橋本裕の日記
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ジョン・ロックの「市民政府論」を読んでいて、「法は人間を自由にする」という言葉にであったとき、新鮮な感動を味わったのを覚えている。新約聖書の「真理は人間を自由にする」(ヨハネ伝8章2節)You shall know the truth and truth shall make you free. という言葉も思い出して、よくこれらの言葉をこの日記にも引用するようになった。
実際の法は人間のさまざまな行為に制限をあたえる。だから、法が人間に自由を与えるためにあるという考えはあまり浮かばない。しかし、西洋では法は専制的な支配に対する戦いのなかで民衆が勝ち取ってきたという歴史がある。だから、実感として「法は人間を自由にする」という思想が自然に受け入れられるのだろう。
政治学者の小室直樹さんが「痛快憲法学」のなかで、「法とは誰かに対して書かれた強制的な命令であるが、ここで大切なのは、<誰が誰に命令するのか><誰のために法があるのか>ということだ」と書いている。
法が誰に命令するのかを明らかにするには、その法に違反できるのが誰かを考えればよい。憲法の場合を例にとると、それは国家である。たとえば、憲法21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」となっているが、これは国家(政府)が国民に対してその自由を保障しているわけだ。小室さんの言葉を引用しよう。
<憲法とは国民に向けて書かれたものではない。誰のために書かれたものかといえば、国家権力すべてを縛るために書かれたものです。司法、行政、立法、これらの権力に対する命令が憲法に書かれている。
国家権力というのは、恐ろしい力を持っている。警察だって軍隊だって動かすことができる。そんな怪物のようなものを縛るための、最強の鎖が憲法というわけです。したがって憲法に違反できるのは国家だけ。このあたりが日本人には、まったく理解できていませんね>
それでは憲法以外の「民法」や「刑法」などの法律についてはどうか。たとえば刑法199条「人を殺した者は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役刑に処する」という条文は誰に対して命令しているのか。答えは<刑法は裁判官を縛るためにある法律>だということだ。刑法違反ができるのは裁判官だけだからだ。それでは裁判で裁かれるのは誰かというと、これも意外な答えが返ってくる。
<いったい刑事裁判は誰を裁くためのものか。それは検察官であり、行政権力を裁くためのもの。裁判で裁かれるのは、被告ではありません。行政権力の代理人たる検察官なのです。刑事裁判とは、検察、すなわち行政権力を裁く場であるというのは近代裁判の大前提なのですが、これもまた日本人のよく理解できないところです>
<検察側に手続きの上のミスが1つでもあれば、自動的に被告は無罪になるというのが近代裁判の鉄則です。日本の裁判官は、ほんとうに検察官を裁いているのだろうかと不安になってくるでしょう>
刑法は決して国民に「人を殺すなかれ」とは命令しない。ただ、「人を殺した人間には3年以上の懲役もしくは死刑の判決を与えよ」と裁判官に命令しているだけだ。<刑法で縛られるのは裁判官であり、裁かれているのは検事である>というのは、日本人の法感覚にはなじまないかもしれない。しかし、裁判員制度がようやく現実のものとなろうとしているとき、私たち国民一人一人が裁判に対して正しい理解をもち、<法は国民の生活や自由を守るためにある>という西洋的な「法の精神」を知っておくことは、大いに必要なことだと思う。
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