橋本裕の日記
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2005年07月02日(土) 仁者は山を愛す

 江戸時代に出版された「学者角力勝負付評判記」に、当時の学者の人気番付が書いてある。それによると、番付の最高位(大関)は、東に熊澤蕃山、西に新井白石だ。ちなみに、東の関脇は荻生徂徠、西の関脇は伊藤仁斎、中江藤樹が前頭に位置している。

 熊澤蕃山と新井白石の二人の勝負はどちらに軍配があがったのか。勝海舟は「勝舟談話」で「蕃山は奥底の知れぬものがある。どうも新井白石よりは上だよ」と書いている。江戸時代を通じて、庶民にも武士にももっとも人気の高かった学者が熊澤蕃山らしい。

 関脇の荻生徂徠も、「人才はすなわち熊澤、学問はすなわち仁斎、余子は碌々未だ数ふるに足らざるなり」と書き、幕末の開明思想家横井小楠も、「事を成す体の人熊澤蕃山この一人なり。この人国を治むる規模、甚だ遠大なり」と手放しの礼賛である。

 とにかく熊澤蕃山の人気は他を圧倒している。明治に入っても南方熊楠が手紙に引用しているくらいだから、人気は衰えていなかったのだろう。哲学者の西田幾多郎も親友を励ます手紙に「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」という蕃山の歌を記している。

 それでは、「この人国を治むる規模、甚だ遠大なり」というのはどういうことだろうか。それを象徴する明治時代の逸話が残っている。明治15年、土木技師の服部長七は農務省に請われて岡山の新田堤防築造の指導に赴いた。そのとき、壮大な石の樋門に目を留めた。

 その作りがあまりに精巧なので感心して築造者の名前を訊いたところ、熊澤蕃山だと教えられた。「自分がわざわざ来なくてもよかった。是非一度お目にかかって教えを乞いたいものだ」と役人に頼んだところ、「もう百年以上前になくなった人だ」と笑われたという。

<蕃山の手掛けた工事は、いずれもその場しのぎの安直な工事はひとつももなく、明治時代、服部長七が感嘆したように百年後、二百年後を見据えた永久的な造りであった。同時に、その労務管理においても、公役の人夫として集めた百姓の負担と疲労を最小限に抑えるべくきめこまかい配慮を示している>(「反近代の精神、熊澤蕃山」大橋健二)

 蕃山は堤防を築くときには、東で掘った土をわざと西側に運ばせ、西で掘った土をわざわざ東側にはこばせた。一見非能率のように見えるが、じつはこのように手間をかけることで、土が踏み固められ、長年の使用に耐える強固な堤防が出来上がった。「この人国を治むる規模、甚だ遠大なり」というのは、つまりこういうことだ。

 熊澤蕃山が十数年間、岡山藩をとりしきっていたあいだ、彼は新田開発をほとんど手掛けなかった。石高を増し、国を富ますには山野を開墾して新田を開発するのが一番だ。岡山藩にもこれを求める声が高かった。しかし、蕃山は山の木を斬ることを許さなかった。南方熊楠が触れている蕃山の著書「集義外書」から引用しよう。

<山川は天下の源なり。山又川の本なり。古人も心ありてたて置きし山沢をきりあらし、一旦の利を貪るものは子孫亡るといへり。諸国ともにかくのごとくなれば、天下の本源すでに絶つに近し>(集義外書)

 蕃山が新田開発に反対したのは、自然破壊だけではない。藩の財政を潤すために、民衆を困窮させてはならないということがあった。目先の経済的利益に目を奪われて、民衆の生活・生命が損なわれてはならないということを蕃山は強調した。

 彼は新田を開発するかわりに、貯水池や治水事業に力を入れて、民衆の犠牲を最小限にして従来の田畑の生産力の向上に努めた。さらに蕃山は武士の家禄を減らし、年貢の取り立てをゆるくすることまでしている。

 こうした一連の政策によって、蕃山の経世家としての名声は全国にとどろいた。蕃山が岡山で山林保護の法律をつくった18年後の1666年、幕府は「諸国山川掟」を発令し、山林の過剰開発を禁じ、植林を奨励した。

 この法令は、時の幕政をとりしきっていた4人の老中の名前で出されたが、その筆頭に署名している久世大和守は熱烈な蕃山崇拝者だった。蕃山の熱心な「山林保護思想」が幕府を動かし、日本の森林を守ったわけだ。

 蕃山はこのように各地の大名や幕閣にさえ熱烈な支持者をもっていた。その筆頭は何と行っても岡山藩主の池田光政だろう。しかし、蕃山には敵も多かった。中でも林羅山の蕃山攻撃はすさまじかった。とくに彼らが攻撃の対象にしたのは、蕃山の「参勤交代廃止論」だった。

 林羅山は幕府のおかかえ学者である。彼は蕃山の名声が疎ましくてしかたがなかったのだろう。やがて林一派の巻き返しが成功し、蕃山は危険人物として幕府から謹慎を命じられる。それでも蕃山は幕府の監視下におかれながら、その精神は自由そのもので、悠々自適の生活のなかで、友人たちと手紙を交わし著作を楽しんだ。

<予を方々よりそしりこめて、遠方より尋る人にも、近里の同志にも、道徳の物語することもならざる様にし、他出も不自由なる躰に成候は、外より見ては困厄のやうにあるべく候へども、予が心には、天のあたふる幸とおぼえ候。・・・たとひ外には罪のとなへあるとも、我心に恥る事なくば、心は広大高明の本然を失うべからず>

 ダンテやガリレオはその著作をイタリア語で書き、デカルトもまた、フランス語を使った。彼らが文章語であるラテン語を使わなかったのは、愚かだったからではない。彼らは民衆の心に届く言葉を使おうとした。

 同様に、熊澤蕃山は当代一流の学者でありながら、その著作に漢文体を用いなかった。彼の文章は当時のやさしい口語体で書かれている。むつかしい思想もやわらかい大和言葉でかいて、庶民にもわからせた。

 蕃山は源氏物語を愛し、その解説まで書いている。そして道教や仏教にも親しんだ。常に民衆本位の立場から幕府を批判した。儒学者には珍しくスケールが大きく、学者らしくない学者だった。どうりで人気があるはずだ。


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