橋本裕の日記
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2006年10月09日(月) 美しい瞬間

 この一年間、週末の楽しみはNHKテレビで「チャングムの誓い」を見ることだった。この長いドラマもチエ一族が滅亡して、終わりに近づいた。主人公チャングムを演じるイ・ヨンエがいい。しかし、仇役のチエ女官長も韓国では意外な人気だという。たしかに彼女の仇役としての演技が冴えていた。それゆえにチャングムの真っ直ぐな生き方が光り輝いたわけだ。

 ドラマを盛り上げるには欠かせないのが、主人公に敵対する悪役の存在だ。先日観劇した「いただきまあす!」の場合、敏子先生の地位を奪おうとする政恵がまず第一の悪役だが、工藤さんが演じた生徒もその悪役の一人として重量級の存在感があった。とにかくこの会社員上がりの男、鼻持ちならぬ「嫌な奴」なのである。

 この男、料理教室に通いながら、調理実習に参加しようとしない。敏子先生の指導にも従わないばかりか、嫌みな批判ばかりしている。そして敏子先生が買う必要がないという高価な料理セットも、「10万円くらい安い物だ。私は買うよ」と敏子先生に反抗して何度でも言い募る。

 この男、海外滞在経験も長く、フランスの三ツ星レストランも食べ歩いているという。「いまさらきんぴらごぼうや、卵焼きなんか作れるか」と、敏子先生がすすめる家庭料理を鼻から馬鹿にして、横文字の高級なフランス料理の話をする。だから、しだいに教室で浮いた存在になる。

 そんな男を料理に参加させようと、やさしく声をかける気のいい主婦がいるが、そうすると余計に反抗して、冷笑的な態度になる。それほど料理教室が気に入らないのなら、さっさとやめてしまえばいいのに、エプロンを脱いだり着たりして、結局のところ、教室から去ろうとしない。迷惑至極な男である。嫌がらせとしか思えない。

 ところが、敏子先生と助手の政恵が学院長によばれて教室を出た後、この料理教室に参加している若い女が、この嫌な奴の批評をはじめる。この男は一流企業に勤めていたが、外国に飛ばされて、そこで長いこと意に染まぬ仕事をしていた、憂さ晴らしにレストランの梯子をしていたので、たしかに口は肥えている。しかし、日本に帰ってきても会社に居場所はなく、家庭でも鼻つまみ者。それで淋しくなってここに通い始めたが、このとおり、性格がまがってしまったので、ここでも鼻をつままれる嫌な存在。こうなると人間は救いようがない。もうどうしようもない最低の男。

 この若い女の心理批評が、男の様子を一変させる。それまで斜に構えてシニカルだった男が、「おまえたちになにがわかる。おれの苦しさがわかってたまるか」と感情を爆発させるのだ。そして泣き叫びながら料理中の食材を片端から床に投げつける。手のつけようもない荒れように、まわりの生徒達はただ呆然と息を呑むばかり。どうやら、女の知ったかぶりの心理批評が図星だったようだ。

 教室に戻った敏子先生は床に散乱した食材を見て、「大切な食材をなんてことをするのです」とさすがに色をなす。そして男の方に詰め寄るのだが、このとき生徒たちが口々に、男を擁護する。男を鋭く批判した女も「わたしのせいです。私が悪かったのです」と言い募る。この場面がなかなかよかった。観客席からもすすり泣きが漏れていたが、私も思わず涙した場面だ。

 出世をめざして精一杯滅私奉公したあげく、会社から見放され、自分を見失い、家族の愛情まで失って、もうどうしようもなく荒んだ男の心を、料理教室に集う人々は最後にあたたかく迎え入れる。しかも、彼等自身も人に言えないような辛い人生を抱えてここに通っている。そうした孤独で淋しい心と心が一つにつながった、なんとも美しい瞬間だった。


橋本裕 |MAILHomePage

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