橋本裕の日記
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2005年04月30日(土) 好きな人

 数日後、国原はわずかな身の回りの品を抱えて、文絵のアパートにやってきた。4年ぶりの同棲だったが、もう二人は兄と妹ではなかった。文絵は買い物に出て、国原のために夕食のメニューを考えるのが楽しくなった。

 そうして半年ほどした10月のある日、文絵は朝食の支度をしていて、嘔吐に襲われた。病院で診て貰うと、妊娠だった。国原は素直に喜んだ。明くる日、二人は役所に婚姻届けを出しに行った。そして、その足で福井に帰省した。

 文絵の両親はすでにいなかった。若狭の小浜市で教師をしていた父が死んで、母は文絵が小学生の頃、福井に帰ってきた。まもなく母も病気で死んだ。文絵は母方の実家に引き取られ、そこから学校に通った。母方の実家というのが、国原の家だった。

 国原の両親は二人の結婚に反対だった。しかし文絵の妊娠を知り、さらに二人が婚姻届けを出したと聞いて、それ以上反対しなかった。二人は披露宴を福井で内輪に行うことにした。名古屋からは国原の直属の上司の他、限られた友人を選ぶことにした。その友人として、国原は真っ先に洋子の名前をあげた。

「洋子のおかげで結婚できたんだ。洋子は縁結びの神だよ」
「まだ未練があるんじゃないの」
「嫌なら、招待しなくてもいいよ」
「とにかく、会ってみるわ」

 福井から帰って、文絵は洋子のアパートを訪れた。洋子は文絵を見ると、鹿島とのことが嘘のように、満面に笑みを浮かべた。文絵は指先まで緊張していた。

「ご無沙汰しています」
「国原さんも、お元気?」
「おかげさまで」

 文絵は固い表情のまま、ソファーに腰を下ろし、コーヒーを飲んだ。洋子の部屋は変わっていなかった。文絵が誕生日にプレゼントしたプーさんのぬいぐるみがソファーに置いてあった。少しだけ、文絵の表情が和らいだ。

「洋子さんも、お元気そうですね」
「そうでもないの。鹿島とも別れたし、いろいろあったから」
「鹿島と別れたんですか」

 文絵には洋子の言葉が思いがけなかった。それは文絵にとって悪くない情報だった。文絵はバッグから結婚披露宴の招待状を取りだした。招待状を受け取った洋子は、文絵を上目使いに見て、それをテーブルの上に置いた。淋しい影が彼女の瞳をかすめた。

「せっかくだけど、お受けしないことにするわ」
「そうですか」
「ごめんなさい」
「いいんです」

 文絵は無表情のまま、招待状をバッグに戻した。たしかに、洋子は文絵を鹿島から解放してくれたが、親友に裏切られた痛手は大きく、洋子を許せる心境ではなかった。洋子は文絵の気持を察して、出席をためらったのだろう。黙って立ち上がった文絵を、洋子も無言のまま玄関まで送った。

 洋子と別れたあと、文絵は秋の明るい陽射しのなかを歩きながら、死んだ母のことを思い出した。父が死んだあとの母の口癖が「一期一会」だった。文絵は立ち止まって、バッグから招待状を取りだした。それをもう一度、洋子のアパートに届けようと思った。

 12月に福井の放送会館で行われた内輪の披露宴はあたたかい雰囲気だった。名古屋からは洋子も駆けつけてくれた。そして、文絵のために、短いながら心のこもったスピーチをしてくれた。

「バンコクの夜、文絵さんが迷子になって、国原さんがどんなに取り乱したか、そのとき私は文絵さんに一番相応しい人が誰だかわかりました。彼ならきっとあなたを大切にしてくれると思います。ご結婚、おめでとう」

 文絵はバンコクの恐ろしかった夜を思い出した。そして国原と洋子から受けた温かい抱擁を思い出した。隣をみると、国原が四角い顔を崩して泣いていた。文絵は洋子を披露宴に招待してよかったと思った。

 新婚旅行先はバンコクだった。二人は文絵の希望で洋子と泊まったホテルの、同じ部屋に泊まった。文絵はアユタヤの遺跡を国原と歩きながら、洋子の姿がないのが淋しかった。ひょっとして自分は、国原よりも洋子を愛しているのではないかと思った。

(おわり)


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