橋本裕の日記
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2005年09月06日(火) お金とマネー

 貨幣というのは、もともとは交換の媒介手段です。それはまた、ものに値段をつけたり、貯蓄しておいたりする働きももっています。私たちがいわゆる「お金」と呼んで親しんでいるのはこうした手に取ることのできる貨幣です。

<われわれは交換のための象徴として貨幣をもつ>(プラトン「国家」)

<交換されるべき事物がすべて何らかの仕方で比較可能でなければならない。こうした目的のために貨幣は発生したのであって、それはある意味においての媒介者となる>(アリストテレス「倫理学」)

<貨幣は商品流通において主題の一つになりうるものではなく、財貨の交換を円滑にするために人々がたがいに同意し合った交換用具にすぎない。貨幣は商品流通の車輪の一つなどではけっしてない。そうではなく、それらの車輪の回転を円滑にするための潤滑油のようなものである>(デーヴィッド・ヒューム「市民の国について」)

<人が貨幣を求めるのは、貨幣そのものが欲しいからではなく、貨幣で買うことができる財貨が欲しいためなのである>(アダム・スミス「国富論」)

<諸生産物はつねに諸生産物によって、またはサーヴィスによって、買われる。貨幣はたんに交換をおこなう媒介物にすぎない>(デーヴィッド・リカード「経済学および貨幣の原理」)

 ところが、やがて「お金」としての貨幣だけではなく、「マネー」と呼ばれる貨幣が誕生しました。これは私たちが働いて手に入れる「お金」とはかなり違っています。どこが違っているかというと、貨幣そのものが「商品」になっているところです。

 ほんらいは商品を売ったり、買ったりするときに仲立ちとなり役に立つのが「お金」なのですが、マネーはそうしたものとははっきり違っているのです。それはマネーはマネー自身の世界を持ち、とめどもなく自己増殖しようとする存在だからです。

<金は価値を持つから流通するのに、紙幣は流通するから価値を持つものである>(マルクス「経済学批判」)

 簡単に言えば、マネーとはガン細胞のようなものです。ふつうの細胞は協力して生命体の維持のために働きますが、ガン細胞はただ自己増殖することしか念頭にありません。そして健康な体をむしばみ、やがてはこれを死に至らしめます。

 どうようにマネーに支配された社会はとめどなくその健康な姿を失っていきます。マネーは労働の意味をかえ、人生の意味を人々から奪い尽くします。自然を破壊し、人間らしいゆたかな感情さえも破壊して、マネー万能人間を世の中にばびこらせるます。

 「モモ」などの作品で有名なドイツ人作家ミヒャエル・エンデは「お金」と「マネー」の違いについて、こう書いています。

<重要なポイントはたとえばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つのまったく異なった種類のお金であるという認識です>

 評論家の内橋克人さんは人々の日常とともにあるそれを「お金」とよび、商品(資本)としてとりあつかわれるそれを「マネー」とよぶことにしているそうですが、私もこの使い分けが大切だと思っています。

 マネーの年間通貨取引高は300兆ドルです。世界の輸出入の決済に要する貨幣は8兆ドルです。世界のGDPの総計でさえ、30兆ドルに過ぎません。この世界の実体経済よりもはるかに巨大な虚構経済が存在し、そこでマネーが活躍しているわけです。

 問題はほんらい財やサービスを交換する<媒介物>にすぎない貨幣が今ではその本来の目的を離れて人間世界に君臨し、巨大化した虚構経済が実体経済をハリケーンのように襲来し、支配していることでしょう。

 タイのバーツ危機から始まったアジアの通貨危機もそうです。イギリスのポンドも危機に見舞われ、アルゼンチンのように国家破産する国もあらわれました。そして現在、横暴をきわめているグローバリゼーションの正体もそうです。

 もはやお金は財やサービスの潤滑油とはいえない時代に私たちは生きているのです。お金は巨大な車輪そのものとなって、あらゆるものを蹂躙しつつ、お金そのもののために牙を剥いて動きまわります。

 こうしたお金による人間疎外が深刻になるにつけ、人間はますます拝金主義者となってお金の奴隷にならざるを得ません。そうした外見だけは人間の姿をした<お金の亡者>が周囲にあふれてくるわけです。

  いま世の中を「お金がすべて」という価値観が覆いつつあります。ホリエモンが著作でそうかくと、若い世代を中心にしてクールでたいへんかっこいいと人気がでるのです。しかし、これは私たちの社会の将来を考えると、とても危険なことだと思います。

 それでは私たちはこうしたマネーの横暴からいかに平穏な日常生活を守ったらよいのでしょうか。そのために私はエンデや内橋さんの言葉に耳を傾けたいと思っています。内橋さんは著書の中で、ドイツ人作家エーリッヒ・ケストナーの次の言葉を引いていました。

<世界の歴史には、おろかな連中が勇気を持ち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気ある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気を持ったときにはじめて−−いままではしばしばまちがって考えられてきましたが−−人類の進歩というものが認められるようになるでしょう>

 マネー万能の思想がどんな人間や社会をこの世界にもたらすかを洞察し、マネーの魔力に支配されない賢さと、そうした大勢に流されないで、これに抵抗して生きる勇気を持ちたいものです。

(昨日は病院に行き、5時間あまりかけていろいろな検査をして貰いました。まだ、検査が途中なのですが、今のところの医者の診断では、脳幹に脳梗塞が生じている可能性があるということでした。まだ、文章を書くゆとりがないので、かって掲示板に投稿した文章を日記に採用しました)


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