橋本裕の日記
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2004年01月10日(土) 戦時中の文化人たち

 以前の日記で、戦前から戦後にかけての「文芸春秋」に連載された菊池寛の「話の屑籠」より文章を拾ってみたが、今日は戦時下の新聞・雑誌に書かれたものをもう少し引用して、当時の日本の好戦的な雰囲気を見てみたいと思う。まずは、「戦争を語り継ぐリンク集」に収められた北原白秋の「大東亜戦争小国民詩集」から「言葉」という詩の冒頭を引こう。

 「轟沈」といふ言葉を聞いた時、
 僕のたましひは爆発した。
 「自爆」といふ言葉を聞いた時
 僕の心臓は一塊の火となつて落ちて行つた。
 何とすがすがしい一本の「雷跡」よ、
 ああ、「戡定」はボルネオの大太鼓の音で終止した・・・

 戦争中は国民総動員体制がしかれた。そうした中で、多くの文化人もまたやむをえず、あるいは自ら進んで、戦争に協力した。たとえば昭和十六年、陸軍大臣東条英機が示達した「生きて虜囚の辱めを受けず…」で有名な「先陣訓」の校閲は島崎藤村が行い、志賀直哉、和辻哲郎までが協力したといわれている。

 戦争賛美の詩や短歌もたくさんつくられた。たとえば、昭和二十年の元旦の朝日新聞には「決勝」の題で斉藤茂吉のこんな短歌が載っている。

 決戦の気運めぐれるこの年を決勝として極めざらめや
 またたくひまもとどまらぬ戦いに忠のあらはれ特別攻撃隊
 神国のちからを見よと黒けむり空にうづまきてB29墜つ

 澤地久枝さんの著書「自決」の中から孫引きさせてもらったが、澤地さんは「(戦時中の報道を読み直して)気付いたのは、新聞記事、とくにその見出しと、大本営発表の間にあるズレである。見出しの方が誇大なのだ。・・・大本営発表はなく、新聞記事が先行して書く戦況も目につく」と書いている。新聞の見出しをいくつかあげておこう。
 
「米鬼鏖殺(皆殺し)のみ」
「神風工員、神州護持の誓い」
「生か死か、断呼国体護持」

 吉川英治、高村光太郎、佐藤春夫、北原白秋、西条八十、高見順、阿部知二からサトウ・ハチローまで、戦争翼賛的な作品を発表した作家はその数を知らない。たとえば、南京陥落直後の昭和12年12月13日の朝日新聞には、吉川英治が「南京陥落に寄す、われらの将来の使命に任ず」、萩原朔太郎は「南京陥落の日に」を寄稿している。

 吉川英治はともかくとして、戦争や軍隊とはまるで体質があわない真性の芸術家である萩原朔太郎までが、戦争協力詩を発表しているのは驚きだ。もっとも彼が書いた戦争翼賛詩はこの一編だけで、しかも彼はこれを悔やんで、こんな手紙を友人丸山薫に書いている。

<朝日新聞の津村氏に電話で強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず、とうとう大へんな物を引き受けてしまった。・・・とにかくこんな無良心な仕事をしたのは僕としては生まれて始めての事。西条八十の仲間になっようで、懺悔の至りに耐へない。>(丸山薫宛書簡)

 戦時中、多くの国民がそうであったように、多くの文化人や報道人もまた進んで戦争に協力した。戦争が終わり、「生命の危険を感じた」「生活のためだった」「だまされていた」などとという弁明が聞かれたが、ほんとうにそうだろうか、それですむのだろうか、という疑問を拭いきれない。私は萩原朔太郎などは例外ではないかと思っている。

 口直しに、バートランド・ラッセルのことを書こう。彼は戦争反対を叫び続けた筋金入りの知識人だが、「回想の面影」(Portraits from Memory and Other Essays, 1956)のなかで、第一次大戦を目前にして、当時のイギリスの雰囲気がいかに好戦的であったか、そうした中で反戦を訴え続けた彼がいかに孤独を味わっていたかを回顧している。

<7月の末は暑い日が続いていたが、私はケンブリッッジにいて、その状況について論じあっていた。私はヨーロッパが戦争に飛び込むほど狂気じみていると信ずることは不可能だと判定した。しかし私は、もし戦争が起りでもしたら、イギリスもそれに巻き込まれるかも知れないと信じた。それで私は、中立擁護のための声明書を書き、大多数の教授や学士院会員の署名を集めた。それは、「マンチェスター・ガーディアン」に掲載された。その当日、宣戦が布告された。彼らの多くは、殆んどすべて、その意見を変更してしまった。>

<私は8月4日の夕方、あちこちの街を廻って見た。特にトラファルガー広場の近傍で、その夕方を過ごした。私は歓呼する大衆を注視し、また通行人の感動を自ら敏感に感じとっていた。この日、またそれに続く日々において、私が驚愕の念をもって発見したことは、一般の男性も女性も、戦争の前途を喜んでいたことである。多くの平和論者が主張したように、それまで私は、戦争はいづれもいやがる大衆に対して専制的な、マキャベリ的な政府によっておしつけられるものであると、浅はかにも想像していた。>

<私の生涯は2つの時期に鋭く区別される、1つは第一次世界大戦の勃発する以前の時期、1つはそれ以後の時期である。第一次世界大戦は私から多くの偏見を除き去り、また私をして改めて幾多の根本的問題を考えしめるに至った。>

 ラッセルは反戦を貫き、戦争反対の言動を止めなかったので、1918年には、4ヶ月半にわたって投獄されている。そして、牢獄で名著「数理哲学序説」を書いた。ちなみに、この「数理哲学序説」は私の高校時代の愛読書で、私はこれを岩波文庫の小さな活字で読みすぎて、一時視力を大幅に落とし、眼科に通ったなつかしい思い出がある。

(参考サイト)http://j-texts.com/hakushu/daitoaah.html


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