橋本裕の日記
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仏教について高校時代から興味を持ち、いろいろな経典や研究書を読んできた。学問的に研究し始めると、なかなか大変である。しかし、私は仏教の根底にある考え方は、それほど難しいものだとは思わない。
それはすべての存在は「善」であるという考え方である。存在に具有するこの善なる性向を「仏性」(ぶっしょう)という。私たちはこの仏性をだれもが持っている。たとえどんな極悪非道な人間でも、かならずその人間性の根底に「善なる心」を持っている。
「善」とは何か。それは自己を活かし、他者を慈しみ大切にする心である。他者を排斥するのではなく、ともに支えあい、しあわせに生きようとする開かれた心、それが「仏性」である。すべての人間は潜在的にこの心を持っている。
この考え方は「法華経」の根本思想であるが、日本の仏教者のなかでこれを独特な方法で打ち出したのは親鸞だろう。彼は歎異抄のなかで、「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」と語っている。親鸞にとって「悪」とはたんに排斥すべきものではない。むしろ悟りを開くための正機なのだ。彼はまたこうもこう語っている。
<親鸞は父母の孝養のためにとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり>
最近の生物学の説によれば、現在この地上に生きている60億あまりの人々も、10万年もさかのぼればただ一人の女性(グレート・マザー)の子孫なのだという。まさに親鸞のいう、「みなもって世々生々の父母兄弟なり」である。さらに人間も進化の過程で生まれてきた。人間を含めて、すべての生物はひとつにつながっている。
仏教では涅槃経に「一切衆生悉有仏性」と説かれていて、「山川草木、悉皆仏性」とも言われる。つまり生きとし生けるものに限らず、山、川、草、木、その他のすべてのものに私たちをよりよく生かそうとする働き、すなわち仏性をもっていると考える。これも現代の生態系の科学と矛盾しない。科学的思考のたどり着いた結論を先取りした思想である。
デカルトはすべての人間は「良識」を持っていると主張した。そしてこの「良識」に基づけば、私たち人類は無限に進歩することができると考えた。デカルトの言う「良識」は、その後フランス革命を生み出し、人類の歴史を変えることになった。
スピノザは、さらにデカルトの「良識」のなかに「神」の姿を発見した。そして、「この世に実在するのは神のみである。万物は神が姿形を変えたものである」という「汎神論」を展開した。私たちはひとりひとりすばらしい力を恵まれている。このすばらしい力を、デカルトは「良識」とよび、スピノザは「内在する神」と呼んだわけだ。仏教はこの聖なる存在を「仏性」と呼ぶ。
私たちはだれもが「仏」であり、「仏の神通力」をもっている。この能力を活用することで、私たちは慈愛とやすらぎに満ちた人生を送ることができる。このことに気づき、この思想を実践すれば、人生が実り豊かで、すばらしいものになる。
(今日の一首)
われらみな仏のこころ宿るなり 唯仏与仏でこの世はたのし
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