ではない。
子どものこととなるとどんな親でも感情が先走って盲目的になるのは当たり前だけど、それとも違う独特の固執の仕方が、アスペルガーを強く匂わせるものだった。
もちろんそんなことわたしからは言えないし言わないけれども、ご自分でも思うところはあるようだった。
自身の中にある社会への不適合性を自覚し、苦労を重ねながら着地点を模索してきた過程を、それとなく話してくださった。
わたしは、中学生にしては大人びたアンニュイな雰囲気を漂わせている娘さんの心を思った。
娘が自分の考えを素直に話してくれない、とお父さんは嘆いていた。
思春期の女の子はみんなそんなものです、教室ではしっかり話してくれていますから大丈夫ですよ、と月並みな答えを返しながら、このお父さんには、きっと話したくても話せないのだろう、と思った。
お母さんは、お父さんとは対照的にいつもはきはきと元気のよい方で、理屈っぽく物事を考え込むことを好まない。
娘さんも、お母さんには比較的いろいろなことを話すらしい。
けれどお母さんに言わせると「あの子は、わたしの言うことなんて聞きませんから」「あの子の考えてることは、わたしにはわかりませんから」と、妙に投げやりな、諦めきった口調になるのがやはり気になっていた。

当の本人はどんな子なのかと言うと、正直、あのお父さんの子どもだなあ、と思うのだ。
こだわりが強く、そして面と向かって誰かと話すのがとても苦手だ。
「会話をするときは相手の目を見て話しましょう」と幼い頃からいろんな人から言われてきているだろうし、わたしと話すときも目を見ようと努力はしている。
けれど、目を合わせるのが非常に苦痛なようなのだ。
その苦痛さ加減が、「他者と視線を合わせるのが苦手」という自閉症の子どもに広く見られる特徴と重ならずには見られない。
勉強の出来は決して悪くない。むしろいいほうだ。
顔立ちは整っていてかわいらしく、運動も割とできる。
そんな彼女は、自己評価が非常に低い。
それがまた、他者との交流をより一層困難にしている。
妙に投げやりで諦めきった、あの母親の口調をそのままなぞったかのような人生観が、中学生の彼女の言動からすでに見て取れる。
こんなに将来有望な要素をたくさん持っているというのに。

彼女には、高機能自閉症の弟がひとりいる。
彼は本当に典型的な自閉症の子で、むしろ「わかりやすい」。
自閉症の子と付き合うためのハウツー本は巷にあふれているし、それに書いてある通りにやれば、基本的にはうまくいく。

でも、姉の彼女はどうだろう。
彼女は自閉症ではない。
だから周囲は彼女を「普通の子」として扱おうとする。
でも、彼女は実は「普通」ではない。
第三者のわたしにははっきりと見てとれる。
わたし自身に、似たところがあるからなのかもしれない、とも思う。
彼女の父親はわたしの父親ととてもよく似ていて、そして彼女も、中学生の頃のわたしと、とてもよく似ている(運動神経は似てないけど)。
最近思うのだけど、家族とは、その善し悪しにかかわらず、ただ「性格」とか「癖」とかいう言葉にとどまらない、「魂」とでも言うべき目に見えない何かを受け継ぎながらつながっていく存在なのではないだろうか。
自閉症の発現に、医学的な意味での「遺伝」がどれほどつながっているのか詳しくは知らない。父親が広義の自閉症に似た特徴を持っている人間だから娘や息子もそうなる、と単純に言うことなどできない。
だから、医学的な意味での「遺伝」なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。それはわたしにはわからない。
でも確かに、彼女は父親の「魂」を受け継いでいる、というか、受け継がされている。そして「普通の子」であるはずの、娘のこだわりや偏屈がどうしても理解できず、心理的に距離を置かざるを得なくなってしまっている母親。

最近流行のスピリチュアルどうたらとかパワースポットでどうとかいうのも、たぶんこの感覚がつながっているのだろうと思う。
スピリチュアルが好きな人は、こういう「よくない魂」の呪縛から抜け出したいのだろう。なんだかよく知らないけれど詳しそうな人にいろいろと手間をかけてもらってその末に「もう大丈夫、あなたの魂は解放されました」というような意味のことを言われたら、確かに、ああもう大丈夫、とすごい晴れ晴れした気分で心機一転、明日から元気はつらつで過ごせそうな気がしてくるだろう。今これを書きながら想像しただけでそんな気がしてくる。

わたしは、年齢的には彼女の両親と彼女との中間にいる。
それぞれと15歳ずつぐらい離れている。
でも心は圧倒的に彼女に近い。
自分がまだ親という立場に立ったことがなく、接する機会が多いのは彼女のほうだから、というのもあるし、それに何より、かつての自分と重ねずにいられないからだ。
お父さんは
「娘は小さい頃から、嫌なことを『嫌だ』とはっきり言えない子だった」
ということを、何度も繰り返し言っていた。
彼女を「嫌」と言えなくしたのは、お父さんであり、お母さんだ。
対話のできない父親と、対話を諦めている母親が、彼女を自己表現の苦手な子にした。
でもそのことを認めるのには、お父さんにもお母さんにも、途方もない心の痛みと、時間が必要だ。
一番うちと似てるなあ、と思ったのが、誰もが互いに「親がうるさいから…」「わたしは違うと思うんですが、女房がこう言うもんで…」「わたしはどうでもいいんですが、旦那がこだわってて…」と、責を誰か自分以外の人間に問おうとするところだ。その心理も痛いほどよくわかる。一度自分の非を認めてしまったら最後、家族全員からの永い永い糾弾と制裁に見舞われ続けることになるのだ。
感情に任せて言うのであれば、わたしはきっと、お父さんとお母さんのそういう態度こそが彼女をそういう子にしているんですよ、と言っていたと思う。それは多分、わたし自身の叫びでもあるんだと思う。お父さんとお母さんのせいで、あたしはこんな風になっちゃったんだよ。同様に、父には父の、母には母の言い分があることをわたしは知っている。お前のせいで俺はこうなった。わたしはあなたの被害者。お互いに誰も自分は悪くないと思っている。わたしも含めて。そのどれもが正解なんだろう。誰もが責を逃れるために必死に自己弁護をしている。それぞれ内心で反省点はあるものの、そのそぶりを見せてしまったらもう最後なのだ。

というように、自分が「家族」という組織に不向きであることをなんとなく再確認しながら帰宅。
両親が自家菜園で育てたさつまいもで、大学芋を作った。
これがうまい。超うまい。
大学芋とはこんなにうまい食べ物だったか。
調子に乗ってどんどん作り、どんどん食べた。
それでも余ったので、明日、仕事で会う母におすそ分けをすることにした。
きっと喜んでくれることだろう。

件の彼女も大人になればこのような着地点をおのずと見いだしていくのだろうけれど、それまでの彼女の苦難を思いやると、わたしは涙が出そうになる。
彼女は幸いにもわたしほど変に理屈っぽい性格ではないので、精神的になんだかどうも調子が出ないなあ、というときでも、なんとかやり過ごすぐらいの柔軟性は保てると思う。
せめて、同世代のよき理解者が早い時期に現れてくれることを願うことぐらいしか今のわたしにはできない。それをとてももどかしく、不甲斐なく感じる。



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