橋本裕の日記
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友人の北さんが、「霊魂」について、今日の雑記帳にまとまった文章を書いている。私が日頃考えていることとほとんど同じだ。こういう思想が世界に広まれば、戦争はなくなるだろう。人権の蹂躙や自然破壊もなくなるに違いない。ここに全文を引用させていただく。
−−−−−個体意識と「霊魂」−−−−−−
江原敬介という霊能者がもてはやされている。スピリチュアルカウンセラーとかいう肩書きで(清新なイメージを加え)売り出したタレントである。私の尊敬していた美輪明宏が絶賛して「一心同体」なんて言葉まで使っていた。それを聞いて、彼も個体にとりついている「霊」などというものを信じて、そんなレベルで人間の存在を考察していたのかと、かなり失望した。
私は「魂(たましい)」というものは存在することを確信している。肉体が消滅してしまえば何もなくなるなどという浅薄な「物質論者」ではない。地球上の「生命」というものがひとつの大きな「存在」としてあることは、知性というものを持った生命体の一つであるヒトにも、発生の当初は、素朴に、自然に実感されていた。
アニミズムといわれる(私に言わせれば)最も高度な信仰形態が、人類発生当初には、どの民族にもあったのだ。それは<大きな生命>の一部として生きている実感がすべてという幸福な時代であった。
やがて「神」が出現し、それが偶像化され、増殖し、ヒトが神のような存在にまで発展して、文明社会からアニミズムという信仰が失われていった。それが「魂」の喪失ということである。大きな生命(自然)との一体感こそが、魂といわれるものなのだ。
そういう魂なるものに、個体や民族や、国家共同体などの「区別」はあるはずがない。地球上に存在する「生命」は一つの大きな「全体」なのであるから、個は「全体」とのみつながっていて、中間などは存在しないものである。
しかし、人類という奇形的な動物は、知能を発達させ<大きな生命>との分離を進めるうちに、まず「部族」、やがて「民族」、さらには「国家共同体の一員」というように、どんどん個の意識を持ち始めるようになった。
「部族」単位で生きていたうちは、個の意識はほとんどない。それは「民族」単位となって芽生え、「国家共同体」が成立して成熟していった。私の考えでは、そうした進化の過程で、アニミズム的な<大きな生命>への所属実感が次第に希薄となり、一方で枠づけされ、区切られて意識されていったのではないかと思う。
「部族」の段階ではまだ<おおきな生命>が他部族と区別されるような枠づけはなかった。しかし「民族」となると、かなり他民族とは違う枠づけがされるようになった(特にユダヤ人は強烈な選民意識のもとにヤハウェの神としてそれを意識した)と思う。
やがて「国家共同体」ともなると、成員はそれぞれかなり強い個の意識を持ち始め、個体としての肉体の単位で、それが所有する<独立した一部分>の<生命>を実感し始める。そこに、個体にとりついた<大きな生命>の一部としての「霊」が成立したのだ。
個体意識が確立するにつれ、「霊魂」という名称で、<大きな生命>が分割されたのである。そして分割されたそれが、独立した肉体にとりついているモノのように意識されたのである。
<大きな生命>は、仏教では「無我」「空」という言葉で表されるものである。<大きな生命>の世界を、涅槃ととらえてもよかろう。キリスト教でもイスラーム教でも、<大きな生命>はヤハウェの神(アッラー)である。ヒンズー教的な空海の思想では、それは「大日如来」として語られた。
個体にとりつく「霊」などというものはない。個体は<大きな生命>に所属しているだけだ。それが実感できない者が、肉体だけの存在だとする物質主義者になったり、とりついている「霊魂」によって生のあり方が変わると信じる狂信者になったりする。
いずれも、近代が生み出した「自我意識」の強すぎる人間が陥る、不自然で歪んだ、根元的な病状と言えると思う。
http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm −−−−−−−−−−−−−−
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