橋本裕の日記
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1年間担任をはずれ、1年間はノンビリ過ごしたものの、その明くる年には、再び1年生の担任をまかされた。結局このあと、定時制高校に転勤するまで5年間連続で前任校で担任をした。そしてまたストレスフルな毎日が襲いかかってきた。さいわい、すでに恐ろしい腰痛を経験していた私は、度を過ぎたストレスをしのぐ方法をあみだしていた。
それは何かと言うと、心のなかに「感度調節ダイアル」をイメージし、必要に応じて、この「つまみ」を回して、外界からの刺激をコントロールするのである。ダイアルの目盛りを0に近づければ、刺激は遮断される。これでストレスを弱めようというしかけである。これはいつもうまく働くとはかぎらないが、それでも結構役に立つので、いまでも愛用している。
もともとはシリアスな現実から逃避したいために発案されたのだが、もうすこし積極的な効用もある。つまりこの装置があれば、外界の出来事にいちいち敏感に反応しなくてすむ。日常の喧騒から一歩退いて、もうすこし深い視点から身の回りの現象を観察できる。そこからさまざまな知恵が浮かんでくるし、これまでよく見えていなかった事柄について腰を落ち着けて考えることができる。
これは「鈍感力」という言葉に置き換えてもいい。鈍感力はゆとりを生み出し、ある種の「いい加減さ」を生み出す。生徒の乱暴な言葉にも、ただちに反応して、「何をいうか」と腹が立たなくなる。「なぜ、この生徒は、こんな乱暴な言葉を吐くのだろうか」と冷静に受け止めるわけだ。この冷静な反応ができることが、「ストレス調節つまみ」の利点だといえよう。
生徒はしばしば授業中に私語をしたり、不登校になったり、暴力行為やいじめなどの非行に走る。そうした問題行動を目の当たりにして、教師も親も「困ったことだ」と思う。また、子どもたち自身が苦しみ悩んでいる姿を見て、可愛そうだ、何とかしてやりたいと思う。
こうした問題が起こってくる根底には、いろいろな原因が考えられる。たとえば、本来人間はそうした悪を秘めた存在なので、これを教育の力で矯正しなければならないという性悪説の考えがある。しかし一方には、人間は本来善なる存在で、社会が悪いから非行や犯罪や起こってくるという性善説の考え方もある。
私はどちらかと言えば、人間は本来「助け合って生きる」ように作られている存在で、私たちが犯罪や非行に走るのは、私たちが置かれている社会環境の問題が大きいと考えている。たとえば「いじめ」の問題でも、それは人間の本性ではなくて、弱肉強食を是とする社会の構造が生み出すものだと考える。だからいじめをなくすにはこうした社会のあり方にも眼をむけ、これを矯正していかねばならない。
とはいえ、目の前で苦しんでいる子どもたちを見て、私たちは「社会のせいだ」と暢気に構えているわけにはいかない。ともかく、持てる力を総動員して、これを阻止しようと努力するわけだ。こうして一応は問題は終息するかもしれない。しかし、これはかりそめの対症療法でしかない。だからもぐらたたきのように、次々と休みなく事件が起こってくる。
それではどうしたらよいのか。私は目の前の困った現象に対しても、そこに何か大切なヒントがあるのではないかと考えるようにしている。たとえば「いじめは悪い」ときめつけないで、「今のような社会では人間はいじめられたり、喧嘩をしたり、非行を犯したり、時には不登校を体験したりして、なんとかまともに成長するのだ」と前向きに考えるわけだ。
フランクルはナチス体験を記した「夜と霧」のなかで、「異常な環境では、異常な行動が正常である」と書いているが、これは平和な時代にあってもいえる事だろう。人が非行や犯罪に走るのは、すこしも異常なことではない。それはある意味で「正常」な反応なのだ。「鈍感力」が身についてから、少し違ったふうに、おおらかに世界を見ることができるようになった。そしてこのおおらかさが、心身の健康を維持する上でも大切なのだと気づいた。
(今日の一首)
人間は弱きものなり権力や 金の力もはかなきころも
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