橋本裕の日記
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友人の北さんが雑記帳に「梅原猛に学ぶ」というエッセイを連載している。7月27日のエッセイは「デカンショ体験の重要性」だ。北さんの雑記帳から梅原猛さんの文章を孫引きさせていただく。 <旧制高校生は弊衣破帽で、朴歯の下駄を履いて、デカンショを歌っている姿で表されるが、デカンショというのはデカルトとカントとショーペンハウエルで、歌は、このように哲学を論じて半年暮らし、あとの半年は寝て暮らすという意味だとまことしやかに語られたのである。私はこういう旧制高校生のモットーにきわめて忠実で、哲学書を読み耽り、ついに哲学を一生の仕事としてしまったわけであるが、このようなモットーに表れているのは、実利を否定し、真理を追求し、教養を尊重する精神なのである。
当時、旧制高校生の必読書は西田幾多郎の『善の研究』や阿部次郎の『三太郎の日記』、それに夏目漱石や芥川龍之介などの日本の小説、及びゲーテやロマン・ロランなどの外国の小説であった。そしてモーツアルトやベートーベンの音楽を語り、ピカソやシャガールなどの絵も論じられないようでは旧制高校では尊敬されなかったのである。高等学校の寮歌には、このように栄耀栄華を蔑視し、ひたすら夢と理想を追い求める旧制高校の生徒の心情がよく表れている。・・・
かつての日本の指導者は、ひとときにせよそのように教養とか真理とか理想とかいう言葉を何よりも大切にし、あるいは大切であるように見せかけねばならない時を過ごしたのである。戦後の教育には、幻想にせよこのような時が失われてしまった。青年は、受験戦争によってたくましく養成された実利精神を否定される時期をまったくもたない。こういう教育からの脱落者が恐るべき犯罪を起こし、そしてその成功者もまた金銭や地位の誘惑にまことにもろいことは幾多の事件によって明らかになった。
旧制高校の消失は教養の喪失をもたらした。もちろん旧制高校の教育を復興することは大変難しいことであるが、あの西洋においても東洋においても長いすぐれた伝統をもつ教養というものをどういう形で青年の身につけさせるか、大変重要な問題であるように思われる>
北さんもインド哲学に耽溺し、中村元とドストエフスキーとヘルマン・ヘッセと親鸞と埴谷雄高と安部公房と深沢七郎とニーチェばかり読んでいた時期があるという。このゆたかな読書体験がその後就職して実利的な社会で生きていく上でとてもためになったという。そして、こうも書いている。
<実利的な現実世界に完全に埋没して、抽象的、本質的にものごとを考える習慣を持たない人をよく見かける。いくら珍しい体験をしていても、多くの情報をもたらしてくれても、事務的な仕事の能力が高くても、そういう人の話は深みがなくて、つまらない。>
「真・善・美」のイデア世界からこころがはなれ、「利」のみの世界に生きるのはたしかにつまらない。仏教でいう迷いの世界を輪廻するだけだ。利害打算ばかりに頭を占領されていると、美しいものが見えなくなる。人間が薄っぺらで、つまらなくなる。
(参考サイト)
http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm
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