橋本裕の日記
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2005年11月05日(土) 自由と秩序

 個人の自由と社会の秩序をどう調和させるかということは、いつの時代でも大きな問題である。個人の自由を尊重し、これに重きを置くべきたとする人と、社会の秩序を重んじ、個人の自由は制限されるべきだとする人がいる。

 しかし、個人の自由か社会の秩序かという二項対立はディベートとしては面白いが、あまり実りあるものをもたらさない。なぜなら、個人の自由は秩序のよく保たれた良質な社会があって可能なことであり、良質な社会もまた自由な個人の存在に支えられているからだ。

 自由な個人を希求することと、秩序の維持された良質な社会を希求することは、何も矛盾することでも対立することでもない。それは車の両輪のように、助け合って機能し、おたがいを前進させる。

 こうした観点にたって、とくに「言論の自由」を尊重する良質な個人主義論を展開したのが、ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)である。彼はとくに「少数意見の尊重」こそが民主主義の原点であり、社会に多大な利益をもたらすものだと主張している。彼の「自由論」(1859年)から引用してみよう。

<個性の自由な発展は幸福の主要な要素である。それはまた、文明、知識、教育、教養といった言葉で表現されているもの必須の要素でもある。このことが痛感されているならば、自由の軽視される危険は存在せず、自由と社会による統制との境界を調整することについても、特別の困難を惹起しないであろう。

 不幸なことに、一般の考えによると、個人の自発性が固有の価値をもち、それ自体のゆえに尊敬に値するものであることは、ほとんど認められていない。大多数の人々は、現在のままの習慣に満足しているので、これらの習慣が必ずしもすべての個人にとって満足すべきものではないわけを理解することができない>

<意見の発表を沈黙させるということは、それが人類の利益を奪い取るということなのである。それは現代の人々の利益を奪うとともに、後代の人々の利益をも奪う。それはその意見をもっている人の利益を奪うだけではなく、その意見に反対の人々の利益さえ奪う。

 もしその意見が正しいものならば、人類は誤謬を捨てて真理をとる機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っていても、これによって真理は一層明白に認識され、一層明らかな印象を与えてくれる。反対意見を沈黙させるということは、真理にとって少しも利益にならない>

<対立する二つの意見のうち、いずれか一方が他方よりも寛大に待遇されるだけではなく、特に鼓舞され激励されるべきだとすれば、それは少数意見の方である。少数意見こそ、多くは無視されている利益を代表し、またその正当な分け前にあずかることができないという恐れのある人類の福祉の一面を代表している意見なのである>

<反対者の意見をありのまま受け止める冷静さをもち、反対者に不利になるようないかなる事実をも誇張せず、また反対者に有利となる事実を隠そうとしない人々に対しては、彼らがどのような意見をもっていても、敬意を払わねばならない。

 これこそは公の道徳である。この道徳はしばしば守られていないが、これを誠実に守っている人がいて、さらに守ろうとして良心的に努力している人々も大勢いる。このことを私はとても嬉しく思っている>

<人間は間違いをおかすものだ。そして真理と考えられているものも、その多くは不十分な真理でしかない。意見の一致が得られたにせよ、それが対立する意見を十二分に比較した自由な討論の結果でない限り、それは望ましいことではない。

 人類が現在よりもはるかに進歩して、真理のすべての側面を認識できるようになるまでは、意見の相違は害悪ではなくてむしろなくてはならぬものである。そしてこのことは、意見の相違だけではなく、人間の様々な行動においてもいえる。社会の発展のためには、異なった意見が存在していることが有益であるのと同様に、異なった生活の実験が存在していることもまた有益なのである>

 ミルはこの著によって「自由」がいかに社会に有益で重要なものであるかをあきらかにした。民主主義もまたこの「自由」の培地の中で育つわけだ。こうしたすぐれた古典が学校で教えられ、家庭で読まれて、もっと多くの人々に共有されれば、民主主義や個人主義について世間に流布する誤解もおおかた解消するだろう。

(参考文献)
「今こそ読みたい哲学の名著」 長谷川宏 光文社


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