橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
| 2003年08月24日(日) |
定めなきこそ、いみじけれ |
徒然草の第七段はこんな書き出しである。 「あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙たちも去らでのみ住みはつるならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし」
吉田兼好は人生は無常だという一方で、無常だからこそもののあわれが感じられていいのだという。人生について、無常だからつまらないと考えるか、無常だからこそ楽しいと考えるか、これは人生観の違いである。私は吉田兼好とともに、後者の考えが好きで、「能動的ニヒリズム」などと勝手に呼んでいる。
「人生は無常である。一切は空である」という思想は人をニヒリズムに導きやすい。実際、私も学生時代はこうした思想に耽溺し、そのあげく人生に絶望し、精神に異常を来たした。卯辰山に登って、自殺のまねごとをしたりもした。
「一切は空しい」という思想を、仏教では「色即是空」と表現する。しかし、仏教はここで終わっていない。このあと、「空即是色」と力強く続く。これを私なりに解釈すれば、「空だからこそ自由があり、楽しい」ということになる。否定から肯定へと、「空」を媒介にして見事に蘇るのだ。まさに思想のアクロバットである。
<世の中に神がいるわけでもなく、道徳や倫理や論理でさえも絶対的なものではないとすると、人生に意味はないことになる。こうした認識は人々をニヒリズムに導く。しかし、この問題を別の角度から眺めてみよう。そうすれば人生の意味や意義はそれぞれの人が自らの内部で作り上げるものだと言うことに気づくはずである。人間だけがこの自由を手にしていて、創造的に生きることができるのである。人生に意味を与えるのは自分自身であり、大切なのは自分自身の決断や、生き方なのである>
以前書いた「人生についての21章」から引用してみた。世界は善でも悪でもない。それ自身に何か意味があるわけでもない。人生はたとえてみればまだ描かれていない一枚のカンバスのようなもので、そこにどんな絵を描くかは私たち一人一人の自由である。人生に意味や価値を与えるのは、つまり私たち自身である。このことに気づいて、私は何とも清清しい気分に満たされたものだった。
|